カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

“純粋性”ということ(1)

2007年08月24日 | 日記 ・ 雑文
“純粋性”ということが現在の私の最大の関心事となっている。以前から気になっていたことも含めて、アレコレ書いてみたい。

“純粋性”という言葉を聞いて真っ先に思い出すのは、友田先生のあるクライエントとの面接経験(ケース)における一場面である。
私が先生から直接聞いたところを私の記憶に基づいて述べていくが、そのクライエント(男性)は精神病院に通院していて、そこの主治医からカウンセラー・友田不二男を紹介され、先生のところへやって来たのだった。
先生の側の経験を言うと、「1回目、2回目の面接は、まあどうにかやり遂げられた」が、「3回目の面接が始まってしばらくする」と、「もう、どうにも我慢ができなく」なり、「私は今までたくさんの人と面談してきたが、あんたぐらい嫌ったらしい人に出会ったのは初めてだ」と伝えた。先生曰く「まるで真綿でぐいぐい首を締め付けられるような感じ」だったという。
それを聞いたクライエントは、「初めて本当のことを言ってくれる人に出会えた!」と、えらく感激して涙を流した。そして面談の途中(30分以上は残っていた)だったにもかかわらず、ひとしきりお礼の言葉を述べた後、深々とお辞儀をして面接室を出て行ったのである。

有名なエピソードなので、ご存知の方もあるだろう。先生はこの体験談を述べた後、一方で“釘を刺す”ことも忘れなかった。
「しかし、これを“手”でやると、大失敗するのがオチである!」
と。さらに続けて、
「人能ク道ヲ弘ム。道、人ヲ弘ムルニ非ザルナリ」
と、『論語』の有名な一文を述べたのだった。

確かにその通りだろう。カウンセラーが面談中に「こういう人に対してこういう場合は、こう応答するの良いだろう」とか「こう応答してはイケナイのだ」とかいう考えがチラッとでも脳裏をかすめたなら、その瞬間、そのカウンセラーは“純粋”ではなくなる。
そういう考えは、「より良いカウンセリング関係を維持したい」とか「より効果的な援助を与えたい」とかいう、カウンセラーの“我欲”から生じてくるに違いない。したがって、カウンセラーのそういう状態は“不純である”と、言わざるを得ないだろう。

私は“純粋性というもの”をそのようにイメージしている。私の経験に基づいて言うなら、私が真の意味で“純粋である”のは、1時間の面接中でせいぜい1~2分ぐらいだろうか? 「3分間聖人」という言葉もある。ウルトラマンと同じで、“変身できるのはたったの3分間である”という意味だ。
あるいはほんの瞬間かもしれない。だが、“その瞬間”に、まさに“奇跡的な出来事が起こる”ということをたびたび経験しているのも事実である。……と、声を大にして言いたい。

まだまだたくさんの“述べたいこと”があるのだが、長くなりそうなので今日はこの辺にしておこう。続きはあらためて書くつもりだ。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 純粋性と真空 | トップ | “純粋性”ということ(2) »

コメントを投稿

日記 ・ 雑文」カテゴリの最新記事