喜寿をむかえた男の遊々生活!

喜寿を迎えた老人の日々を日記に・・・

平成の始まりのころ、追憶その2

2018-07-06 10:11:40 | 日記
 さて台風7号の影響で 長雨が続き 毎日が退屈、学校での仕事も 草刈りも
出来ず、もっぱら 持参しているディスクグラインダーに これまた自腹で購入した
特殊合金でできたディスク型研磨を取り付け、草刈り機の歯を研いだり、
校舎裏口に 金属や可燃物・不燃物・洗い粉の入っていた容器、それに壊れた
ビニール傘、物置小屋へ持ち帰り、金属部分と可燃物とに分別作業、時間が余れば
Pタイルなどもはがれている箇所があり、張り替えたいが、以前から置いてあった
100枚程度のPタイルはすべて廊下など張り替え、低学年の教室のPタイルが
剥がれていたので 50枚ほど学校が購入したが、すべて張り替えて もう材料は
ないということを報告しているが?

 さて昨日の続きだが、昭和64年1月8日は昭和から平成に元号が変わる日だった。
その日は 昨日の二人と福井県の若狭本郷へメバル釣りに行っていた。
その頃、若狭本郷との半島を結ぶ橋は 立派な橋にかけ変わっていた。
また漁師の家は 殆どが新築で 漁船なども新しい船に買い替えていた。
 そう、その当時から原発を設置し始めたのだった。 若狭の町は潤っていた。

 メバルも新しいテトラや石垣につくという、私たちが使用する渡船屋は庄司渡船か
福島渡船だった。
 その渡船屋は原発を設置してある波止に我々をあげてくれるのだ。当然 そこは
立ち入り禁止となっているのだが漁師は無視、関電のガードマンがやってきて
”ここは立ち入りだ。直ぐに出ていくように”と警告するが、一旦 波止におろすと
迎えに来るまでは動けない。 関電のガードマンも地元の漁師に弱いようで 上から
地元とのトラブルを避けるよう言われているのだろう。そのまま引き下がっていった。

 その日は大漁だった、イサザ(シロウオ)を餌にするのだが、薄暗くなるとテトラ
から素早く餌を食べに出て来るのだった。大きさにして30センチはあろうかと言う
黒メバル。

 さてそのような事はさておき、帰りの車の中で 昭和から平成になったニュースは
車のラジオで知った。当時 官房長官だった小渕氏が何度もニュースで繰り返して
いたのを思い出す。

 私は平成を機に 煙草を止めてやろうと決意した。 
今までの生涯のなかで、”自分で自分を褒めてやりたい”と思ったのは このこと
くらいか? 私はヘビースモーカーだった。
1日に2箱は吸っていただろう。 止めようとしたこともあったが、同僚などに
”まっさん。タバコは一服の清涼剤だ。吸ったら”とわざと差し出すのである。

 当時、営業として産元商社まわりをしていた者としては、お客さんとの話し合いが
仕事だ。 煙草がないと手持ち無沙汰になり 話が続かない。

 それが、A型肝炎を患い 内勤になったことで止められてのだった。
だが、それはそれは苦しいもので、止めてから7年経っていても 夢に吸っている
自分を見るのであった。 ”あぁ しまった。とうとう吸ってしまった”と
夢に見る。後悔しても遅い、”エエィ 1本吸うのも2本吸うのも”と思ったところで
目が覚めると、”あぁ~夢で好かった”と胸を撫でおろすのだった。

 仕事は相変わらず、今まで 外で羽を伸ばしていたかのような仕事をしていた
私にとって 部署の責任を押し付けられ 部下を持つことは苦痛だった。
それに平成元年など 繊維産業以外はバブル絶頂期であった。

 当時 プラザ合意などで1ドル360円の固定レートから 変動相場制に変わり
確か 1ドル116円前後だったと思う。
そりゃ 採算は合わなくなる。 仮に1ヤード織って、今まで360円も懐に入って
いたのが半値以下になったのだから ガチャマン時代(ガチャンと横糸が走れば
万の金が入る例え)は過ぎ去ったのだった。

 その頃、日の小学校の校長でも会った 細田氏が持っている旭本町の細田ビルを
借り受けて PTA時代の内藤君が ”フォルテ”と言う  今のコンビニの走りの
ようなやっていた。
 彼とPTA活動が終わっても 小学校の際のPTAも一緒だったことから意気投合し
彼の事務所へ 会社が終わった後 よく訪ねて行った。

 彼は行くと 気前よく”まっさん。今から三宮へ行こうか?”と誘うのだ。
私は 内藤君に ”西脇なら折半で払えるが、神戸はペェペェだし”と言うと
”みんな わしが持つ”と言って、彼の乗っているクラウンで 神戸のラウンジへ
くりだし、明け方まで飲んで帰るのだった。
帰り際 明細書が渡され サインをして帰るのだが、横目に見ると10万円
以上の明細書だった。

 ある日、内藤君に ”内藤君、店はそんなに儲かるのか?”と尋ねると
”あんなもん 儲かるかいな。あのなわしは宅建で儲けているんや”と言う。
私は 当時 無知で、宅建の意味が分からなかった。 彼は”へべたく言うと
不動産屋だ。まっさんは不動産屋向きの顔をしている。繊維のような細い糸に
頼らず 不動産屋を目指したらどうだ。”と誘いがあり、”どのようにすれば不動産が
開業できるのか?”尋ねると、”住宅新報社が出している〈宅地建物取引の知識〉と
言う本を買い、それを全部覚えれば 宅建主任の試験が年に1回あるのでそれに合格
すれば不動産業を開業できる。”と聞き、分厚い その本を買った。
600ページはあろうか?分厚い本だった。 そこには民法・法令・税法・業法
業務等など書かれてあった。
買ったものの、今更 あほらしくて勉強などと思い、机の中にしまっていた。


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