藤岡市の中村殿、横尾家の墓地に大日方氏の関係が方がおられたとのこと、この関係もまた調べていくつもりです。また小川村の大日方氏の情報があれば教えてください。
小川村 古山城 大日方氏の関係の山城
西砦から北側の根小屋へ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/f9/9b7cee7d83ca3ef1d4d9cc9f0b8dcaa4.jpg)
西砦北側へ下る沢
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/d3/5d4fc6f3c6f1204eaa06ca30735b29de.jpg)
本丸の西尾根を砦によって押さえておかないと、岩櫃山から奇襲を受ける恐れがあるとするのは、この地図からもお分かりと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/ed/3d93123c0d4c47927b1ffa7a66e82d98.jpg)
右上が本丸、北側麓を歩いてゆくと根小屋になります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/f5/636686fd2d2aaebb41b429456501dfa2.jpg)
本丸から下りてくる竪堀
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/41/aea1c3f8097403b33b4b959e9e4273b8.jpg)
このような大きな曲輪が段上に何段も続きます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/5d/bed3fa7b0e17f8947da2e2ff32f205fd.jpg)
根小屋
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/a6/28087aeb9c11521962ae7c191fdb91e5.jpg)
俯瞰図は「境目の山城と館」上野編。北側の水曲輪と根小屋は沢を隔てて二段に続いています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/e2/d38794aae5375431f8f0ccdb06afb257.jpg)
水曲輪虎口。歩いてきたのは山城の麓の方です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/23/0b5073065d849978d8cb9826702daa83.jpg)
水曲輪入り口
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/15/75764e0fb68db3711f571a591d6e5d7f.jpg)
右へは水曲輪、左に登れば中城へ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/30/89c9f1d716644ecd3ae4d0e5e7e5fc84.jpg)
説明板と縄張り図(山崎一氏の縄張り図を参考にしているようです。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/0a/317b6bf4fd7d831ef7d88d347aaba159.jpg)
宮坂武男氏の縄張り図。下方に出浦対馬守屋敷とあります。出浦盛清が城代を務めた時期があったようです。
村上義清が武田信玄に敗れ、越後に逃れると武田家に臣従し、甲州透破(忍者)を統率した。武田氏滅亡後は織田信長家臣の森長可に属し、本能寺の変の後、長可が海津城から撤退を図った際には、長可配下の信濃国衆たちはほぼ全員が長可を裏切ったが、盛清は撤退に協力した。長可は深く感謝し、別れる際に脇差を与えたという。
その後、天正11年(1583年)から真田昌幸・真田信之に仕え、小県郡武石村に30貫文を領し、吾妻奉行を拝命した。更級郡上平城主を務め、岩櫃城では最後の城代を務めている。横谷左近とともに吾妻忍び衆を統率して活躍。天正18年(1590年)6月、豊臣秀吉の関東平定では真田軍として北条方が守る忍城攻め(忍城の戦い)でも活躍した。
松代藩では忍者の頭領となり、武者奉行にもなった。この頃は出浦対馬守を称している。関ヶ原合戦後は、上州吾妻郡の群馬原町に住み、 元和9年(1623年)に78歳で死去。
子の出浦幸吉は、松代藩で1000石を領する家老となっている
出浦城坂城町で参照の事
次回 沼田城
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西砦から北側の根小屋へ
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西砦北側へ下る沢
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本丸の西尾根を砦によって押さえておかないと、岩櫃山から奇襲を受ける恐れがあるとするのは、この地図からもお分かりと思います。
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右上が本丸、北側麓を歩いてゆくと根小屋になります。
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本丸から下りてくる竪堀
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このような大きな曲輪が段上に何段も続きます。
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根小屋
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俯瞰図は「境目の山城と館」上野編。北側の水曲輪と根小屋は沢を隔てて二段に続いています。
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水曲輪虎口。歩いてきたのは山城の麓の方です。
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水曲輪入り口
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右へは水曲輪、左に登れば中城へ
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説明板と縄張り図(山崎一氏の縄張り図を参考にしているようです。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/0a/317b6bf4fd7d831ef7d88d347aaba159.jpg)
宮坂武男氏の縄張り図。下方に出浦対馬守屋敷とあります。出浦盛清が城代を務めた時期があったようです。
村上義清が武田信玄に敗れ、越後に逃れると武田家に臣従し、甲州透破(忍者)を統率した。武田氏滅亡後は織田信長家臣の森長可に属し、本能寺の変の後、長可が海津城から撤退を図った際には、長可配下の信濃国衆たちはほぼ全員が長可を裏切ったが、盛清は撤退に協力した。長可は深く感謝し、別れる際に脇差を与えたという。
その後、天正11年(1583年)から真田昌幸・真田信之に仕え、小県郡武石村に30貫文を領し、吾妻奉行を拝命した。更級郡上平城主を務め、岩櫃城では最後の城代を務めている。横谷左近とともに吾妻忍び衆を統率して活躍。天正18年(1590年)6月、豊臣秀吉の関東平定では真田軍として北条方が守る忍城攻め(忍城の戦い)でも活躍した。
松代藩では忍者の頭領となり、武者奉行にもなった。この頃は出浦対馬守を称している。関ヶ原合戦後は、上州吾妻郡の群馬原町に住み、 元和9年(1623年)に78歳で死去。
子の出浦幸吉は、松代藩で1000石を領する家老となっている
出浦城坂城町で参照の事
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