冨田敬士の翻訳ノート

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shallの用法と訳「ものとする」について

2019-03-10 23:10:41 | 情報
英文の法律文書を訳しているとshallの訳し方に戸惑うことが多い。法令や契約書,判例などの文の要ともなる用語なので,ないがしろにするわけにはいかない。契約書では「ものとする」という訳し方が多いが,片端から「ものとする」と訳したのでは昔の「候文」を読んでいるようで,体裁のよい文体とは言えない。
法律英語のshallが本来「義務」 (obligation) を意味していることは,英語圏法域の共通した認識となっている。ところが実際の英文では「義務」とも思えないような文脈でもちょくちょくこの語が使われているようだ。Black’s Law Dictionaryの編者であるBryan Garnerによると,米国ではshallが八つぐらいの意味に使われているという。例えば,The secretary shall be reimbursed for all expensesという文だが,この文の趣旨は「権利」であって「義務」ではい。実際,shallの解釈をめぐっては米国各地で裁判も起こされているらしい。法律家がなぜshallを一義的に使わないのかはここでは詮索しないが,われわれnon-nativeとしては法律文書のshallには曖昧な使い方が少なくないことはぜひ頭に入れておきたい。
では,このような曖昧な助動詞を日本語にどう訳せばよいのだろうか。翻訳エージェントの中にはすべて「ものとする」と訳すよう指示しているところもあるらしい。それも一つの見識かもしれない。なぜなら,翻訳者は用語のテクニカルな部分を解釈する立場にはないからである。ただ,日本語の「ものとする」自体の意味が気になって調べてみた。
日本の法令では「義務」を示す表現としては「しなければならない」が使用されている。これに対して,「ものとする」は義務の程度が弱めとか,原則的な指示を与えたものといった解釈が示されているようだ。一方,日本語の契約文では通常「義務」を示したものと理解されている。「ものとする」を広辞苑で調べると,「もの」には「そうあって当然のこと」という形式名詞としての使い方がある。また,「...とする」は文を閉じて断定を強めるのに使うという。つまり,当然そうあるべきこと,なすべきことを断定的に述べる表現と理解してよいだろう。したがって,「ものとする」を義務的な意味で使用するのは問題ないようだ。
実務文はなるべく簡潔な文体が好まれるので,「ものとする」のような形式的な言い回しは,ないに越したことはない。ただ,文の趣旨やめりはりを考慮すれば,文末を「ものとする」や「なければならない」で結ぶほうがよいこともあるようだ。例えばThe payment shall be made no later than the end of the following monthという文であるが,これを原文どおり受け身に訳したいとき,「本支払いは遅くとも翌月末までに支払われる」としたのでは文末に何となく締まりがない。末尾にさらに「ものとする」を付け足し,「支払われるものとする」とすればshallの趣旨が明確に伝わり,めりはりも加わる。
今はshallからmustへの過度期 (transition) と言われている。法令の分野ではすでにある程度mustへの移行が進んでいるようだ。例えば,米国のThe Federal Rules of Appellate Procedure (連邦上訴手続き規則) 最新版等の法令ではshallに代えてmustが使用されている。一方,契約書では今のところそういう例は極端に少ないが,その理由は多分,shallが「義務」(obligation)以外に拘束的な「約束」(promise)や「宣言」 (declaration) の意味でも使用されるからではないだろうか。単にshallをmustに置き換えたら済むという話ではない。言葉の定着には相当な時間がかかる。今後どういう展開になるのか興味深い。

参照文献
A Dictionary of Modern Legal Usage (Second Edition, Bryan A. Garner)
https://www.plainlanguage.gov/guidelines/conversational/shall-and-must/
https://www.faa.gov/about/initiatives/plain_language/articles/mandatory/

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