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tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 李白5ー8

2009年03月24日 | Weblog
 李白ー5
   訪載天山道士不遇   載天山の道士を訪ねて遇わず

  犬吠水声中     犬は吠(ほ)ゆ  水声(すいせい)の中(うち)
  桃花帯露濃     桃花(とうか)は露を帯びて濃(こま)やかなり
  樹深時見鹿     樹(き)は深くして  時に鹿を見(み)
  渓午不聞鐘     渓(たに)は午(ご)にして  鐘(かね)を聞かず
  野竹分青靄     野竹(やちく)は青靄(せいあい)を分け
  飛泉挂碧峰     飛泉(ひせん)は碧峰(へきほう)に挂(か)かる
  無人知所去     人の去(ゆ)く所を知る無し
  愁倚両三松     愁(うれ)えて倚(よ)る  両三松(りょうさんしょう)

  ⊂訳⊃
          谷川の流れる音にまじって  犬の吠え声
          桃の花びらは  露に濡れて鮮やかである
          木立は深く ときおり鹿の姿がみえ
          谷間には  真昼の鐘の音も聞こえない
          青い靄が  竹林のまわりにたなびき
          緑の山に  滝が飛沫(しぶき)をあげている
          尋ねる道士は  何処へ行ったか知る人もなく
          途方に暮れている傍らに  生えている松二三本


 ⊂ものがたり⊃ 李白の父親の身分・職業については何もわかっていません。李白自身が自分の息子に祖父は「客」と呼ばれていたと伝えているだけだからです。「客」とは「よそから移り住んできた者」を意味します。そこから李白の家は異民族の出で、西域から蜀に移り住んできたという説が学術書でも論ぜられています。それらを読んでみましたが、私には無理があるように思われます。人が名を隠す理由はほかにもあるからです。当時は身分制の強い社会ですので、父親が「客」としか名乗れなかったことは、李白の生涯に大きな制約条件とになってのしかかってきます。
 李白には兄と弟がいましたが、李白だけが教育を受けます。唐代において教育を受けるということは、知識人になって官吏を目指すことを意味します。李白は幼いときから頭がよく、父親にこの子に教育をさずけて官吏にしようという気持ちと必要な資金があったからでしょう。知識人になるためには字を学び書を読む必要がありますが、当時の書物はすべて書写によるものでしたので、民間では主として寺院に所蔵されていました。だから学問をするためには寺院にこもって、その蔵書を読む必要があったのです。
 李白は十八歳のころには郷里の近くにあった載天山の大明寺に下宿して読書に励んでいます。詩は載天山に道士を訪ねていって会えなかったときのものですので、十六、七歳で本格的に学問をはじめたころの作品でしょう。こまやかな観察と少年のころの李白の淳朴な姿が写し出されていて、初期の習作のなかでは佳作に属する詩と思います。

 李白ー6
   峨眉山月歌         峨眉山月の歌

  峨眉山月半輪秋   峨眉山月(がびさんげつ)  半輪(はんりん)の秋
  影入平羌江水流   影は平羌(へいきょう)の江水(こうすい)に入って流る
  夜発清渓向三峡   夜  清渓(せいけい)を発して三峡に向かう
  思君不見下渝州   君を思えども見えず  渝州(ゆしゅう)に下る

  ⊂訳⊃
          峨眉山にかかる月は半月で  秋たけなわ

          月は平羌江に映って  流れゆく

          夜  清渓の津(みなと)を発って  三峡にむかう

          君を想うが会えぬまま  渝州にくだる


 ⊂ものがたり⊃ 李白は一応の学問を終えると、山を降りて地元の知識人や道士と交わり、蜀地を遊歴して見聞を広めます。李白が二十歳になったとき、都で礼部尚書(正三品)をしていた蘇頲(そてい)が左遷され、成都にあった益州大都督府の長史(次官)になって綿州のあたりを通りかかりました。李白は自作の詩を蘇頲に披露して文才を認めてもらおうと試みますが、蘇頲は李白の才能をほめたけれども幕下に加えることはしませんでした。
 二十三歳のころには、広漢(四川省梓橦県)の太守(刺史)が李白を貢挙の有道科に推薦しようとしましたが、李白は断っています。李白には貢挙を受けられない事情があって、もっぱら詩文の才能を認められて官に就くことを目指していたようです。開元十二年(724)の秋、二十四歳の李白が蜀を離れて江南に向かったのも、もっと広い世界に出て自分の才能を示し、官途につく機会を得ようというのが目的でした。
 成都の壁下を錦江が流れ、錦江が成都の西を流れる岷江(みんこう)に合流してすぐのところに清渓(地名)という渡津(としん)があります。詩はその渡し場を船出したときの作品で、峨眉山(がびさん)に半月がかかっているのを見ながら、故郷との別れの感慨を詠うものです。「三峡」というのは有名な長江の大三峡ではなく、嘉州(四川省楽山市)にあった小三峡とみられます。「平羌江」というのも岷江の一部をいうもので別の川ではありません。最後の句の「君」については、恋人であるとか、月に呼びかけているとか、いろいろ議論のあるところですが、清渓に見送りに来る予定であった友人が何かの都合で来れなくなった。それで会えないまま船出したというのが自然な解釈であると思います。
 なお、船出の地ははっきりしませんが、成都の錦江にある渡津でしょう。船出してすこし落ち着いたころ清渓を通過し、詩を作る気分になったものと思われます。船出して最初の旅の目的地は、渝州(重慶市)です。

 李白ー7
   江行寄遠         江行して遠くに寄す

  刳木出呉楚     刳木(こぼく)して呉楚(ごそ)に出(い)づ
  危槎百余尺     危槎(きさ)  百余尺
  疾風吹片帆     疾風  片帆(へんぱん)を吹き
  日暮千里隔     日暮(にちぼ)  千里を隔(へだ)つ
  別時酒猶在     別時(べつじ)の酒  猶お在り
  已為異郷客     已に異郷の客と為(な)る
  思君不可得     君を思えども得(う)可からず
  愁見江水碧     愁(うれ)えて見る  江水の碧(へき)

  ⊂訳⊃
          小舟を準備し  呉楚の地へ旅立つ
          おおきいが   危なつかしいぼろ舟だ
          帆は風をはらんで
          一日に千里を走る
          別れの酒が  まだ醒めていないのに
          はやくも    異郷の旅人となる
          君を思うが   会うことはできず
          愁い心で江水の  碧(みどり)をじっと見つめている


 ⊂ものがたり⊃ 別れの酒がまだ醒めていないというのですから、この詩は嘉州を過ぎて戎州(四川省宜賓市)へ向かうあたりでの感懐でしょう。題に「寄遠」(遠くに寄す)とありますので、故郷に書き送ったものと思われます。
 当時の旅はひとつの事業と言っていいくらい大変なものでした。官吏の場合は旅の一日行程に応じて駅亭が設けられ、これを利用して宿泊することができました。しかし、一般人には駅亭の利用は認められていません。しかも中国では「抱被」(ほうひ)といって、旅をするにも他人の家に行くのにも、泊まる場合は寝具を持参するのが習慣でした。そのほかに着替えや炊飯用具まで持っていくのですから、旅の荷物はかさばることになります。李白はさらに愛用の琴と剣を箱に入れて持ち歩いていたと言っていますので、舟か馬車でなければ長途の旅は不可能であったでしょう。
 詩に「刳木」(こぼく)とありますが、本来の意味は刳り舟をつくることです。唐代では船旅の準備をする意味に転用されていますので、李白は父親から多額の旅の資金を出してもらって、自前の小舟を用意したものとみられます。「危槎 百余尺」と言っていますので30m余の舟ということになりますが、詩における数字は語呂合わせのようなもので、あてになりません。「槎」(さ)は筏のことですが、危なつかしい小舟を用意したものと思われます。帆は順風を受けて快調にすすみますが、李白は「已に異郷の客と為る」と旅立つ者のはずんだ気分からは遠いようです。

 李白ー8
    早発白帝城        早(つと)に白帝城を発す

  朝辞白帝彩雲間   朝(あした)に辞す  白帝  彩雲(さいうん)の間
  千里江陵一日還   千里の江陵(こうりょう)  一日にして還(かえ)る
  両岸猿声啼不尽   両岸の猿声(えんせい)  啼(な)いて尽きざるに
  軽舟已過万重山   軽舟  已(すで)に過ぐ  万重(ばんちょう)の山

  ⊂訳⊃
          朝やけの雲間を抜けて  白帝城を辞し

          遥かな江陵へ  一日で下る

          両岸の猿声は  まだ耳にこだまして

          そのまに舟は  万重の山峡(やま)を駆けぬけた


 ⊂ものがたり⊃ 李白はひとりで蜀を出たのではなく、呉指南(ごしなん)という友人といっしょでした。やがて二人は渝州(ゆしゅう)に着き、ここにしばらく滞在したあと、大三峡へ向かって船出します。「早発白帝城」は李白の傑作のひとつに数えられ、李白が五十九歳で夜郎に流謫されるとき、途中で恩赦を受けて引き返すときの喜びの作とするのが通説です。
 しかし、李白の作品を詳細にみると、恩赦の通知を受けたのは巫山(ふさん)に登ったあと岸の舟にもどってからで、そこから引き返しています。巫山は白帝城のある夔州(きしゅう・四川省奉節県)よりもすこし下流になり、しかも巫山から帰るときの詩はあまりいそいそしたものではありません。
 石川忠久氏は「千里の江陵 一日にして還る」の「還」は韻字であり、「行く」とすべきところを「還る」と書いている用例はほかにもあり、帰還の意味にこだわる必要はないと言っています。それよりも注目すべきものは「両岸の猿声 啼いて尽きざるに」であって、江南地方に棲む猿は手長猿の一種であり、その鳴き声は独特の哀調を帯びていると言っています。手長猿の鳴き声は私もテレビで聞いたことがありますが、非常に複雑な鳴き方で、哀しげな感じを受けます。したがって石川氏は「両岸の猿声」は帰還の喜びにつながるものではなく、はじめて三峡の猿の啼き声を耳にした李白が、故郷を離れてゆく身の悲痛な感情に結びつけて詠っていると考えるのがよいと主張されています。訳は石川説に従いました。