カキぴー

春が来た

「どっこい癌は生きている」 再発の恐怖と上手な付き合い方を考える

2012年04月30日 | 健康・病気
大学病院の外来診察棟は、大きな待合室を中心に幾つもの診察室が配置され、患者はマイクで自分の名前が呼ばれるのをひたすら待ち続ける。 僕は9時過ぎにに採血を終え、11時の教授診察まで芥川賞受賞作の「共食い」を、著者の顔を連想しながら読んでいると白衣の女医さんが迎えに来てくれた。 「血液検査の結果が早く出ましたのでどうぞ」 と言われ診察室に案内されると教授と数名のインターンが居られ、女医さんが教授の脇に座ってパソコンからプリントアウトしたグラフを教授に手渡す。 それを見ながら「先崎さん下がってますよ」 と教授が言う、「ほんとですか、いくつでしょう?」 「半年前の数値まで戻ってますね・・・・何か特別なことをされてますか?」と聞かれ、「ここ2ヶ月ほどラジウム鉱石をお腹に当ててました」 と答えた。

前立腺がんの状態を知るための「PSA検査」で、再発の兆候を示す数値上昇が始まったのは、放射線治療を終えて約2年半が経過した2009年11月。 すっかり治ったものと思い込んで、「前立せんが 根治を諦めない人のために」 などという本を出版したりしてきただけにショックは大きかった。 それについて教授からは、「上がったり下がったりしますから、気にしないでください」と言われて経過観察を続けてきた。 しかし一向に下がる気配は無く1年が経過して数値が一桁変わってきてからは、それまで半年に1回だった診察・検査が3ヶ月に短縮され、教授の説明も微妙に変化してきたのを感じ、再発を確信するようになった。 どの癌も早期発見と悪性度がその後の病状に大きく関わってくるが、僕の場合は天皇陛下と同じ「中程度」。

最初にPSA検査を受けたのは16年前の1996年9月、定期健診を受けていた東京の大学病院でも検査項目に入っていなかった時代だったが、特別に薦められて受けた結果は27ng/ml。 これは異常に高い数値だと言われ、泌尿器科で細胞を取って検査したが癌は見つからず無罪放免となったが、このとき採取した細胞は僅か6個、前立腺全体のごく僅かに過ぎず当然再検査をすべきだったが、当時は大学病院ですらそのレベルだったのだ。 その結果、地元の総合病院で癌を発見した時は3年近く経過しており、PSAは40ng/mlまで上昇していたものの幸い転移は認められなかった。 それから8年間ホルモン療法を続けたが、遂に耐性により薬の効きが悪くなり癌の再発と判断され、最終的に新しい放射線治療「IMRT」を選択した。

僕のようにホルモン治療の期間が長く、悪性度も中ぐらいでIMRTを受けた患者は、東北大学病院でも稀有な存在であるところから教授じきじきの扱いを受けているわけだが、このままPSAの上昇が続けば残された治療はホルモン療法の再開しかない。 しかしホルモン療法は病気の進行を遅らせるだけで、しかも再発の場合耐性が生ずるのも早いのでだんだん副作用の強い薬に移行せざるを得ない。 真冬でも猛烈に汗が出てくるホット・フラッシュから始まり、コレステロール・中性脂肪の上昇、骨粗しょう症、そして女性ホルモンを使うようになると、心血管障害のリスクも高まる。 陛下の場合も2003年の全摘手術後すぐに再発し、現在まで10年近くもホルモン療法を受けておられるので、今回の心臓手術もその副作用ではないかと思われる。

そんなわけでホルモン療法はできるだけ遅らせ、できれば避けたいと考えてただけに、4月の診察でPSAが下がったと聞かされたときの喜びがどれほど大きかったか、想像していただけると思う。 放射線量の管理についても教授から質問されたが、鉱石を当てるのは夜間の7時間×放射線量毎時110マイクロシーベルト×30日で1ヶ月23・100マイクロシーベルト、これを5ヶ月継続して115・500マイクロシーベルト。 およそ115ミリシーベルトの照射をして結果を見たいと答えると、「その程度の線量までなら問題ないでしょう」と言われた。 「癌はただでは死なない、がん細胞を残して死ぬので、再発は抗がん剤や放射線治療のいわば宿命」 と先のブログにも書いた。 癌が暴れだしたら低放射線でなだめながら、互いに生き延びてみようと思っている。 
   


最新の画像もっと見る

コメントを投稿