冨田敬士の翻訳ノート

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出来る人は仕事が速い

2014-03-19 22:58:06 | エッセイ
速筆の人たちから学んだこと

 プロの翻訳者は原稿用紙で1日何枚ぐらい書けばよいか。こんな質問を受けることが時々ある。分量に目安があるわけではないが,実務翻訳は1枚書いてナンボの世界。納期も厳しいので,なるべく多く書けるに越したことはない。だが,あれこれ思案しながら書いていると思うように捗らないのが現実だ。その一方で,世の中には信じられないような速筆の人たちがいることも事実である。もしそういう人たちのテクニックが翻訳に応用できるものなら,ぜひ拝借したい。
 速筆で世界的に有名な人物といえば,まず作曲家のモーツァルト。普段から仕事が速かったそうだが,中でも「リンツ」と呼ばれる交響曲第36番はわずか4日間(3日間という説もある)で書き上げたという。1783年の秋,オーストリアのリンツの町を訪れたとき,地元の貴族の歓待を受け,求めに応じて演奏会用に書き上げたもの。4日間というのはプロの音楽家からみても神がかりとしか言いようのないスピードらしい。
 日本にも速筆で知られた人物がいる。昔,都内の東武美術館で開催された葛飾北斎展を見て,その作品の多さ,描写の細やかさに圧倒された記憶がある。展示品は世界中から集めたという2千数百点だったが,北斎が生涯に描いた作品は3万点を上回るという。90年の長寿であったことを考慮しても筆の速さは人間業とも思えない。
 速筆の人には身近でお目にかかることもある。筆者は10数年前,都内の英語学校でパフォーマンス学の佐藤綾子先生と机を並べたことがあった。佐藤先生は英語での講義や論文執筆は自在な人だが,教養のあるネイティブ講師のパフォーマンスに関心があったようだ。ある日,先生の著書の話になった。ちょうど100冊目を書き終えたばかりとのこと。先生はゴーストライターとは無縁な大学教授で,本業のほかにテレビ出演や講演など超多忙な様子だった。そんな生活の中でそれほど多くの本をいつ,どうやって書き上げたのか興味が涌いた。本を書くときは予めよく構想を練っておき,書き始めたら一気に書き上げるという。新書本程度なら1週間ぐらいで済むとの話だった。
 翻訳は原文という拘束物があるため創作のように一気呵成というわけにはいかないが,速筆の人はやはりいる。今から30年ぐらい前,筆者が出版翻訳にかかわったとき,一人の女性に翻訳の一部をお手伝い願ったことがあった。かなりきつい日程とは思ったが,出来上がった訳文を見て驚いた。草書体の流れるような筆跡となめらかな文章。こんなふうにして1日何枚ぐらい書けますかと尋ねたところ,40枚ぐらいとの答えにまたびっくり。当時の翻訳は400字詰め原稿用紙に手書きで,1日15枚前後がプロのレベルと言われていた。連日40枚は無理としても,まれに見る速筆の人であったことは間違いない。
 何かの雑誌でプロの英訳者の手記を読んだことがある。1時間に10枚仕上げたことがあると書いてあった。英訳は通常A4版にダブルスペースで打つのだが,プロの英訳者で1日にせいぜい10枚前後。超特急の仕事だったにしても1時間に10枚は速すぎて目標にもならない。
 速筆の人たちのやり方をよく見ると,準備に時間をかける点で共通しているようだ。構想を練り,資料を集め,考えを整理する。そして,書き始めたら一気に書き進める点でも共通している。大した準備もなしに取りかかると途中で調べものをしたり構想を練り直したりで,かえって時間がかかるのだろう。
 一方,翻訳では書くべき内容が与えられるせいか,準備もそこそこに,とりあえず訳し始める人が多いようだ。パソコンで文字を書くようになったこともそうした傾向を助長している。パソコンなら後で修正,変更がいくらでもできる。だが,とりあえず書き始めると,途中で原文の意味を調べる必要が出て思わぬ時間を取られたり,文体が不揃いになったり,よいことはあまりない。予め原文を分析し,よく理解してから翻訳作業に取りかかれるなら,それに越したことはない。それに,あとで修正したからといってよい訳文ができるという保証はない。

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