11. 人間は地上天国を渇望してきた
それでは、全人類が、一つの真理により、一つの兄弟姉妹として、一つの目的地において、相まみえるようになるとすれば、そこにおいて築かれる世界とは、どのような世界なのであろうか
この世界こそ、悠久なる歴史を通じて、人生の両面の無知から脱却しようと身もだえしてきた人類が、その暗黒から逃れでて、新しい真理の光の中で相まみえ、一つの大家族を形成していく世界なのである
ところで、真理の目的は善を成就するところにあり
そしてまた、善の本体はすなわち神であられるがゆえに
この真理によって到達する世界は、あくまでも神を父母として侍り
人々がお互いに兄弟愛に固く結ばれて生きる、そのような世界でなければならないのである
自分一人の利益のために隣人を犠牲にするときに覚える不義な満足感よりも
その良心の呵責からくる苦痛の度合いの方がはるかに大きいということを悟るときには
決してその隣人を害することができないようになるのが人間だれしもがもつ共通の感情である
それゆえ、人間がその心の深みからわき出づる真心からの兄弟愛に包まれるときには、到底その隣人に苦痛を与えるような行動はとれないのである
まして、時間と空間とを超越して自分の一挙手一投足を見ておられる神御自身が父母となられ、互いに愛することを切望されているということを実感するはずのその社会の人間は、そのような行動をとることはできない
したがって、この新しい真理が、人類の罪悪史を清算した新しい時代において建設するはずの新世界は、罪を犯そうとしても犯すことのできない世界となるのである
今まで神を信ずる信徒たちが罪を犯すことがあったのは、実は、神に対する彼らの信仰が極めて観念的であり、実感を伴うものではなかったからである
神が存在するということを実感でとらえ、罪を犯せば人間は否応なしに地獄に引かれていかなければならないという天法を十分に知るなら、そういうところで、だれがあえて罪を犯すことができようか
罪のない世界がすなわち天国であるというならば
堕落した人間が長い歴史の期間をかけて探し求めてきたそのような世界こそ、この天国でなければならないのである
そうして、この天国は、地上に現実世界として建設されるので、地上天国と呼ばれるのである
ここにおいて、我々は、神の救いの摂理の究極的な目的が、地上天国を建設するところにあるという結論を得た
先に、人間が堕落しているという事実と
この堕落が、人間創造以後に起こったことでなければならないという事実を明らかにしたが
今、我々が神の実在を認識した立場から見ると、人間始祖が堕落する以前、創造本然の世界において、神が建設されようとした世界が、いかなるものであったかということに対する答えは、自明だといわなければならない
そのことに関しては、前編第三章において論ずるはずであるが、その世界こそ神の創造目的が成就されるところの地上天国なのである
しかし人間は、堕落することによってこの世界をつくることができず、罪悪世界をつくり、無知に陥ってしまったために
堕落した人間は、長い歴史の期間をかけて、内外両面の真理を探し求め、無知を打開しつつ、善を指向し、絶えず神の創造本然の世界である地上天国を渇望してきたのである
我々は、ここにおいて、人類の歴史は、神の創造目的を完成した世界に復帰していく摂理歴史であるという事実を知った
したがって、その新しい真理は、堕落人間が、その創造本然の人間へと帰っていくことができるように
神が人間をはじめとして、この被造世界を創造されたその目的はいったい何であったかということを教え
復帰過程の途上にある堕落人間の究極的な目的が、いったい何であるかということを知らしめるものでなければならない
また、人間は果たして聖書に書かれているように、文字どおり、善悪を知る木の果を取って食べることによって堕落したのであろうか
それとも、もしそうでないとすれば、堕落の原因はいったいどこにあったのであろうか
完全無欠であるはずの神が、いったいどうして堕落の可能性のある人間を創造され
全知全能の神が、彼らが堕落するということを知っていながら、どうしてそれを食い止めることができなかったのか
また神はなぜその創造の権能によって、一時に罪悪人間を救うことができないのであろうか等々
実に、長い歴史の期間を通じて思索する人々の心を悩ませてきたあらゆる問題が、完全に解かれなければならないのである
我々が、被造世界に秘蔵されている科学性を調べていくと、それらを創造された神こそ科学の根本でなければならないと推測されるのである
ところで、人類歴史が、神の創造目的を完成した世界に復帰していく摂理歴史であるということが事実であるならば
かくのごとくあらゆる法則の主人であられる神が、このように長い復帰摂理の期間を、何らの計画もなしに無秩序にこの歴史を摂理なさるはずがない
それゆえ、人類の罪悪歴史がいかに出発し、いかなる公式的な摂理過程を経
また、いかなるかたちで終結し、いかなる世界に入るかを知るということは、我々にとって重要な問題とならざるを得ないのである
それゆえ、この新しい真理は、これらの根本問題を、一つ残らず明白に解いてくれるものでなければならない
これらの問題が明確に解明されれば、我々は歴史を計画し導いてこられた何らかの主体、すなわち
神がいまし給うということを、どうしても否定することはできなくなるのである
そうして、この歴史上に現されたあらゆる史実が、とりもなおさず
堕落人間を救おうとしてこられた神の心情の反映であったということを悟るようになるに相違ない
またこの新しい真理は、今日の文化圏を形成する世界的な使命を帯びているキリスト教の数多くの難解な問題を
明白に解いてくれるものでなければならない
知識人たちは、ただ単純に、イエスが神の子であり、人類の救い主であられるという程度の知識だけでは、到底満足することができないので
この問題に対するより深い意味を体得するために、今日まで、神学界において、多くの論争が展開されてきたのである
それゆえ、この新しい真理は、神とイエスと人間との間の創造原理的な関係を明らかにしてくれるものでなければならない
のみならず、今まで難解な問題と見なされてきた三位一体の問題に対しても、根本的な解明がなくてはならない
そうして、神が人類を救うに当たって、何故そのひとり子を十字架につけ、血を流さねばならなかったのかという問題も、当然解かれなければならないのである
更に加えて、イエスの十字架の代贖によって、明らかに救いを受けたと信じている人々であっても
有史以来、一人として、救い主の贖罪を必要とせずに天国へ行けるような罪のない子女を生むことができなかったという事実は
彼らが重生した以後においても、それ以前と同じく、原罪が、その子孫にそのまま遺伝されているという、有力な証拠とならざるを得ないのではなかろうか
このような実証的な事実を見るとき、十字架の代贖の限界は果たしてどのくらいまでなのかということが、大きな問題とならざるを得ない
事実、イエス以後二〇〇〇年にわたるキリスト教の歴史の期間を通じて、イエスの十字架の血によって完全に赦罪することができたと自負してきた信徒たちの数は、数え尽くせないほど多かった
しかし実際には、罪のない個人も、罪のない家庭も、罪のない社会も、一度たりとも存在したことはなかったのである
のみならず、先に論じたように、年月がたつに従って、キリストの精神は次第に衰微状態に陥っていくということが事実であるなら
今まで我々が信じてきた十字架の代贖と、完全なる贖罪との間に、結果として現れた事実の面で不一致があるというこの矛盾を、いったい何によって、またいかに合理的に説明することができようか
等々、我々を窮地に追いこむ難問題が、数多く横たわっているのである
それゆえに、我々が切に待ち焦がれている新しい真理は、これらの問題に対しても明確に解答を与え得るものでなければならないのである
また、この真理は、イエスがなぜ再臨しなければならないのか
この再臨は、いつ、どこで、いかになされるのか
またそのときに、堕落人間の復活はどのようにしてなされるのか
天変地異が起こり、天と地とが火によって消滅すると記録されている聖書のみ言は、いったい何を意味するのか
等々、象徴と比喩によって記録されている数多くの難問題を、かつてイエス御自身が直接話されたように、例えをもってではなく
だれしもが共通に理解できるように、「あからさまに」解いてくれるものでなければならない
(ヨハネ一六・25)
このような真理であってこそ初めて比喩と象徴によって記されている聖句を、各人各様に解釈することによって起こる教派分裂の必然性を止揚し、それらを統一することができるのである
このように、人間を命の道へと導いていくこの最終的な真理は、いかなる教典や文献による総合的研究の結果からも、またいかなる人間の頭脳からも、編みだされるものではない
それゆえ、聖書に
「あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王たちについて、預言せねばならない」
(黙一〇・11)
と記されているように、この真理は、あくまでも神の啓示をもって、我々の前に現れなければならないのである
原理講論 総序-11
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