山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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氏族の追跡(西上州と井伊氏)

2016-06-11 20:12:47 | 氏族の追跡
井伊直政と箕輪(安中市史)
井伊氏の本姓は藤原氏で冬嗣の子、良門の孫利基の子利世より出で、その五世の孫共資、一条天皇の正歴年間に初めて備中守となる。後に遠江守となり、遠江引左郡井伊谷に住む。その子共和になって、地名を取って井伊氏と改めたという。
 世々、この地に住み直政の父直親は今川氏に仕えた。直親が今川氏真に殺されるや、子直政は徳川家康に仕えるに至った。天正三年の事である。功があって天正十年一万石の大名となり、旗幟すべて赤色を用いた。これが「井伊の赤備」といって有名であるが、実は上州国峰の城主小幡家のものである。天正十八年小田原の役に功を立てたので、主君家康が関東に転封を受けると、直政に上野箕輪十二万石を与えた。
 慶長三年和田城を修築して、これに移り高崎と改めた。ついで慶長五年関ヶ原の役が起こり、家康と石田三成の対立は家康の勝利となって終わるが、この戦いに直政は軍艦として活躍、特に島津義弘と戦い激戦を究めたが、流弾に中って負傷したほどであった。その抜群の功によって、加増六万石、近江佐和山城(石田三成の居城)に封ぜられ、十八万石を領するに至ったが、そのうち安中三万石を含むという。負傷が原因して慶長七年二月死去、時に四十二歳である。
 直政に二子あり。直勝及び直孝これである。慶長七年三月直勝父の遺領を継いで近江・上野両国に於いて十八万石を領有したが、同九年近江彦根に築城の命を受けて工事を進め、完成後これに移った。元和元年二月直勝多病の故を以って、弟直孝に封地をさかしめられ、直勝は上野国領三万石を得て安中に住むことになり、直孝は近江彦根にあって三十万石を領地するにいたる。

つづく

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