カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

“客観性”とは?

2007年07月12日 | 日記 ・ 雑文
数日前に注文したメガネが出来上がったとの知らせを受け、吉祥寺のメガネ店へ行った。さっそく新品のメガネを装着し、前から気になっていた「博多ラーメン」のお店に入店。最もオーソドックスなラーメンとプラス100円で食すことができるギョーザを注文した。
出てきたラーメンは見たところ、確かに「博多ラーメン」だ。ところが一口入れたとたん「アレ?」という感覚がよぎった。しばらくはそのまま食べていたが、やはり何かが違う。テーブルの片隅に目が行き気がついた。「紅生姜」をトッピングするのを忘れていたのだ。「博多ラーメン」というと、普通は紅生姜がのっているものだ(と私は思っている)が、そのお店は客の好みで紅生姜をはじめ、いろんなものをトッピングできるという吉野家方式(?)のお店だったのだ。
紅生姜を加えると「あの味」にかなり近くなった。がしかし、僕の中の「物足りなさ」は完全には解消できなかった。あの独特の匂いというか、クサさがほとんど感じられなかったのだ。

「博多ラーメン」を生まれて初めて食べたのは、高校時代に友人に連れられていった地元のラーメン屋だった。こんな味のラーメンは食べたことがなかったので、すごい衝撃だった。このときの経験は僕の中で「博多ラーメンというのは、これこれこういうもの(味)だ」というふうにインプットされている。僕が「あの味」と呼んでいるのは、このときに記憶された味のことである。

「博多ラーメンの良し悪し」を客観的に論じるなら、僕が初めて食べた「地元のラーメン屋の味」を“最高級”に位置づけるのはおよそ馬鹿げている。僕はグルメじゃないのでわからないが、“その道の専門家”に言わせれば僕の食べた「あの味」など、「博多ラーメン全体の中で」はきっと“平均レベル以下”に位置づけられるに違いない。客観的に言えば、僕が「“あの味”を“博多ラーメンの基準”にしているということ」それ自体が間違いであり、馬鹿げていると言えるだろう。

しかし、僕の経験されている世界においては、間違いなく「あの味」が「博多ラーメンの基準」になってしまっているのである。これは僕個人にとっては、事実以外の何ものでもない。いったい誰が「それはあなたの主観であり、客観性に基づけば間違いである」と、説き伏せることができよう? 僕の心に刻まれている「あの衝撃的な体験」を消去することが、いったい誰にできよう? 仮にそのようなことを僕に対して行なう人物がいたとしたら、そのような行為は「私個人に対する冒とくである!」とさえ言いたい。

「結局は“おふくろの味”以上の味はないのだ」というのは、一つの真実であるように思える。「おふくろの味」というものに対し、「客観性を説いて間違いを正す」ようなことをしようものなら、そんなことを「する側の人間」こそ、はるかに馬鹿げているということは、言うまでもないだろう。

私たち現代人が、何の疑問もなく当たり前のように価値付けている(いや、“信仰している”といったほうが適切かもしれない)“客観性”とは、いったい何だろうか? ……などということを僕の貧弱な頭脳でいくら考えてみても、一向に答えは出て来そうにない。が、少なくともそこには“何か大きな問題点”があることを僕は確かに感じている。

「博多ラーメン」を食べ終えた帰り道、上述したようなアレコレを考えながら歩いていたら、駅前まで自転車で行ったことをうっかり忘れて徒歩で自宅にたどり着いてしまった。何ともトホホな話である。
と同時に、夏目漱石の『草枕』の冒頭部分を思い出した。詳細は割愛するが、ふだん“考えない”人間が、“考える”などという慣れないことをするとロクなことがないようだ。

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