山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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西平城⑤

2016-02-20 21:20:30 | 山城ー信州
長基(ながもと)は、何らかの事由で長男の長将(ながまさ)ではなく長秀に惣領識(そうりょうしき ※10)を譲りましたが、長秀は大塔合戦で失敗し、弟の政康が再興しました。

嘉吉2年(1442)に政康は亡くなると、総領識を子宗康(むねやす)に継がせました。長基の嫡流の持長(もちなが)はこれに反発し、天安2年(1445)に幕府へ訴えますが、これが認められなかったために翌年、宗康を殺してしまいます。

同じ年、幕府は宗康弟の光康の信濃守護職と領地の所有を認めていますが、その後、管領が細川氏から畠山氏に移ると、信濃守護職は宝徳3年(1451)頃に持長に移りますが、管領が細川氏に戻ると、享徳2年(1453)頃に再び光康に戻っています。

さて、持長は信濃守護所、井川館(松本市)におり、子の清宗は林城(松本市)に移ったとされます。この系統を府中(深志)小笠原氏と呼んでいます。

なお「松本」の地名の由来は、かつて武田信玄に信濃を追いやられていた府中の小笠原長時(ながとき)の子孫小笠原貞慶(さだよし)が、天正10年(1582)に深志へ復帰した際につけられたといわれています。貞慶が信濃小笠原氏の正統な当主であり、「松尾の本家」筋にあたるからとも、「待つこと久しくして本懐(ほんかい 本来の願い)を遂(と)ぐ」と述べたからともいわれています。

政康は、第二子の光康(みつやす)を伊那郡松尾に住まわせ伊賀良庄の管理にあたらせたので、光康の系統を松尾小笠原氏と呼んでいます。

第一子の宗康は井川館に居たが戦死し、幼少であった政秀(まさひで)は伊那に逃れて叔父光康を頼りました。その後、鈴岡に居城したといい、この系統を鈴岡小笠原氏と呼んでいます。
 応仁元年(1467)、鈴岡の政秀は父の遺恨を晴らすべく府中へ攻入り、長朝を更級郡に追い払いました。政秀は信濃守護となりましたが、その命令に従う者は少なかったようです。

長享2年(1488)に再び井川館を襲いましたが、やはり筑摩郡国人(こくじん ※11)の支持を得られませんでした。そこで政秀は、長朝を鈴岡小笠原家の養子することで仲直りして、府中を長朝に渡して鈴岡へ戻りました。延徳2年(1490)以降のこととみられています。

一方、政秀が勢いを増すと共に、かつて匿(かくま)ってくれた光康と対立します。文明10年(1478)、同12年と、諏訪大祝氏と共に松尾小笠原家を攻めています。この時、家長(いえなが)が戦死したとされます(異説もあります)。

明応2年(1493)1月4日、政秀父子は正月のあいさつに出向いたところ、松尾城にて定基(さだもと)に暗殺されました。政秀の室(妻)や遺臣らは、親戚の下条氏(下條村)を頼って逃れ、続いて府中の長朝(ながとも)を頼りました。長朝は援軍を送り、下条氏と共に定基を攻めましたが、当主を失った鈴岡小笠原は没落(ぼつらく)し、伊賀良庄は松尾の定基のものとなりました。

しかし、天文3年(1534)、府中の長棟(ながむね)によって松尾小笠原氏は甲斐へ追いやられたといわれ、鈴岡城に入った伊賀良庄は信定(のぶさだ)が支配しました。

信濃守護であった小笠原氏ですが、分裂によって周辺の国人と同じくらいに小さくなってしまいました
 文化財保護飯田のHPから引用です。

松尾小笠原家の定基によって勢力を持ち、久米ヶ城、西平城も傘下に収めていたようです

この系図を追ってみると、小笠原氏の三家の関係が分かります。

本丸南下の二の丸

二の丸から南尾根を下ってゆきます。窪みは?

南尾根腰曲輪①

南尾根第一虎口

第二虎口(空堀の中央に土橋)
南尾根はまだ続きますが次回とします。


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