民数記13章1~16節(日本聖書協会「新共同訳」)
主はモーセに言われた。
「人を遣わして、わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を偵察させなさい。父祖以来の部族ごとに一人ずつ、それぞれ、指導者を遣わさねばならない。」モーセは主の命令に従い、パランの荒れ野から彼らを遣わした。彼らは皆、イスラエルの人々の長である人々であった。その名は次のとおりである。
ルベン族では、ザクルの子シャムア、シメオン族では、ホリの子シャファト、ユダ族では、エフネの子カレブ、イサカル族では、ヨセフの子イグアル、エフライム族では、ヌンの子ホシェア、ベニヤミン族では、ラフの子パルティ、ゼブルン族では、ソディの子ガディエル、ヨセフ族すなわちマナセ族では、スシの子ガディ、ダン族では、ゲマリの子アミエル、アシェル族では、ミカエルの子セトル、ナフタリ族では、ボフシの子ナフビ、ガド族では、マキの子ゲウエル。
以上は、モーセがその土地の偵察に遣わした人々の名である。モーセは、ヌンの子ホシェアをヨシュアと呼んだ。
マタイによる福音書1章18~25節(日本聖書協会「新共同訳」)
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
民数記13章1~16節は、エジプトを脱出したイスラエルが、これから入って行く土地を偵察するために、各部族から1名ずつ代表を出すという場面です。その中に、後にモーセの後継者となってイスラエルを約束の地に導いていくヨシュアの名前があるのですが、モーセは「ヌンの子ホシェアをヨシュアと呼んだ」とあります。
ホシェアには救いという意味がありますが、それに神の名前ヤーウェがくっつきヨシュア(ヤーウェは救い)となったわけです。個人の名前に神の名前ヤーウェがつけられたのはヨシュアが最初であり、彼に対するモーセの期待の大きさが現れています。実際、モーセが生きている間、ヨシュアは常にモーセの傍らにおり、モーセの従者とまで言われていました。モーセの死後、彼は後継者として約束の地カナン(今のパレスチナ)にイスラエルを導いて行きました。
さて、マタイ福音書1章21節に、天使がヨセフに「生まれてくる子にイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と命じたとあります。イエスという名前は、旧約聖書ではヨシュアとなっており、「ヤーウェは救い」という意味があります。聖書の時代の人々には、イエスという名前にそのような意味があることはよく知られており、わざわざ説明するまでもなかったのかもしれません。そのためか、新約聖書にイエスの名前の意味を説明する個所は、このマタイ福音書以外にありません。
旧約聖書のヨシュアは神の民を約束の地に導きましたが、同じ名前を持つ新約のヨシュア、すなわちイエスはすべての人々を神の国へと導いているのです。
天使はヨセフに「生まれてくる子にイエスと名付けよ」と命じましたが、もちろん天使の考えではなく、天使を遣わした神の御意志です。
親が子に名前を付ける時、子どもへの期待や願いを込めてつけるわけですが、神が御子に名前をつけるのは期待や願い以上のものでした。すなわち、すべての人々を救うという神の決意をあらわしているのです。すなわち、すべての人々を罪から救うために、贖罪として御子を十字架にかける覚悟をしているのです。
主イエスは善人のために十字架にかかるのではありません。神に逆らい、敵対する罪人のために十字架にかかるのです。神の覚悟はこれほどまでにすさまじいものであり、私たちの理解を超える忍耐があります。
そうまでして人類を救う意味や価値があるのかと、私たち自身が問いたい。
「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」(ローマ9:15)の神のみ言葉が私たちに返ってきます。私たちをなんとしてでも救おうとする神の忍耐、決意、覚悟があるだけで、理屈はありません。ただ神の私たちに対する限りない憐れみと愛があるだけです。
私たちは、この神の忍耐、決意、覚悟にどう応えるべきでしょうか。
アーメンと答え、神の憐れみと愛を受け取るべきではないでしょうか。そして、ここにはそれを受け取る決意と覚悟が必要です。私たちの救いを真剣に考え、行動してくださった神に、私たちも真剣に応えるべきでしょう。
主はモーセに言われた。
「人を遣わして、わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を偵察させなさい。父祖以来の部族ごとに一人ずつ、それぞれ、指導者を遣わさねばならない。」モーセは主の命令に従い、パランの荒れ野から彼らを遣わした。彼らは皆、イスラエルの人々の長である人々であった。その名は次のとおりである。
ルベン族では、ザクルの子シャムア、シメオン族では、ホリの子シャファト、ユダ族では、エフネの子カレブ、イサカル族では、ヨセフの子イグアル、エフライム族では、ヌンの子ホシェア、ベニヤミン族では、ラフの子パルティ、ゼブルン族では、ソディの子ガディエル、ヨセフ族すなわちマナセ族では、スシの子ガディ、ダン族では、ゲマリの子アミエル、アシェル族では、ミカエルの子セトル、ナフタリ族では、ボフシの子ナフビ、ガド族では、マキの子ゲウエル。
以上は、モーセがその土地の偵察に遣わした人々の名である。モーセは、ヌンの子ホシェアをヨシュアと呼んだ。
マタイによる福音書1章18~25節(日本聖書協会「新共同訳」)
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
民数記13章1~16節は、エジプトを脱出したイスラエルが、これから入って行く土地を偵察するために、各部族から1名ずつ代表を出すという場面です。その中に、後にモーセの後継者となってイスラエルを約束の地に導いていくヨシュアの名前があるのですが、モーセは「ヌンの子ホシェアをヨシュアと呼んだ」とあります。
ホシェアには救いという意味がありますが、それに神の名前ヤーウェがくっつきヨシュア(ヤーウェは救い)となったわけです。個人の名前に神の名前ヤーウェがつけられたのはヨシュアが最初であり、彼に対するモーセの期待の大きさが現れています。実際、モーセが生きている間、ヨシュアは常にモーセの傍らにおり、モーセの従者とまで言われていました。モーセの死後、彼は後継者として約束の地カナン(今のパレスチナ)にイスラエルを導いて行きました。
さて、マタイ福音書1章21節に、天使がヨセフに「生まれてくる子にイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と命じたとあります。イエスという名前は、旧約聖書ではヨシュアとなっており、「ヤーウェは救い」という意味があります。聖書の時代の人々には、イエスという名前にそのような意味があることはよく知られており、わざわざ説明するまでもなかったのかもしれません。そのためか、新約聖書にイエスの名前の意味を説明する個所は、このマタイ福音書以外にありません。
旧約聖書のヨシュアは神の民を約束の地に導きましたが、同じ名前を持つ新約のヨシュア、すなわちイエスはすべての人々を神の国へと導いているのです。
天使はヨセフに「生まれてくる子にイエスと名付けよ」と命じましたが、もちろん天使の考えではなく、天使を遣わした神の御意志です。
親が子に名前を付ける時、子どもへの期待や願いを込めてつけるわけですが、神が御子に名前をつけるのは期待や願い以上のものでした。すなわち、すべての人々を救うという神の決意をあらわしているのです。すなわち、すべての人々を罪から救うために、贖罪として御子を十字架にかける覚悟をしているのです。
主イエスは善人のために十字架にかかるのではありません。神に逆らい、敵対する罪人のために十字架にかかるのです。神の覚悟はこれほどまでにすさまじいものであり、私たちの理解を超える忍耐があります。
そうまでして人類を救う意味や価値があるのかと、私たち自身が問いたい。
「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」(ローマ9:15)の神のみ言葉が私たちに返ってきます。私たちをなんとしてでも救おうとする神の忍耐、決意、覚悟があるだけで、理屈はありません。ただ神の私たちに対する限りない憐れみと愛があるだけです。
私たちは、この神の忍耐、決意、覚悟にどう応えるべきでしょうか。
アーメンと答え、神の憐れみと愛を受け取るべきではないでしょうか。そして、ここにはそれを受け取る決意と覚悟が必要です。私たちの救いを真剣に考え、行動してくださった神に、私たちも真剣に応えるべきでしょう。