八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「ヨハネから洗礼を受けるキリスト」  2014年5月4日の礼拝

2014年05月26日 | 2014年度
詩編98編1~3節

新しい歌を主に向かって歌え。
主は驚くべき御業を成し遂げられた。
右の御手、聖なる御腕によって
  主は救いの御業を果たされた。

主は救いを示し
恵みの御業を諸国の民の目に現し
イスラエルの家に対する
  慈しみとまことを御心に留められた。
地の果てまですべての人は
  わたしたちの神の救いの御業を見た。


マタイによる福音書3章13~17節

  そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

  今日から、再びマタイ福音書の連続講解に戻ります。
  マタイ福音書3章で洗礼者ヨハネが登場し、その風貌や人々に告げたメッセージなどが記されていました。それに続いて、今日の聖書の箇所で、そのヨハネから主イエスが洗礼を受けられた出来事が記されています。そして、それはマタイだけではなく、マルコ福音書やルカ福音書にも記されています。
  洗礼者ヨハネは、主イエスの先駆者と言っても良いでしょう。しかし、何故主イエスはヨハネから洗礼を受けられたのでしょうか?
  主イエスは神の独り子であり、神に対して罪のないお方です。ですから、悔い改める必要はありませんし、悔い改めの洗礼も必要はありません。さらに、洗礼者ヨハネは「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。」と、主イエスを人々に指し示していましたし、洗礼を受けにこられた主イエスに「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」と言って、主イエスを思いとどまらせようとしました。ちなみに、「思いとどまらせる」と訳されている言葉は、新約聖書の中ではここにだけ出てくる言葉で、「どうしても思いとどまらせようとする」とか「断固、阻止する」という意味です。
  主イエスには洗礼は必要ではありませんでしたし、全く無駄のように見えます。しかし、主イエスは「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしい」とおっしゃって、洗礼を受けられたのです。
  「正しいこと」は、一般的に使われる「正義」という意味ですが、聖書においては、「神の義、神の義しさ」という意味も持っています。神の義とは、規則に照らし合わせて正しいというだけではなく、神の御心をあらわしています。神だけが完全に正しいお方だからです。そして、その神の御心は、私たち人間の救いに向けられているのです。そこで、私たちは、神の義を救いの中に見ることができるのです。
  こうして、主イエスは、ご自身のためには必要でなかった洗礼を、私たちの救いのために受けられたのです。洗礼者ヨハネは、主イエスの要求に従ったにすぎません。そして、主イエスは、私たちの救いのために父なる神の意志に従ったのです。
  神は、私たちを罪から救うために、独り子である主イエスをお遣わしくださいました。それは、私たちの罪の償いとして、御子を十字架におかけになるためでした。その十字架への道の出発点が、洗礼者ヨハネから洗礼を受けるということだったのです。
  「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしい」と、主イエスはおっしゃいました。
  正しいことを全て行うのは、キリストばかりでなく、ヨハネによってもふさわしいということです。さらには、キリストを信じる私たちにとってもふさわしいということです。
  キリストが洗礼を受けられたという出来事により、私たちは神への従順について教えられます。ご自身にとって必要でなかったにもかかわらず、私たち人間の救いのために主イエスは洗礼を受け、神の御心に従順に従われたということです。それは、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6-8)という御言葉に示されているとおりです。
  このキリストに結ばれる洗礼を、私たちは受けているのです。(ローマ6:3-11)
  キリストは、私たちが父なる神に従順であることの模範となられたのです。
  私たちが神に従順であろうとするとき、納得できないこともあるでしょう。そのようなとき、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(ルカ5:5)と答えたシモン・ペトロや「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38)と答えたマリアを思い起こしましょう。そして、「この不信仰な私ですが、あなたの御言葉ですから、そのようにしてみましょう。」、「お言葉どおり、この身に成りますように。」にと祈ることが、神に救われた者にふさわしい生活へと導いていくのです。

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「新しい命に生きる」 2014年4月20日(イースター)の礼拝

2014年05月19日 | 2014年度
詩編49編6~16節

災いのふりかかる日
わたしを追う者の悪意に囲まれるときにも
どうして恐れることがあろうか
財宝を頼みとし、富の力を誇る者を。
神に対して、人は兄弟をも贖いえない。
神に身代金を払うことはできない。
魂を贖う値は高く
とこしえに、払い終えることはない。
人は永遠に生きようか。
墓穴を見ずにすむであろうか。
人が見ることは
知恵ある者も死に
無知な者、愚かな者と共に滅び
財宝を他人に遺さねばならないということ。
自分の名を付けた地所を持っていても
その土の底だけが彼らのとこしえの家
代々に、彼らが住まう所。

  人間は栄華のうちにとどまることはできない。
  屠られる獣に等しい。

これが自分の力に頼る者の道
自分の口の言葉に満足する者の行く末。
陰府に置かれた羊の群れ
死が彼らを飼う。
朝になれば正しい人がその上を踏んで行き
誇り高かったその姿を陰府がむしばむ。
しかし、神はわたしの魂を贖い
陰府の手から取り上げてくださる。


マルコによる福音書16章1~8節

  安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

  16章1節の「安息日が終わると」というのは、土曜日の夕方、太陽が沈んだ後ということです。安息日あけで、短時間ですが、店が開いていたのでしょう。急いで香料を買い求め、宿に戻りました。
  2節の「週の初めの日の朝ごく早く」というのは、日曜日の早朝ということです。「日が出るとすぐ」とありますから、人気(ひとけ)がほとんど無い時間です。人目を避け、あわただしく出かけて行ったのです。
  ここに登場する三人の女性は、十字架にかかられた主イエスを見守っていた人々であり、以前から主イエスの身近で世話をしていたのでしょう。彼女たちは悲しみに打ちのめされていましたが、主イエスへの最後の奉仕のために朝早く出発したのです。
  墓が近づいてくると、墓の入り口をふさいでいる重い石のことを思い出しました。三人の女性ではとても転がすことが出来ません。どうしようかと言い合っている間に、墓に到着しました。不思議なことに、墓の入り口の石はすでに脇へ転がされていました。
  中へ入ってみると、白い長い衣を着た若者がおりました。天使に違いありません。
  天使が告げた第一のメッセージは、キリストが復活されたことでした。キリストが生きておられるというのです。
  キリストの十字架は、新しい契約と贖罪という意味があります。そして、それはキリストの復活に繋がっているのです。キリストの復活は、キリストが復活されたというだけではなく、キリストを信じる私たちのための出来事でもあるのです。すなわち、私たちが永遠の命にあずかるということです。キリストの復活はそのさきがけであることを示しているのです。
  使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の中で次のように告げております。
「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。・・・あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」。(ローマ6:4、11)
  私たちはキリストに結ばれて、新しい命に生きているのです。死んだ後ではなく、キリストの名による洗礼を受けたとき、永遠の命を生き始めているのです。地上に生きている間は、未だ完成はしていません。終末の時、主イエス・キリストの再臨の時に完成します。そして、永遠に神と共に生きるのです。
  天使が告げた第二のメッセージは、「キリストは墓にはおられない」ということでした。
  キリストは、すでに墓を後にし、新たな活動をしておられるのです。天使だけが、空になった墓にとどまっていました。三人の女性たちが来るのを待っていたのです。彼女たちに復活のメッセージを伝えるためでした。天使のメッセージは、私たちの目を墓石のかなたにいるキリストへと向けさせます。
  これは私たちの信仰の要です。十字架抜きのキリストでも復活抜きのキリストでもなく、十字架と復活のキリストに結ばれていることが信仰の本質なのです。

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「十字架につけられたキリスト」 2014年4月13日の礼拝

2014年05月16日 | 2014年度
詩編22編2~9節

わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか。
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
わたしの神よ
昼は、呼び求めても答えてくださらない。
夜も、黙ることをお許しにならない。

だがあなたは、聖所にいまし
イスラエルの賛美を受ける方。
わたしたちの先祖はあなたに依り頼み
依り頼んで、救われて来た。
助けを求めてあなたに叫び、救い出され
あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。

わたしは虫けら、とても人とはいえない。
人間の屑、民の恥。
わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い
唇を突き出し、頭を振る。
「主に頼んで救ってもらうがよい。
主が愛しておられるなら
助けてくださるだろう。」

マルコによる福音書15章25~38節

  イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
  昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。



  今日の聖書の箇所は、受難週の第6日目、金曜日の出来事です。
  詩編22編は、主イエス・キリストの十字架の死を預言しているとして、よく読まれています。この詩の中に、主イエスの十字架の出来事を思い起こさせる言葉が出てくるからです。特に、十字架にかけられた主イエスが叫ばれた「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」は、この詩編22編の冒頭にある「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」という言葉なのです。
  十字架の上で主イエスが何故この言葉を叫ばれたかということについては諸説ありますが、詩編の言葉通り、神に見捨てられた者の絶望の叫びと見るべきでしょう。
  キリストは神の独り子であり、罪のない方でした。しかし、真の人となり、私たち罪人に代わって十字架にかかられたのです。
  十字架は、当時、ローマ帝国がローマ市民権を持っていない重犯罪人に対して行っていた死刑方法であり、見せしめでもありました。ですから、十字架にかけられたのは主イエス・キリストだけではなく、多くの人々がこの刑に処せられていたのです。しかし、主イエスの十字架は、無数の十字架の中のひとつではありません。全く特別の出来事なのです。
  それは、十字架にかかられたキリストは真の人間であり、罪のない方であったということです。これにより、ローマ帝国の死刑ということとは別の意味を持つことになりました。それは旧約聖書に記されている罪の償いとしての犠牲ということです。
  旧約聖書には罪を犯した者は、罪の償いとして動物を犠牲として献げなければならないと教えられています。その時の動物は傷のない完全なものでなければなりませんでした。その動物の血を祭壇に注いだのです。血の中に、その動物の命があると考えられていましたので、血を祭壇に注ぐことは、動物の命を神に献げることであり、またその動物を献げる人自身の命を献げたとみなされたのです。
  また、神の民全体の罪の償いの日として「贖罪の日」が定められており、この日に、大祭司が年に一度、神殿の至聖所に入り、民全体の罪の償いとして、契約の箱の上にある「贖いの座」に血を振りかけていました。これは毎年行われていましたし、通常の罪の償いの犠牲もくり返し行われていました。これらの犠牲がくり返し行われていたということは、その償いは完全ではないことを示しています。
  主イエス・キリストの十字架は、これらの罪の償いの犠牲よりもはるかに勝る完全な犠牲であったのです。ですから、もはや動物の血という犠牲をささげる必要はないのです。
  主イエスが真の人間となられた意味がここにあります。私たちは神に罪を犯した罪人です。ですから、私たちの誰が十字架にかかっても、罪の償いとしての意味はありません。そこで、神は、独り子であるキリストを真の人間、すなわち罪のない人間として生まれさせ、十字架へ向かわせられたのです。
  十字架にかかられたキリストは、私たちの罪の贖いとなられたのです。それは私たちが受けるべき神の怒りを、代わって受けてくださったのです。ガラテヤ書3:13に「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてある」とあるとおりです。
  ですから、十字架上のキリストの叫びは、本来は私たちが叫ぶはずであった神の怒りを受けた者の絶望の叫びなのです。
  主イエスが十字架の上で息を引き取られた時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたとあります。この垂れ幕は、神殿の中の聖所と至聖所を隔てている幕です。
  大祭司といえども、民全体の罪の贖いをするため、年に一度しか奥の至聖所に入る事は許されていませんでした。大祭司も罪人であるため、神に近づくことが許されなかったのです。
  聖所と至聖所隔てる垂れ幕が真っ二つに裂けたことは、神に近づく道が開かれたことを象徴的に示しています。それは、キリストによって開かれた神に至る道であり、神が私たちの罪を赦してくださったことを示しているのです。

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「キリストの契約の血」  2014年4月6日の礼拝

2014年05月08日 | 2014年度
出エジプト記24章3~8節

  モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」

マルコによる福音書14章22~26節

  一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

  今日の聖書の箇所は、受難週の第5日目、木曜日の出来事です。
  いわゆる最後の晩餐と呼ばれる主イエスと弟子たちとが、最後に食事をされた日です。この時、主イエスが弟子たちの足を洗ったことから、教会の暦では「洗足の木曜日」とも呼びます。
  今、これらを木曜日の出来事と言いましたが、当時のユダヤでは、日没が一日の始まりでしたので、正確に言いますと、すでに金曜日に入っていることになります。そして、この同じ金曜日のうちに、主イエスは十字架の上で息を引き取られるのです。主イエスも、それが神の御計画であることをすでに知っておられ、その覚悟を持って弟子たちと食事をされたのです。
  最後の晩餐と呼ばれているこの食事は、過越の祭りに行われたもので、旧約のエジプト脱出を記念して行われていました。そのため、この食事は儀式として、順序や語られる言葉なども決まっておりました。主イエスと弟子たちも、いつもと同じような手順で過越の食事をしたはずです。しかし、この時ばかりは、いつもと違っておりました。それが、今日の聖書に出てくる主イエスの言葉です。それは、パンを裂いて弟子たち渡した時の「これはわたしの体である。」と、ぶどう酒を配って「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」とおっしゃったことです。
  「契約の血」という言い方は、出エジプト記24章のモーセの言葉を思い起こさせます。
  出エジプト記24章は、神がイスラエルの民と契約を結ぶ場面が描かれています。
  モーセは、動物の血を鉢にとり、半分を祭壇に注ぎ、残りの半分を民に振りかけました。これは命をかけた契約であることを示し、これを破った者は命をもって償うということを意味しているのです。
  この契約により、イスラエルは正式に神の民となりました。ところが、モーセの時代から数百年の後、イスラエルの民はこの神との契約を忘れ、自分にとって都合の良いものを神とするようになりました。神は何人もの預言者を送り、これを警告しましたが、イスラエルの人々は立ち帰ろうとしません。ついに、バビロン捕囚により国は滅んでしまいました。しかし、預言者エレミヤを通して新しい契約の約束が与えられました。エレミヤ書31章です。
  主イエスがおっしゃった「契約の血」とは、エレミヤが告げた新しい契約のことなのです。ただし、それは最後の晩餐のことではありません。その翌日に十字架にかかられた主イエス・キリストこそ、新しい契約なのです。最後の晩餐の祭に主イエスがおっしゃった「これはわたしの体である。」、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」は、十字架にかかられたキリストと十字架の上で流されたキリストの血を指し示しているのです。
  私たちキリスト者は、キリストの血による新しい契約を結んでいます。それは、キリストの名による洗礼を受けた時がそれです。使徒パウロは次のように告げています。
  「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマ6:3~4)
  契約という言葉は直接出てきていませんが、洗礼を「キリストに結ばれるため」と説明しています。この洗礼によって、私たちはキリストに結ばれ、一体となっているのです。また、このことの故に、教会はキリストの体(Ⅰコリント12:27、エフェソ1:23)であり、キリストは教会の頭(エフェソ5:23、コロサイ1:18)と言われるのです。
  このキリストと結ばれて、私たちは新しい神の民とされているのです。
  教会が行う聖餐式は、主イエスの最後の晩餐を思い起こすだけでなく、私たちが十字架と復活のキリストと一体とされていることを思い起こす時なのです。
  聖餐式を行う度毎に、私たちはキリストの恵みを思い起こし、またその恵みに応えて生活する決意を新たにしていくのです。

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