山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

岳山城

2016-11-13 19:41:54 | 山城ー越後
岳山城は新潟県加茂市宮寄上にあります。

岳山城地図
宮寄上加茂線(県道244号線)で栗ヶ岳県民休養地方面に向かい、神社バス停の南に岳山寺があります。この寺の門の脇に長瀬神社への道があります。

岳山寺の門柱横の階段を登ります。

こんな参道を登ってゆきます。

堀を隔てて物見曲輪

物見曲輪

物見曲輪は右手下、本丸は左手を登ります。

長瀬神社(本丸)

お堂(本丸西)


宇良親王について
<父後醍醐の鎌倉幕府倒幕が成功し、建武の新政が開始されると再び天台座主となるが、建武の新政が崩壊し、南北朝の対立が本格化すると還俗して宗良を名乗り、大和国吉野(奈良県)の南朝方として活躍をするようになる。1338年(暦応元年/延元3年)には、義良親王とともに北畠親房に奉じられて伊勢国大湊(三重県伊勢市)より陸奥国府(陸奥国霊山(現・福島県伊達市))へ渡ろうとするが、座礁により遠江国(静岡県西部)に漂着し、井伊谷の豪族井伊道政のもとに身を寄せる。
1340年(暦応3年、興国元年)に足利方の高師泰・仁木義長らに攻められて井伊谷城が落城した後、越後国(新潟県)の寺泊(現・新潟県長岡市)や、越中国(富山県の放生津(現・富山県射水市)などに滞在した後、1344年(興国5年/康永3年)に信濃国(長野県)伊那郡の豪族香坂高宗(滋野氏支流望月氏の一族)に招かれ、大河原(現・長野県大鹿村)に入った。宗良はこの地を文中二年(1373年)までの約三十年間にわたり拠点とし、「信濃宮」と呼ばれるようになる。その間に上野国や武蔵国(武蔵野合戦)にも出陣し、駿河国(静岡県)や甲斐国(山梨県)にも足を運んだことが『新葉和歌集』や私家集である『李花集』の内容から判明している。拠点となった大河原は伊那谷に属し、南に下れば井伊谷(井伊氏)から東海地方へ、北上すると長谷(後述する終焉の地の一つ)を経由して諏訪(諏訪氏)や関東へと通じる位置にあり、別名「南朝の道」とも呼ばれる後の秋葉街道の中心に位置していた。そのため、劣勢が続く南朝方にとっては最重要拠点となり、各地で破れた南朝方の武士達(新田一門など)が逃げ込む事も多かった。
1351年(観応2年/正平6年)に足利尊氏が一時的に南朝に降伏した正平一統の際には新田義興とともに鎌倉を占領する。翌1352年(文和元年/正平7年)には征夷大将軍に任じられたが、結局鎌倉を占領し続けることはできず、越後で再起を図るも振るわず、ふたたび大河原の地に戻る。1355年(文和4年/正平10年)諏訪氏(諏訪直頼)・仁科氏など信濃の宮方勢力を結集し、北朝方の信濃守護小笠原長基と桔梗ヶ原で決戦に及ぶが敗れて、諏訪氏や仁科氏など有力氏族の離反により南朝の勢力は大幅に低下してしまう。ウィキペディアより 井伊谷城が落城して越後に遁れたときに、岳山城に拠ったのかもしれません。/font>


境内を見渡しています。

次回 本殿の西から詰め丸に向かいます。

縄張り図「山城は語る」木村尚志氏著より、神社が本丸


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。