13. 洗礼ヨハネの不信
(三)洗礼ヨハネの不信
既に詳述したように、当時の祭司長や、全ユダヤ人たちが、洗礼ヨハネを崇敬するその心は、ついに彼をメシヤであると信じさせるまでに至った
(ルカ三・15、ヨハネ一・20)
したがって、もし洗礼ヨハネが、イエスが証言されたとおり、自分が正にそのエリヤであると宣布したならば、メシヤを迎えるためにまずエリヤを待ち望んでいた全ユダヤ人たちは、当然、その洗礼ヨハネの証言を信じるようになり、みな、イエスの前に出たに相違ない
しかし、最後まで自分はエリヤではないと主張した洗礼ヨハネの、神の摂理に対する無知は、ユダヤ人たちがイエスの前に出る道をふさいでしまう主要な原因となったのである
かつて洗礼ヨハネは、自分は水で洗礼を授けるが、自分のあとから来る人(イエス)は、火と聖霊とによって洗礼を授ける方であり、自分は彼の靴を脱がせてあげる値打ちもないと証言した
(マタイ三・11)
そればかりでなく、ヨハネ福音書一章33節から34節を見れば「わたしはこの人を知らなかった
しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかた(神)が、わたしに言われた
『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人(キリスト)こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』
わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」
と言った洗礼ヨハネの告白が記録されている
このように、神は、イエスがメシヤであるということを、洗礼ヨハネに直接教示された
洗礼ヨハネ自身も、またそのように証した。また、ヨハネ福音書一章23節を見れば、自分は彼の道をまっすぐにするための使命をもってきたと証した
それだけではなく、ヨハネ福音書三章28節には、自分はキリストに先立って遣わされた者であることを言明した記録がある
それだから、洗礼ヨハネは、当然自分がエリヤであるという事実を、自らの知恵で悟らなければならなかった
たとえ、洗礼ヨハネがその事実をまだ自覚できなかったとしても、既に、天からイエスがメシヤであるという証を受けて知っていた上に
(ヨハネ一・33、34)
イエスが親しく自分をエリヤであると証言なさったのであるから、そのみ言に従い、私こそ、まさしくエリヤであると、遅ればせながらでも宣布するのが、当然の道理であった
しかし、彼は神のみ旨に対して無知であったので
(マタイ一一・19)
イエスの証言を否認したばかりでなく
(ヨハネ一・21)
そののちにも、摂理の方向と道を異にして歩んだのである
このような洗礼ヨハネを見ているイエスの心情や、またこのような困難な立場におかれたイエスを見ておられる神の心情は、いかばかり悲しかったであろうか
事実、洗礼ヨハネがイエスに洗礼を授け、彼を証したことによって、彼の証人としての使命はみな終わったのであった
では、その後における彼の使命は何であったのだろうか
彼の父親ザカリヤは聖霊によって感動させられ、まだ胎内にいた洗礼ヨハネに対して
「生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕えさせてくださるのである」
(ルカ一・75)
と、彼の使命を明白に預言したのであった。それゆえに、洗礼ヨハネはイエスを証したのちには、彼の前に一人の弟子の立場で彼に従い、仕えなければならなかったのである
けれども、彼はその後、イエスと離れて、別に洗礼を授けていたので、ルカ福音書三章15節を見れば、ユダヤ人たちはかえって洗礼ヨハネをメシヤと混同したのである
また、ヨハネ福音書一章20節を見れば、祭司長までも、このように混同したことが分かるのである
そのことだけでなく、イエスに従う者と、洗礼ヨハネの弟子とが、お互いに自分の先生の方が洗礼を多く授けると、潔礼を中心として争ったこともあった
(ヨハネ三・25)
ヨハネ福音書三章30節で、洗礼ヨハネが
「彼は必ず栄え、わたしは衰える」
と言っているのを見ても、彼はイエスと興亡盛衰の運命を共にしなかったということを、我々ははっきりと知ることができる
洗礼ヨハネがイエスと運命を全く共にする立場に立ったならば、何故に、イエスが栄えるときに彼は衰えるであろうか
事実上、イエスの福音は、だれよりも先に洗礼ヨハネ自身が伝えるべきであった
しかし、彼の無知によりこの使命を完遂することができず、ついには、イエスのためにささげるべき彼の命までも、あまり価値もないことのために犠牲にしてしまったのである
洗礼ヨハネは、その中心が天の方にあったときには、イエスをメシヤと知って証した
けれども、彼から霊的な摂理が切れて、人間洗礼ヨハネに立ち戻るや、彼の無知は、一層イエスに対する不信を引き起こすようになったのである
自分がエリヤである事実を自覚できなかった洗礼ヨハネは、特に、獄中に入ってから、他のユダヤ人たちと同じ立場で、イエスを見るようになった
したがって、イエスのすべての言行は人間洗礼ヨハネの目には、一様に理解できないものとして映るばかりであった
そればかりでなく、彼もやはり、エリヤが来る前に現れたイエスをメシヤとして信ずることができなかったので、結局、自分の弟子たちをイエスの方に送って
「『きたるべきかた』はあなたなのですか
それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」
(マタイ一一・3)
と質問して、その疑いを解決してみようとしたのである
しかし、このような洗礼ヨハネの質問を受けたイエスは、マタイ福音書一一章3節から19節に記録されているように、悲憤やるかたない思いで、警告の意味を強く込めた内容で答えられた
洗礼ヨハネはイエスに仕えるために胎内から選ばれ
(ルカ一・75)
彼の道をまっすぐにするために、荒野で苦難の修道生活をしたのであった
さらにまたイエスが公生涯路程を出発されるときに、天はだれよりも先に、イエスがだれであるかを彼に教え、また、それを証言させてくださった
このような天の恩賜をそのまま受け入れなかった洗礼ヨハネから、そのような質問を受けたので、イエスは改めて、自分がまさしくメシヤであるとは答えられなかったのである
彼は、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている」
(マタイ一一・4、5)
と、婉曲な返事をなさった。
もちろん、洗礼ヨハネがイエスのこのような奇跡を知らないはずがなかった
それにもかかわらず、イエスがこのように言われたのは、自身が行われたことを、洗礼ヨハネに再び想起させることによって、自分がだれであるかを知らせるためであった
貧しい人々が福音を聞かされている
(マタイ一一・5)
と言われたみ言には、洗礼ヨハネとユダヤ人たちの不信に対するイエスの悲愴な心情が潜んでいることを知らなければならない
選民として呼ばれたユダヤ民族、その中でも、特に洗礼ヨハネは、天の愛をあふれるほど受けた恵まれた者であった
しかし、彼らはみなイエスに逆らったので、イエスは仕方なく、ガリラヤの海辺からサマリヤの地を遍歴しながら、貧しい者のうちで福音を受ける者を求められたのであった
無学不識な漁夫と取税人と遊女たちは、みなこのような貧しい者たちであった
事実、イエスが探し求めようとした弟子たちは、そのような者たちではなかったのである
地上天国を建設するために来られたイエスであるから、彼には、ただ従ってくるだけの千人よりも、先に立って千人を指導できる一人の指導者の方がより必要だったのである
ゆえに、イエスは天があらかじめ備えた能力ある群れを探すために、一番先に神殿に入り、祭司長と律法学者たちに福音を伝えたのではなかったか
しかし、イエスが親しく言われたように、あらかじめ備えられた宴席に招待を受けた客たちは一人も応じなかったので、やむを得ず町の通りに出て、彷徨する乞食どもを呼び集めなければならなかったのである
このように、招かれざる客をしか迎えに出られぬイエスの悲しい心情から、ついに
「わたしにつまずかない者は、さいわいである」
(マタイ一一・6)
という審判のみ言が吐かれたのである
洗礼ヨハネは当時のユダヤ人たちが、あるいはメシヤ、あるいはエリヤ、あるいは預言者であると考えるくらいに立派な人であった
(ルカ三・15、ヨハネ一・20、21)
ところが、いくら立派な人であっても、自分(イエス)につまずいた者には何の幸いがあるだろうか
という間接的な表現を通して、洗礼ヨハネの運命を審判されたのである
それでは、洗礼ヨハネはいかなるつまずきをしたのであろうか
それは、既に上述したように、彼は一生涯従い、仕えるべき使命があったのを果たすことができなかったということである
質問に来た洗礼ヨハネの弟子たちが去ったのち、イエスは使命的な面から見て、洗礼ヨハネは本来最も偉大な預言者として来たにもかかわらず、今、任されたその使命を果たさない立場にいるのを指摘されて
「あなたがたによく言っておく
女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった
しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい」
(マタイ一一・11)
と言われた。
天国にいるあらゆる人たちは、地上の女から生まれ、地上生活を通過していった人たちである
女の人が生んだ者の中で一番大いなる人であるならば、天国でも一番大いなる者になるべきであるのに、歴史上一番大いなる者として地上に生まれた洗礼ヨハネが、どうして天国では最も小さい者よりも劣るのであろうか
昔の多くの預言者たちは、将来来られるメシヤを、時間的に遠い距離において、間接的にこれを証したのであった
しかし、洗礼ヨハネは、メシヤを直接的に証言する使命を帯びて来たのであった
それゆえに、メシヤを証言することが預言者の使命であるならば、証する立場から見て、メシヤを直接に証した洗礼ヨハネは、間接的に証言をしたいかなる預言者よりも偉大であったのである
ところが、メシヤに仕えるという点から見るとき、彼は一番小さい者であらざるを得なかった
なぜならば、天国ではいかに小さな者であっても、早くからイエスをメシヤと知って仕えているのに、だれよりもメシヤに近く仕えるべき位置に召された洗礼ヨハネが
(ルカ一・75)
かえって、イエスと別個の道を歩いたからである。それで、彼は天国のごく小さい者よりも、イエスを信奉しない立場におかれるようになったのである
また、その次の節には
「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている
そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」
と記録されている。
メシヤに仕えるために胎内より選ばれ、荒野でそれほど難しい修道生活をしてきた洗礼ヨハネが、イエスによく仕えたならば、彼は必然的に、イエスの一番弟子になるはずであった
しかし、その使命を果たさなかったので、イエスの一番弟子の位置はペテロに奪われてしまった。ここに
「洗礼ヨハネの時から今に至るまで」
と、時間的な限界をおいたのを見れば、その次に記録されているみ言は、一般の人に対して言われたのでなく、洗礼ヨハネに対して言われたみ言であることが分かる
イエスは結論的に
「知恵の正しいことは、その働きが証明する」
と言われた。
洗礼ヨハネに知恵があって、知恵のある行動をとったならば、イエスのひざもとを離れることもなかったし、したがって、彼の行跡は永遠に義なるものとして残るべきであったが
不幸にも彼は無知であったので、彼自身はもちろんのこと、ユダヤ人たちがイエスの前に出る道さえも、みな遮ってしまったのである
我々は、これによって、イエスが十字架の死を遂げるようになった大きな要因が、洗礼ヨハネにあったことが分かるのである
また、使徒パウロがコリントⅠ二章8節に
「この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう」
と言い、洗礼ヨハネをはじめ、すべてのユダヤ人たちが知恵がなくて、イエスを十字架につけてしまったと、嘆いた事実のあることも分かる
原理講論 前編4 メシヤの降臨とその再臨の目的-13
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よく言っておく
天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである
マタイによる福音書:5章より
十戒
❶ あなたは わたしのほかに 何ものをも神としてはならない
❷ あなたは 自分のために 刻んだ像を造ってはならない
❸ あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない
❹ 安息日を守ってこれを聖とし、あなたの神、主があなたに命じられたようにせよ
❺ あなたの神、主が命じられたように、あなたの父と母とを敬え
❻ あなたは殺してはならない
❼ あなたは姦淫してはならない
❽ あなたは盗んではならない
❾ あなたは隣人について偽証してはならない
➓ あなたは隣人の妻を むさぼってはならない
またすべて隣人のものを ほしがってはならない
申命記5章より
イエス様の答え
「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」
イエスは言われた、
「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」
彼は言った、
「どのいましめですか」
イエスは言われた、
「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。 父と母とを敬え』
また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」
マタイによる福音書 19章 より
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