イザヤ書26章16~21節(日本聖書協会「新共同訳」)
主よ、苦難に襲われると
人々はあなたを求めます。
あなたの懲らしめが彼らに臨むと
彼らはまじないを唱えます。
妊婦に出産のときが近づくと
もだえ苦しみ、叫びます。
主よ、わたしたちもあなたの御前で
このようでした。
わたしたちははらみ、産みの苦しみをしました。
しかしそれは風を産むようなものでした。
救いを国にもたらすこともできず
地上に住む者を
産み出すこともできませんでした。
あなたの死者が命を得
わたしのしかばねが立ち上がりますように。
塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。
あなたの送られる露は光の露。
あなたは死霊の地にそれを降らせられます。
さあ、わが民よ、部屋に入れ。
戸を堅く閉ざせ。
しばらくの間、隠れよ
激しい憤りが過ぎ去るまで。
見よ、主はその御座を出て
地に住む者に、それぞれの罪を問われる。
大地はそこに流された血をあらわに示し
殺された者をもはや隠そうとはしない。
マタイによる福音書6章5~6節(日本聖書協会「新共同訳」)
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
今日のマタイ福音書6章5~6節は、先週の施しに続く三つの善行の二つ目になります。マタイ福音書では、三つの善行についての教えが同じ形式で語られています。今日のところもその形式に従って教えられています。ただ、三つの善行の内、前後にある施しと断食の教えが同じ形式で語られるだけなのに対し、祈りについての教えは、この後その形式とは異なる形で祈りについて語られ、さらに主の祈りへと続いていきます。祈りに対する関心の高さが示されていると言えます。
三つの善行が、同じ形式で語られていることには意味があります。人の目を意識してではなく、神の目を意識して行動せよ、ということです。
祈りは、宗教の歴史の中で最も古い行為であると言われます。人にはさまざまな願いがあり、神々や神秘的存在に祈願してきました。それ故、祈りは身近な事柄であったとも言えます。
主イエスの教えを聞いていた人々は、幼い時から祈ってきた人々でした。彼らユダヤ人は、両親やユダヤ人の会堂で祈りについて教えられてきた人々です。ですから、何をどう祈ったらよいか分からない人たちに祈り方を教えるというよりも、祈る時に陥りやすい落とし穴に対する警告がなされているのです。
5節「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。」
偽善者とはとても厳しい言い方ですが、祈る時に陥りやすい落とし穴という現実を示しているのです。
どういう祈りが偽善者のようであるかというと、「人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」、人に見てもらうことを好むというのです。
私たちは、ここで言われていることとは反対に、人前で祈ることが苦手だということの方が多いかも知れません。集会などで、突然祈ってくださいと言われると、その場にふさわしく祈れるだろうか、祈りの言葉はおかしくないだろうかなどの方が気になって、祈りたくないと思うことがあるのではないかと思います。そのような私たちにとって、聖書が警告するようなことはあまり関係がないかのように思われるかも知れません。今日の聖書の話は、人前で祈れない人についてではなく、むしろ、人前で堂々と祈る人についてです。言葉がすらすらと出てくる、そういう人への警告です。
人々の前で祈れないという人も、多くの人の前で祈りたがる人も、実は神の目を意識して祈ることよりも人の目を意識しているのです。祈りは神に向かって祈るのであって、人に向かって祈るのではありません。ですから、祈る全ての人々に向けての警告として、聞く必要があるのです。
「会堂や大通りの角」は、大勢の人が集まったり、行き交う場所です。わざわざ、そのような場所を選んで祈るというのは、自分の信仰深い姿を人々に見せたいという思いがあるということです。人に見られる事によって、その人は祈っている自分自身を見ているのです。祈りながら、神を見ずに自分を見ている姿、それが偽善者の姿であると指摘されているのです。
「はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」(マタイ六・5)。
この場合の「報い」は悪い意味ではありません。しかし、「人々から賞賛されたことが、あなたが受ける報いのすべてである」と言われているのです。「神は、あなたにそれ以上の報いを与えることはない」ということです。
「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(マタイ六・6)。
「隠れたところ」とありますが、閉ざされた空間と限定する必要はありません。人々の目ではなく、神の目を意識して祈りなさいということです。
祈りはどこででもできます。閉ざされた空間を探し出したりつくり出さなければならないと言うのではありません。たとえ、周りに多くの人々がいても構わないのです。ただ静かに、神に心を向けるのです。その静かな祈りを、神は聞いてくださっているのです。それゆえ、ここで教えられている祈りは孤独の祈りではなく、真の相手を持っている祈りです。そして、私たちが祈っている相手である神は、主イエス・キリストによって私たちの父となって下さった方であります。
主よ、苦難に襲われると
人々はあなたを求めます。
あなたの懲らしめが彼らに臨むと
彼らはまじないを唱えます。
妊婦に出産のときが近づくと
もだえ苦しみ、叫びます。
主よ、わたしたちもあなたの御前で
このようでした。
わたしたちははらみ、産みの苦しみをしました。
しかしそれは風を産むようなものでした。
救いを国にもたらすこともできず
地上に住む者を
産み出すこともできませんでした。
あなたの死者が命を得
わたしのしかばねが立ち上がりますように。
塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。
あなたの送られる露は光の露。
あなたは死霊の地にそれを降らせられます。
さあ、わが民よ、部屋に入れ。
戸を堅く閉ざせ。
しばらくの間、隠れよ
激しい憤りが過ぎ去るまで。
見よ、主はその御座を出て
地に住む者に、それぞれの罪を問われる。
大地はそこに流された血をあらわに示し
殺された者をもはや隠そうとはしない。
マタイによる福音書6章5~6節(日本聖書協会「新共同訳」)
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
今日のマタイ福音書6章5~6節は、先週の施しに続く三つの善行の二つ目になります。マタイ福音書では、三つの善行についての教えが同じ形式で語られています。今日のところもその形式に従って教えられています。ただ、三つの善行の内、前後にある施しと断食の教えが同じ形式で語られるだけなのに対し、祈りについての教えは、この後その形式とは異なる形で祈りについて語られ、さらに主の祈りへと続いていきます。祈りに対する関心の高さが示されていると言えます。
三つの善行が、同じ形式で語られていることには意味があります。人の目を意識してではなく、神の目を意識して行動せよ、ということです。
祈りは、宗教の歴史の中で最も古い行為であると言われます。人にはさまざまな願いがあり、神々や神秘的存在に祈願してきました。それ故、祈りは身近な事柄であったとも言えます。
主イエスの教えを聞いていた人々は、幼い時から祈ってきた人々でした。彼らユダヤ人は、両親やユダヤ人の会堂で祈りについて教えられてきた人々です。ですから、何をどう祈ったらよいか分からない人たちに祈り方を教えるというよりも、祈る時に陥りやすい落とし穴に対する警告がなされているのです。
5節「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。」
偽善者とはとても厳しい言い方ですが、祈る時に陥りやすい落とし穴という現実を示しているのです。
どういう祈りが偽善者のようであるかというと、「人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」、人に見てもらうことを好むというのです。
私たちは、ここで言われていることとは反対に、人前で祈ることが苦手だということの方が多いかも知れません。集会などで、突然祈ってくださいと言われると、その場にふさわしく祈れるだろうか、祈りの言葉はおかしくないだろうかなどの方が気になって、祈りたくないと思うことがあるのではないかと思います。そのような私たちにとって、聖書が警告するようなことはあまり関係がないかのように思われるかも知れません。今日の聖書の話は、人前で祈れない人についてではなく、むしろ、人前で堂々と祈る人についてです。言葉がすらすらと出てくる、そういう人への警告です。
人々の前で祈れないという人も、多くの人の前で祈りたがる人も、実は神の目を意識して祈ることよりも人の目を意識しているのです。祈りは神に向かって祈るのであって、人に向かって祈るのではありません。ですから、祈る全ての人々に向けての警告として、聞く必要があるのです。
「会堂や大通りの角」は、大勢の人が集まったり、行き交う場所です。わざわざ、そのような場所を選んで祈るというのは、自分の信仰深い姿を人々に見せたいという思いがあるということです。人に見られる事によって、その人は祈っている自分自身を見ているのです。祈りながら、神を見ずに自分を見ている姿、それが偽善者の姿であると指摘されているのです。
「はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」(マタイ六・5)。
この場合の「報い」は悪い意味ではありません。しかし、「人々から賞賛されたことが、あなたが受ける報いのすべてである」と言われているのです。「神は、あなたにそれ以上の報いを与えることはない」ということです。
「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(マタイ六・6)。
「隠れたところ」とありますが、閉ざされた空間と限定する必要はありません。人々の目ではなく、神の目を意識して祈りなさいということです。
祈りはどこででもできます。閉ざされた空間を探し出したりつくり出さなければならないと言うのではありません。たとえ、周りに多くの人々がいても構わないのです。ただ静かに、神に心を向けるのです。その静かな祈りを、神は聞いてくださっているのです。それゆえ、ここで教えられている祈りは孤独の祈りではなく、真の相手を持っている祈りです。そして、私たちが祈っている相手である神は、主イエス・キリストによって私たちの父となって下さった方であります。