王維ー114
哭殷遥二首 其一 殷遥を哭す 二首 其の一
人生能幾何 人生 能(よ)く幾何(いくばく)ぞ
畢竟帰無形 畢竟(ひっきょう) 無形(むけい)に帰す
念君等為死 君を念(おも)えば為に死するに等しく
万事傷人情 万事 人の情を傷(いた)ましむ
慈母未及葬 慈母(じぼ)を未だ葬るに及ばざるに
一女纔十齢 一女は纔(わずか)に十齢(じゅうれい)なり
泱漭寒郊外 泱漭(おうもう)として 郊外寒く
蕭条聞哭声 蕭条(しょうじょう)として 哭声(こくせい)を聞く
浮雲為蒼茫 浮雲(ふうん)は 為に蒼茫(そうぼう)たり
飛鳥不能鳴 飛鳥(ひちょう)は 鳴くこと能(あた)わず
行人何寂莫 行人(こうじん)の 何ぞ寂莫(せきばく)たる
白日自淒清 白日は 自(おのずか)ら淒清(せいせい)たり
憶昔君在時 憶う昔 君在りし時
問我学無生 我に問うて 無生(むしょう)を学ばんとす
勧君苦不早 君に勧(すす)むること苦(はなは)だ早からずして
令君無所成 君をして成る所(ところ)無からしむ
故人各有贈 故人(こじん)は各々贈る有れども
又不及平生 又た平生(へいぜい)に及ばず
負爾非一途 爾(なんじ)に負くこと一途(いっと)に非(あら)ず
痛哭返柴門 痛哭(つうこく)して 柴門(しばもん)に返る
⊂訳⊃
人生はいつまでつづくのか
つまりは 形のないものに帰してしまう
君を思えば死ぬほどつらく
すべてが 心を悲しませる
優しい母をまだ葬っていないのに
残された一人娘は やっと十歳だ
がらんとした郊外は寒く
さめざめと泣き声が聞こえる
空の雲は そのために青ざめ
飛ぶ鳥も 鳴き声を立てずにいる
行く人は もの寂しげに歩み去り
真昼の太陽も なんとなく冷えびえとしている
思えば昔 君が元気でいたころ
無生の理について尋ねたことがある
私がぐずぐずしていたために
成すところなく逝かせてしまった
旧友たちは それぞれ贈り物をしたが
私は生きているうちに間に合わなかった
そなたには 心からすまないと思っている
泣きながら 柴門のわが家に帰る
⊂ものがたり⊃ 王維は世の中の姿と政事の現状に失望していましたが、自然と人への愛情を失ってはいませんでした。殷遥(いんよう)は天宝年間に忠王府倉曹参軍事(正八品下)という微官にいましたが、王維に師事して教えを請うようになっていました。ところが妻を亡くして貧しいために葬式も出せずにいるところに、あとを追うように殷遥自身が亡くなってしまいました。あとに残されたのは十歳になる娘ひとりです。
全二十句の五言古詩です。前半十句では長安の郊外にあったらしい殷遥の家のあたりの寒々としたようすが描かれています。
殷遥の生前、殷遥から「無生」の境地について教えを請われていましたが、そのことについて充分に説明してやれなかったことを、王維はひどく後悔しています。また官途の昇進についても力になれないまま死なせてしまったことを「爾に負くこと一途に非ず」と心に詫びながら、泣き叫びつつ家に帰るのです。心のなかで「痛哭」しながら歩いていったのでしょうが、結句の誇張した表現には真実がこもっていると思います。
王維ー116
哭殷遥二首 其二 殷遥を哭す 二首 其の二
送君返葬石楼山 君の石楼山に返葬(へんそう)さるるを送れば
松柏蒼蒼賓馭還 松柏(しょうはく)蒼蒼として 賓馭(ひんぎょ)還る
埋骨白雲長已矣 骨を白雲に埋めて長(とこし)えに已(や)みぬ
空余流水向人間 空しく余す 流水の人間(じんかん)に向かえるを
⊂訳⊃
石楼山に 葬られる君を見送ると
松柏蒼蒼と茂るなか 人々は帰っていく
骨を白雲の山に埋めて すべては終わる
あとには空しく 水がこの世へ流れている
⊂ものがたり⊃ 其の二は七言絶句で、殷遥の埋葬を詠います。埋葬は石楼山(せきろうざん)というところの墓地で行われたらしく、「埋骨」とありますので、火葬したのでしょうか。中国では土葬するのが習慣ですので、火葬したのは仏教の信者だったからでしょう。埋葬が終わると人々は足早に帰ってゆきます。山からは一筋の細流が麓のほうへ流れていたようです。王維は人生の無常をかみ締めながら山を下りてゆきます。
王維ー117
夏日過青龍 夏日 青龍寺を過(と)いて
寺謁操禅師 操禅師に謁す
龍鐘一老翁 龍鐘(りょうしょう)たる一老翁
除歩謁禅宮 除歩(じょほ)して禅宮(ぜんきゅう)に謁す
欲問義心義 問わんと欲するは義心(ぎしん)の義
遥知空病空 遥かに知る 空病(くうびょう)の空なることを
山河天眼裏 山河(さんが)は天眼(てんげん)の裏(うち)
世界法身中 世界は法身(ほっしん)の中(うち)
莫恠銷炎熱 恠(あや)しむ莫(なか)れ 炎熱銷(き)ゆれば
能生大地風 能(よ)く大地(だいち)の風を生ずることを
⊂訳⊃
年老いてうらぶれ果てたひとりの翁
とぼとぼ歩き 禅寺を訪れる
尋ねたいのは 仏道の第一義
空にこだわるのも空 そのことは朧気ながら知っている
わが目は天眼と化して 山河はその内にあり
わが身は法身と化して 宇宙はその中にある
まして怪しむまでもない 大地に涼しい風が吹けば
夏の炎暑と内面の苦悩が消えてゆくのは
⊂ものがたり⊃ 上元二年(761)の春三月、史思明軍に異変が起きました。後嗣のもつれから、大燕皇帝史思明が息子の史朝義によって殺害されたのです。史朝義は帝位を奪って洛陽に入ります。唐としては反撃の好機ですが、この年、長安では大雨のために飢饉となり、有効な反撃ができませんでした。飢饉に際して、王維は天子の許しを得て自分の禄米のほとんどを窮民に施しました。
そんな夏のある日、王維は裴迪をともなって青龍寺の操禅師を訪れました。青龍寺は楽遊原の一角にあって、日本の空海が真言密教を学ぶことになる寺ですが、それはこのときから四十三年後のことになります。詩中にある「義心義」は『法華経』方便品にあって、仏道の第一義という意味、究極の真理をさす言葉と解説にあります。つぎの句の「空病空」は空に拘泥するのも空の病であって、そのことも空であるということのようです。王維はこの詩で禅の極意を詩に盛り込もうとしていますが、これは唐代の詩では珍しいことです。
王維ー118
秋夜独坐 秋夜独坐
独坐悲双鬢 独坐(どくざ)して双鬢(そうびん)を悲しみ
空堂欲二更 空堂 二更(にこう)ならんと欲す
雨中山果落 雨中 山果(さんか)落ち
灯火草虫鳴 灯火 草虫(そうちゅう)鳴く
白髪終難変 白髪(はくはつ)は終(つい)に変じ難く
黄金不可成 黄金(おうごん)は成す可からず
欲知除老病 老病を除くを知らんと欲せば
惟有学無生 惟(た)だ無生(むしょう)を学ぶ有るのみ
⊂訳⊃
ひとり居れば 鬢の白髪が悲しまれ
何もない部屋で 二更の夜がふける
雨のなかで 山の木の実の落ちる音
灯火の下で すすり鳴く虫の声がする
白髪頭は 変えようがなく
錬金術は 不可能だ
生老病死の苦を除こうと思うなら
無生の真理を学ぶほかはない
⊂ものがたり⊃ この年、夏の盛りを過ぎるころから、王維は病気がちになってきました。南山の別業でひとり病に臥しながら、王維が考えるのは仏教の説く「無生」(むしょう)の理です。人を含めすべての存在は本質的に存在しないものであり、単なる現象にすぎない。だから発生することも消滅することもないという悟りの世界ですが、無生の境地に至りたいと念じても、それは言うはやさしく、悟達するのは難しい世界でした。ひとりでいるのが淋しくなったのでしょう。王維は上書して弟の王縉(おうしん)を近くに呼び寄せるように願い出ます。
王縉はそのころ蜀州刺史の任にあって都を遠く離れていました。王維の願いは聴き入れられ、弟は門下省左散騎常侍(従三品)に任ぜられ、都に帰って来ることになりました。
王維ー119
終南山 終南山
太一近天都 太一(たいいつ)は天都(てんと)に近く
連山到海隅 山を連ねて海隅(かいぐう)に到る
白雲廻望合 白雲は望(ぼう)を廻(めぐ)らせば合し
青靄入看無 青靄(せいあい)は入りて看(み)れば無し
分野中峰変 分野(ぶんや)は中峰(ちゅうほう)に変じ
陰晴衆壑殊 陰晴(いんせい) 衆壑(しゅうがく)に殊なれり
欲投人処宿 人処(じんしょ)に投じて宿(しゅく)せんと欲し
隔水問樵夫 水を隔てて樵夫(しょうふ)に問えり
⊂訳⊃
太一の峰は 天帝の都にせまり
やまなみは 海のほとりに至る
振り向くと 雲は連なって視界を遮り
青い靄は なかへ入れば見えなくなる
峰ごとに 星の分野は異なり
谷ごとに 曇りもあれば晴れもある
ひと里に 泊るところはないかと
谷川ごしに 樵夫(きこり)に尋ねる
⊂ものがたり⊃ 信頼する弟王縉が帰ってくるのを待ちながら、病床の王維の頭に去来するのは、元気なころに作った「終南山」の詩であったかもしれません。ここには終南山という存在そのものの思想と意義が述べられています。
山の姿を人生に例えると、過去は白雲に閉ざされて見えず、前途は漠として青い靄が立ち込めているようですが、あえて靄のなかに踏み込んでみると、靄は消えてなくなっています。天空の星の分野と地上に起こる現象は照応していると言われていますが、終南山の峰ごとに星の分野は異なっており、峰ごとに晴れもあれば曇りもあります。人生は終南山のようなものだと、王維は自然と人生を一体的なものとして捉えるのです。しかし、王維が行きつくところは、やはり人々の間です。詩は「人処に投じて宿せんと欲し 水を隔てて樵夫に問えり」と結ばれていますが、この結びの句からは、自然と自然のなかで暮らす素朴な人々に限りない愛情を注いできた王維の姿が一幅の絵画のように親しみ深く浮かび上がってきます。
王縉が長安の西の鳳翔までもどってきていた秋七月のある日、王維は弟に別れの書をかき、また平生親しかった人々へ数篇の別れの書をかいている途中、にわかに筆を落として息絶えたと伝えられています。享年六十三歳、王維は弟に会えないまま、また彼の人生の最後を襲った安史の乱の終息を見ないまま亡くなりました。
哭殷遥二首 其一 殷遥を哭す 二首 其の一
人生能幾何 人生 能(よ)く幾何(いくばく)ぞ
畢竟帰無形 畢竟(ひっきょう) 無形(むけい)に帰す
念君等為死 君を念(おも)えば為に死するに等しく
万事傷人情 万事 人の情を傷(いた)ましむ
慈母未及葬 慈母(じぼ)を未だ葬るに及ばざるに
一女纔十齢 一女は纔(わずか)に十齢(じゅうれい)なり
泱漭寒郊外 泱漭(おうもう)として 郊外寒く
蕭条聞哭声 蕭条(しょうじょう)として 哭声(こくせい)を聞く
浮雲為蒼茫 浮雲(ふうん)は 為に蒼茫(そうぼう)たり
飛鳥不能鳴 飛鳥(ひちょう)は 鳴くこと能(あた)わず
行人何寂莫 行人(こうじん)の 何ぞ寂莫(せきばく)たる
白日自淒清 白日は 自(おのずか)ら淒清(せいせい)たり
憶昔君在時 憶う昔 君在りし時
問我学無生 我に問うて 無生(むしょう)を学ばんとす
勧君苦不早 君に勧(すす)むること苦(はなは)だ早からずして
令君無所成 君をして成る所(ところ)無からしむ
故人各有贈 故人(こじん)は各々贈る有れども
又不及平生 又た平生(へいぜい)に及ばず
負爾非一途 爾(なんじ)に負くこと一途(いっと)に非(あら)ず
痛哭返柴門 痛哭(つうこく)して 柴門(しばもん)に返る
⊂訳⊃
人生はいつまでつづくのか
つまりは 形のないものに帰してしまう
君を思えば死ぬほどつらく
すべてが 心を悲しませる
優しい母をまだ葬っていないのに
残された一人娘は やっと十歳だ
がらんとした郊外は寒く
さめざめと泣き声が聞こえる
空の雲は そのために青ざめ
飛ぶ鳥も 鳴き声を立てずにいる
行く人は もの寂しげに歩み去り
真昼の太陽も なんとなく冷えびえとしている
思えば昔 君が元気でいたころ
無生の理について尋ねたことがある
私がぐずぐずしていたために
成すところなく逝かせてしまった
旧友たちは それぞれ贈り物をしたが
私は生きているうちに間に合わなかった
そなたには 心からすまないと思っている
泣きながら 柴門のわが家に帰る
⊂ものがたり⊃ 王維は世の中の姿と政事の現状に失望していましたが、自然と人への愛情を失ってはいませんでした。殷遥(いんよう)は天宝年間に忠王府倉曹参軍事(正八品下)という微官にいましたが、王維に師事して教えを請うようになっていました。ところが妻を亡くして貧しいために葬式も出せずにいるところに、あとを追うように殷遥自身が亡くなってしまいました。あとに残されたのは十歳になる娘ひとりです。
全二十句の五言古詩です。前半十句では長安の郊外にあったらしい殷遥の家のあたりの寒々としたようすが描かれています。
殷遥の生前、殷遥から「無生」の境地について教えを請われていましたが、そのことについて充分に説明してやれなかったことを、王維はひどく後悔しています。また官途の昇進についても力になれないまま死なせてしまったことを「爾に負くこと一途に非ず」と心に詫びながら、泣き叫びつつ家に帰るのです。心のなかで「痛哭」しながら歩いていったのでしょうが、結句の誇張した表現には真実がこもっていると思います。
王維ー116
哭殷遥二首 其二 殷遥を哭す 二首 其の二
送君返葬石楼山 君の石楼山に返葬(へんそう)さるるを送れば
松柏蒼蒼賓馭還 松柏(しょうはく)蒼蒼として 賓馭(ひんぎょ)還る
埋骨白雲長已矣 骨を白雲に埋めて長(とこし)えに已(や)みぬ
空余流水向人間 空しく余す 流水の人間(じんかん)に向かえるを
⊂訳⊃
石楼山に 葬られる君を見送ると
松柏蒼蒼と茂るなか 人々は帰っていく
骨を白雲の山に埋めて すべては終わる
あとには空しく 水がこの世へ流れている
⊂ものがたり⊃ 其の二は七言絶句で、殷遥の埋葬を詠います。埋葬は石楼山(せきろうざん)というところの墓地で行われたらしく、「埋骨」とありますので、火葬したのでしょうか。中国では土葬するのが習慣ですので、火葬したのは仏教の信者だったからでしょう。埋葬が終わると人々は足早に帰ってゆきます。山からは一筋の細流が麓のほうへ流れていたようです。王維は人生の無常をかみ締めながら山を下りてゆきます。
王維ー117
夏日過青龍 夏日 青龍寺を過(と)いて
寺謁操禅師 操禅師に謁す
龍鐘一老翁 龍鐘(りょうしょう)たる一老翁
除歩謁禅宮 除歩(じょほ)して禅宮(ぜんきゅう)に謁す
欲問義心義 問わんと欲するは義心(ぎしん)の義
遥知空病空 遥かに知る 空病(くうびょう)の空なることを
山河天眼裏 山河(さんが)は天眼(てんげん)の裏(うち)
世界法身中 世界は法身(ほっしん)の中(うち)
莫恠銷炎熱 恠(あや)しむ莫(なか)れ 炎熱銷(き)ゆれば
能生大地風 能(よ)く大地(だいち)の風を生ずることを
⊂訳⊃
年老いてうらぶれ果てたひとりの翁
とぼとぼ歩き 禅寺を訪れる
尋ねたいのは 仏道の第一義
空にこだわるのも空 そのことは朧気ながら知っている
わが目は天眼と化して 山河はその内にあり
わが身は法身と化して 宇宙はその中にある
まして怪しむまでもない 大地に涼しい風が吹けば
夏の炎暑と内面の苦悩が消えてゆくのは
⊂ものがたり⊃ 上元二年(761)の春三月、史思明軍に異変が起きました。後嗣のもつれから、大燕皇帝史思明が息子の史朝義によって殺害されたのです。史朝義は帝位を奪って洛陽に入ります。唐としては反撃の好機ですが、この年、長安では大雨のために飢饉となり、有効な反撃ができませんでした。飢饉に際して、王維は天子の許しを得て自分の禄米のほとんどを窮民に施しました。
そんな夏のある日、王維は裴迪をともなって青龍寺の操禅師を訪れました。青龍寺は楽遊原の一角にあって、日本の空海が真言密教を学ぶことになる寺ですが、それはこのときから四十三年後のことになります。詩中にある「義心義」は『法華経』方便品にあって、仏道の第一義という意味、究極の真理をさす言葉と解説にあります。つぎの句の「空病空」は空に拘泥するのも空の病であって、そのことも空であるということのようです。王維はこの詩で禅の極意を詩に盛り込もうとしていますが、これは唐代の詩では珍しいことです。
王維ー118
秋夜独坐 秋夜独坐
独坐悲双鬢 独坐(どくざ)して双鬢(そうびん)を悲しみ
空堂欲二更 空堂 二更(にこう)ならんと欲す
雨中山果落 雨中 山果(さんか)落ち
灯火草虫鳴 灯火 草虫(そうちゅう)鳴く
白髪終難変 白髪(はくはつ)は終(つい)に変じ難く
黄金不可成 黄金(おうごん)は成す可からず
欲知除老病 老病を除くを知らんと欲せば
惟有学無生 惟(た)だ無生(むしょう)を学ぶ有るのみ
⊂訳⊃
ひとり居れば 鬢の白髪が悲しまれ
何もない部屋で 二更の夜がふける
雨のなかで 山の木の実の落ちる音
灯火の下で すすり鳴く虫の声がする
白髪頭は 変えようがなく
錬金術は 不可能だ
生老病死の苦を除こうと思うなら
無生の真理を学ぶほかはない
⊂ものがたり⊃ この年、夏の盛りを過ぎるころから、王維は病気がちになってきました。南山の別業でひとり病に臥しながら、王維が考えるのは仏教の説く「無生」(むしょう)の理です。人を含めすべての存在は本質的に存在しないものであり、単なる現象にすぎない。だから発生することも消滅することもないという悟りの世界ですが、無生の境地に至りたいと念じても、それは言うはやさしく、悟達するのは難しい世界でした。ひとりでいるのが淋しくなったのでしょう。王維は上書して弟の王縉(おうしん)を近くに呼び寄せるように願い出ます。
王縉はそのころ蜀州刺史の任にあって都を遠く離れていました。王維の願いは聴き入れられ、弟は門下省左散騎常侍(従三品)に任ぜられ、都に帰って来ることになりました。
王維ー119
終南山 終南山
太一近天都 太一(たいいつ)は天都(てんと)に近く
連山到海隅 山を連ねて海隅(かいぐう)に到る
白雲廻望合 白雲は望(ぼう)を廻(めぐ)らせば合し
青靄入看無 青靄(せいあい)は入りて看(み)れば無し
分野中峰変 分野(ぶんや)は中峰(ちゅうほう)に変じ
陰晴衆壑殊 陰晴(いんせい) 衆壑(しゅうがく)に殊なれり
欲投人処宿 人処(じんしょ)に投じて宿(しゅく)せんと欲し
隔水問樵夫 水を隔てて樵夫(しょうふ)に問えり
⊂訳⊃
太一の峰は 天帝の都にせまり
やまなみは 海のほとりに至る
振り向くと 雲は連なって視界を遮り
青い靄は なかへ入れば見えなくなる
峰ごとに 星の分野は異なり
谷ごとに 曇りもあれば晴れもある
ひと里に 泊るところはないかと
谷川ごしに 樵夫(きこり)に尋ねる
⊂ものがたり⊃ 信頼する弟王縉が帰ってくるのを待ちながら、病床の王維の頭に去来するのは、元気なころに作った「終南山」の詩であったかもしれません。ここには終南山という存在そのものの思想と意義が述べられています。
山の姿を人生に例えると、過去は白雲に閉ざされて見えず、前途は漠として青い靄が立ち込めているようですが、あえて靄のなかに踏み込んでみると、靄は消えてなくなっています。天空の星の分野と地上に起こる現象は照応していると言われていますが、終南山の峰ごとに星の分野は異なっており、峰ごとに晴れもあれば曇りもあります。人生は終南山のようなものだと、王維は自然と人生を一体的なものとして捉えるのです。しかし、王維が行きつくところは、やはり人々の間です。詩は「人処に投じて宿せんと欲し 水を隔てて樵夫に問えり」と結ばれていますが、この結びの句からは、自然と自然のなかで暮らす素朴な人々に限りない愛情を注いできた王維の姿が一幅の絵画のように親しみ深く浮かび上がってきます。
王縉が長安の西の鳳翔までもどってきていた秋七月のある日、王維は弟に別れの書をかき、また平生親しかった人々へ数篇の別れの書をかいている途中、にわかに筆を落として息絶えたと伝えられています。享年六十三歳、王維は弟に会えないまま、また彼の人生の最後を襲った安史の乱の終息を見ないまま亡くなりました。