イザヤ書43章19節(日本聖書協会「新共同訳」)
見よ、新しいことをわたしは行う。
今や、それは芽生えている。
あなたたちはそれを悟らないのか。
わたしは荒れ野に道を敷き
砂漠に大河を流れさせる。
コロサイの信徒への手紙3章12~17節(日本聖書協会「新共同訳」)
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。
コロサイの信徒への手紙2~3章では、キリスト者の生活について教えられています。その教えの鍵となる言葉は2章12節の「(キリストの名による)洗礼によって、キリストと共に葬られ、キリストと共に復活させられた」という言葉です。そしてそれは「キリストに結ばれている」(2:6)ということです。それを踏まえて3章10節で「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達する」と教えられています。「造り主の姿に倣う新しい人を身に着ける」は、他の聖書の個所で「キリストを身にまとう」(ローマ13:14)と表現されています。
洗礼を受ける時、それは私たちに罪がなくなったから洗礼を受けたというのではありません。罪人であるその時に義とされ、洗礼を受けたのです。パウロは「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」(ローマ3:24)と言い、「(神は)イエスを信じる者を義とする」(ローマ3:26)とも言うのです。すなわち、「罪赦された罪人」ということで、宗教改革者マルチン・ルターはこれを「罪人にして、同時に義人」という言い方をしました。罪人という面と義人という面との両方を持っているということです。それはパウロの言葉で言うならば「キリストを身にまとっている」ということです。
キリストを身にまとうというのは、外から見るとキリストによって義とされており、しかしその内面は罪人ということです。誤解を恐れずに言うならば、罪人がキリストをまとうことにより、キリストの姿を装っているということです。
しかし、これで終わりではありません。コロサイ書は「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達する」(3:10)と教えています。すなわち、キリストをまとった罪人である私たちは、その内側で日々新たにされていくのです。キリストの姿にふさわしい者へと変えられていくのです。これを「聖化」と言います。
キリストをまとった私たちは、日々新しくされ、聖化の道を歩みます。地上にある間、聖化が完成することはありません。しかし、聖化の歩みはすでに始まっているのです。コロサイ書3章12~17節で語られているのは、その聖化の道を歩んでいる私たちがどのように生活をすべきかを示しているのです。12節では私たちが心掛けるべきことが、13節では私たちが互いにどのように交わりを持つべきか、14~15節では愛と平和が私たちの心を支配するようにと、16節でキリストの言葉が私たちの内で豊かに宿るようにし、感謝して神を礼拝することを、そして、17節で以上をまとめるように「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」と勧められています。
先ほど、私たちが地上にある間、聖化が完成することはないと言いましたが、それが完成するのは終末の時で、キリストの再臨の時です。そのことについてパウロは「わたしたちは皆、・・・主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていく」(Ⅱコリント3:18)、「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられる」(Ⅰコリント15:52)と告げています。この時、私たちの聖化が完成し、神の国に凱旋することになるのです。
見よ、新しいことをわたしは行う。
今や、それは芽生えている。
あなたたちはそれを悟らないのか。
わたしは荒れ野に道を敷き
砂漠に大河を流れさせる。
コロサイの信徒への手紙3章12~17節(日本聖書協会「新共同訳」)
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。
コロサイの信徒への手紙2~3章では、キリスト者の生活について教えられています。その教えの鍵となる言葉は2章12節の「(キリストの名による)洗礼によって、キリストと共に葬られ、キリストと共に復活させられた」という言葉です。そしてそれは「キリストに結ばれている」(2:6)ということです。それを踏まえて3章10節で「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達する」と教えられています。「造り主の姿に倣う新しい人を身に着ける」は、他の聖書の個所で「キリストを身にまとう」(ローマ13:14)と表現されています。
洗礼を受ける時、それは私たちに罪がなくなったから洗礼を受けたというのではありません。罪人であるその時に義とされ、洗礼を受けたのです。パウロは「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」(ローマ3:24)と言い、「(神は)イエスを信じる者を義とする」(ローマ3:26)とも言うのです。すなわち、「罪赦された罪人」ということで、宗教改革者マルチン・ルターはこれを「罪人にして、同時に義人」という言い方をしました。罪人という面と義人という面との両方を持っているということです。それはパウロの言葉で言うならば「キリストを身にまとっている」ということです。
キリストを身にまとうというのは、外から見るとキリストによって義とされており、しかしその内面は罪人ということです。誤解を恐れずに言うならば、罪人がキリストをまとうことにより、キリストの姿を装っているということです。
しかし、これで終わりではありません。コロサイ書は「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達する」(3:10)と教えています。すなわち、キリストをまとった罪人である私たちは、その内側で日々新たにされていくのです。キリストの姿にふさわしい者へと変えられていくのです。これを「聖化」と言います。
キリストをまとった私たちは、日々新しくされ、聖化の道を歩みます。地上にある間、聖化が完成することはありません。しかし、聖化の歩みはすでに始まっているのです。コロサイ書3章12~17節で語られているのは、その聖化の道を歩んでいる私たちがどのように生活をすべきかを示しているのです。12節では私たちが心掛けるべきことが、13節では私たちが互いにどのように交わりを持つべきか、14~15節では愛と平和が私たちの心を支配するようにと、16節でキリストの言葉が私たちの内で豊かに宿るようにし、感謝して神を礼拝することを、そして、17節で以上をまとめるように「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」と勧められています。
先ほど、私たちが地上にある間、聖化が完成することはないと言いましたが、それが完成するのは終末の時で、キリストの再臨の時です。そのことについてパウロは「わたしたちは皆、・・・主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていく」(Ⅱコリント3:18)、「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられる」(Ⅰコリント15:52)と告げています。この時、私たちの聖化が完成し、神の国に凱旋することになるのです。