八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「永遠の命を得させるキリスト」 2023年4月30日の礼拝

2023年05月29日 | 2023年度
出エジプト記16章4~16節(日本聖書協会「新共同訳」)

  主はモーセに言われた。
  「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。」
モーセとアロンはすべてのイスラエルの人々に向かって言った。
  「夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトの国から導き出されたことを知り、朝に、主の栄光を見る。あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ。我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか。」
  モーセは更に言った。
  「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる。主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ。」
  モーセがアロンに、「あなたはイスラエルの人々の共同体全体に向かって、主があなたたちの不平を聞かれたから、主の前に集まれと命じなさい」と言うと、アロンはイスラエルの人々の共同体全体にそのことを命じた。彼らが荒れ野の方を見ると、見よ、主の栄光が雲の中に現れた。主はモーセに仰せになった。
  「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」
  夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。
  「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」


ヨハネによる福音書6章34~40節(日本聖書協会「新共同訳」)

  そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」


  「永遠の命」という言葉は、マタイ、マルコ、ルカではあまり出てきません。ただ、非常に裕福な青年が「永遠の命を得るにはどうしたら良いか」と主イエスに尋ねた時の言葉として出てきます。彼は「自分の持ち物を売り払い、貧しい人に施しなさい。それから私に従いなさい」という主イエスの言葉を聞いて、去って行きました。
  この出来事は、ヨハネ福音書には出てきませんが、「永遠の命」という言葉が多く出てきており、しかも、主イエスに結ばれることによってそれを得ると繰り返し強調しています。6章40節にもその言葉が出てきており、「子を見て信じる者が皆永遠の命を得る」とあります。しかも、それは主イエスを遣わした父なる神の御心だというのです。
  さて、主イエスは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(6:35)と語っています。これは、主イエスが五つのパンと二匹の魚で、五千人の人々を満腹にした奇跡が発端となっています。この出来事の後、かつてモーセがエジプトを脱出したイスラエルの人々を天からのパンで養った話になりました。主イエスはそのパンを与えたのはモーセではなく、主イエスの父である神が与えたと語り、今日の聖書の話につながっているのです。この話はさらに続き、モーセによって与えられたパンを食べた人々は荒野で死んでしまったが主イエスが与えるパンは命のパンで、これを食べる人は永遠の命を受けると教えています。
  主イエスは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(6:35)と語りました。この中で「決して渇くことがない」と言っていますが、これは4章14節の「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」という主イエスの言葉を思い起こさせます。すなわち、主イエスは御自身こそ永遠の命のパンであり、永遠の命に至る水であると告げているのです。
  私たちが日々の生活の中でパンを食べ水を飲むことにより、それは私たちの体の中で血となり、肉となります。主イエスがご自身をパンと水にたとえるのは、主イエスに私たちがしっかりと結ばれ、永遠の命に生きる者とされていることを告げているのです。
  「神は我々と共におられる」という言葉が聖書の中でたびたび示され、聖書を貫く信仰であることを明らかにしています。その神が共におられるということを感覚的に示そうとして、主イエスはご自身を永遠の命のパンであり、永遠の命に至る水であると宣言しておられるのです。
  ただし、パンにしても水にしても比喩としての表現です。実際に私たちをキリストに結び合わせる象徴的出来事はキリストの名による洗礼です。この洗礼は、私たちがキリストの命に結ばれていること、永遠の命に生きる者とされているしるしであり、保証なのです。


「身体のよみがえり」 2023年4月23日の礼拝

2023年05月22日 | 2023年度
イザヤ書51章1~6節(日本聖書協会「新共同訳」)

 わたしに聞け、正しさを求める人
 主を尋ね求める人よ。
 あなたたちが切り出されてきた元の岩
 掘り出された岩穴に目を注げ。
 あなたたちの父アブラハム
 あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。
 わたしはひとりであった彼を呼び
 彼を祝福して子孫を増やした。

 主はシオンを慰め
 そのすべての廃虚を慰め
 荒れ野をエデンの園とし
 荒れ地を主の園とされる。
 そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く。

 わたしの民よ、心してわたしに聞け。
 わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。
 教えはわたしのもとから出る。
 わたしは瞬く間に
 わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。
 わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ
 わたしの腕は諸国の民を裁く。
 島々はわたしに望みをおき
 わたしの腕を待ち望む。
 天に向かって目を上げ
 下に広がる地を見渡せ。
 天が煙のように消え、地が衣のように朽ち
 地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても
 わたしの救いはとこしえに続き
 わたしの恵みの業が絶えることはない。


ルカによる福音書24章36~43節(日本聖書協会「新共同訳」)

  こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。


  弟子たちの目の前に突然主イエスが現れました。喜びよりも亡霊が現れたと恐れたのも当然でしょう。主イエスは「平和があるように」と声をかけましたが、弟子たちの不安はなくなりません。そこで、主イエスはご自分の手と足にある十字架の釘の痕を見せました。さらに、主イエスは焼いた魚を食べて見せました。この出来事は他の福音書にはなく、ルカ福音書だけにあります。この出来事を通してこの福音書が訴えたかったのは、主イエスが肉体を伴ってよみがえられたということです。
  主イエスが肉体を伴って復活したというのは、単に十字架にかかる前と同じ肉体であったということではありません。それは家に鍵をかけ、閉じこもっていた弟子たちの前に主イエスが忽然と姿を現したことで、主イエスの肉体が十字架以前と異なっていることを示しています。この主イエスの肉体がどういう状態なのかを知ることはできません。確かなことは、キリストの体が単に蘇生されたのではなく、新しい肉体となって復活したということです。誤解を恐れないで言うならば、霊と物質とを併せ持った肉体と言うべきかもしれません。
  このことが私たちにとっても重要なのは、私たちが死に、キリストの再臨の時に復活する時、復活のキリストと似た体によみがえらされると言うことです。
  使徒パウロは「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。・・・自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。」(Ⅰコリント15章)と語り、「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」(フィリピ3章)と語っています。つまり、私たちが復活した時、復活のキリストの姿に似たものとされるということです。
  私たちは二つのことに注意しなければなりません。第一は、私たちが死んだ後、霊魂だけが神の国に行くのではなく、新しい肉体に復活させられて神の国に入るということです。第二に、それ故に、復活した後というのは、今の生活の延長ではないということです。このように、キリストの復活は、私たちの希望そのものなのです。
  ヨハネの黙示録は、次のように私たちに教えています。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。・・・『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」(21:1、3~4)。
  この神の国に入るようにと、私たちはキリストに結ばれています。キリストの栄光の姿に似る者となる約束を受けて、今を生きています。キリストの復活が私たちのための喜びの出来事であることを、感謝したいと思います。


「同伴者イエス」 2023年4月16日の礼拝

2023年05月19日 | 2023年度
列王記下7章1~16節(日本聖書協会「新共同訳」)

  エリシャは言った。「主の言葉を聞きなさい。主はこう言われる。『明日の今ごろ、サマリアの城門で上等の小麦粉一セアが一シェケル、大麦二セアが一シェケルで売られる。』」王の介添えをしていた侍従は神の人に答えた。「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう。」エリシャは言った。「あなたは自分の目でそれを見る。だが、それを食べることはない。」
  城門の入り口に重い皮膚病を患う者が四人いて、互いに言い合った。「どうしてわたしたちは死ぬまでここに座っていられようか。町に入ろうと言ってみたところで、町は飢饉に見舞われていて、わたしたちはそこで死ぬだけだし、ここに座っていても死ぬだけだ。そうならアラムの陣営に投降しよう。もし彼らが生かしてくれるなら、わたしたちは生き延びることができる。もしわたしたちを殺すなら、死ぬまでのことだ。」夕暮れに、彼らはアラムの陣営に行こうと立ち上がったが、アラムの陣営の外れまで来たところ、そこにはだれもいなかった。
  主が戦車の音や軍馬の音や大軍の音をアラムの陣営に響き渡らせられたため、彼らは、「見よ、イスラエルの王が我々を攻めるためにヘト人の諸王やエジプトの諸王を買収したのだ」と言い合い、夕暮れに立って逃げ去った。彼らは天幕も馬もろばも捨て、陣営をそのままにして、命を惜しんで逃げ去った。
  重い皮膚病を患っている者たちは陣営の外れまで来て、一つの天幕に入り、飲み食いした後、銀、金、衣服を運び出して隠した。彼らはまた戻って来て他の天幕に入り、そこからも運び出して隠した。彼らは互いに言い合った。「わたしたちはこのようなことをしていてはならない。この日は良い知らせの日だ。わたしたちが黙って朝日が昇るまで待っているなら、罰を受けるだろう。さあ行って、王家の人々に知らせよう。」彼らは行って町の門衛を呼び、こう伝えた。「わたしたちはアラムの陣営に行って来ましたが、そこにはだれもいませんでした。そこには人の声もなく、ただ馬やろばがつながれたままで、天幕もそのままでした。」門衛たちは叫んで、この知らせを中の王家の人々に知らせた。
  夜中に王は起きて家臣たちに言った。「アラム軍が我々に対して計っていることを教えよう。我々が飢えているのを知って、彼らは陣営を出て野に隠れ、『イスラエル人が町から出て来たら、彼らを生け捕りにし、町に攻め入ろう』と思っているのだ。」家臣の一人がそれにこう答えた。「ここに残っている馬の中から五頭を選び、それに人を乗せて偵察に送りましょう。彼らも、ここに残っているイスラエルのすべての民衆、また既に最期を遂げたイスラエルのすべての民衆と同じ運命にあるのです。」こうして、彼らが馬と二台の戦車を選ぶと、王は、「行って見てくるように」と命じて、アラムの軍勢の後を追わせた。彼らはアラム軍の後を追って、ヨルダンまで来たが、その道はどこもアラム軍が慌てて投げ捨てた衣類や武具で満ちていた。使いの者たちは帰って来てこのことを王に報告した。
  そこで民は出て行ってアラムの陣営で略奪をほしいままにし、主の言葉どおり上等の小麦粉一セアが一シェケル、大麦二セアが一シェケルで売られるようになった。


ルカによる福音書24章13~35節(日本聖書協会「新共同訳」)

  ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
  一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。



  主イエスが復活された日曜日の出来事です。二人の弟子たちがエマオという村に向かっていました。一人はクレオパという名前であることが紹介されていますが、福音書の中ではここにしか登場しないため、どういう人物かは全く分かりません。そして、もう一人の方は名前すらわかりません。いずれにしても十二弟子に数えられてはおらず、その意味では無名の弟子たちと言えます。
  またこの弟子たちがなぜエマオへ向かっていたのかも分かりません。福音書は、この二人の素性やエマオへ向かった目的についてあまり関心がなく、むしろ主イエスがこの二人の弟子に会いに行ったことが重要だったのです。主イエスが二人の弟子に近づいたとあるのがそのことを示しています。エルサレムから離れていく弟子たちを追いかけるようにして、近づいて行ったのです。主イエスは、直接に言ってはいませんが、今はエルサレムから離れていけないと引き留めたかったのでしょう。
  弟子たちは、エルサレムで主イエスの十字架と復活の出来事をもちろん知っていました。しかし、復活の出来事に関してはそれを受け入れることができなかったのかもしれません。その弟子たちに主イエスは、十字架と復活は神の御計画であり、そのことは旧約聖書によって明らかにされていたと告げたのです。
  その夜、エマオで泊まるように主イエスを引き留めた弟子たちは、食事の時、主イエスのパンを裂く姿を見て、目の前の人が主イエスであることを悟りました。しかし同時に、主イエスの姿が見えなくなりました。目的を果たしたということでしょう。
  主イエスは弟子たちの同伴者になり、エマオへ一緒にやってきましたが、エマオへ行くために同伴したのではなく、エルサレムへ引き返させるために同伴したのです。
  聖書に「罪」という言葉がよく出てきます。悪いことをした時によく使われる言葉ですが、聖書の言葉はもともと「的を外す、道から逸れる」という意味です。それを「罪」という意味で使っているわけですが、今日の聖書の個所において、弟子たちが罪を犯したのではありませんし、彼らが悪い人間だというのでもありません。しかし、エルサレムから離れることは神の御心ではありませんでした。その意味では「道から逸れた」と言えるでしょう。それを御心にかなう道へと主イエスは導いたのです。聖書に「悔い改める」という言葉がよく出てきますが、もともとは逸れた道から正しい道に帰るという意味の言葉です。
  主イエスは、二人の弟子たちがエルサレムに戻るように導いたのです。
  エルサレムに帰った弟子たちは、自分たちの体験を話し、他の弟子たちの経験を聞きました。そこへ主イエスが再び現れ、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事を伝える証人(ルカ24:48)として彼らを出発させるのです。


「キリストの復活」 2023年4月9日の礼拝

2023年05月10日 | 2023年度
エレミヤ書31章1~6節(日本聖書協会「新共同訳」)

  そのときには、と主は言われる。わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。
 主はこう言われる。
 民の中で、剣を免れた者は
   荒れ野で恵みを受ける
 イスラエルが安住の地に向かうときに。
 遠くから、主はわたしに現れた。
 わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し
 変わることなく慈しみを注ぐ。
 おとめイスラエルよ
 再び、わたしはあなたを固く建てる。
 再び、あなたは太鼓をかかえ/楽を奏する人々と共に踊り出る。
 再び、あなたは
 サマリアの山々にぶどうの木を植える。
 植えた人が、植えたその実の初物を味わう。
 見張りの者がエフライムの山に立ち
   呼ばわる日が来る。
 「立て、我らはシオンへ上ろう
 我らの神、主のもとへ上ろう。」

ヨハネによる福音書20章1~18節(日本聖書協会「新共同訳」)

  週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。
  マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。



  他の福音書は、主イエスが葬られた墓を訪ねたのが複数の女性であったと記していますが、ヨハネ福音書はマグダラのマリアだけになっています。実際一人であったのか他にも女性がいたのかはわかりませんが、ヨハネ福音書はマグダラのマリアにスポットライトを当てて主イエスの復活を描いているのです。
  マグダラのマリアについては詳しいことはわかっていません。マグダラというのが地名だと思われますが、それがどこであるかもはっきりしていません。ガリラヤ湖西岸のどこかだろうと推測されているだけです。
  またマリア自身についても、主イエスによって七つの悪霊を追い出してもらい、主イエスと弟子たちがエルサレムに来た時、他の女性たちとともにガリラヤからエルサレムに来たとあるだけで、それ以上詳しいことはわかっていません。
  マリアは誰よりも早く、主イエスが葬られた墓にやってきました。主イエスの墓を確かめたかったのか、それとも最後の別れを言うためだったのかはわかりません。とにかく、まだ暗い朝、人目を避けるかのように墓にやってきたのです。
  ところが、主イエスが葬られているはずの墓が開いており、墓には遺体がありません。急いで弟子たちのところに行き、そのことを報告します。弟子たちも墓が空であることを確認しましたが、どうしたらよいかわからず、墓から去っていきました。弟子たちはユダヤ人たちに見つかるのをおそれたのです。
  マリアはというと、あきらめきれず、墓の外にたたずみ、墓の中には二人の天使がいて、マリアに声をかけます。しかし、マリアにはそれが天使だと気がつきません。再びマリアを呼ぶ声が聞こえてきました。復活された主イエスの声だったのですが、マリアは気がついていません。もういちど主イエスが声をかけます。そのとき、マリアは、ようやく声の主が主イエスであると気づくのでした。
  マリアは悲しみに心が閉ざされ、目の前の主イエスに気づきませんでしたが、何度も声をかけられ、マリアは復活された主イエスをその目で確認したのです。
  マリアの出来事は、私たちの人生を象徴しているように思えます。様々な出来事の中で、私たちは心を閉ざしてしまいます。目の前に救いの神がいてくださっているのに気づかない状態です。しかし、神はそのような私たちに何度も声をかけ、私たちの目を開き、救いの神を見ることができるようにしてくださるのです。
  20章19節では戸に鍵をかけ、家の中に閉じこもっていた弟子たちの中に復活の主イエスが現れたとあります。マリアが復活の主イエスに出会ったのと似ています。「閉ざされた心を開き、私を迎え入れよ」と繰り返し私たちの名前を呼んでくださるのです。黙示録にも主イエスが「わたしは戸口に立って、たたいている」という言葉があります。
  エレミヤ書31章は神が永遠の愛をもって愛してくださっていることを伝えています。神の愛は閉ざされた私たちの心を開き、絶望のどん底に落ち込んでいる私たちの魂を引き上げ、陰府からも引き上げてくださるのです。そして復活のキリストに結びあわせ、永遠の命を与えてくださり、祝福と希望と喜びに満ちた人生を歩ませてくださるのです。


「十字架につけられたイエス」 2023年4月2日の礼拝

2023年05月08日 | 2023年度
イザヤ書56章1~8節(日本聖書協会「新共同訳」)

 主はこう言われる。
 正義を守り、恵みの業を行え。
 わたしの救いが実現し
 わたしの恵みの業が現れるのは間近い。
 いかに幸いなことか、このように行う人
 それを固く守る人の子は。
 安息日を守り、それを汚すことのない人
 悪事に手をつけないように自戒する人は。
 主のもとに集って来た異邦人は言うな
 主は御自分の民とわたしを区別される、と。
 宦官も、言うな
 見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。
 なぜなら、主はこう言われる
 宦官が、わたしの安息日を常に守り
 わたしの望むことを選び
 わたしの契約を固く守るなら
 わたしは彼らのために、とこしえの名を与え
 息子、娘を持つにまさる記念の名を
   わたしの家、わたしの城壁に刻む。
 その名は決して消し去られることがない。
 また、主のもとに集って来た異邦人が
 主に仕え、主の名を愛し、その僕となり
 安息日を守り、それを汚すことなく
 わたしの契約を固く守るなら
 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き
 わたしの祈りの家の喜びの祝いに
   連なることを許す。
 彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら
 わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。
 わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。
 追い散らされたイスラエルを集める方
   主なる神は言われる
 既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。


ルカによる福音書23章32~49節(日本聖書協会「新共同訳」)

  ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。



  新約聖書には四つの福音書があり、どの福音書も主イエスの十字架の出来事を記しています。福音書は主イエスの生涯の全てを描いているように見えますが、むしろ十字架と復活を語ることを目的にしており、地上での生活は、そのための準備としての位置づけになっています。そして主イエスもご自身の生涯を十字架に向かっての歩みであったことをたびたび告げてきました。
  さて、どの福音書にも十字架の出来事が記されていると言いましたが、それぞれ特徴があります。たとえば、マタイ福音書とマルコ福音書は「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉を記しています。十字架の死は主イエスが全人類に代わって神の怒りを受けたことを表しているからです。「木にかけられた者は皆呪われている」(申命記21:23、ガラテヤ3:13)とあるとおりです。
  ルカ福音書には先ほどの言葉はなく、かわりに「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(23:34)という言葉があります。十字架にかけられ、苦しみの中にあって、なお人々のため、特にご自分を十字架にかけた罪人たちのために執り成しておられる姿を描いています。
  ルカ福音書のもう一つの大きな特徴は、主イエスと一緒に十字架にかけられた二人の犯罪人たちです。彼らは他の福音書にも出てきますが、ルカ福音書はより丁寧に彼らの様子を描いています。すなわち、二人のうち一人が主イエスを激しくののしり、もう一人がそれをたしなめたというのです。そして、ののしる犯罪人をたしなめた男は「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と訴えました。すると主イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と答えられました。十字架という激しい痛みと死を目前にしての絶望の中、「楽園にいる」というのは不思議ですが、楽園という場所ではなく、神の祝福と幸いの中にあるということです。神の救いの中にあるという宣言です。
  先ほど、十字架は神の怒り、呪いであると言いました。それにもかかわらず、神の独り子イエス・キリストは「あなたは神の救いの中にある」と宣言しているのです。私たちに救いが宣言されるのは、私たちが幸いな時だけではありません。今死のうとしている時であっても、神は「私はあなたと共にある。あなたを必ず救う」とおっしゃってくださるのです。神を呼び求めるのに遅すぎることはないということです。「わたしは確信しています。死も、・・・わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ローマ8:38~39)とあるとおりです。
  イザヤ書56章に、「異邦人や宦官は絶望することはない。神があなたがたを救い、祝福する」とありました。かつて異邦人や宦官は神の祝福から遠いと考えられていました。そのような彼らを、神は決して見捨てないと預言者は伝えたのです。同じように、重罪を犯した犯罪人がその刑を受けまさに死のうとしている時にあっても、神は決して彼らを見捨てないと、救い主イエス・キリストは宣言しているのです。
  「彼らをお赦しください」と執り成し、「あなたは救いを受けている」と宣言するキリストが、私たちをしっかり捉えてくださっているのです。