山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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甘楽町番外編 織田氏七代

2017-02-09 21:18:29 | 氏族の追跡
小幡藩には織田信雄が入封され七代にわたって統治されていました。

七代の墓

七代の墓の地図
崇福寺にあります。


初代信雄から信富(のぶよし)まで

この墓石の説明に www.webgunma.com/486 このweb gunnmaのサイトをご覧になればよく説明されています。


歴代藩主

崇福寺に、小幡藩主織田信雄から信富に至る7代の墓がある。
 元和元年(1615)信雄(織田信長の二男)は、大和松山(奈良県宇陀市)と上野(群馬県)小幡合わせて五万石の領主となり、子の信良が入封して小幡織田氏の藩政が始まった。
 3代信昌は、祖父信雄の遺命(死に際してのこした命令)により、松山三万石を後見役であった叔父の織田高長に譲り、小幡二万石のみとなった。
 その後、明和4年(1767)の事件で、出羽高畠(山形県高畠町)に移封されるまで、8代152年にわたり小幡藩を統治した。
 織田氏の墓石はいずれも五輪塔で、初代信雄から、信良-信昌-信久-信就-信右-信富の歴代順に並んでいて、大名家の墓所らしい風格を見せている。
 織田氏は初め、轟の宝積寺を菩提寺(先祖の墓や位牌をまつる寺)としていたが、4代信久の時、崇福寺に移している。崇福寺は宝暦8年(1758)と明治4年(1871)の火災により、5代以下の墓石は火炎を受け破損している。 甘楽町HPより



この寺は小幡氏の菩提寺であった宝積寺。織田氏三代がこの寺を菩提寺としたという。
宝積寺地図

明和事件
明和事件(めいわじけん)は、江戸時代中期におこった幕府による尊王論者弾圧事件。
山県大弐銅像(山県神社)
甲斐国出身の山県大弐は、江戸へ出て兵学・儒学を教え大義名分に基づく尊王思想を鼓吹し、その一方で宝暦8年(1758年)に起きた宝暦事件に連座した藤井右門(直明)は江戸に出て大弐の家に寄宿し、江戸攻略の軍法を説いた。幕府は上野国小幡藩(2万石)の内紛にかこつけて両名を逮捕し、明和4年(1767年)不敬罪として大弐を死罪に、右門を磔刑に処した。さらに、宝暦事件により重追放となった竹内敬持にも累を及ぼして遠島に処した。また、小幡藩主の織田家(織田信長の三男織田信雄の末裔)は出羽国高畠への移封(のち天童にうつる)の上、織田信長の子孫と言うことで認められていた国主格の待遇も廃された。ウィキペディアより

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