インダス遺跡から出土した、
この、頭に三つの光の輪を戴いた女神さま。
どなたかなぁ、とずっと思っていたのだけど、
やはり、イザナミさま以外には、思い付かない。
三つの輪は、アマテラス、ツクヨミ、スサノオの
三貴神だろうと思う。
という事は、古事記や日本書紀に見える、
三貴神はイザナギの命単独の禊から生まれた、
という記述は後世の創作で、
本来の話では、やはり、国生みと同じように、
イザナギ・イザナミ二神によって生まれた事になっていたのだろう。
しかも、イザナミさまは、インダスの神。
つまり、高天原の神さまである。
大本では、イザナミ・イザナギ二神を日月さま、と呼び、
天の神さまとしているそうだけど、
おそらく、そちらが正しいのだろう。
***
修験道系の神社では、よく
イザナギ・イザナミを祀っているのだけど、
イザナミを根の国の神とする記紀に従っているために、
地竜がそのまま、
自分はイザナミであるとカンチガイしている場合があるのかなぁ、と思う。
しかも、アマテラスの親だから、
自分の方が伊勢よりエライと思ってる?
…親だからエライとか、どちらがエライとかいう発想がすでに、
インダス的なところからズレていると思うのだけど。
どちらにせよ、アマテラスに主権を与えた時点で、
イザナギ・イザナミは主宰者から降りているのだもの。
もちろん、本当の天の日月さまは、
三貴神にとって慕わしい親神さまだろうけど、
地竜では、そういう訳にはいかないでしょうね。
熊野や三峯は大丈夫だと思うけど、
筑波かな…
***
地竜や水竜、木竜といった自然神を縄文の神として立て、
天津神を征服者の悪神として排除しようとする傾向が、
今の日本にはあると思う。
国家神道を奉じて戦争に負けたせいか、
本当の太古神は埋没した縄文の神々だと言って、
弥生文化を悪者にしがちだけど、
地道に考えてきた結果、
おそらく封じられたのはインダス=弥生の神であって、
縄文は大陸系渡来人と組んで弥生文化を滅ぼした方なのだ。
(インダスの抹殺に抵抗し、インダスと組んだ
一部の縄文の人たちが、道南・道西アイヌになったのだと思う)
修験道を縄文の宗教としたがる人は多いし、
神道でも縄文指向は強い。
だけど、霊系の神=天津神を排除して好き放題にやっていたら、
自然神だって満たされることはないのだ。
戸隠の九頭竜さまは大好きだし、
自然神を偏見で見る気はないけど、
自然神というのは、人と同じく、いつかは終わる無常のものでしかない。
無常のものが仏そのものなら、普遍は存在しない、という事になる。
それが御嶽教の教えだろうか?
微細な気はわからず、自然霊の凝ったものしか判別できないのに、
既に成道していると思ってる。
自然神をかついで、
日本の宗教界の主導権を、体系の神に与えようとするなら、
行きすぎだし、
結局、すべてを不幸にしかしない。
修験道の使命は、自ら成道し、自然神の成道を助けるところにあるので、
自然神を自惚れさせることではない。
天津神に従いたくないなら、せめて成道すべきだ。
そうすれば、自然に天津神の心がわかってしまうだろうけど…
この、頭に三つの光の輪を戴いた女神さま。
どなたかなぁ、とずっと思っていたのだけど、
やはり、イザナミさま以外には、思い付かない。
三つの輪は、アマテラス、ツクヨミ、スサノオの
三貴神だろうと思う。
という事は、古事記や日本書紀に見える、
三貴神はイザナギの命単独の禊から生まれた、
という記述は後世の創作で、
本来の話では、やはり、国生みと同じように、
イザナギ・イザナミ二神によって生まれた事になっていたのだろう。
しかも、イザナミさまは、インダスの神。
つまり、高天原の神さまである。
大本では、イザナミ・イザナギ二神を日月さま、と呼び、
天の神さまとしているそうだけど、
おそらく、そちらが正しいのだろう。
***
修験道系の神社では、よく
イザナギ・イザナミを祀っているのだけど、
イザナミを根の国の神とする記紀に従っているために、
地竜がそのまま、
自分はイザナミであるとカンチガイしている場合があるのかなぁ、と思う。
しかも、アマテラスの親だから、
自分の方が伊勢よりエライと思ってる?
…親だからエライとか、どちらがエライとかいう発想がすでに、
インダス的なところからズレていると思うのだけど。
どちらにせよ、アマテラスに主権を与えた時点で、
イザナギ・イザナミは主宰者から降りているのだもの。
もちろん、本当の天の日月さまは、
三貴神にとって慕わしい親神さまだろうけど、
地竜では、そういう訳にはいかないでしょうね。
熊野や三峯は大丈夫だと思うけど、
筑波かな…
***
地竜や水竜、木竜といった自然神を縄文の神として立て、
天津神を征服者の悪神として排除しようとする傾向が、
今の日本にはあると思う。
国家神道を奉じて戦争に負けたせいか、
本当の太古神は埋没した縄文の神々だと言って、
弥生文化を悪者にしがちだけど、
地道に考えてきた結果、
おそらく封じられたのはインダス=弥生の神であって、
縄文は大陸系渡来人と組んで弥生文化を滅ぼした方なのだ。
(インダスの抹殺に抵抗し、インダスと組んだ
一部の縄文の人たちが、道南・道西アイヌになったのだと思う)
修験道を縄文の宗教としたがる人は多いし、
神道でも縄文指向は強い。
だけど、霊系の神=天津神を排除して好き放題にやっていたら、
自然神だって満たされることはないのだ。
戸隠の九頭竜さまは大好きだし、
自然神を偏見で見る気はないけど、
自然神というのは、人と同じく、いつかは終わる無常のものでしかない。
無常のものが仏そのものなら、普遍は存在しない、という事になる。
それが御嶽教の教えだろうか?
微細な気はわからず、自然霊の凝ったものしか判別できないのに、
既に成道していると思ってる。
自然神をかついで、
日本の宗教界の主導権を、体系の神に与えようとするなら、
行きすぎだし、
結局、すべてを不幸にしかしない。
修験道の使命は、自ら成道し、自然神の成道を助けるところにあるので、
自然神を自惚れさせることではない。
天津神に従いたくないなら、せめて成道すべきだ。
そうすれば、自然に天津神の心がわかってしまうだろうけど…