山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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猿毛城

2017-09-09 11:36:18 | 山城ー越後
出陣の日に雨が降り、溜めてあった越後の城を急遽紹介します。

猿毛城は越後の武将で一番の猛将と言われている柿崎和泉守景家の居城です。この武将は川中島の戦いで先鋒を務め謙信が最も信頼している武将でもあります。

楞厳寺

本堂

景家の墓

説明版

猿毛城地図
アクセスは柿崎町を東西に走る地方道25号線で、バス停黒岩から100mほどの郵便局を左折し、町道を北に進むと2kmほどで登り口の看板が出ています。

登り口

猿毛城縄張り図、一つ一つ曲輪を紹介したいところ、どうにもならないほどの薮でした。上越市に整備をお願いしてみるつもりです、


柿崎景家について
永正10年(1513年)、越後の国人である柿崎利家の子として生まれたといわれる(生年には異説もある)。
はじめ長尾為景に仕え、為景死後はその子・晴景に仕えた。晴景と長尾景虎(上杉謙信)が家督をめぐって争ったときには、景虎を支持している。
謙信の下では先手組300騎の大将として重用され、永禄元年(1558年)に春日山城の留守居役を務めている。永禄4年(1561年)の小田原の北条氏攻めにも参加し、直後の甲斐武田氏との第四次川中島の戦いでは先鋒を務め、八幡原の武田信玄の本陣を攻め、武田軍本隊を壊滅寸前にまで追い込んだ。
また、斎藤朝信と共に奉行に任命されて上杉領内の諸役免除などの重要な施策に携わり、元亀元年(1570年)の北条氏康との越相同盟締結においても尽力し、子の晴家を人質として小田原城へ送るなど、内政や外交面でも活躍している。謙信からの信頼は絶大で、謙信の関東管領職の就任式の際には、斎藤朝信と共に太刀持ちを務めた。
天正2年(1574年)11月22日、病死。嫡男の祐家が前年の越中攻めで深手を負っていたため(生死不詳)、次男の晴家が後を継いだ。墓所の楞厳寺には景家夫妻を描いた肖像が所蔵されている。ウィキペディアより




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