八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「『救い』という名前」 2021年9月26日の礼拝

2021年10月26日 | 2021年度
民数記13章1~16節(日本聖書協会「新共同訳」)

  主はモーセに言われた。
  「人を遣わして、わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を偵察させなさい。父祖以来の部族ごとに一人ずつ、それぞれ、指導者を遣わさねばならない。」モーセは主の命令に従い、パランの荒れ野から彼らを遣わした。彼らは皆、イスラエルの人々の長である人々であった。その名は次のとおりである。
  ルベン族では、ザクルの子シャムア、シメオン族では、ホリの子シャファト、ユダ族では、エフネの子カレブ、イサカル族では、ヨセフの子イグアル、エフライム族では、ヌンの子ホシェア、ベニヤミン族では、ラフの子パルティ、ゼブルン族では、ソディの子ガディエル、ヨセフ族すなわちマナセ族では、スシの子ガディ、ダン族では、ゲマリの子アミエル、アシェル族では、ミカエルの子セトル、ナフタリ族では、ボフシの子ナフビ、ガド族では、マキの子ゲウエル。
  以上は、モーセがその土地の偵察に遣わした人々の名である。モーセは、ヌンの子ホシェアをヨシュアと呼んだ。


マタイによる福音書1章18~25節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
 その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。



  民数記13章1~16節は、エジプトを脱出したイスラエルが、これから入って行く土地を偵察するために、各部族から1名ずつ代表を出すという場面です。その中に、後にモーセの後継者となってイスラエルを約束の地に導いていくヨシュアの名前があるのですが、モーセは「ヌンの子ホシェアをヨシュアと呼んだ」とあります。
  ホシェアには救いという意味がありますが、それに神の名前ヤーウェがくっつきヨシュア(ヤーウェは救い)となったわけです。個人の名前に神の名前ヤーウェがつけられたのはヨシュアが最初であり、彼に対するモーセの期待の大きさが現れています。実際、モーセが生きている間、ヨシュアは常にモーセの傍らにおり、モーセの従者とまで言われていました。モーセの死後、彼は後継者として約束の地カナン(今のパレスチナ)にイスラエルを導いて行きました。
  さて、マタイ福音書1章21節に、天使がヨセフに「生まれてくる子にイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と命じたとあります。イエスという名前は、旧約聖書ではヨシュアとなっており、「ヤーウェは救い」という意味があります。聖書の時代の人々には、イエスという名前にそのような意味があることはよく知られており、わざわざ説明するまでもなかったのかもしれません。そのためか、新約聖書にイエスの名前の意味を説明する個所は、このマタイ福音書以外にありません。
  旧約聖書のヨシュアは神の民を約束の地に導きましたが、同じ名前を持つ新約のヨシュア、すなわちイエスはすべての人々を神の国へと導いているのです。
  天使はヨセフに「生まれてくる子にイエスと名付けよ」と命じましたが、もちろん天使の考えではなく、天使を遣わした神の御意志です。
  親が子に名前を付ける時、子どもへの期待や願いを込めてつけるわけですが、神が御子に名前をつけるのは期待や願い以上のものでした。すなわち、すべての人々を救うという神の決意をあらわしているのです。すなわち、すべての人々を罪から救うために、贖罪として御子を十字架にかける覚悟をしているのです。
  主イエスは善人のために十字架にかかるのではありません。神に逆らい、敵対する罪人のために十字架にかかるのです。神の覚悟はこれほどまでにすさまじいものであり、私たちの理解を超える忍耐があります。
  そうまでして人類を救う意味や価値があるのかと、私たち自身が問いたい。
  「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」(ローマ9:15)の神のみ言葉が私たちに返ってきます。私たちをなんとしてでも救おうとする神の忍耐、決意、覚悟があるだけで、理屈はありません。ただ神の私たちに対する限りない憐れみと愛があるだけです。
  私たちは、この神の忍耐、決意、覚悟にどう応えるべきでしょうか。
  アーメンと答え、神の憐れみと愛を受け取るべきではないでしょうか。そして、ここにはそれを受け取る決意と覚悟が必要です。私たちの救いを真剣に考え、行動してくださった神に、私たちも真剣に応えるべきでしょう。



「神を求める者は救われる」 2021年9月19日の礼拝

2021年10月18日 | 2021年度
ヨエル書3章1~5節(日本聖書協会「新共同訳」)

その後
わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。
あなたたちの息子や娘は預言し
老人は夢を見、若者は幻を見る。
その日、わたしは
奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。
天と地に、しるしを示す。
それは、血と火と煙の柱である。
主の日、大いなる恐るべき日が来る前に
太陽は闇に、月は血に変わる。
しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。
主が言われたように
シオンの山、エルサレムには逃れ場があり
主が呼ばれる残りの者はそこにいる。

ローマの信徒への手紙10章5節~13節(日本聖書協会「新共同訳」)

モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。では、何と言われているのだろうか。
「御言葉はあなたの近くにあり、
あなたの口、あなたの心にある。」
これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。


  「掟を守る人は掟によって生きる」。これが律法を行うことによって神の前に義となるということです。しかし、これによっては、神から義と認められることはできませんでした。私たちの行いが不完全で、律法が求めることを完全に満たすことができないからです。そのような私たちに代わって、律法の要求するところを完全に満たしてくださったのが主イエス・キリストです。それ故、「キリストは律法の目標(終わり)」(ローマ10:4)であるとパウロは言うのです。
  こうして、私たちはキリストから救われるのですが、この救いはどのようにして獲得することができるのでしょうか。ここでパウロは旧約の申命記30章12~14節を引用し、説明します。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」(ローマ10:6~8)
  これはもともと律法について語られたもので、「神が賜る完全な律法をどこに行って獲得できるのか。天に昇ってか。海のかなたに行ってか。否、そうではない。既に我々のそば近くに、我々の口と心にあるのだから」とあります。信仰による義、キリストによる救いもこれと同じだとパウロは言うのです。救い主を天や底なしの淵に求める必要はなく、すでに私たちに与えられていると言うのです。
  10章9~10節に「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」とあります。ここで「公に言い表す」という言葉が二度繰り返されていますが、これには「告白する」という意味もあります。「信仰告白」というときの「告白」です。私たちの信仰内容を表明するということでもありますが、その信仰内容というのは、私たちの心とか決意を意味するというよりは、神が私たちにしてくださった救い、恵みの業を指しています。ですから、信仰を告白するとは、神が私たちをこのようにして救ってくださったという神の恵みの業を告白するということなのです。「神がイエスを死者の中から復活させられた」というのは、私たちを救うための神の御業であり、これを信じ告白するということです。ちなみに、「告白」という言葉には「讃美する、褒め称える」という意味もあります。そうしますと、信仰を告白するとは、私たちを救ってくださった神の御業を明らかにし、神に感謝し褒め称えるという意味にもなります。
  パウロは「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」と言いました。しかし、呼び求める前に、神の方から私たち近づき、救いを差し出してくだいました。今、私たちがなすべきことは、ただ感謝し、その救いを受けとるだけなのです。



「キリストは律法の目標」 2021年9月12日の礼拝

2021年10月11日 | 2021年度
イザヤ書28章14~18節(日本聖書協会「新共同訳」)

 嘲る者らよ、主の言葉を聞け
 エルサレムでこの民を治める者らよ。
 お前たちは言った。
 「我々は死と契約を結び、陰府と協定している。
 洪水がみなぎり溢れても、我々には及ばない。
 我々は欺きを避け所とし、偽りを隠れがとする。」

 それゆえ、主なる神はこう言われる。
 「わたしは一つの石をシオンに据える。
 これは試みを経た石
 堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。
 信ずる者は慌てることはない。
 わたしは正義を測り縄とし
 恵みの業を分銅とする。
 雹は欺きという避け所を滅ぼし
 水は隠れがを押し流す。
 お前たちが死と結んだ契約は取り消され
 陰府と定めた協定は実行されない。
 洪水がみなぎり、溢れるとき
 お前たちは、それに踏みにじられる。」


ローマの信徒への手紙9章30節~10章4節(日本聖書協会「新共同訳」)

  では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。
 「見よ、わたしはシオンに、
 つまずきの石、妨げの岩を置く。
 これを信じる者は、失望することがない」
と書いてあるとおりです。
  兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。



  30~32節に「義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです」とあります。
  ここでの「義」とは、神から義と認められることです。そして、義と認められると神の救いにあずかるということです。そこで、「義」という言葉を「救い」という言葉にすると、もう少しわかりやすいかもしれません。すなわち、律法の行いによる救いか、それとも信仰による救いかということです。律法の行いによるにしても、信仰によるにしても、どちらであっても救いが得られるのであれば何も問題はありません。しかし、実際には、律法の行いによってはだれ一人義とされず、救われません。それどころか、罪の自覚が生じるだけです。(ローマ3:20) なぜなら、私たちには、律法が要求する義を完全に行うことができないからです。その原因は、私たちの内に働く罪の力にあります。その罪の力ががあまりにも強力なのです。そうすると、救われるか救われないかという問題は、律法を行うか否かではなく、この罪の力から逃れることができるのかどうかということです。そして、もしそれができるのであれば、どのようにして罪の力から逃れることができるかが重要です。
  そこで、パウロは罪の力に打ち勝つには、神の力による他はありません。それが信仰による神の義です。これこそ神の力による新しい義であり、神の恵みの業です。具体的に言いますと、イエス・キリストの十字架による義ということです。キリストの十字架は私たちの罪の贖いです。私たちは自ら完全な義なる行いはできませんでしたが、キリストの贖いである十字架によって、あたかも私たち自身が義なる行いをしたかのように、神は見てくださり、私たちの罪を赦してくださるのです。こうして罪の贖い、赦しを受け、私たちは救われているのです。この救いは神の力によるもので、罪は私たちを支配する力を失ったのです。
  3章26節に「イエスを信じる者を義とする」とありましたが、それは、神がイエスを信じる者を義とし、救うということであり、これが神の計画、決定だということです。そして、この救いは、ユダヤ人にとっても異邦人にとっても、神の力による救いなのです。
  そうしてみますと、最初に引用した30~32節は、異邦人は神の力によって救われたが、ユダヤ人は自分で律法を行うことによって救われると思い、神の力による救いを退けたということを意味していることが分かります。
  それでは律法は無意味なものだったのでしょうか。そうではありません。律法は私たちを救うことはできませんでしたが、律法はキリストによる救いを指し示しました。(3:21~22) しかも、罪を犯した私たちが救われるための贖罪を示し、キリストが十字架にかかり、完全な贖罪の業を行ってくださったのです。こうして、以前語っていた信仰による義、すなわちキリストの贖罪は、律法を確立したのです。(3:31)
  「キリストは律法の目標」(10:4)という言葉は、口語訳では「律法の終わり」と訳されていました。「目標、終わり」と訳されている言葉は、「完成」という意味もあります。律法はキリストを指し示し、律法が目標としていたことを、キリストが完成してくださったのです。「信じる者すべてに義をもたらすために」は、神の御計画であり、このために神は今も働いておられるのです。



「神の怒りと憐れみ」 2021年9月5日の礼拝

2021年10月05日 | 2021年度
エレミヤ書18章1~12節(日本聖書協会「新共同訳」)

  主からエレミヤに臨んだ言葉。「立って、陶工の家に下って行け。そこでわたしの言葉をあなたに聞かせよう。」わたしは陶工の家に下って行った。彼はろくろを使って仕事をしていた。陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。そのとき主の言葉がわたしに臨んだ。「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。
  あるとき、わたしは一つの民や王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる。
  またあるときは、一つの民や王国を建て、また植えると約束するが、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、彼らに幸いを与えようとしたことを思い直す。」
  今、ユダの人々とエルサレムの住民に言うがよい。「主はこう言われる。見よ、わたしはお前たちに災いを備え、災いを計画している。お前たちは皆、悪の道から立ち帰り、お前たちの道と行いを正せ。」彼らは言った。「それは無駄です。我々は我々の思いどおりにし、おのおのかたくなな悪い心のままにふるまいたいのだから。」


ローマの信徒への手紙9章19~29節(日本聖書協会「新共同訳」)

  ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。ホセアの書にも、次のように述べられています。
 「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、
 愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
 『あなたたちは、わたしの民ではない』
   と言われたその場所で、
 彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」
また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。
 「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、
 わたしたちはソドムのようになり、
 ゴモラのようにされたであろう。」



  ローマの信徒への手紙9章に入り、パウロは神の選び、救いの確かさについて語りだしました。そこでの重要なキーワードは「神の自由な選び」でした。すなわち、神に選ばれることは、選ばれた人間に選ばれるだけの何らかの資格があるのではないということです。しかし、それは神の「気まぐれ」ではなく、神の秘められた御計画があるのです。
  このように、救いは神の自由な選びを語ってきたパウロは、その神の選び、特に神の救いは神の憐れみによることだと告げます。こうして、話の中心は神の憐れみになってきました。
  21節からの焼き物師が同じ粘土から貴いことに用いる器と貴くないことに用いる器を造る話は、造り主なる神の絶対的な力を説明しています。神の選びには絶対的な権威があるということです。そしてそのすぐ後で、怒りの器と憐れみの器という言葉から始め、神の憐れみについて話していきます。
  まず注目したいのは、「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば」(22節)という言葉です。滅びるはずの怒りの器に対して、神が寛大な心で耐え忍ぶということです。これは、滅びの時を単に先延ばしにするということではありません。ここで参考になるのは、ペトロの手紙 二 3章9節の「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」という言葉です。
  神の忍耐は、一人も滅びることのないように、悔い改めの機会を与えるためなのです。
  あらためて「滅びるはずの怒りの器」とは誰のことかを考えてみましょう。私たちは、初めから憐れみの器だったのでしょうか。そうではありません。私たちも、かつて「滅びるはずの怒りの器」でした。すべての人間は神に罪を犯し、「正しい人は一人もいない」(3:10)と言われていました。1~3章において、ユダヤ人も異邦人も、罪の支配下にあり、滅ぼされても仕方のない存在であると確認されています。しかし、そのユダヤ人も異邦人も、主イエス・キリストによって救いにあずかる者とされたのです。こうして、「自分の民でないものを私の民、生ける神の子らと呼ばれる」という預言者ホセアの言葉が成就しました。言い換えれば、神は預言者を通して、救いの御計画をあらかじめ伝えていたのです。
  残った問題は、主イエスを受け入れようとしないユダヤ人は救われないかということです。彼らの数が多くても、「残りの者」が救われるとパウロは言います。悔い改めの機会は、彼らにすでに与えられています。そして、これからもその機会は与えられるでしょう。しかし、また機会はやってくるからと言って、悔い改めの機会を逃してはなりません。裁きの時は、突然やってくるからです。
  「残りの者」が救われるということについては、11章で改めて扱われています。ユダヤ人の罪によって主イエスが十字架にかけられましたが、そのことは異邦人の救いに役立ちました。ユダヤ人の中には主イエスを認めない人もいます。しかし、異邦人が主イエスによって救われるのを見て、ユダヤ人が悔い改め、救いにあずかるようになる。ここに神の御計画があるのです。