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とんとんはうす

「住まい方塾」34周年 
築百年古民家暮らし長野
2月は石垣島+離島
 



 

半纏

2015年04月19日 | 防災・被災地支援
1. 纏・纒   〘仏〙人の心にまといついて善に向かうのを妨げるもの。煩悩(ぼんのう)。
2. 纏・纒  ①まとうこと。まとうもの。
       ②馬印(うまじるし)の一。竿(さお)の先に作り物をつけその下に馬簾(ばれん)を垂らしたもの。
       ③江戸時代以降,火消しが各組のしるしとして用いた②に似たもの。
3. 半纏・袢纏・半纒・袢纒
       ①羽織に似た,丈の短い上着。わきに襠(まち)がなく,胸紐をつけず,襟は折り返さないで着る。
       ②「印半纏(しるしばんてん)」に同じ。





しるし‐ばんてん【印半×纏/印半天】
襟や背などに屋号・家紋などを染め抜いた半纏。主に職人や商家の使用人が着用する。法被(はっぴ)。

「纏」の「いろは」

2015年04月19日 | 防災・被災地支援


 町火消が、組の目印(シンボル)として用いたのが纏(まとい)です。
纏はもともと群雄割拠の戦国時代に、戦場で敵味方の目印として用いたもので、的率(まとい)あるいは馬印(うまじるし)と称していました。

 江戸時代に入り太平の世が続くと、武家の的率は使われなくなり、これに代わって火消が火災現場で用いる標具となりました。
この纏を初めて使ったのは、大名火消だといわれていますが、定火消の消防屯所では、玄関敷台の右わきに、定紋をつけた銀箔地の纏を飾り、厳めしい火事装束に身を固めた侍たちが待機していたということです。
この纏が、火消にとってどれほど重要なものであったかは、天下に名高い加賀鳶の喧嘩の様子によって知ることができます。

 享保3(1718)年12月3日、本郷の杉浦屋敷から火が出ましたが、加賀鳶の一番手がさっそく駆けつけて、これを消し止め、消し口の屋根に纏を立てました。そこに新手の定火消、仙石勢が駆け上るや、加賀鳶の纏持ち以下を屋根から転げ落とし、自分の纏を立ててしまったのです。落ちた拍子にまといが折れたことが加賀鳶の怒りを一層かりたて、彼らは大暴れに暴れて仙石の纏を追い落としてしまいました。そのついでに、仙石方の臥煙(がえん)を一人殺してしまったことから騒ぎはますます大きくなり、両家だけの話し合いでは収まらず、老中を通じ将軍吉宗の耳にまで達してしまいました。吉宗が名奉行大岡越前守忠相に事件を調査させた結果、仙石側の横車が事の起こりであることが判明し、仙石は厳しいお叱りを受けました。

 町火消が誕生して間もなくの享保5(1720)年4月、大岡越前守は、町火消にも纏を持たせ士気の高揚を図りました。もっとも、このころの纏は纏のぼりといわれた幟形式のもので、馬簾(ばれん)(纏にたれ下げた細長い飾りで48本ある)はなく、火災出場区域や火災現場心得などが書かれていました。纏は、いろは48本に本所・深川の16本を合わせて64本ありました。

 今日見られるような形の纏になったのは、享保15(1730)年のことで、当時纏の馬簾には、今日のような黒線は入っていませんでした(ただし、一般の町火消と区別するため、上野寛永寺に火災が起こった際に駆けつける「わ組」と「る組」の馬簾には1本、湯島聖堂に火災が起こった際に駆けつける「か組」の馬簾には2本の黒線が入っていました)。

 纏の標識部を陀志(だし)と呼んでいますが、これらはそれぞれの組の土地に縁のあるものや、大名の紋所などをデザイン化したものが多く、「い組」に例をとると、芥子(けし)の実に枡を型取ったものであることから、芥子枡(消します)の纏と呼ばれています。この名は、大岡越前守が付けたものという説もあります。

 すべての纏の馬簾に、黒線が入れられるようになったのは、明治5(1872)年に町火消が消防組と改称されたときからで、受持区域を一定の区域に区切って線を入れていました。当時は1本から6本までの黒線でした。
 現在の(社)江戸消防記念会の纏にも、1本から11本までの黒線が入っており、88本の纏が保存されています(平成12年8月現在)。

社)江戸消防記念会
http://www.edosyoubou.jp/

  

耐震基準・・・昭和56年(1981年)

2015年04月15日 | 防災・被災地支援
耐震基準 建築物や土木構造物を設計する際に、構造物が最低限度の耐震能力を持っていることを保証し、建築を許可する基準。

建築物には建築基準法及び建築基準法施行令などの法令により定められた基準。
原子力発電所などの重要構造物や道路・橋梁などの土木構造物には、それぞれ独自の基準が設けられている。


耐震基準

水平震度 地震時に構造物にかかる水平加速度の重力加速度に対する比(例:水平震度0.1=0.1g)。
気象庁が発表する揺れの大きさを表す震度と名称が似ているがまったく別の概念である。

保有水平耐力 「許容応力度等計算」という構造計算法においての二次設計に用いられる耐力。
非常に大きな力を受けた場合、各部材は「弾性域」と呼ばれる復元可能な領域から「塑性域」と呼ばれる歪みを残留する領域に順次移行するが、それらが蓄積して、ある階を崩壊に至らしめるような水平力が存在する。
これを以ってその階の保有水平耐力とする。
どのような崩壊形を以って崩壊とするか、またその解析法についてはいくつか用意されており、同一の構造でも設計者の方針によって異なる数値となることがある。
実務上では構造解析プログラムを用いて算定されるのが殆どである。


現行基準
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%90%E9%9C%87%E5%9F%BA%E6%BA%96

木場の洲崎神社「波除碑(津波警告の碑)」

2015年04月12日 | 防災・被災地支援
洲崎神社(3月末撮影)




波除碑(東京都指定有形文化財)





 寛政3年(1791)9月4日、深川洲崎一帯に襲来した高潮によって付近の家屋がことごとく流されて多数の死者、行方不明者が出た。
 幕府はこの災害を重視して洲崎弁天社から西のあたり一帯の東西285間、南北30余間、総坪数5,467坪(約1万8000平方メートル)を買い上げて空き地としこれより海側に人が住むことを禁じた。
そして空地の東北地点(洲崎神社)と西南地点(平久橋の袂)に波除碑を建てた。当時の碑は地上6尺、角1尺であったという。
石碑は砂岩で脆く、震災と戦災によって破損が著しい。現在地は原位置から若干移動しているものと思われる。
建設は寛政6年(1794)頃で碑文は屋代弘賢によるものと言われている。(東京都教育委員会掲示より)(境内掲示より)



江戸時代中期の洲崎神社周辺図(元図は木場親水公園図より)。
赤線が首都高速道路公団道路、水色線が東西線路線、黒線が江東区境界。

4月11日(土)午後1時~「住宅用火災警報器の設置」講座 東部学習センター

2015年04月10日 | 防災・被災地支援
 火災から命を守る「火災警報器」~設置しましょう!



  10年前、情報雑誌の取材で「火災警報器」を取り付けたのですが、10年経ちまして、交換時期が来ました。
鎌ヶ谷のスタジオでしたので、台所に設置したのですが、本当は鎌ヶ谷市では台所は設置義務はありません。
・・・基準ではです。とは言え、台所にないと何となく不安ですね。


 その数年後、「とっさのDIY」ロケでは、ディレクターさんが、秋刀魚を焼いて「けむ当番」を反応させていました。
あれは、台所では「煙式」は不向きだという解説をしたかったのだと思います。
ADさんが、撮影を止めて、わざわざ「魚焼きの網」を買いに行くくらい、凄く秋刀魚の煙にこだわっていました。
印象深かったので忘れません。今では、それがよかったと思っています。



 今回船橋0号棟と、鎌ヶ谷1号棟の二軒分全部で10個購入、通販で20,000円弱でした。
「箱買い」したら・・・現場の人に「俺より業者っぽい」って、言われました。
鎌ヶ谷では消防署の方が戸別訪問して指導に当たっているようですが、なかなか普及しないのが現況のようです。


 10個の「火災警報器」
  



    *************   総務省消防庁    *************

http://www.fdma.go.jp/html/life/juukei.html


適用市町村名  船橋市   政令で定める基準(寝室、階段,廊下)以外に設置が必要な場所   加えて台所
適用市町村名  鎌ヶ谷市  政令で定める基準(寝室、階段,廊下)以外に設置が必要な場所


既存住宅への適用日(義務設置開始年月日)平成20年6月1日
          平成23年6月1日までに          



<天井に設置する場合の設置位置>
※壁又ははりから0.6m以上離れた位置に設置する





<壁に設置する場合の設置位置>
※天井から15cm以上50cm以内の位置に設置する





<換気口やエアコン等の空気吹き出し口がある場合の設置位置>
※1.5m以上離れた位置に設置する





津波に負けなかった椿・・・気仙椿

2015年03月14日 | 防災・被災地支援
 これは我が家の「椿」です。3本あります。椿はジャパニーズローズと言われるそうです。
今年は「椿の実が欲しい」と言われて、はじめて実の事を調べてみました。
椿油が、実際に搾られているのは、アンコ椿で有名なの大島で見たことがあります。
    


 偶然「ガイアの夜明け」で、津波に負けなかった「気仙椿」の椿油が生産されている事を知りました。
「津波をかぶっても枯れなかった椿」は、復興の新たな産業として注目を集めています。

 石川精油工場さんは東北地方で唯一の「椿油の精油所」だったのですが、311の津波で工場ごと全て流されてしまいました。
陸前高田市の社会福祉施設の一角に再建した石川精油工場さん、奇跡的に発見された看板が掲げられています。
  


  


 私と同年代の石川さん、しかも津波で亡くされたご子息は私の長男と同い・・・頑張って欲しいと心から思いました。
被災前の石川精油工場さんです。




 こちらで作られている気仙椿油が、ハンドクリームやドレッシングに使われています。
「気仙椿ドリームプロジェクト」㈱リテラ・・・ハリウッド化粧品から「気仙椿ハンドクリーム」を販売。
http://www.kesentsubaki.jp/




 資生堂でも復興支援事業として、2012年から大船渡市や陸前高田市で椿の植樹を行ってきた。(大船渡市と陸前高田市は、椿が市の花)
2014年11月、資生堂パーラーと共同で「気仙椿ドレッシング」を開発、5000本を完売。2015年も販売されるそうです。
  

八木が谷公民館 防災講座資料

2015年03月01日 | 防災・被災地支援
311を忘れない・・・「ゆりあげ」は静かでした(2011.10.17)
  


 「ゆりあげ中学校」正門前に生徒さんの慰霊碑が出来ていました。震災から一年後の事だったそうです。
私が行った当時はまだなくて、寄せ書きが置かれていて、胸が詰まりました。



   ****** 「ゆりあげ」は静かでした(2011.10.17 記) ******


 「閖上小学校」から数キロ海に近い「閖上中学校」の校舎の時計が、被災時間で止まっていました。
正門の前に慰霊の「寄せ書き」があり、14名の亡くなられた生徒さんに「いつも一緒だよ」と書かれていました。
涙が溢れてきました。正門の「希望の松」が凛としてて、又、生徒さんを力付けるかのようにコスモスが咲いていました。

      



  宮城県仙台市の若林区と、名取市の「ゆりあげ」地区は川を挟んで隣接しています。
  10月17日早朝、「ゆりあげ」は静かで波の音だけが聞こえました。
朝6時、一艘の漁船が、貝の水揚げをしていました。「操業しているのは、うちだけなんです」と、奥様が教えてくれました。
地元の漁船は全て使えなくなり、今、見えている稼働船や、警戒船は、他地区から送って戴いた船なのだそうです。

                  

  「ゆりあげ」に入ってすぐ、たぶん海から4キロ位の国道の脇まで、漁船が流されていました。
私の知っている「ゆりあげ」の過去の姿が全く分からなくなって、数人の地元の方にお聞きしてしまいました。
「水門」と「貞山堀」の跡が見えて、何となく位置関係がわかりました。
名取川も、海も、立入禁止で、釣り人の方を除いては、見る事すらできませんでした。
車で橋の上を走る僅かの間だけ、名取川と太平洋が見えました。

           

  朝7時、海から2・4キロの「閖上小学校」に行きました。
閖上小学校の廊下には卒業式を真近に控え「卒業おめでとう」の飾り付けが・・・体育館の時計と同じく時間が止まっていました。
体育館には、思い出の品々が展示されており、家族写真を探している方とお話ができました。
学校のすぐそばにお住まいの方で、津波は胸の高さまで、来たそうです。
アルバムや、写真を洗って綺麗にしてファイリングして下さるボランティアの方々がいて、
毎日、ご自分の家族の写真を探しに来ているんだけど、見つからないのだそうです。

               


「絆伝心」今年も販売されます。

2015年02月26日 | 防災・被災地支援
 佐賀新聞より 2月26日 「福興応援酒 絆伝心」が今年も販売、震災が起きた3月11日から佐賀市の酒店などで売り出す。 
東日本大震災被災地の酒米(宮城県登米市の幻のお米イセヒカリ)を使用したお酒を作ろうという「酒米プロジェクト」。

 「絆伝心」は1本1500円(税別・720ml)。
佐賀市の「しめなわ酒店」などで売り出すほか、3月7、8日には佐嘉神社などで開く「さが・ひな市」でも先行販売する。
予約購入の問い合わせは同酒店、電話0952(26)9577。


http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10105/159042


 応援酒づくりは4年目。被災した宮城県登米市の酒米を使い、みやき町の天吹酒造で1千本を製造。
販売の益金で被災した人たちとの交流事業などを行う。
今年のラベルは、佐賀市大和町の「肥前名尾和紙」から提供された。「夢」の文字は山口県の書家村上真実作。





天吹酒造合資会社のホームページ&公式フェイスブック
http://www.amabuki.co.jp/news/000302.php



 ****  復興応援酒プロジェクトをまとめるNPO法人「地球市民の会」  ****




「311を忘れない」・・・田老町 防災対策記

2015年02月20日 | 防災・被災地支援
 15日の防災対策「スーパー堤防」とは、田老町の防潮堤の事でよかったのでしょうか?
「311を忘れない」・・・4年の月日が経って、評価が変化したり、不確実になっています。確認させて戴きたいと存じます。

 ここからは、岩手日報「再興への道」を参考資料として「転載」させて戴きます。

http://www.iwate-np.co.jp/311shinsai/saiko/saiko110505.html


    ***** 住民主役の知恵忘れ 巨大防潮堤の矛盾 2011年5月5日 *****


 「万里の長城」の異名を取った、延長2433メートル、高さ10メートルの巨大防潮堤。
宮古市は同市田老町の防潮堤を大いに誇り、「津波防災のモデル」として国内外に名をはせてきた。
 だが世界的にも珍しいX型の二重防潮堤は、今回の津波で新しい部分だけが倒壊した。
 同市農業課主査で、7年間防災を担当してきた山崎正幸さん(45)は「私は将来のまちづくりのために、あえて市の考えとは異なる意見を言います」と前置きした上で、「田老の津波対策が抱えていた矛盾が、ここに浮き彫りとなっている」と打ち明けた。

 田老地区は1896(明治29)年と1933(昭和8)年の大津波で甚大な被害を受け、翌34(昭和9)年、防潮堤建設に着手した。
 高さは明治三陸津波の15メートルより低い10メートルで、それだけでは街を守れない。
だが防潮堤を湾口に対し直角に造ることで津波を沢沿いに受け流し、避難する時間を稼ぐことを目指した。
 内側の市街地は碁盤目状とし、縦方向の道路は全て山に向かって造った。
交差点の角を切って見通しをよくし、たとえ真っ暗闇でも迷わず高台へたどり着けるようにした。当時、防災の主役はあくまで住民だった。
 だが、時の流れがその知恵を忘れさせた。
 60(昭和35)年のチリ地震津波後に建設した新防潮堤は、高さは同じ10メートルだが、津波に真っ正面から立ち向かうように、湾口に対し並行に造られた。
二重防潮堤が「二の字型」ではなく「X型」となった理由は、設計思想が全く異なるためだ。
 さらに、旧防潮堤と新防潮堤の間には広い土地が生まれ、次第に浜小屋が建ち始めた。平穏な日々が何年か過ぎると家が1軒、2軒と増え、あとは加速度的に市街地が広がった。
 無秩序に延びた道は山に向かず、変形した交差点を何度も曲がらなければ高台にたどり着けない。
防潮堤が主役となった新たな街が形成されてしまった。
 今回の大津波は新旧両方の防潮堤を大きく越えたが、津波に立ち向かおうとした新防潮堤が一瞬で倒壊したのに対し、津波を受け流した旧防潮堤は最後まで原形をとどめ、住民が避難する貴重な時間を稼いだ。
 新市街地に住んでいた自営業高屋舗治さん(55)は「巨大な防潮堤を毎日見ているうちに、絶対に安全と思い込んでしまっていた。もう誰もあそこに家を建てようとは思わないだろう」と話す。
 山崎さんは「田老の津波防災の成功と失敗を、今度こそ忘れてはならない」と訴える。

 宮古市田老町の防潮堤とは 高さ10メートルの三つの防潮堤を中央部で接続し、X型としている。
防潮堤①は昭和三陸津波を受けて1934~57年度に建設し、長さは1350メートル、工事費は1872万円。
②はチリ地震津波を受けて62~65年度に建設し、長さ582メートル、工事費6078万円。今回の津波ではこの部分が倒壊した。
③は73~78年度に建設し、長さ501メートル、工事費3億8170万円。①、②は補強工事も行われていた。









災害時、通信における年配層の役割

2015年01月22日 | 防災・被災地支援
 「東日本大震災」発生時、あなたはどこにいましたか?
その時、携帯や電話を使って、ご家族の「安否確認」をしましたか?連絡はとれましたか?
 多くの人は「携帯」や「電話」が繋がらない事実を突き付けられたのではないかと思います。
その後「安否確認」の方法がいろいろ研究されていますが、想定外の災害時には果して有効なのでしょうか?


***********  通信手段の確保   ***********


「とんとんはうす」では、災害時において、私たち年配層にこそ出来る「活動」を、こう考えています。
  ★ 災害時の安否確認の拠点になる。 
  ★ まず、自分自身を孤立させない。 
  ★ 「デマ」や「虚偽の拡散」「風評」などを止め、ネットの良識を守る・・などです。
 そのために、常日頃いろいろな通信機器やITに精通しておく必要性を強く感じます。


「とんとんはうす」活動
◎ 鎌ヶ谷での2~3月公民館活動は、「もの作り」をしながら「スマホ」や「パソコン」に慣れて戴くものです。
◎ 来週、船橋市内の公民館でも、同じ事業計画を提案させて戴く予定でおります。
◎ 災害時有効と言われる「フェイスブック」や「ツイッター」登録希望の方への登録のお手伝いをしています。
◎ ブログ作成のお手伝いをしています。作成ブログは20件以上、管理しているブログは現在10件です。
◎ 年配者に向けて、簡単な「ネットコミュ使いこなし術」のご案内をしています。
◎ 「パソコンインスラクター」が、必要ある時は、ご相談に応じています。






 震災直後の「鹿島港」にて




備えはできていますか?防災グッズは使いまわして、新しいものを常備して下さい。
  










 



  

「潮風ワカメ」を使った新メニュー

2014年10月10日 | 防災・被災地支援
10月11日(土)とんとんはうす定例会は

★ 15時~リフォーム報告会 「お父さんの隠れ家」途中経過で「将棋」「茶」を楽しんでみます。

  重い家具の搬出を、男性陣にお願いします。家具はなかなか引き取り手が見つからず、リメイクも難しく・・・
 みんなで相談した上で、処分する方向で考えます。とても珍しい事なのですが・・・
   

★ 17時~ワカメ食事会 

 石巻潮風商店さんの「ワカメ」を使った新メニュー・・・「イタリア風海鮮鍋」「鯛めし」
前回の「ほうとう煮込みワカメ添え」と「ワカメと山芋のほうとう」提案します。




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