八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「異邦人に信仰の門が開く」 2023年7月2日の礼拝

2023年07月24日 | 2023年度
ルツ記1章19~22節(日本聖書協会「新共同訳」)

  ベツレヘムに着いてみると、町中が二人のことでどよめき、女たちが、ナオミさんではありませんかと声をかけてくると、ナオミは言った。
  「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。
 出て行くときは、満たされていたわたしを
 主はうつろにして帰らせたのです。
 なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。
 主がわたしを悩ませ
 全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」
  ナオミはこうして、モアブ生まれの嫁ルツを連れてモアブの野を去り、帰って来た。二人がベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れの始まるころであった。


使徒言行録11章4~18節(日本聖書協会「新共同訳」)

  そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。すると、“霊”がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。』わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。


  5月28日(日)のペンテコステ礼拝以降、毎週の日曜日の礼拝では、教会の誕生から始まり、キリストの福音を宣べ伝える使徒たちや教会の様子をたどってきました。
  使徒言行録8章以降を振り返ってみますと、8章で、福音宣教者と呼ばれたフィリポがサマリアで伝道したこと、エチオピア人の宦官に洗礼を授けたことが記されていました。
  これらの出来事は、1章8節に記されている「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」という主イエスの言葉が着々と実現していることを示しています。エチオピア人の宦官の洗礼の出来事は「地の果てに至るまで」、すなわち異邦人伝道が行われていくことの端緒になった出来事です。そして、使徒言行録は、異邦人伝道がさらに進められていく様子を伝えます。
  9章になると、教会を迫害していたサウロ、後にキリストの使徒となってパウロという名前になります。そのパウロが召されてキリスト者になる様子が描かれています。その中で、「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」と神が宣言する場面が描かれています。パウロが伝道のために宣教旅行する様子は13章以降に記され、その宣教旅行において、異邦人へも福音を宣べ伝えたことが教会に報告されています。今日の説教の題である「異邦人に信仰の門が開かれた」はその報告の場面(14:27)からとったものです。
  さて、フィリポの伝道とパウロの伝道の間に記されている使徒言行録11章は、ペトロがカイサリアで行った異邦人伝道についてエルサレムの教会に報告をした場面です。8章に記されていたフィリポのエチオピア人の宦官への伝道は異邦人への福音宣教ということでは重要な意味を持っていましたが、サマリア伝道の時のように教会が関わってはいなかったので、フィリポ個人の働きだったと言えます。しかし、ペトロの福音宣教の出来事がエルサレムの教会へ報告をし、それを教会が受け入れ、「神を賛美した」とあるので、異邦人への伝道が個人的な働きでなく、教会としての業となったと言えます。
  全ての人を救う神の御計画は、アブラハム、イサク、ヤコブに告げられ、預言者たちもそのことを伝えていました。しかし、長い歴史の中で、そのことが忘れられ、また誤った選民思想によって自分たちの救いだけを考えるようになっていました。キリストが使徒たちをユダヤ人と異邦人に派遣し、神の救いを宣べ伝えさせました。このように異邦人への伝道は、神の民の歴史の新しい始まりとなったのです。


「洗礼を受けた異邦人」 2023年6月25日の礼拝

2023年07月18日 | 2023年度
エゼキエル書34章1~6節(日本聖書協会「新共同訳」)

  主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。

使徒言行録8章26~38節(日本聖書協会「新共同訳」)

  さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。すると、“霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。彼が朗読していた聖書の個所はこれである。
 「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。
 毛を刈る者の前で黙している小羊のように、
   口を開かない。
 卑しめられて、その裁きも行われなかった。
 だれが、その子孫について語れるだろう。
 彼の命は地上から取り去られるからだ。」
  宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。




  今日登場するフィリポはステファノと共に配給の世話係に選ばれた七人の内の一人です。その時は特別の地位を意味してはいませんでしたが、その奉仕をする務めディアコニアが教会の中において次第に重要な務めを意味するようになりました。ローマ・カトリック教会で司教、司祭に次ぐ地位として助祭がありますが、ディアコニアは助祭と訳されるようになりました。プロテスタントの諸教会では牧師、長老と共に教会の大切な務めとして執事がありますが、この執事がディアコニアから来ています。
  使徒言行録ではこの配給の世話係の仕事そのものはほとんど出てきません。ところが配給の世話係であったはずの彼らが、配給とは別の特別の働きをしたと記しています。とくにステファノはキリスト教会の最初の殉教者としてその出来事が丁寧に記されています。今日登場するフィリポもサマリアで奇跡を行い、福音を宣べ伝えている様子(8:5~13)が記され、今日の場面でもエチオピアの宦官に福音を宣べ伝えています。ステファノにしてもフィリポにしても、もともとの配給の奉仕以上に、福音を宣べ伝えていると、使徒言行録は強調しています。
  特にフィリポについて、使徒言行録は彼を福音宣教者(21:8)と呼んでいます。この言葉はエフェソ書にも出てきますが、そこでは使徒、預言者、牧師、教師と並べられています。福音宣教者が当時の教会組織の正式な役職名であるかどうかは分かりませんが、使徒言行録が書かれた時代、フィリポが福音宣教者と呼ばれていたことを示しています。
  先ほども触れたように、そのフィリポはサマリアで奇跡を行い、福音を宣べ伝えました。それを記すことにより、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1:8)という主イエスの言葉が実現しつつあると告げているのです。そして今日の8章26節以下はフィリポによるサマリア伝道の続きというだけではなく、「地の果てまで」福音が宣べ伝えられていくことを予想させます。
  8章27節に登場するエチオピア人の宦官は異邦人であり、彼への伝道は「地の果てまで」の出発点のように位置付けられています。またイザヤ書56章に記されている異邦人と宦官に対する神の慈しみの成就を連想させます。
  さて、エチオピア人の宦官がイザヤ書53章を読んでいましたが、それは「苦難の僕」と呼ばれる個所で、主イエスを預言した個所として、キリスト教会が特に重んじていた言葉です。
  フィリポはエチオピア人の宦官に尋ねられ、預言者イザヤが記しているのは、イエス・キリストのことだと伝えました。それを聞いたエチオピア人の宦官は水のある所に来たので洗礼を受けたいと申し出、フィリポは彼に洗礼を授けました。こうして、初めて異邦人への洗礼が行われました。この出来事は確かに「地の果てまで」の出発点ではありますが、フィリポが個人として洗礼を授けたということに留まりました。サマリア伝道の時のように、教会がその出来事に積極的に関わってはいません。教会が異邦人伝道を意識的に行うには、まだ時間とそのための準備が必要でした。異邦人伝道を本格的に始めるために、神が準備を整えていきます。それが9章に記されるサウロの回心の出来事です。


「イエス・キリストの名によって」 2023年6月18日の礼拝

2023年07月10日 | 2023年度
申命記8章11~20節(日本聖書協会「新共同訳」)

  わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい。あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。
  もしあなたが、あなたの神、主を忘れて他の神々に従い、それに仕えて、ひれ伏すようなことがあれば、わたしは、今日、あなたたちに証言する。あなたたちは必ず滅びる。主があなたたちの前から滅ぼされた国々と同じように、あなたたちも、あなたたちの神、主の御声に聞き従わないがゆえに、滅び去る。


使徒言行録4章5~12節(日本聖書協会「新共同訳」)

  次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、
 『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、
 隅の親石となった石』
です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」




  エルサレムの神殿の境内で福音を宣べ伝えていたペトロとヨハネが捕らえられ、翌日、大祭司をはじめとするユダヤの有力者たちから尋問されました。
  事の始まりはペトロとヨハネが祈るために神殿に行った時、足の不自由な人を癒すという奇跡を行ったことでした。それを見ていた人々が驚き、さらに多くの人々が集まってきたので、ペトロたちは主イエスの十字架と復活の出来事を語り、この方こそキリストであると訴えたのです。それを聞いて信じた人々は五千人もの数にのぼりました。
  最初百二十人だった弟子たち(1:15)は、三千人(2:41)となり、ついに五千人という異常ともいえるほどの増え方をしました。使徒言行録は弟子たちの数を記すことにより、キリストを信じる人々が急速に増えていった様子を伝えています。
  エルサレムの神殿がいくら広いとは言え、五千人以上もの人々が集まり、ペトロの言葉に耳を傾けていると知ったユダヤの有力者たちが驚き慌てたのも無理はありません。しかも、主イエスが十字架にかけられたというペトロの言葉は、ユダヤ人たちにその責任があると告発しているとも受け取れるのです。こうして、ペトロとヨハネは捕らえられ、尋問を受けることになりました。
  捕らえられた翌日、ユダヤの最高議会の議員たちが招集され、議長を務める大祭司が尋問を始めました。
  「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」。かつて彼らが主イエスにした(ルカ20:2)のと全く同じ言葉で問いかけました。
  ペトロは神殿で多くの人々に話したことを繰り返します。「足の不自由な人を癒した奇跡は、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたイエス・キリストの名によるものです」。続けて「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない」と答えました。
  「あなたがたが十字架につけて殺した」とペトロは言いましたが、主イエスの死の責任を追求しようという意図があるわけではありません。ただその事実を告げているだけで、ペトロが最も主張したかったのは、主イエスの十字架と復活は神の御計画だということです。神は主イエスを信じるすべての人を救うこととされたのです。「ほかのだれによっても、救いは得られず、私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない」というのは、神がそのように定めたからなのだと言いたいのです。
  イエスの名によるというのは、イエスによってということです。イエスに結ばれてと言っても良いでしょう。
  使徒言行録に「イエスの名による洗礼」(8:16、19:5)という言葉が出てきます。その洗礼をパウロは「キリスト・イエスに結ばれる洗礼」(ローマ6:3)と言い、「洗礼によって、キリストの死にあずかるものとなった。・・・キリストが復活させられたように、私たちも新しい命に生きる」(ローマ6:4)とも言っています。
  イエスの名による救いとは、イエスに結ばれることにより罪を赦され、永遠の命に生きるということです。その救いが確かであるということの目に見える保証として「イエスの名による洗礼」があり、それ故、使徒言行録はこの言葉を繰り返すのです。


「救いの約束が与えられている」 2023年6月11日の礼拝

2023年07月06日 | 2023年度
サムエル記下7章5~7節(日本聖書協会「新共同訳」)

  「わたしの僕ダビデのもとに行って告げよ。主はこう言われる。あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。わたしはイスラエルの子らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、家に住まず、天幕、すなわち幕屋を住みかとして歩んできた。わたしはイスラエルの子らと常に共に歩んできたが、その間、わたしの民イスラエルを牧するようにと命じたイスラエルの部族の一つにでも、なぜわたしのためにレバノン杉の家を建てないのか、と言ったことがあろうか。

使徒言行録2章37~42節(日本聖書協会「新共同訳」)

  人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。


  主イエスの十字架の死と復活を語ったペトロの言葉を聞いた人々は、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ね、ペトロは「悔い改めてイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」と勧めました。このペトロの言葉を受け入れ、洗礼を受けて信仰に入った人々が三千人ほどあったとあります。
  使徒言行録は、1章25節で使徒たちの集まりが百二十人ほどと記しており、今日の聖書の個所では三千人ほどに増えたと記しています。このように数が増えたことを記すことにより、1章8節に記されている「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」という主イエスの言葉が着々と実現していく様子を伝えようとしているのです。
  さて、ペトロの言葉は「悔い改める」、「イエス・キリストの名によって洗礼を受ける」、「罪を赦していただく」という三つの別々の事を言っているようですが、これら三つは一つのことです。
  まず「悔い改める」ということから見ていきますと、この言葉はもともと方向を変えるという意味の言葉です。神から離れて道を逸れた状態を「罪」と言いますが、その道を離れた状態(すなわち「罪」)から方向を変えて、神の方へと向きを変えることを「悔い改め」と言っているのです。
  次に「洗礼」ですが、もともとは水に身を浸すことを意味しており、身の汚れ、罪の汚れを清める目的で行っていました。たとえば、洗礼者ヨハネが行っていた洗礼がこれでした。しかし、キリスト教では、汚れから身を清める、罪から身を清めるというだけではなく、イエス・キリストと一体となるという意味を持つようになりました。それはローマ書6章で「キリストに結ばれる洗礼」と説明し、その洗礼によってキリストの死にあずかり、キリストと共に生き、新しい命に生きるとあるとおりです。
  キリストの死にあずかるというのは、キリストが十字架にかかってくださったことにより罪の贖いがなされ、この十字架のキリストに結ばれて私たちの罪が赦されているということです。ペトロの勧めの言葉にある「罪を赦していただく」というのは、そういう意味です。そして、キリストの復活にあずかり、キリストと共に生き、新しい命に生きるというのは、キリストに結ばれて、キリストと共に永遠の命に生きるということです。
  ペトロはこれらの勧めをするとき、「約束」という言葉を用いました。神がすべての人々を救うために、約束してくださったということです。神の約束は、神の決意を表しています。そして、その決意は何かの都合によって取り消されたり、変更されたりすることはありません。どのようなことがあっても、この約束を神は守ってくださるのです。ですから、神が約束してくださったということは、すでに成就したのと同じほど確かであり、それ故神の約束は確かな救いの保証なのです。この約束を、私たちも受けており、私たちは自分が救われていることを確信することができるのです。