喜寿をむかえた男の遊々生活!

喜寿を迎えた老人の日々を日記に・・・

退院後の追憶、その1。

2018-07-05 08:39:45 | 日記
 さて、昭和62年2月末だったか、3月初めだったか? もう一月すれば
43歳と言う頃に市民病院を退院することができた。
 
但し、肝機能の数値は まだ100と言う値で、絶対禁酒・直ぐに
働かず休養する・たんぱく質を沢山摂る・定期的に病院で検査を受けるとの
条件だった。
 入院中に見舞いに来ていただいた上司の話では、東播染工の社長、当時は
来住氏だったが、息子さんが居て、街の損害保険会社に勤めていたのを近々
呼び戻したものの 適当なポストが無く、上司いわく「どうやらお前の席を
狙っている。 身体も大事だが 出来るだけ早く出社するように」との
忠告を受けてた。
だが、医師からは仕事と身体とどちらが大事か?などと 当時 担当医で
有った天野先生から言われ もっともと思い、席がなくなる事は覚悟した。
 
 家で養生しているある日の事、斎藤商店の斎藤幸雄君や壽建設の橋本君が
出てきた。話は”西脇中学校のPTA役員を引き受けてくれないか?」との依頼
だった。 3年前には日野小学校のPTA役員を引き受けたことが有る。
 1度 そういったものを受けると 前例となるようだ。やむなく引き受ける。

 PTAの顔ぶれは上本町の坂本真一郎氏、高田井町の斎藤幸雄氏、小坂の橋本氏、
小学校PTAでも一緒だった東本町の内藤氏、寺内の木下氏、下戸田の岩本氏
高田井の高瀬省二氏、南本町の藤原氏、中本町の西脇氏、同じく廣田氏、上戸田
の吉田氏、小坂の篠原氏、そして私の13人だった。
会長に坂本真一郎氏、事務局に斎藤氏が就いた。 私は確か環境・衛生委員とかの
役を引き受けたと思う。

 当時 校長は朝井義巳氏、氏は 私達が中学時代に体育と社会を教えて
貰った恩師でもある。
昔、朝井先生には体育の時間にハードルを飛び越える練習があった。
 一通り生徒が飛び終えた後 先生が”増田。お前 もう一度飛んでみろ”と
言われ 飛んだことが有る。
 私はお世辞にもスポーツマンタイプでない。スポ音痴の類だった。
しかし、身体も細く、幼い頃から野山を駆け巡っていたので身が軽かったのか?
懸垂は20回以上は出来たし、跳躍力には自信があった。自然と ハードルを
飛ぶスタイルになっていたらしい。
”先生から一度だけ褒められたことが有りました。”と言うと ”そうか、
そのような事が有ったか”と、たちまち意気投合し、朝井義巳氏もご機嫌であった。
 当時 教頭は金田氏 生徒指導係には笹倉邦好氏で 生徒からは笹倉でなしに
鬼倉と呼ばれていたようだった。
 この校長と笹倉氏を中心とした努力で 荒れていた西脇中学校が見違えるほど
好くなった事は確かである。
そして笹倉邦芳氏と同郷の三崎先生とは仲が良かったのか会が終わった後の
飲み会や ゴルフで一緒になった。

 余談だが、教育委員長には私の知った人が多い、当時は久保ツトム氏だったか?
氏は国語などを教えてもらった先生だ。
その後 三崎先生になり、現在の笹倉先生になったと思う。

 この頃の西脇中学校のPTA活動は派手で、会長になると100万、200万は
覚悟しないと???と言われるくらいだった。
会合があるたび 終わると料亭へ行き、二次会は下戸田界隈に繰り出しスナック
の梯子をした。
 どうやらギフトショップ店を経営していた会長の坂本氏は、兄の坂本清氏が
来年 市議会選に再出馬するとの事で、票を期待して兄 清氏から援助を受けて
いたと聞く。だが、これが元で 数年後 彼は肝硬変を起こし、亡くなっている。
当時 私など平委員でも月3万円くらいの出費はあっただろう。
 校庭には今でも13本の紅葉が植わっている。我々 役員13名が記念に
植えたものだ。
そして その後数年間は”紅葉会”なる会を発足し、朝井校長を交え 年に
2回程度会合を開いていた。
だが、不幸にも 一緒だった役員連中は会長だった坂本真一郎氏を初め、住吉屋の
生田氏、同級生である高田井の高瀬省二氏、寺内の木下工務店 木下氏、私より
4歳年下だが小坂の壽住宅 橋本氏の5名亡くなった。
朝井義巳氏も中学校退職後、北播磨県民局へ行かれていたようだが、不幸にも
舌癌に侵され、あれだけ饒舌だった人が 人前で話をすれば涎が口元から落ち、
そのせいで あれだけ気丈な人が 人前に出ることをしなくなった。
その頃、金田教頭は交通安全協会へ、三崎先生は教育委員長に、笹倉氏は西脇南
中学校の校長になった事を聞く。
 

 この頃、当然の事だが、会社復帰していて 営業の席は”営業職は接待などで
飲む機会が多いから”との もっともらしい理由で 加工場最終工程の反物巻取り
場に責任者として内勤となった。
配下は20名程度、殆どは女性である。 平均年齢は40前後と言う所か?

 当時は月末になると納期の厳守もあり、残業をするのが当たり前だったのだが
5時終業前に7時までの残業を彼女たちに頼みに行くのである。 
当然、私が直接行くのではなく、彼女たちの中でも 一番 一目置かれている
女性、当時 タカちゃんと言う 私より3歳上の女性だった。に行かせるのである。
そして報告してくる。 20名の内、大体残ってくれるのは4割程度、後の半数
以上は”家へ帰っておさんどんしなければならない”とかの理由を付けて、
そして 今では考えられない事だが 5時前には守衛室の前に設置してある
タイムカードマシーンの前に 立って 5時ジャストのカードを差し入れて
帰るのである。 これには唖然としたが、今までの組合制度と言うのが強かった
のか? 

 前述のように加工場は月末には納期が迫った注文が殺到する。輸出物が大半で
あるため、納期が遅れるとキャンセルになる可能性が高くなる。

 タカちゃんが頼みに行ってダメとなると、私の出番で 彼女たちに再度お願いに
行く。それで2〜3人キープできるのがやっと。
納期が迫った反物は 仕上がってきた際 柄曲がりとかが出て再加工を要する
ものも沢山出る。 再度 現場へ戻して 治すのだが、これが時間が掛かり
8時、9時になる。部下に”残業で仕上げてくれ”と頼むが 毎日はしてくれない。
止むを得ず 私が9時・10時と居残り、巻き反の整理をしながら仕上がって来る
のを待つ。そして織物検査員にパス判を押させ、明細書を作成して それを待って
いる産元商社の受け渡しに渡すのである。

 そんな日々が続いたが、何よりも骨休みになるのと気が休まるのがPTAの役員
連中との 休日のゴルフや 夕方になるとスナックへ行く事だった。
医師から”アルコールは控えめに”と忠告を受けながら 無視して飲んでいた。
 

 そして昭和64年1月7日 昭和天皇が崩御し、よく1月8日、平成となるのだが、
この日は日曜日、私は 蒲江の笹倉釣具店の店主 笹倉義雄氏と黒田庄町福地の
村精織物㈱社長の 村上利彦氏と3人で福井県の若狭本郷にメバル釣りに行っていた。

 

無神論者だが不思議に思った事。

2018-07-04 09:58:16 | 日記
 今週の日曜日、毎日の日課のラジオ体操にWiiでの筋トレ、毎月一日と
父の月命日六日、母の命日十六日には決まって 仏壇に手を合わせ拝む。
真言宗なので 経本を手に 開経偈、懺悔文、三帰、十善戒、発菩提心真言
三摩耶戒真言、十三仏真言、般若心経、光明真言、大師宝号、回向、光明文と
経本に書いてある順序に読経を行うのだが、時間にして僅か5分程度。

 このように仏壇に手を合わせる私だが、宗教心があるのか?と問われれば
全然ない。
仮に願い事を行うとすれば、遠く離れて暮らしている愚息二人と 娘一人の
幸せを願うくらいで、自分の事は このように病気もせずに 元気で暮らして
いる事への感謝の念のみ、

 父は信仰心があつかった。幼い頃 見ていた父は 毎日のように仏壇に手を
合わせていた。
 それが何時頃だったか? 50歳を前にして 喘息が出始めた。気管支
喘息で、発作は冬でなく 夏に出るのだ。
父の父親、私にとっては祖父だが、祖父も又 気管支喘息を患っていたらしい。
昭和16年、父は大阪で印刷屋を営んでいたが、祖父は2階で 書き物をして
いる途中に発作が起きたのか? 父が仕事に一段落したときに1階の作業場から
2階の父を見に行くと 座机の上で うつ伏せ状態で、事切れていたらしい。

 父は 祖父から喘息を引き継いだことで、落胆し、”こんなに苦労して その
上、病気まで・・・こんなことなら仏さまなんか祀らない”と言ったことが
記憶にある。

 父にしてみれば 母、私にとっては祖母だが、妊娠中にお堂で躓いたらい。
それが原因で、臨月になり、産婆さんに取り上げられた父は 身体障害者で
産まれてきたのだった。産婆さんは それを見るなり、祖父に向かって
「きのこカタワや、絞めましょか?」と言ったらしい。
それを聞いた祖父は 「縁あって この世に生を受けて生まれた命、生かして
やって欲しい」。と言って 一命をとりとめたのだった。
 だからなおの事、信仰心が篤かったようだ。

 そんな父を見てきている私だが、妙に信仰心と言うものがない。
創価学会や キリスト教などが 入信を言ってくるが、”イワシの頭も
信心から・・・、道端に落ちている小石も 有り難いと思えば有り難い”と
取り合わない。

 だが、不思議な事に そんな私だが、昭和46年、忘れもしない5月6日
私は夜中に夢を見ていた。 同居している父が 夢枕に”亨二、亨二”と
呼んでいるのだった。
 明け方、早朝 父と一緒の部屋で寝ていた母が”亨ちゃん 大変や”と
叫ぶので 私は”あぁ 親父が亡くなった”と思った。私が26歳の時だった。

 享年58歳となっているが、父は大正4年生まれ、満で言うと56歳だった。
こども好きで 私が翌年 家を建て 嫁を貰う事になっていたので 楽しみに
していただけにショックだった。

 母の時もそうだった。母は大正12年生まれ、90歳で亡くなったが、
平成22年3月16日早朝、夢枕に 何も言わず 出てきたのだった。
単なる偶然、と 私は妻にも言うが、妻は 私よりは信仰心の篤い女。
それを聞き、”お父さんは 何かもっているのだ”と言うが 特別何も
ない。
 だが、そう言えば、若い頃 死に損なった事がある。 まだ18歳と若い
頃 単車に乗って小坂町の狭い道路を走っていると 横から犬が出てきて
巻き込んだ。
 民家のブロック塀に強かに身体を打ち、気を失っていた。気が付けば
病院のベッドの上、レントゲンを撮ったが、骨盤に亀裂が入っているだけで
安静にして居れば手術もしなくても自然に 骨がくっ付くと言われたのだ。

 また若い頃、一人で日本海の浜坂へ 地磯へ釣りに行っていた。
ロープを伝い、急な絶壁を下りて釣をしていた。
場所は通称”エイシャン”と言われる 地元では有名な地磯で、だが、危険な
所で、今までにも数人の人が この場所で亡くなったらしい。

 10時頃に納竿し、ロープをよじ登り、車の置いてある場所まで帰る途中
だった。
どうやら道に迷ったようで、冷静になって眼下を見下ろすと、僅か下5m程が
雑草が生い茂っていた分からなかったが、その下は崖だったのだ。
少しでも足を踏み外せば 滑落し 遥か20mはあろうかと思う下に夜光虫に
よるものか? 白い波が青白く光っている岩場に叩きつけられ即死していた
かと思うと、肝が縮かむ思いだった。

 夜の山道には慣れているはずだったが、だが磯際にはクマザサなどが多く
これと言った目印になる木もなく、ヘッドライトが照らす 木の葉が光で
乱反射して 幾人も通らない山道を消し去り、分かりにくくなるのだった。

 渓流釣りの時もそうだった。矢田川をホームランドとしていた頃、当時
禁漁期間もなく、雪が降り積もった日だった。
早朝に家を出て 遠阪峠も今のように有料トンネルはなく、ひたすら現地へ
午前中に終う予定だったので 食料も持っていない。持っているのは予備の
エサ、イクラのみ。
早朝の雪は 凍てついて表面は固く、歩いて上流へ行くのも足元は沈まず
軽快に釣り上がって行った。
その日も 数十匹のヤマメを釣り、小代渓谷の上流にまで釣り上がった。

 その日は結構暖かかった。10時頃に下山に向かった。 渓谷から山道へ
でると、なんと表面の雪が柔らかくなっていて 朝 足首しか沈まなかった
雪が 股下まで沈むのだった。
”こりゃダメだ”と思い、また渓谷に下りて 川伝いに歩いて麓を目指すの
だが、滝のようなところや段差の大きな所がある。 遠巻きに歩くには
また股下まで雪に埋もれる。
時間を見ると2時、腹は空くし、身体は言う事を聞かない。 じっとして
いると寒い。 それも辛抱して休んでいると 今度は眠気が襲ってくる。
”そうだ、イクラがある”と思い出し、瓶詰めのイクラを頬張った。
”辛い” 飲み物もないので雪を頬張る。

 少し元気が出てきて 麓に向かって下りて行った。一歩づつ一歩づつ
やっと車が見えてきたときに 地元の人が掻いていたのか?雪が少ない。
すると足に羽が生えたような気持ちになった。
時間を見ると4時半、辺りは もう薄暗くなっていた。
 今になって思う。あの時、諦めて 眠気に負けて 1時間でも休んでいれば
今頃どうなっていたのか?

 また昭和62年の1月だった。東播染工の営業をしていた私は 身体が
怠く、今はないが、和田町の水野医院で検査を受けていた。結果の出る土曜日
その日は 産元商社のゴルフコンペがあり、参加する予定でバッグも積んでいた。
水野医院へ行くと、直ぐに名前を呼んでくれた。
先生が”肝臓数値が著しく悪化している。市民病院の紹介状を書くので直ぐに
「行くように”との指示。
仕方なく コンペの欠席を伝え、市民病院へ、行くと 同様の血液検査をする。
「11時に結果がでるので」とナースが言う。 身体は怠いが、退屈なので
野村の大池へ打ちっ放しに行くが、2カゴを買い、打とうとするが力がでない。
”こりゃ ダメか”と思い、隣の人に残りをプレゼントし、時間もまだあるので
病院前の今は無き、”織戸”と言うレストランに入り、食べる気もしないので
ビールを注文したが、運ばれてきたビールが飲めない。

 11時になり病院へ行くと、ナースだけでなく医師も数人出てきて「大丈夫で
すか?」などと言い、寝台車を持ってくる。そして「直ぐに入院を」と言う。

 そんなことを言われても入院の用意をしていない。なんでも肝臓の酵素の値を
示すGPTが通常4若しくは5のところ、1500と言う途方もない数値だった
らしい。
 すぐさま入院、直ぐに点滴が打たれた。夜中になると背中が痛む。付き添いの
妻がナースに言うと「肝臓が腫れているから痛むので横にさせてあげてください」
と言う。
あくる日は 緊急患者が入る部屋に移動。ここには脳梗塞や脳血栓などで緊急
入院した人ばかり、便も その場で採るので臭い。寒い時期なので窓を閉め切って
いる。夜になると鼾が大きい。
 私にナースは”尿を摂ります”と尿瓶を持ってくるのだが、「便も尿も自分で
行きます」。と譲らない。
そして目の前の便所に入り 用を足すのだが、驚いた。 尿の色はチョコレート色
便の色は 白いのだ。
聞けば、胆汁の作用がそうさせているのだと言う。 また この1500の数値は
命に関わる数値と言うのだった。

 それからの毎日は点滴点滴の毎日、2カ月ほど点滴を受けた。幸いA型肝炎で
回復は時間の問題だったが、余りにも当初の数値が高かったので500程数値を
下げるのに1カ月かかり、2カ月目に やっと100まで下がったが、退院の
許可が下りたのは3月も半ばだった。
 その間、色々あった。同室の人が朝方元気だったかと思うと 付き添いの奥さんが
目を離している内、亡くなったり、同じ肝臓病の人が 腹水が溜まり 亡くなったり

 またある時 部屋替えがあった時、一人のがっしりした体格の中年の男性が入って
きた。ナースが言うには 個室が無くて 今晩一晩 相部屋でお願いしたい。と言う

 その男性は どこかの会社の社長か?とも思われ、昼間 ひっきりなしに何か
指示を仰ぎに来るのか 出てくる。
入院の男性は 私に”すんまへんなぁ〜迷惑を掛けて”と謝られる。
しばし世間話もしたのだが、彼の素性は分からないままだった。
 後で判明したのだが、あのダイエーの社長 中内功氏だったのだ。 晩年の中内氏は
細くなっていたが、その時代の中内氏は ふっくらとしていた。
 その後、伊川谷の流通大学で出会う事があり、そのことを話すと ”そうでしたか”と
懐かしがられて居られたが

 話は横道に逸れたが、妻は私と違い信心深く”お父さんは幸せ者だ。午先祖様が
見守ってくださっている”と 羨ましがり 言うのだが・・・果たして。