St. John of the Crossの生き方に憧れて

受洗後、最初に買ったカトリックの本が「愛への道」。相応しい生き方をしてない。彼に倣う生き方が出来るよう心がけたいです。

日記

2014-10-22 13:04:30 | Weblog
1 goo blogの記事”ニ・ュ。ハ」ア」ー。ソ」イ」ケ。ヒ”が自身の参照2位に入っている。別にdadaではない。種明かしすると、OCNさんの”Blog Cafe”からの変換が上手くいかなかったのだ。OCNさん後継ブログでは成功したので、“どうしても”という方はそちらを見て欲しい。

2 数学の変更のみ。写真は10/16(木)の飯田。信大真壁先生の経済講演会があって、その折。あと、10/19(日)の名古屋。飯田6:30発の高速バスで栄へ。9:30からと18:00からの2回、布池教会のミサに与る。午後は、1:00からコスモス短歌会愛知支部会に参加。最終21:30のバスで帰飯する。土曜は上郷マック。昼間の(!)2時頃迄本を読んで勉強。夕方寝て、夜中に短歌を作る。月曜は午前・午後と仕事に入る前、コスモス、コスモス松本・名古屋両歌会、かばんの計4ヶ所の為、投稿歌を推敲する。歌自体は20程既に作ってあった。推敲し作品に仕上げる。金曜から昨日火曜にかけて読んだ本のリスト。仕事関係の他、「現代の短歌」(高野公彦)「行動経済学入門」(真壁昭夫)「現代ファイナンス論」(マートン)“An Introduction to the Mathematics of Finance Derivatives”(Neftci)“Aspects of Mathematical Finance”(Yor)“Introduction to Quantum Fields on a Lattice”(Smit)「現代名詩選(上中)」(新潮文庫)「俳句鑑賞歳時記」(山本健吉)「現代名歌選」(久保田正文)「新古今和歌集」(佐々木信綱)「詩の自覚の歴史」(山本健吉)「角川短歌賞受賞作品集」(角川学芸出版)「謎ときガルシア=マルケス」(木村榮一)「アメリカ」(カフカ)「チェーホフ全集(Ⅱ)」(ちくま文庫)「写生説の研究」(北住敏夫)「隔離の里」(宮下忠子)「自由と繁栄の弧」(麻生太郎)「経済発展の理論(上)」(シュムペーター)。「謎ときガルシア=マルケス」は読み終わる。依然ラテンアメリカ文学がマイブーム。2冊、“An Introduction to the Mathematics of Finance Derivatives” “Introduction to Quantum Fields on a Lattice”を比較文学。もう一組「確率場の数学」(今村勤)「確率微分方程式」(長井英生)も併せ読もうかと思う。

エンジニアだった頃の想い出その3。入社2ヶ月のとき、“職場事故を防止する為の安全標語”を考え、寄せ書きすることになっていた。余りにお馬鹿なことをやったものだが、早速大阪万博のとき流行った岡本太郎さんのフレーズ「芸術は爆発だ」をもじり、「安全は爆発だ」と書き捨てた。しばらく「安全が爆発するノリクラ君」が2~3ヶ月わたしのキャッチになった。ところで、当時読んでいた本、印象深いのはミンスキーの「計算機の数学的理論」。マクラック=ピットから始め、閾値の調整で論理回路迄進む記述は衝撃的。名著中の名著。ミンスキーは長くM.I.Tのメディアラボのトップだった人で、“Perceptron”の著者でもある。この本によってニューラルネットの限界が明らかになった。才気煥発な人で、火星人の役で映画に出たり、“Turing Man”という小説も書いている。3冊とも書棚にあった。一通りは読む。

マグダラのマリアについて。教会では7月22日を“マグダラのマリア”の記念日に定めています。関連して「毎日のミサの友」「毎日の福音」から抜粋します。なお、マグダラのマリアの取り成しを願う祈りを探したのですが、見つかりません。「マグダラのマリア様、・・・」と祈るか、叙唱の“聖人”「聖なる父、全能永遠の神、聖人を通して示されたあなたの栄光をたたえ、・・・」に従って祈ればいいと思います。

“キリストに従う人たちの一人で、キリストが十字架上で亡くなられたときそばに立ち、三日目の朝早く、復活したイエスと最初に出会った。マグダラのマリアへの崇敬は、特に十二世紀から西方教会に広まった。”
“マグダラのマリアは、「肉に従って」復活のイエスを見ようとしたとき、「イエスだとは分からなかった」。しかし、イエスの「マリア」という呼びかけで、彼女はすべてを理解する。彼女が深く「キリスト」と結ばれていたからである。”
“墓の外に立って泣いていたマグダラのマリアに復活した主が現れる。彼女は復活の喜びを最初に告げる者、使徒たちへの使徒となる。それは彼女のイエスに対するひたむきな愛があったから。”
“マリアにとってイエスは「わたしの主」、「わたしのいのち」でした。女性として信じ、愛し、嘆きに沈むマリアに、イエスは近づき、「マリア」と呼ばれます。イエスはわたしたち一人ひとりを、それぞれの状況、ありのままの状態においてお呼びになります。”

第一朗読は2コリンチャンス第5章。詩篇は第63章、福音朗読はヨハネによる第20章を見てください。もう一つの第一朗読・雅歌からのみ引用します。

“[おとめは歌う。]夜ごと、ふしどに恋いしたう人を求めても/求めても、見つかりません。/起き出して町をめぐり/通りや広場をめぐって/恋い慕う人を求めよう。//求めても、あの人は見つかりません。/わたしが町をめぐる夜警に見つかりました。「わたしの恋い慕う人を見かけましたか。」/彼らに分かれるとすぐに/恋い慕う人が見つかりました。”

4 半年程前に「現代詩手帖」に投稿したけど採られることのなかった詩の紹介。7回目、多分。段々と書き足していきます。一定のレベルに達しない詩ではありますが・・・。

“「昼」 白い小さな指先から 零れ落ちる サラサラした細かい砂 アポロニウスの円筒形 破損した硝子 //振り子細工のように 時を刻んで来た その機械はもう鳴らない //何千もの部品からなる 精密なゼンマイ装置 淀みのない時を刻み 傷みの欠けた歴史を繰り返す 空間の歪み そして 抜けるように広い青空//補正しようにも 補正しようのない 鋭い悔恨 戦禍にも その村は焼け落ちず・・・ 空間が そして 後に時間が後退して 仄かな祈りが・・・//空に白雲が立ち籠め 木々の緑 その影は 日差しを遮り 小さなバルコニーには 混沌が形成されていた 空港に出て 半島を半時計周りに巡って また読み止しの本に戻った// 「ステファニーが フランスに旅をして お菓子屋になる為に パリで勉強する やがて 大人のする恋をした そして 振られ・・・」//お座なりに投げ出された鞄から 星が銀河のように溢れ出て 空間を限りない光で満たした//次第に遠のいて行く テールランプ 棒状に浮かぶ雲たち 庇には もう東の月が出ている 周到に準備された 文月のような それでもう 終末に近いことが分かる//しなければならなかったことを 後悔して 記憶に残る糸を 辿ってみる 階段を駆け上る//そして 過ぎ去った時間の中 人間は人魚であった 住み慣れた街を捨て 逸れた恋人が タクシーで テールランプを追うように 記憶の微かなうねりを そのままに捉える//人間は嘗て海にあった 朝焼けは意外と簡単で 独り下宿の六畳間で 立ち尽くしていたが 調べなき夕暮れに 東風が出てきた 珈琲を飲み 貿易風についいて 若干議論する//「必然」と染められた旗が 風に運ばれ「憮然」と翻る それが自然の真情だったのかと 轍にぬかるんで 夏の午後 身動きが取れなくなった//白い幽霊が 下北に出て 蒼い白鳥が 係累を払いながら 露に噎せ入って 水底に沈められたのは 何の象徴だったのか//水路を流れる 淡い鴇色の風景 結末は未だ知らない 春も未だ来ない 体育館から人が出て 五島の方へ旅立つ ぞろぞろと 黒子のあった辺りを結ぶ 嵌められた絵のような 水晶の球ばかり 一瞬のざわめき//エテルニタスの様に 風船が 瞬間 大空に駆け登って来た 良心のないエゴイズム 緑なす高原を そして谷川を 列車は 二時間遅れて 終点迄向かう むか伏す夢//アウレーニアとフリージアは もう歌わない夢 だから 歌わなくても それはそれでいい もう夏だ
(掲載完了)

一応完成。次から如何しよう?困っている。詩自体は、何処で終わっても何ら変わらないどうでもいい文章。響いてこない。最後息切れしたか、西脇詩のパクリ。寂しい風が吹く。雲が切れる。月が覗く。狐目をした女が通りかかる。旗竿が風に靡き、如何しようもない倦怠を運び来る。奥沢に幽霊が出る。奥多摩に静寂が戻る。何時かきちんと推敲したい。という訳で私はこれで。

5 “Hamiltonの四次元数”に関し、同じ名前の章が、「数(下)」(エビングハウス他、シュプリンガー)のKoecherとRemmertによる第7章にある。そこからの紹介。名著。読む読まないに関係なく買って一家に一冊備えておくべき書。是非!p.219から。第1回。

“1.複素数x+iyの計算を、順序つき実数対(x,y)に関する操作として正当化した。これは、複素数の和、とりわけR^2上の積の幾何学的な解明が-超複素数(=多元数)の創造か何かによって-われわれの直観の空間R^3においても類似物をもてるのではないか、という問いに対するHamiltonの出発点だった。Hamiltonは、長年の間実数の3つの組に対して良い性質をもった乗法を発見しようと望んでいた。・・・自分の息子にあてて次のように書いている「毎朝朝食に下りてくるとき、お前はよく尋ねたものだった。”ねえ、お父さん、3つ組は掛けられるの?“それにはいつも、悲しく首を横にふりながら、”いや、足したり引いたりできるだけなんだよ“と答えねばならないのだった。」今日では、C=R^2⊂R^3の対(α、β)の乗法を拡張する3つ組(α、β、γ)の空間R^3での乗法が存在しないことを明確にすることはやさしい。すなはち、R^3での標準基底をe=(1,0,0)、i=(0,1,0)、j=(0、0、1)と記すと、ij=ρe+σi+τjと書かねばならない。このことから、i^2=-e,i(ij)=(ij)j=-jとしてみると、-j=ρi-σe+τij=ρi-σe+τ(e+i+j)=(τρ-σ)e+(τσ+ρ)i+τ^2jが出てくるが(e,i,jの一次独立性から)、τ^2=-1、すなはちτはRに属さない。”

6 “西空に靡きて白し羊雲”
少し前の自作俳句。

7 “1939:The principle of solidarity,also articulated in terms of ”friendship“ or ”social charity“,is a direct demand of human and Christian brotherhood.”
 (from “Catechism of the Catholic Church”)
 
8 “1939: The exercise of solidarity within each society is valid when its members recognize one another as persons.Those who are more influential,because they have a greater share of goods and common services,should feel responsible for the weaker and be ready to share with them all they possess.Those who are weaker,for their part,in the same spirit of solidarity,should not adopt a purely passive attitude or one that is destructive of the social fablic,but,while claiming their legitimate rihts,should do what they can for the good of all.The intermediate groups,in their turn,should do selfishly insist on their particular interests,but respect the interests of otehrs.
(from ”The Companion of the Catechism of the Catholic Chruch“)
 
9 年間第29水曜日福音朗読より。ルカによる第12章から。

“「家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」”
-(「主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔いしれている管理人。」それは豊かな国に住んでいる私たちではないだろうか。)

†主のお恵みが。
†主に讃美と感謝。

2014年10月22日
                       乗倉寿明記す