イザヤ書1章18~20節(日本聖書協会「新共同訳」)
論じ合おうではないか、と主は言われる。
たとえ、お前たちの罪が緋のようでも
雪のように白くなることができる。
たとえ、紅のようであっても
羊の毛のようになることができる。
お前たちが進んで従うなら
大地の実りを食べることができる。
かたくなに背くなら、剣の餌食になる。
主の口がこう宣言される。
ローマの信徒への手紙8章1~11節(日本聖書協会「新共同訳」)
従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
使徒パウロは、ローマ6章3節以下で、キリスト者はキリストに結ばれる洗礼を受けたと語り、罪に対して死に、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きていると教えています。強力な罪の力には、どんなに頑張っても抵抗できず、組み伏せられてきました。この強力な罪の力を、どんなにあらがおうともそれから自由になることができないという意味で、パウロは「罪と死の法則」(8:2)と表現しました。その罪と死の力から解放してくださったのが主イエス・キリストです。神が私たちをキリストにしっかりと結びあわせてくださったことによります。パウロはこれを「命をもたらす霊の法則」と呼び、罪と死の法則から私たちを自由にするほど強力であると言うのです。
神の律法は、私たちに神の御心にかなって義しく生きることを要求します。しかし、私たちはそのように生きることができません。そのため、律法は、私たちに罪人としての自覚しか与えないのです。そこで神は私たちのために、御子をお遣わしになり、十字架による罪の贖いをしてくださったのです。こうして、神は、私たちを罰することなく、罪を取り除いてくださいました。律法の要求を、私たちに代わり、人となられた御子イエス・キリストが満たしてくださり、あたかも私たち自身が律法の要求を満たしたかのようにしてくださったのです。
「肉に従って歩む者」とは、キリストを信じない人を指していますが、誰か他の人のことを考えるのではなく、キリストを信じる前の自分自身のことだと考えるべきでしょう。「肉に従う」というのは、罪と死の法則に仕えていること(ローマ7:25、8:2)です。ですから、「肉」という言葉を「罪」という言葉に置き換えると、よく分かります。「罪に従って歩む者は、罪に属することを考え」、「罪の思いは死であり」、「罪の思いに従う者は神に敵対しており、神の律法に従っていないからです」、「罪の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません」。これに対し、「霊に従って歩む者」とは、キリストに結ばれている人、すなわちキリスト者です。キリストに結ばれているので、私たちには、命と平和があり、神と御子に喜ばれることをいつも願っています。「神の霊」、「キリストの霊」とは聖霊のことです。聖霊は私たちに信仰を与え、神の御心にかなう生活をさせ、御心にかなう人間へと成長させてくださるのです。
使徒パウロは、9節で「神の霊があなたがたの内に宿っている限り」と語りましたが、それは聖霊が私たちに宿っているという意味です。さらに、聖霊は「キリストの霊」と言い換えられ、さらに10節では「キリストがあなたがたの内におられるならば」と語っています。他の手紙でも「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と語りました。このように、使徒パウロが、「私たちの内に聖霊が宿る」と言っているのは、私たちが神秘的・超自然的体験をすることを強調したいのではありません。11節では「イエスを死者の中から復活させた方」という言葉が繰り返されています。聖霊を理解する上で、「イエス・キリストが復活された」ということが最も重要なことだということを意味しています。私たちキリスト者に宿る聖霊は、私たちを復活のキリストに結びあわせているのです。それ故に、キリストと共に生きるのです。
論じ合おうではないか、と主は言われる。
たとえ、お前たちの罪が緋のようでも
雪のように白くなることができる。
たとえ、紅のようであっても
羊の毛のようになることができる。
お前たちが進んで従うなら
大地の実りを食べることができる。
かたくなに背くなら、剣の餌食になる。
主の口がこう宣言される。
ローマの信徒への手紙8章1~11節(日本聖書協会「新共同訳」)
従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
使徒パウロは、ローマ6章3節以下で、キリスト者はキリストに結ばれる洗礼を受けたと語り、罪に対して死に、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きていると教えています。強力な罪の力には、どんなに頑張っても抵抗できず、組み伏せられてきました。この強力な罪の力を、どんなにあらがおうともそれから自由になることができないという意味で、パウロは「罪と死の法則」(8:2)と表現しました。その罪と死の力から解放してくださったのが主イエス・キリストです。神が私たちをキリストにしっかりと結びあわせてくださったことによります。パウロはこれを「命をもたらす霊の法則」と呼び、罪と死の法則から私たちを自由にするほど強力であると言うのです。
神の律法は、私たちに神の御心にかなって義しく生きることを要求します。しかし、私たちはそのように生きることができません。そのため、律法は、私たちに罪人としての自覚しか与えないのです。そこで神は私たちのために、御子をお遣わしになり、十字架による罪の贖いをしてくださったのです。こうして、神は、私たちを罰することなく、罪を取り除いてくださいました。律法の要求を、私たちに代わり、人となられた御子イエス・キリストが満たしてくださり、あたかも私たち自身が律法の要求を満たしたかのようにしてくださったのです。
「肉に従って歩む者」とは、キリストを信じない人を指していますが、誰か他の人のことを考えるのではなく、キリストを信じる前の自分自身のことだと考えるべきでしょう。「肉に従う」というのは、罪と死の法則に仕えていること(ローマ7:25、8:2)です。ですから、「肉」という言葉を「罪」という言葉に置き換えると、よく分かります。「罪に従って歩む者は、罪に属することを考え」、「罪の思いは死であり」、「罪の思いに従う者は神に敵対しており、神の律法に従っていないからです」、「罪の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません」。これに対し、「霊に従って歩む者」とは、キリストに結ばれている人、すなわちキリスト者です。キリストに結ばれているので、私たちには、命と平和があり、神と御子に喜ばれることをいつも願っています。「神の霊」、「キリストの霊」とは聖霊のことです。聖霊は私たちに信仰を与え、神の御心にかなう生活をさせ、御心にかなう人間へと成長させてくださるのです。
使徒パウロは、9節で「神の霊があなたがたの内に宿っている限り」と語りましたが、それは聖霊が私たちに宿っているという意味です。さらに、聖霊は「キリストの霊」と言い換えられ、さらに10節では「キリストがあなたがたの内におられるならば」と語っています。他の手紙でも「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と語りました。このように、使徒パウロが、「私たちの内に聖霊が宿る」と言っているのは、私たちが神秘的・超自然的体験をすることを強調したいのではありません。11節では「イエスを死者の中から復活させた方」という言葉が繰り返されています。聖霊を理解する上で、「イエス・キリストが復活された」ということが最も重要なことだということを意味しています。私たちキリスト者に宿る聖霊は、私たちを復活のキリストに結びあわせているのです。それ故に、キリストと共に生きるのです。