詩編98編1~3節
新しい歌を主に向かって歌え。
主は驚くべき御業を成し遂げられた。
右の御手、聖なる御腕によって
主は救いの御業を果たされた。
主は救いを示し
恵みの御業を諸国の民の目に現し
イスラエルの家に対する
慈しみとまことを御心に留められた。
地の果てまですべての人は
わたしたちの神の救いの御業を見た。
マタイによる福音書3章13~17節
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
今日から、再びマタイ福音書の連続講解に戻ります。
マタイ福音書3章で洗礼者ヨハネが登場し、その風貌や人々に告げたメッセージなどが記されていました。それに続いて、今日の聖書の箇所で、そのヨハネから主イエスが洗礼を受けられた出来事が記されています。そして、それはマタイだけではなく、マルコ福音書やルカ福音書にも記されています。
洗礼者ヨハネは、主イエスの先駆者と言っても良いでしょう。しかし、何故主イエスはヨハネから洗礼を受けられたのでしょうか?
主イエスは神の独り子であり、神に対して罪のないお方です。ですから、悔い改める必要はありませんし、悔い改めの洗礼も必要はありません。さらに、洗礼者ヨハネは「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。」と、主イエスを人々に指し示していましたし、洗礼を受けにこられた主イエスに「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」と言って、主イエスを思いとどまらせようとしました。ちなみに、「思いとどまらせる」と訳されている言葉は、新約聖書の中ではここにだけ出てくる言葉で、「どうしても思いとどまらせようとする」とか「断固、阻止する」という意味です。
主イエスには洗礼は必要ではありませんでしたし、全く無駄のように見えます。しかし、主イエスは「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしい」とおっしゃって、洗礼を受けられたのです。
「正しいこと」は、一般的に使われる「正義」という意味ですが、聖書においては、「神の義、神の義しさ」という意味も持っています。神の義とは、規則に照らし合わせて正しいというだけではなく、神の御心をあらわしています。神だけが完全に正しいお方だからです。そして、その神の御心は、私たち人間の救いに向けられているのです。そこで、私たちは、神の義を救いの中に見ることができるのです。
こうして、主イエスは、ご自身のためには必要でなかった洗礼を、私たちの救いのために受けられたのです。洗礼者ヨハネは、主イエスの要求に従ったにすぎません。そして、主イエスは、私たちの救いのために父なる神の意志に従ったのです。
神は、私たちを罪から救うために、独り子である主イエスをお遣わしくださいました。それは、私たちの罪の償いとして、御子を十字架におかけになるためでした。その十字架への道の出発点が、洗礼者ヨハネから洗礼を受けるということだったのです。
「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしい」と、主イエスはおっしゃいました。
正しいことを全て行うのは、キリストばかりでなく、ヨハネによってもふさわしいということです。さらには、キリストを信じる私たちにとってもふさわしいということです。
キリストが洗礼を受けられたという出来事により、私たちは神への従順について教えられます。ご自身にとって必要でなかったにもかかわらず、私たち人間の救いのために主イエスは洗礼を受け、神の御心に従順に従われたということです。それは、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6-8)という御言葉に示されているとおりです。
このキリストに結ばれる洗礼を、私たちは受けているのです。(ローマ6:3-11)
キリストは、私たちが父なる神に従順であることの模範となられたのです。
私たちが神に従順であろうとするとき、納得できないこともあるでしょう。そのようなとき、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(ルカ5:5)と答えたシモン・ペトロや「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38)と答えたマリアを思い起こしましょう。そして、「この不信仰な私ですが、あなたの御言葉ですから、そのようにしてみましょう。」、「お言葉どおり、この身に成りますように。」にと祈ることが、神に救われた者にふさわしい生活へと導いていくのです。
新しい歌を主に向かって歌え。
主は驚くべき御業を成し遂げられた。
右の御手、聖なる御腕によって
主は救いの御業を果たされた。
主は救いを示し
恵みの御業を諸国の民の目に現し
イスラエルの家に対する
慈しみとまことを御心に留められた。
地の果てまですべての人は
わたしたちの神の救いの御業を見た。
マタイによる福音書3章13~17節
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
今日から、再びマタイ福音書の連続講解に戻ります。
マタイ福音書3章で洗礼者ヨハネが登場し、その風貌や人々に告げたメッセージなどが記されていました。それに続いて、今日の聖書の箇所で、そのヨハネから主イエスが洗礼を受けられた出来事が記されています。そして、それはマタイだけではなく、マルコ福音書やルカ福音書にも記されています。
洗礼者ヨハネは、主イエスの先駆者と言っても良いでしょう。しかし、何故主イエスはヨハネから洗礼を受けられたのでしょうか?
主イエスは神の独り子であり、神に対して罪のないお方です。ですから、悔い改める必要はありませんし、悔い改めの洗礼も必要はありません。さらに、洗礼者ヨハネは「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。」と、主イエスを人々に指し示していましたし、洗礼を受けにこられた主イエスに「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」と言って、主イエスを思いとどまらせようとしました。ちなみに、「思いとどまらせる」と訳されている言葉は、新約聖書の中ではここにだけ出てくる言葉で、「どうしても思いとどまらせようとする」とか「断固、阻止する」という意味です。
主イエスには洗礼は必要ではありませんでしたし、全く無駄のように見えます。しかし、主イエスは「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしい」とおっしゃって、洗礼を受けられたのです。
「正しいこと」は、一般的に使われる「正義」という意味ですが、聖書においては、「神の義、神の義しさ」という意味も持っています。神の義とは、規則に照らし合わせて正しいというだけではなく、神の御心をあらわしています。神だけが完全に正しいお方だからです。そして、その神の御心は、私たち人間の救いに向けられているのです。そこで、私たちは、神の義を救いの中に見ることができるのです。
こうして、主イエスは、ご自身のためには必要でなかった洗礼を、私たちの救いのために受けられたのです。洗礼者ヨハネは、主イエスの要求に従ったにすぎません。そして、主イエスは、私たちの救いのために父なる神の意志に従ったのです。
神は、私たちを罪から救うために、独り子である主イエスをお遣わしくださいました。それは、私たちの罪の償いとして、御子を十字架におかけになるためでした。その十字架への道の出発点が、洗礼者ヨハネから洗礼を受けるということだったのです。
「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしい」と、主イエスはおっしゃいました。
正しいことを全て行うのは、キリストばかりでなく、ヨハネによってもふさわしいということです。さらには、キリストを信じる私たちにとってもふさわしいということです。
キリストが洗礼を受けられたという出来事により、私たちは神への従順について教えられます。ご自身にとって必要でなかったにもかかわらず、私たち人間の救いのために主イエスは洗礼を受け、神の御心に従順に従われたということです。それは、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6-8)という御言葉に示されているとおりです。
このキリストに結ばれる洗礼を、私たちは受けているのです。(ローマ6:3-11)
キリストは、私たちが父なる神に従順であることの模範となられたのです。
私たちが神に従順であろうとするとき、納得できないこともあるでしょう。そのようなとき、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(ルカ5:5)と答えたシモン・ペトロや「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38)と答えたマリアを思い起こしましょう。そして、「この不信仰な私ですが、あなたの御言葉ですから、そのようにしてみましょう。」、「お言葉どおり、この身に成りますように。」にと祈ることが、神に救われた者にふさわしい生活へと導いていくのです。