八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「新しい人を身に着けなさい」 2023年9月17日の礼拝

2023年10月23日 | 2023年度
イザヤ書43章19節(日本聖書協会「新共同訳」)

 見よ、新しいことをわたしは行う。
 今や、それは芽生えている。
 あなたたちはそれを悟らないのか。
 わたしは荒れ野に道を敷き
 砂漠に大河を流れさせる。


コロサイの信徒への手紙3章12~17節(日本聖書協会「新共同訳」)

  あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。


  コロサイの信徒への手紙2~3章では、キリスト者の生活について教えられています。その教えの鍵となる言葉は2章12節の「(キリストの名による)洗礼によって、キリストと共に葬られ、キリストと共に復活させられた」という言葉です。そしてそれは「キリストに結ばれている」(2:6)ということです。それを踏まえて3章10節で「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達する」と教えられています。「造り主の姿に倣う新しい人を身に着ける」は、他の聖書の個所で「キリストを身にまとう」(ローマ13:14)と表現されています。
  洗礼を受ける時、それは私たちに罪がなくなったから洗礼を受けたというのではありません。罪人であるその時に義とされ、洗礼を受けたのです。パウロは「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」(ローマ3:24)と言い、「(神は)イエスを信じる者を義とする」(ローマ3:26)とも言うのです。すなわち、「罪赦された罪人」ということで、宗教改革者マルチン・ルターはこれを「罪人にして、同時に義人」という言い方をしました。罪人という面と義人という面との両方を持っているということです。それはパウロの言葉で言うならば「キリストを身にまとっている」ということです。
  キリストを身にまとうというのは、外から見るとキリストによって義とされており、しかしその内面は罪人ということです。誤解を恐れずに言うならば、罪人がキリストをまとうことにより、キリストの姿を装っているということです。
  しかし、これで終わりではありません。コロサイ書は「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達する」(3:10)と教えています。すなわち、キリストをまとった罪人である私たちは、その内側で日々新たにされていくのです。キリストの姿にふさわしい者へと変えられていくのです。これを「聖化」と言います。
  キリストをまとった私たちは、日々新しくされ、聖化の道を歩みます。地上にある間、聖化が完成することはありません。しかし、聖化の歩みはすでに始まっているのです。コロサイ書3章12~17節で語られているのは、その聖化の道を歩んでいる私たちがどのように生活をすべきかを示しているのです。12節では私たちが心掛けるべきことが、13節では私たちが互いにどのように交わりを持つべきか、14~15節では愛と平和が私たちの心を支配するようにと、16節でキリストの言葉が私たちの内で豊かに宿るようにし、感謝して神を礼拝することを、そして、17節で以上をまとめるように「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」と勧められています。
  先ほど、私たちが地上にある間、聖化が完成することはないと言いましたが、それが完成するのは終末の時で、キリストの再臨の時です。そのことについてパウロは「わたしたちは皆、・・・主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていく」(Ⅱコリント3:18)、「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられる」(Ⅰコリント15:52)と告げています。この時、私たちの聖化が完成し、神の国に凱旋することになるのです。


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「キリストの十字架のみを誇る」 2023年9月10日の礼拝

2023年10月16日 | 2023年度
エゼキエル書9章1~6節(日本聖書協会「新共同訳」)

  彼は大声でわたしの耳に語った。「この都を罰する者たちよ、おのおの破壊する道具を手にして近寄れ。」すると、北に面する上の門に通ずる道から、六人の男がそれぞれ突き崩す道具を手にしてやって来るではないか。そのうちの一人は亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けていた。彼らはやって来ると、青銅の祭壇の傍らに立った。すると、ケルビムの上にとどまっていたイスラエルの神の栄光はそこから昇って、神殿の敷居の方に向かい、亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けた者に呼びかけた。主は彼に言われた。「都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ。」また、他の者たちに言っておられるのが、わたしの耳に入った。「彼の後ろについて都の中を巡れ。打て。慈しみの目を注いではならない。憐れみをかけてはならない。老人も若者も、おとめも子供も人妻も殺して、滅ぼし尽くさなければならない。しかし、あの印のある者に近づいてはならない。さあ、わたしの神殿から始めよ。」彼らは、神殿の前にいた長老たちから始めた。

ガラテヤの信徒への手紙6章14~18節(日本聖書協会「新共同訳」)

  しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。
  これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。
  兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。



  ガラテヤは、今のトルコの中央部にある地域で、パウロが伝道し、いくつかの教会が立ちました。パウロが離れた後、割礼を強調する人々がやって来て、ガラテヤの諸教会もその主張に惑わされていました。
  パウロは5章6節で「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と記しています。「割礼の有無は問題ではない」という言葉は今日の6章15節にも出てきました。割礼を行っても行わなくてもどちらでもよいということです。パウロには割礼を断固否定するというイメージがありますが、そうではありません。実際、テモテという若者に割礼を施したこと(使徒言行録16:3)があります。
  パウロがガラテヤ書で問題にしているのは、割礼を強要する人々のことです。彼らの主張は、「イエス・キリストを信じているだけでは救われない。割礼を受けなければならない」ということでした。パウロは「キリストを信じるだけで救われるのであって、割礼は救われるための絶対条件ではない」と主張しているのです。
  割礼は、神がアブラハムに神の民のしるしとして行うようにと命じた大切なことです。ユダヤ人にとって、これはないがしろにできないことでした。しかし、割礼はしるしであって、救いそのものではありません。
  割礼は、神の民であることのしるしです。ユダヤ人は割礼を身に受けていることにより、神の民の一員としての自覚を持つことができました。そして、自分たちは神に選ばれているという選民思想を持つようになりましたが、それはやがてユダヤ人以外の人々を選ばれていない、救いから外されているというように見下していくことにもなっていったのです。
  神が選んだ神の民ユダヤ人の中にキリストが現れ、神がユダヤ人を選んだ目的が達成されました。そのキリストが現れたのは、ユダヤ人だけでなく、すべての人々を救うという神の計画を成就するためでした。この計画はユダヤ人の最初の先祖アブラハムが選ばれた時(創世記12:2~3)から明らかにされていました。割礼はユダヤ人が神の民のしるしであり、神の民はキリストが神の真の救いであることを示すはずでした。そのキリストが現れた以上、ユダヤ人の神の民としての役割と神の民のしるしである割礼の役目は終了したのです。ですから、パウロは割礼を否定はしませんでしたが、「割礼の有無は問題ではない」と言ったのです。むしろ大切なのは「キリスト・イエスに結ばれている」(5:6)ことなのです。
  さて、「しるし」ということでは、キリスト教会が行う「洗礼」もまたキリストに結ばれている「しるし」(ローマ6:3~11)です。この「しるし」を受けている私たちは、自分がキリストに結ばれ、救われているという自覚を与えられています。目には見えませんが、神から与えられているこの「しるし」はカインに与えられた「しるし」(創世記4:15)、エゼキエル9:1~6の「しるし」で、救いを保証しています。この「しるし」は誰にも消すことができません。パウロが「私はイエスの焼き印を身に受けている」と誇らしげに語るのも、それが理由です。
  ヨハネ黙示録には、神の刻印を受け救われる人々(7:2~8、9:4)と獣の刻印を受け滅ぼされる人々(13~19章)のことがでてきます。ここでの神の刻印とは、キリストに結ばれていること示す「しるし」、キリストの名による洗礼です。自分がこの「しるし」を身に受けていることを自覚し、歩みを続けましょう。


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「神からの誉れを求める」 2023年9月3日の礼拝

2023年10月02日 | 2023年度
箴言25章2節(日本聖書協会「新共同訳」)

 ことを隠すのは神の誉れ
 ことを極めるのは王の誉れ。


コリントの信徒への手紙 二 11章7~15節(日本聖書協会「新共同訳」)

  それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。わたしは、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れました。あなたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした。マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれたからです。そして、わたしは何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです。わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います。このようにわたしが誇るのを、アカイア地方で妨げられることは決してありません。なぜだろうか。わたしがあなたがたを愛していないからだろうか。神がご存じです。
  わたしは今していることを今後も続けるつもりです。それは、わたしたちと同様に誇れるようにと機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切るためです。こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。




  コリントの教会に宛てたパウロの手紙を見ると、次々と問題が起こっていたことがわかります。第二コリント11章で扱われている問題は、パウロが宣べ伝えた福音とは異なることを教える人々がやって来たことでした。
  その人々は、自らを「大使徒」(11:5)と称していたらしく、あたかもパウロよりも優れた使徒であるかのように偽り、報酬を受けていたのです。
  伝道する人が、報酬を受けてはならないということではありません。ただ、パウロはコリントで伝道していた時、他の教会の人々から援助を受けて(11:7~9)、コリントの教会からはなにも受けていませんでした。コリントの教会への配慮からでした。問題なのは、無報酬で働いていたパウロを、それを根拠にパウロの教えには価値がないと、偽りを教えていた人々がコリントの教会の人々を惑わしていたことです。「素晴らしい知恵や教えには、それに見合う高い報酬を支払うべきで、それを受けないということは、自ら自分の教えには価値がないと言っているようなものだ。だから、パウロの教えには価値はない」と言っていたのでしょう。
  それに対しパウロは、自分が宣べ伝えた福音は、人間から受ける報酬によって価値が決まるのではない、と主張します。それが真実に神から託されたメッセージであるというところに、真の価値があるというのです。偽りを教える人々の考えと、全く違うのです。聴衆によって高く評価され、それに見合う報酬を得るならば、それが語った教えの価値を示していると、偽使徒たちは考えているのです。
  パウロは以前コリントの教会に送った手紙で「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えている」(Ⅰコリント1:23)と言い、これこそ「神の力、神の知恵であるキリスト」(Ⅰコリント1:24)だと強く主張するのです。さらには、「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めている」(Ⅰコリント2:2)とまで言うのです。なぜなら、十字架のキリスト、それは復活のキリストでもあるわけですが、このキリストを信じる者を救うことと神は定めたからです。
  パウロは、神からこの十字架と復活のキリストを宣べ伝えるために使徒に立てられました。それ故、人から高く評価されることを求めてこなかったし、報酬を受けようとも思わなかったのです。パウロにとって、十字架と復活のキリストによる救いという福音を神から託されている故に、その神に喜んでいただくことが、なにものにも代えがたい貴い報酬なのです。


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