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ユーさんのつぶやき

徒然なるままに日暮らしパソコンに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き綴るブログ

第98話「おふくろの味」(昭和23年~27年)

2006-12-31 | 昔の思い出話
 おふくろの味とは誰にとっても忘れられないものである。ときどき何処か遠くのひなびた田舎の食堂で、味噌汁や漬け物の味として出会うことがある。小学生の、この頃に食べた漬け物は全部おふくろの手製であった。大きな木の樽に糠味噌を入れ、塩を振りかけて蓋の上から大きな石を載せて、大根やカブラを入れておくと二晩か三晩で食べ頃の味になる。
 わが家の漬け物で最も頻繁に食卓を賑わせたものは、きゅうりと茄子とウリであった。この中でウリが意外とうまかった。最近、と言っても30年以上もウリの漬け物は食べたことがない。ウリそのものが八百屋の店先から姿を消してしまったのであろうか。
 母は何でも漬け物にした。時にはスイカの皮まで材料にしたが、スイカはウリに似て殊の外、美味であった。白菜やキャベツの漬け物も結構いける味である。ウリはとろっとしたくず湯のあんかけ汁がおいしかった。ショウガで風味を付けるのがコツである。小学生の頃には、このうまさが全然分からなかったが、今となってはほとんど口に出来ないので悔しい限りだ。
 小学生の頃は、なぜか何が何でも肉を食べたかった。しかし、牛肉などあろうはずがない。豚肉も高級品であり、簡単に手に入るものではない。この頃、比較的、口にすることが多かったのは鯨肉であった。鯨の肉には、ときには噛んでも噛んでも、噛み切れないスジがあった。うっかり口に入れてしまうと、口から出す訳にもいかず、チュウーインガムのように何時間も噛み続けてやっと飲み込める柔らかさになる。また、ベーコンと称する薄っぺらい鯨肉の脂身も最近見たことがないが、当時の食卓に上る頻度は高かった。これはハムやソーセージの代用品であった。辛くて、鯨臭くて、あまり美味しいと思ったことがなかった。今食べればどのような味がするであろうか。
 鯨肉と水菜(みずな)の炊き合わせもよく食べたものの一つで、おふくろの味の代表格だった。キャベツと牛肉の炊き合わせは、ほんのりと甘く自分の好きな料理の一つであった。魚のブリと水菜の炊き合わせもよく食べた。野菜では、何故かキャベツや白菜よりも水菜の方がよく食卓に上った。最近は、我が家では水菜という野菜すら見たことがない。どうも我々日本人の平均的な食材も相当に変わってきているようだ。
 こんにゃく、大根、人参、こいも等の入った粕汁もおいしかったし、茶碗蒸しもおいしかった。ユリ根の入った茶碗蒸しは、ある時から突然、あのさくっとした歯触りが気になり始め、食べることが出来なくなった。冬の寒い日には、少しお酒の匂いの残った粕汁などは抜群のおふくろの味であった。これらはおふくろの独特の味で、同じ材料を用いても何処か他の物とは違うのである。
 物が何もなかった戦後ではあったが、マツタケだけは沢山食べることが出来た。多分、今時の値段の100分の1もしなかったのだろう。網で焼いて、酢醤油をつけて、たらふく焼きマツタケを食べた時代もあったのだ。さらに、お袋の味の一つとなっているのは、そのマツタケを入れた煮込みご飯だった。お茶碗に盛ったときの、あのふくよかなマツタケと醤油の匂いよ。二度と帰ってこない、味わうことの出来ない秋の味覚だ。
 正月のおせち料理もお袋の腕の見せ場であった。ごまめの飴炊き、昆布巻き、ボウダラの煮しめ、レンコンの酢の物、黒豆・サツマイモの甘露煮、高野豆腐やシイタケの煮付け、鯖のきずし、あらゆるものをすべて自分で料理して、自分で味付けしていたのだ。大晦日の夜は除夜の鐘の音を聞くまで、お正月の準備に忙しかった。そして、正月の朝は誰よりも早く起きて、子供たちが目を覚ました時には、既にお雑煮が出来ていて、あらゆるものが湯気を立てていたのだ。お餅の硬さ、大きさ、お雑煮のお汁にまで、お袋の味が染み込んでいた。お雑煮のおすましには、必ず、だし昆布やだしジャコで出汁(ダシ)をとった。これがお袋の味の秘密であった。味の素や調味料などは一切使わなかった。
 このように書けば、この手記の対象としている年代、昭和26年当時に食べるものが一杯あったと誤解されそうだが、基本的にはこの頃はどの家庭も窮乏の極みで、どん底生活であった。一般の家庭で、このような食材が何とか食卓に上るようになったのは、昭和30年代もかなり過ぎてからのことである。
 お袋が92歳で亡くなってから、もう何年になるだろうか? 昭和26年と言えば、お袋はまだ45歳になっていなかった。あのお袋に若かった時代があったなんて、とても信じられないが、生きている間に、お袋の料理が美味かったと、もっと誉めておけば良かった。と言うよりも、その価値を認識できていなかったことが悔しい。後悔しても遅い。親の有り難味は死んだら分かると、口癖のように言っていたお袋だったが、本当にその通りであることが骨身にしみる。なぜ、人間は死なないと、自分の真価を分かってもらえないのだろうか?


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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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素晴らしいお母さんね (さくらんぼ)
2006-12-30 14:06:49
 ご立派なお母さんですね。
今この話を聞かれたらきっと「何もないから、自分でつくるしかなかったのよ」と、はにかんでおっしゃるかも知れませんね。手作りのものを家族のために一生懸命作られて、皆の成長を楽しみにされていたことでしょう。
 不思議なことに母がつくっていたような料理と味付けを娘は同じように覚えてやっているんです。
きっとユーさんのお姉さん達も、お母さんと同じようになさってきておられることと思います。

結婚して、最初の正月に商売をして忙しい親の家に
お重におせち料理を詰めて持っていったら、「同じことしよる 味も似てるな~」と両親が言ってました。
お袋の味を回想してる内に、いつの間にか娘やお嫁さんに「あのお料理教えて」といわれるようになって、
「これがお袋の味やな」とか。急に逆転してしまったみたいなこの頃です。

手作り料理を食べてる子は間違いは起こさないとよくいわれています。
そうかも知れませんね。

時代が変わると、食材も変化して作りようもなくなったものが多くあります。そして、関西であったものが、関東になく淋しく感じたこともありました。

今では、薄っぺらく並んでいる鯨のベーコン(毒々しいような赤色が端のほうが染めてある)は大変高く郷愁で買いたくとも手がでません。
確か、4年生頃に、一日弁当の日があり、父が大阪から買ってきてくれたそのベーコンが弁当に入っていまいた。クラスの子達が覗きに集まって「わ~~ハムや
ハムや~」と大騒ぎされて、食べ物で自慢できたのは始めてで嬉しかったこと忘れられないです。

鯨の堅いコロも、空堀商店街のロデイさんちのお向かい当たりの乾物屋さんにあって、よく買ったもので、
おでんには欠かせない美味しいものでした、上の皮の所が黒くその下は鯨の脂がのっていて黄色でその下はこりこりとした白い部分で お箸で持ちあげると丸でお化けが踊っているようだったから
「お化けを入れてーー」とたのんでいたのです。
そのお化けももう、超高く、庶民の食卓にはでてきません。昔は下寺町の相撲部屋の若い衆が裸足で空堀に来て八木の歯医者さんの前の店で、そのコロを沢山買っていました。

懐かしいたべものでした。
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お化け (コータロー)
2006-12-30 15:56:18
鯨のコロのことをすっかり忘れていました。あれも美味しいと思ったことは一度もありませんでした。しかし、鯨の方が牛肉よりも高くなるなんて信じられませんね。不味い方が高いなんて不自然です。

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