山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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氏族の追跡(長野氏)⑦

2016-05-27 11:27:17 | 氏族の追跡
戦国の争乱と榛名地域

二 長野憲業
山内家内で憲房と顕実が争いを始めた永正九年(1512)永正の乱、憲房は室田の長年寺に宛てて軍勢などの「濫妨・狼藉」を禁止する制札を発給している。これは当地に上杉方の軍勢が進出することが予測されたため、長年寺が軍勢らの暴行・略奪行為を防止するため、憲房の制札を得たものである。この時、吾妻郡方面から敵勢力の進出が予測されていたのであろう。この時、室田にいたのは長野憲業である。憲業も長年寺に対し、同年十月に壁書を出している。

 永正の乱 越後国の内乱
永正3年(1506年)9月、越後守護代長尾能景が越中で戦死し、長尾氏の家督を継いで越後守護代となった長尾為景が、永正4年(1507年)8月、上杉定実を擁立して守護上杉房能を急襲。関東管領上杉顕定(房能実兄)を頼り関東への逃亡を図った房能を天水越で丸山信澄らと共に自害に追い込んだ。

これを討たんとした顕定は永正6年(1509年)、報復の大軍を起こすと為景は劣勢となって佐渡に逃亡した。しかし翌永正7年(1510年)には寺泊から再び越後へ上陸。為景方が反攻に転じると坂戸城主長尾房長は上杉軍を坂戸城には入れず六万騎城に収容させた。為景軍が六万騎城に迫ると上杉軍は退却したが、援軍の高梨政盛(為景の外祖父)の助力もあり、長森原の戦いで顕定を戦死させた。この戦いで、顕定に従軍していた長尾定明や高山憲重らも討たれており、山内上杉家の軍事力は大きく減退した。
その後為景は宇佐美房忠・色部昌長・本庄時長・竹俣清綱ら敵対勢力を破り、越中神保氏討伐へと繋がる。

山内上杉家の内紛]

顕定が戦死すると顕定と共に為景を討つため出陣し上野白井城に駐屯していた上杉憲房は撤退した。関東管領職は顕定の養子である上杉顕実が継承するが、同じく養子である憲房はこれを不服とし横瀬景繁・長尾景長らの支援を受け家督を争う。顕実は実兄の古河公方足利政氏に援助を求めるが、憲房は政氏の子で顕実の甥の足利高基を味方につけ対抗し、古河公方を巻き込み関東は2分された。扇谷上杉家当主・上杉朝良は仲裁に動いたが失敗、相模を伊勢宗瑞に侵略されていく。
永正9年(1512年)、顕実は長尾顕方や成田顕泰らの支援を受けて武蔵鉢形城に拠ったが、横瀬景繁・長尾景長らに攻められて敗北。山内上杉家当主の座を失い兄・政氏を頼って古河城へと逃亡した。
永正12年(1515年)、顕実の死によって終焉。関東管領職も憲房が継ぎ、家宰職も総社長尾家の顕方から足利長尾家の景長に移る事になるが、この内紛で弱体化した山内上杉家は長尾景春の再度の離反を招き、朝良の甥、上杉朝興や相模北条氏の北条氏綱、甲斐武田氏の武田信虎などと争うこととなる
(ウィキペディアより)


翌永正十年四月、憲業は榛名神社に立願状を認め、大戸要害の落城を祈願し、落城することができれば「百疋之下地」を寄進することを約束している。百疋之下地は一貫文の収益が見込まれる土地である。憲業は吾妻郡への侵攻を目論んでいたことになる。この時期吾妻郡は反上杉の勢力下にあったことが伺える。要害は兵乱に備えて設けられた城塞であり、大戸には浦野氏がいた。

大戸城(手子丸城)

榛名神の加護を受けて憲業は吾妻に侵攻したが「長野氏系図」によると憲業は吾妻郡で討死したとみられる。永正の乱での戦いが、反上杉勢力の浦野氏に対し長野憲業に征伐の命が下された為の戦いであった。

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