カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

カラスとスピリチュアル

2007年09月16日 | 日記 ・ 雑文
“スピリチュアル”とか“スピリチュアリティー”とかいう言葉で呼ばれる“何か”が、テレビなどを通じてもてはやされているようだ。世の中のそういう傾向には、基本的には大賛成だ。というのも私は、“心理学”よりもはるかに強く“スピリチュアリティー”のほうに心を惹かれている人であり、『聖なる予言』や『神との対話』シリーズを(全部ではないが)読んで、深い感銘を受けた人でもあるからだ。

しかし、この言葉の理解のされ方(世の中への伝わり方)には、「?」が付くこともしばしば経験している。とくに「ひどいなあ」と思うのは、“スピリチュアル=霊能力”という捉え方だ。“霊能力”を“スピリチュアルの中に含める”のなら了解できるが、「=」で結ぶのには違和感を感じてしまう。

ちなみに『ウィキペディア』の解説によると、
【スピリチュアル (spiritual) とは、 material (「物質的な」あるいは「肉体的な、官能的な」)に対し、「霊的な、精神的な」と言う意味の形容詞で、とくにキリスト教における神の啓示、預言などを表す極めて神聖な意味である。近年テレビ番組などの影響で、霊を呼び出したり、守護霊の話をするような意味に使われることが多くなったが、実際にスピリチュアルとされる分野はとても多岐にわたる。】
とある。この説明は納得できる。

“スピリチュアル”と聞いて私が連想するのは、友田先生がよくしていた“カラスの話”だ。
「カラスというのはすごい能力を持っていて、畑に種を蒔いて土をきれいにかぶせておくと、種のある所だけを口ばしで突っついて食べる。決して間違った所(種の無い場所)をほじくり返さない」
という話だ。要するに、カラスには“見えないものが見える”という、そういう能力(感受性と洞察力)があるわけだ。

これを“人間界”で人間がやったらどうなるだろう? 「超能力だ!霊視だ!スピリチュアルだ!」と、大騒ぎされるに違いない。“超能力”とか“霊視”とか“スピリチュアル”とかが特別扱いされるのは、“人間界の価値基準”で見るから「すごい!」となるだけで、これが“自然界”だったら「当たり前のことを、当たり前にやってるだけのこと」なのだろう。ま、カラスにインタビューしたわけではないので、断言はできないが。
逆に、“自然界”から人間を見たらどうなるだろうか? ひょっとすると「人間というのは、劣等な生き物だなあ」と見なされているかもしれない……という思い方は大袈裟だろうか?

自然界から見れば、人間は劣等な生き物に成り下がってしまった(?)わけだが、そうなってしまった唯一の原因は、“文明の発達にある”と私は信じている。とくに近年になってすさまじい勢いで浸透していった“科学技術文明”は、人間が本来持っているはずの“能力”、“生命の力”を、著しく低下させているように思えてならない。
「科学技術文明が発達すればするほど、精神を病んでいく人が増加する」という説を誰かから(友田先生か?)聞いたことがあるが、私には十分にうなづける説である。
先ほど例に挙げたカラスが、もしも“種探知機”なる機械を発明したらどうなるだろうか? たちまちのうちに、あの「神技」とも呼べる能力は失われてしまうだろう。ま、カラスは賢い(?)から、人間と同じ道を歩むことを心配する必要はないだろうが。

“人間の成長を目指す”とか“行を積む”というのは、言い換えると「文化・文明に汚染されている体内(とくに脳内)の毒素を排出する行為である」とも言えよう。禅が“無”とか“空”を価値付けるのは、そういう意味もあるのだろうと思う。
そういえば信川先生は、「教材というのは磨き粉だ。それで磨いて垢を落とすと、中身(人間)がピカピカになるのだ」と言っていた。ところが現在の学校教育は、「垢をベタベタとくっつけることを一生懸命にやっている」というのが現実だろう。

……てなことを考えているうちに、「私も行を積めば、ひょっとすると“霊視”ができるようになるかもしれないぞ」という思いが浮かんだ。だが、次の瞬間には“この思い”が、“我欲”から出ていることに気がついた(苦笑)。“我欲”に動かされるようでは、道は遠かな、遠かな、である。
かくして、「今の自分では“霊視”なんて、とてもじゃないけど無理だな。今の自分に“できること”に力を傾けていこう!」と、思い直したのだった。

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