みちのくの放浪子

九州人の東北紀行

一万年の平和「縄文時代」

2018年08月29日 | 俳句日記


ミクロネシアに「笑い族」という裸族の
住む島があります。
大人も子供もいつもニコニコしている。
島中が喜びに包まれているのです。


ゴーギャンも、晩年は仏領ポリネシアの
タヒチで過ごし、同じポリネシアのマル
キーズ諸島で死にました。
余程住み心地が良かったのでしょう。

狩猟・漁労・採取の生活は、天地自然の
恵みに感謝さえしていれば生涯を恙無く
過ごすことが出来ます。
どうやら縄文時代はそんな世界でした。

1990年代から急速に進んだ縄文遺跡の発掘によって、当時の採食文化は食材に富
み、多彩なものであったようです。
皆で働けば3〜4日は遊んで暮らせる。

寝てばかりではバカになりますから、狩
や釣りの道具を作り、布を織り、器の
制作に勤しみます。

保存の方法等の試行も行ったでしょう。

勿論、ブリコラージュの方法です。
材料はそこらじゅうにありました。
今に残る最高傑作が、火焔土器と土偶と
言うことになりましようか。





機能や写実的ではないところに縄文人の
美意識と習熟度の高さが伺えますが、そ
の精神性は何処から生まれたのか?
私はそれを悠久の時の流れに求めます。

通常、文化文明は原因は何であれ、異質
のものの交流によって急激に高められて
来ました。
精神性も同じく矛盾的に同化をします。

それが島国日本には長い間ありません。
十年一日どころか、百年、千年、一万年
の間、同じムラ、同じハラ、ヤマ、ウミ
を見て血縁者達と暮らしていきます。

凡そ刺激の無い社会ですが、だから向き
合うのは天然自然であり、それがカミと
して畏怖の対象となりました。
そして生かされている事に感謝します。

このインターフェースが「野生の思考」
の始まりなのです。
釈迦の教えも、孔子の教えも、キリスト
の教えも全てこの中にありました。

無い物は「テクネー」の技術だけ、それ
は後の異文化との接触がもたらします。
即ち既に縄文人は「具体の哲学」を完成
させ、待っていたのです。

だから、あらゆる文化も文明も立ち所に
日本化してしまう。
かえってオリジナルよりも高度化して、
支那も西洋も驚かせてしまったのです。

明日は、縄文人と弥生人の関係について
考えて見ましょう。

8月29日〔水〕晴れ 残暑
8月もあと二日、葉月と長月では気持も
ガラリと変わってくる。
皆それぞれに自分を取り戻す事になる。
明るい人は明るく、暗い人は暗いなりに
「秋の日のヴィオロンのため息の…」
てな具合に自分に還るのである。

〈あと二日 思えど今は まだ葉月〉放浪子
季語・葉月(秋)