八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「罪人を招き、悔い改めさせるため」 2016年4月24日の礼拝

2017年03月31日 | 2016年度
エゼキエル書18章21~32節(日本聖書協会「新共同訳」)

  悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。しかし、正しい人でも、その正しさから離れて不正を行い、悪人がするようなすべての忌まわしい事を行うなら、彼は生きることができようか。彼の行ったすべての正義は思い起こされることなく、彼の背信の行為と犯した過ちのゆえに彼は死ぬ。
  それなのにお前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。それなのにイスラエルの家は、『主の道は正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。
  それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。

マタイによる福音書9章9~13節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」


  マタイ福音書9章9~13節は、徴税人マタイを弟子にする話です。マタイ福音書4章の4人の漁師を弟子にした記述に、主題もその話の展開も似ています。しかし、徴税人マタイが主イエスの弟子になったことよりも、その後の出来事が話の中心と見るべきでしょう。マタイが弟子になった後、主イエスが多くの徴税人や罪人と一緒に食事をし、それをめぐってファリサイ派の人々との間に起こった言葉のやりとりがあります。マタイが弟子になったという記述は、その後に起こった出来事を語るための導入部分なのです。

  9節「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」
  場所は、カファルナウムであったと考えられます。9章1節で主イエスが「自分の町に帰ってこられた」とあるからです。カファルナウムでは、輸出入、通行税などの関税を取り立てていました。収税所はそのための場所であり、マタイはそこで徴税人として働いていたのです。彼が徴税人であることは、10章3節に「徴税人のマタイ」とあることからも明らかです。
  マルコ福音書とルカ福音書は、この弟子の名前をレビと伝えています。同一人物と見て良いでしょう。マタイ、マルコ、ルカのいずれの福音書も、12人の弟子たちの中で最初に弟子になったと思われるペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネが弟子になった経緯を記しています。ルカ福音書はマタイ、マルコと少し違う経緯を記していますが、とにかく、この4人のことについて記しています。他の8人については、徴税人マタイ(レビ)以外、弟子になった経緯がどの福音書にも記されていません。最初の4人、特にペトロ、ヤコブ、ヨハネは、他のところでも名前が時々出てきますが、他の8人については、イスカリオテのユダが裏切った様子を記す以外、ほとんど記されていないのです。どの福音書も、8人の弟子たちに対する関心が薄かったと言って良いかもしれません。
  こうして見てきますと、徴税人マタイの召命物語も、その様子を伝えることよりも、主イエスが徴税人を弟子に選んだということに目的があったと言えそうです。
  と言うのも、当時、徴税人は人々から嫌われていたからです。
  当時の税金について簡単に説明しておきます。
  主イエスの時代より少し前、ヘロデ大王の時代には、彼によって任命された役人によって税金が徴収され、直接ヘロデのもとに納められました。A.D.6年になると、ユダヤはローマの属州に編入され、ローマから派遣された総督が徴税の責任を負い、直接ローマへ納めました。しかし、ガリラヤの領主たち(ヘロデ・アンティパスなど)もそれとは別に税金を取り立てたので、住民は二重の負担を強いられることになりました。
  徴税人は、ローマや領主たちなどの異邦人の手先となって、同胞のユダヤ人から税を徴収していたこと、また、税として納めなければならない金額以上に徴収し、私腹を肥やす者が多くいたことなどにより、ユダヤ人から嫌われていたのです。徴税人は、しばしば罪人と一緒と見なされていることは、今日の聖書の箇所でも確認することが出来ます。
  徴税人が、主イエスの弟子になったことは、多くの人々を驚かせたに違いありません。マタイ福音書が弟子のリストの中でマタイを徴税人と呼んでいるのは、そういう驚きを表しているのでしょう。そして、徴税人が弟子になるという驚きに加えて、主イエスが徴税人や罪人と見なされている人々と一緒に食事をしたという驚きが続くのです。

  11節「ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、『なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。」
  ファリサイ派というのは、当時、サドカイ派と並ぶ宗教的、政治的な勢力で、旧約聖書や口伝律法を重んじ、日常生活での実践を強調していました。彼らは宗教的な汚れを避けるために、異邦人とのつきあいや罪人と見なされる人々を避けていたのです。彼らが徴税人や罪人と一緒に食事をする主イエスを見て驚いたのは当然と言えるでしょう。しかし、その驚きは、ファリサイ派だけではなく、全てのユダヤ人にとっての驚きであり、また後のキリスト者にとっても驚きであったに違いありません。
  ファリサイ派の人々は、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と、主イエスにではなく、弟子たちに尋ねます。この時の様子は描かれていませんので、想像するしかありませんが、おそらく、家の奥にいる主イエスに直接話が出来なかったのかも知れません。たまたま入り口近くにいた弟子たちに、ファリサイ派の人々が質問したのでしょう。主イエスがそれを聞いたのは、弟子たちを介してであったかも知れません。あるいは、ファリサイ派の人々の声が大きく、主イエスの耳にまで届いたのかも知れません。もしそうだとすると、そのファリサイ派の人々の言葉は、その食事の席に着いていた人々にも聞こえたはずです。一瞬、その場の空気が凍り付いたように、沈黙が支配したかも知れません。食事の席にいた人々は、「自分たちのせいで、先生が非難されている」と、心を痛めたのではないでしょうか。ファリサイ派の人々に対する怒りが生じたでしょうが、それを否定することも言い返すことも出来ず、ただ、歯を食いしばるしかできなかったに違いありません。

  12~13節「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」
  病を癒す医者は、病を恐れて病人を遠ざけることはしません。むしろ、病から救うために、病人に近づいていきます。それと同じように、主イエスは人々を罪から救うためにこの地上にお出でになったのです。主イエスが罪人たちと食事を共にされるのは、人道的な動機によるのではありません。否、彼らを憐れむ心がありますから、人情からの行動と見ることができなくもないわけですが、しかし、一番の目的は、彼らへの同情ではなく、彼らを罪から救うことにあるのです。罪から救えないのであれば、同情は無力です。
   主イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と、お答えになりました。同じ出来事を記しているルカ福音書では、この言葉に続けて「悔い改めさせるため」と記しています。マタイ福音書が言いたいことも同じでしょう。罪人と一緒の食事するためではなく、彼らを救うために主イエスはお出でになり、神の恵みに応える生活へと導こうとされているのです。旧約聖書のエゼキエル書18章には、悪人が滅ぶことよりも、彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ぶと記されています。主イエスは、この神の憐れみを現し、罪人たちのところへ赴き、罪から救い、悔い改めに導こうとされているのです。
  罪人とはいったい誰のことでしょうか。ファリサイ派の人々は、どうやら自分たちを正しい人と位置づけていたようです。しかし、聖書は「善を行うものはいない。一人もいない」(詩編53編2~4節、ローマの信徒への手紙3章10~12節)と告げています。神の目からは、全ての人は罪人であり、正しい人間はいないのです。正しいと自認していても、あの人よりはましというだけで、決して、正しい人間だと、神が認めてくださっているわけではありません。そして、言うまでもなく、私たち自身、罪人なのです。罪の自覚があるか否かではなく、神が私たちを罪人であると宣言しておられるのです。そうであれば、罪人である私たちは救われないのか、ただ滅びるしかないのかということを、最優先課題として真剣に考えなければなりません。

  罪人を招いておられる主イエスが、私たちの前に立っておられる。これが、今日、私たちに告げられていることなのです。ここで重要になってくるのが、罪人を招いておられる主イエスとはどのようなお方かということです。
  今日の9章9~13節の出来事の前に、9章1~8節で、主イエスには罪を赦す権威があることを示す出来事が記されていました。マタイ福音書は、罪を赦す権威をお持ちの主イエスが、自ら罪人たちのところへ出かけて行き、罪の赦しへと招いておられると告げているのです。そして、今、私たちもこの罪の赦しへと招かれています。この招きの機会を失わないよう、直ちにみもとに近づき、「わが主よ。わが救い主よ」と御名を拝しましょう。




「罪を赦す権威」 2016年4月17日の礼拝

2017年03月25日 | 2016年度
エレミヤ書33章6~9節(日本聖書協会「新共同訳」)

  しかし、見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。そして、ユダとイスラエルの繁栄を回復し、彼らを初めのときのように建て直す。わたしに対して犯したすべての罪から彼らを清め、犯した罪と反逆のすべてを赦す。わたしがこの都に与える大いなる恵みについて世界のすべての国々が聞くとき、この都はわたしに喜ばしい名声、賛美の歌、輝きをもたらすものとなる。彼らは、わたしがこの都に与える大いなる恵みと平和とを見て、恐れおののくであろう。

マタイによる福音書9章1~8節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。その人は起き上がり、家に帰って行った。群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。


  8~9章に記されている9つの奇跡の内、6番目の奇跡です。
  これまで、主イエスは治癒不可能とされていた病を癒し、遠隔地の人を癒し、嵐を静め、悪霊を追いはらうなどの奇跡を行ってこられました。マタイ福音書は、これらの奇跡を主イエスが神の独り子としての権威の現れとして描いています。また、それらの奇跡は主イエスの言葉によって起こされたことを記しています。主イエスには、創造者なる父なる神と同様、すべてをその言葉どおりに現実にすることができる力があるのです。
  マタイ福音書は、その最初から主イエスの権威について語ってきました。
  主イエスがお生まれになった時、ヘロデ王は、主イエスを殺そうとしてその地方の幼子たちを殺させました。マタイ福音書は、王という地位を守るために幼子たちを殺す人間は本当の王ではないことを告げ、すべての人を救うために十字架にかけられた主イエスこそ真の王であると宣言しています。そして、福音書の最後では、復活なさった主イエスが「私は天と地の一切の権能を授かっている」と宣言なさって、弟子たちを世界各地へ派遣したと記しています。主イエス・キリストの権威が、この福音書の主題なのです。

  今日の中風の人を癒す奇跡は、マルコ福音書にも記されています。両者を比べてみると、マルコ福音書が、群衆が主イエスを取り囲んでいたこと、患者を運んできた男が4人であること、屋根をはがして、屋上から患者をつり降ろしたことなどを記していますが、マタイ福音書は、それらを全部省き、きわめて簡潔に記しています。たとえば、マタイ福音書だけを読むと、1~8節の出来事が家の中で起きたか外で起きたかが分かりません。また、何の説明もなく、3節で律法学者が、8節で群衆が突然登場してくるのです。このように、状況説明を簡略化することは、マタイ福音書の特徴なのですが、こうすることによって、この福音書が何を強調したいのかが浮き彫りにされるようになっているのです。今回の奇跡では、中風の人を癒す力だけでなく、罪を赦す権威をも主イエスがもっておられることが強調されています。
  そして、今日の聖書の箇所でもう一つ重要なことは、主イエスに対する敵意が現れ始めたということです。

  1節「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。」
  マタイ福音書では町の名前が記されていませんが、マルコ福音書はカファルナウムとしています。カファルナウムに対して「自分の町」と呼んでいるのは、この箇所だけですが、カファルナウムは、福音書において、主イエスが「住まわれた」(マタイ4:13)とか、「家におられる」(マルコ2:1)、また「自分の町に帰って来られた」(マタイ9:1)と言われている唯一の町です。それだけ、主イエスとカファルナウムにとの関係の深さを示しており、主イエスが生まれたベツレヘムや大人になるまで過ごしたナザレの町ではなく、カファルナウムに対してこのように言われていることは注目に値します。
  マルコ福音書2章1節では「イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り」とありますが、マタイ福音書は「家」については何も記していません。そのため、これから起きる出来事が家の中でのことなのか、外での出来事かはわからないようになっています。今日のところだけでなく、マタイ福音書は、マルコ福音書にある「家」をたびたび省略しています。先にも言いましたように、このような状況説明の簡略化は、マタイ福音書の特徴なのです。

  2節「すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される』と言われた。」
  マルコ福音書にある「4人」が、マタイにはありません。主イエスを大きく取り上げるために、中風の人を連れてきた人々の数や、その他のことを些細なことであり、不必要だとして省略したのでしょう。
  また、マルコ福音書では、4人の友人たちが屋根をはがし、中風患者をつり降ろした行為を主イエスが見て、「彼らの信仰を見て」となっていますが、マタイ福音書では屋根をはがしたり、つり降ろす行為が記されておらず、ただ「彼らの信仰を見て」となっています。
 マタイ福音書では、信仰と癒しの奇跡が関連づけられることが多いようです。
  たとえば、8章13節の「あなたが信じたとおりになるように」、9章22節の「あなたの信仰があなたを救った。」、9章29節の「あなたがたの信じているとおりになるように」、15章28節の「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」などのようにです。これらの主イエスの言葉は、異邦人にもユダヤ人に向けられており、救いに密接に関係するのは、信仰であると強調されているのです。
  しかし、病人本人の信仰が癒しと関連しているとは限りません。8章5~13節の百人隊長の物語では、彼の僕が病気であり、病人の信仰ではなく、百人隊長の信仰が取り上げられていました。今日の9章2節でも、病人自身の信仰ではなく、彼を連れてきた友人たちの信仰へと目を向けさせています。
  とは言え、その人自身や友人たち、あるいはまた家族の信仰が奇跡を起こすのではありません。主イエスご自身が奇跡を起こされるのです。そして、その主イエスは、当人だけでなく、その周囲の人の信仰をも見ておられるのです。主イエスは、癒しを求める人の周囲の人々に、執り成しの行為と祈りを見ておられるのです。それを「彼らの信仰を見て」と言われるのであり、ここに執り成しの重要性があるのです。
  このことに関連して重要なことは、主イエスが賞賛している信仰は、諦めずに主イエスに近づく人々の姿に表れているということです。
  百人隊長は、「お言葉をください」と願い続けました。12年間出血の病を持っていた女性は厳しい非難を受ける危険を冒しながら主イエスに近づきました。カナンの女性は主イエスに断られましたが、なお食い下がって主イエスに助けを求め、自分の娘を癒してもらいました。
  今日のマタイ福音書9章1~8節には記されていませんが、マルコ福音書の記述にあるように、病人の友人たちは群衆のため主イエスに近づくことができなかったのかも知れません。そのため、屋根をはいで患者をつり降ろし、障害をものともせず近づこうとし、その人々の姿に、主イエスは彼らの信仰を見たのかも知れません。

  さて、主イエスは中風の人をすぐお癒しになってはおられません。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と罪の赦しを宣言なさったのです。
  現代の私たちには理解しがたいことですが、当時、難病が罪と関係すると考えられていたからかも知れません。たとえば、ヨハネ福音書9章2節に、生まれつき目の見えない人を見た弟子たちが「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」と尋ねる場面があります。これは、当時、難病と罪が密接な関係にあると考えられていたことを示しています。
  主イエスが、中風患者にまず罪の赦しの宣言をされたのは、このような背景があったからかも知れません。

  罪の赦しは、マタイ福音書の突出した主題です。1章21節において「この子は自分の民を罪から救うからである。」と、イエスという名前の意味が天使によって説明され、26章28節では、過越の食事において「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と、主イエスが宣言されいます。
  罪の赦しについて、マタイが強い関心を持っているのは、おそらくA.D.70年以降にマタイ福音書が成立したことと関係しているのかも知れません。70年にエルサレム神殿が破壊され、罪の赦しと神との和解手段を失ってしまいました。その神殿の機能に取って代わるものとして、主イエスの罪の贖いとしての犠牲、罪の赦しの御業である十字架の出来事が強調されているのです。そして、その主イエスが罪の赦しの宣言をすることは重要なことなのです。マタイ福音書のみが伝えている主イエスの言葉「神殿よりも偉大なものがここにある」(12章6節)は、このことと関連していると考えて良いでしょう。
  罪の赦しが、何故大切なのでしょうか。
  すべての人間は罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、神は御独り子である主イエスによってその罪を赦してくださるのです。罪の赦しとは、神から差し伸べられた和解の手なのです。主イエスは、神からの和解こそ、最も重要なのだと宣言しておられるのです。

  3節「ところが、律法学者の中に、『この男は神を冒涜している』と思う者がいた。
  神への冒涜は、死罪でした。律法学者たちが主イエスの言葉を神への冒涜と感じたのは、マタイが省略したマルコ2章7節の「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」の言葉に表れています。彼らは、神のみができる罪の赦しを主イエスが宣言したことで、神の主権を侵したと考えたのです。彼らがそのように考えたのは、当然でした。主イエスの罪の赦しは、まさしく、神だけがもつ権威だからです。

  4節「イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。『なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。』」
  主イエスには、彼らの考えを知るのに、彼らの言葉を聞く必要はないということを強調しています。主イエスは、神のように罪を赦し、神のように人々の心を知ることができるお方なのです。主イエスが人の悪意を見抜くことについては、マタイ12章25節にも出てきます。こうして、律法学者たちの悪意が強調されているのです。
  マタイ福音書においては、ここに登場する律法学者が主イエスの公生涯に入ってからの最初の敵対者として現れています。ちなみに、主イエスがお生まれになって最初の敵対者はヘロデ大王でした。


  5節「『「あなたの罪は赦される」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらが易しいか。』」
  6節「『人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。』そして、中風の人に、『起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい』と言われた。」
  5節の言葉は、6節で主イエスがおっしゃっていることの導入部分です。すなわち、どちらが易しいかということが重要なのではなく、6節で言われている、主イエスは罪を赦す権威をもっておられるということです。
  
  7節「その人は起き上がり、家に帰って行った。」
  7節は、6節の主イエスの言葉を繰り返し、中風患者が主イエスの言葉通りに従ったことを示しています。すなわち、中風患者が癒されたことを示しています。こうして、主イエスは癒す力をもっておられることを示されました。しかし、それだけではなく、罪を赦す権威を持っておられることを、間接的に示されたのです。
  「罪が赦される」という宣言だけでは、実際にその罪が赦されたかどうか、目で確かめることは出来ません。そこで、主イエスは、ご自身の言葉どおりに全てが事実として起きることを、癒しという形で示されたのです。主イエスの言葉どおりに中風患者が癒されたのと同じように、罪の赦しも、主イエスのお言葉どおりに事実として起こることを示されたのです。
  罪の赦しは、律法学者が考えるように、神のみが持つ権威です。その罪の赦しが主イエスによって行われたことは、神と主イエスとの関係の深さを改めて強調することになりました。この出来事を見た人々が、恐れるとともに神を賛美したことは当然の成りゆきと言えます。

  8節「群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。」
  主イエスの罪の赦しの宣言の後に起こなわれた中風の人の癒しは、主イエスに罪の赦しの権威があることの印となりました。人々は、「人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した」と、あります。しかし、彼らの反応は、自分とは直接関係がないかのようであり、また、真実にほど遠いと言わざるをえません。
  マタイ福音書は、罪を赦すというこれほど大きな権威を与えられたこの方こそ、神の独り子であると告げているのです。また、今日の聖書の箇所において、マタイ福音書が最も伝えたいことは、主イエスが罪を赦す権威を持っておられることでした。そして、主イエスを通して、神の力強い介入が今すでにここに始まっていることが明らかにすることなのです。
  主イエスが罪を赦す権威を持っておられることを、マタイ福音書が最も伝えたいことであるなら、この福音書を読む私たちは、この罪を赦す権威を持っておられる主イエスから、「あなたの罪は赦される」との宣言を受けることが最も重要であることを知っておくべきでしょう。そして、事実、私たちはその罪の赦しの宣言を受けているのです。病を癒す以上の奇跡が、私たちの身に起こっているのです。ここにこそ、最も大きな驚きと喜びがあるのです。

  



「『神の子、かまわないでくれ』」 2016年4月10日の礼拝

2017年03月22日 | 2016年度
詩編51編12~14節(日本聖書協会「新共同訳」)

 神よ、わたしの内に清い心を創造し
 新しく確かな霊を授けてください。
 御前からわたしを退けず
 あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ
 自由の霊によって支えてください。


マタイによる福音書8章28~34節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。

  主イエスと弟子たちが乗った舟は、ガリラヤ湖の対岸にあるガダラ人の地方に到着しました。ガダラというのは、デカポリスと呼ばれていた異邦人の土地にある町です。何故、主イエスがそのようなところに行かれたのかは分かりません。
  マルコ福音書と比べると、マタイ福音書は、必要最低限の状況を記すだけです。マタイ福音書は、この福音書を読む読者に注意を向けさせようとしているのは、主イエス・キリストのなさった御業であり、神の子としての権威なのです。そして、どのような状況であったかとか、一連の出来事がどのように起こったかとか、その後、悪霊を追い出された人がどうなったかということには、全く無関心なのです。今日の箇所では、弟子たちもいたはずですが、その弟子たちのことも全くふれられていません。マタイ福音書は、そのようにして、主イエスの御業と権威がはっきりするようにと、焦点を主イエスに合わせているのです。
  突然、悪霊に取り憑かれた二人の人が登場します。彼らが墓場から出てきたことと、その地方の人々がそのあたりの道を通れないほどに凶暴であったことが記されています。すなわち、ガダラの人々の手に負えない二人であったというのです。
  「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」
  悪霊に取り憑かれた人々が、主イエスを「神の子」と呼んでいます。福音書の中では、たびたび悪霊に取り憑かれた人々が主エイスを「神の子」と呼びかける場面が描かれています。誰一人、主イエスを神の子であると悟ることがない時に、いち早く、悪霊は主イエスを神の子であること見抜いているのです。しかも、その神の子が自分たちを追い出し、滅ぼすお方であることを知っており、それに抗い、叫ぶのです。
  今日の悪霊に取り憑かれている人々も同じです。彼らも、主イエスが神の子であることを知っており、自分たちも滅ぼされるという事実を知っているのです。

  「まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」というのは、自分たちが滅ぼされる時はまだ来ていないと思っていたのに、滅びの時が迫っていることを知って驚き、叫んでいるのです。
  これは、私たちに対する警告になっています。聖書は、最後の裁きについて記していますが、私たちはまだその時でないと思っていると、突然、その時が来て、「まだ、その時ではないはずだ」と叫ぶことになるという警告です。いつ、その時が来ても良いように、信仰と生活を整えて、その時を迎える備えをしておくべきでしょう。

  二人に取り憑いていた悪霊どもは、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と懇願しました。
  豚は、ユダヤ人にとって汚れた動物です。そのような動物であれば、見逃してもらえるという期待があったのでしょう。悪霊どもが豚に乗り移ることは、自分たちの力で勝手に行うというのではなく、主イエスの力によって人間から追い出され、豚に乗り移ることを示しています。
  主イエスは「行け」とお命じになり、悪霊どもは豚に乗り移りました。
  悪霊どもを追い出すという奇跡は、主イエスの言葉の力であることを、このマタイ福音書は強調しています。8~9章に記されている主イエスの奇跡は、主イエスが言葉によって起こされた、すなわち、主イエスの言葉には権威があると強調しているのです。
  悪霊に取り憑かれた豚の群れは、崖を下って湖になだれ込み、皆死にました。豚に乗り移った悪霊たちは、結局滅びを免れなかったのです。
  豚を飼っていた人々は町に行き、悪霊に取り憑かれた人たちのことを知らせました。ところが、町の人々は、主イエスを歓迎するどころか、この地方から出て行ってもらいたいと拒絶したのです。
  その理由については、何も記されていません。ひょっとすると、多くの豚を失ったことで、腹立たしく思ったのかも知れません。他人の財産を失わせてしまったのですから、彼らが怒っていたとしても不思議ではありません。
  しかし、どのような理由であれ、主イエスを退けたという事実だけが残るのです。そして、聖書は、その事実だけを告げるのです。
  このことは、今の私たちにも当てはまることです。主イエス・キリストを受け入れないということは、どんな理由があろうとも正当化されないのです。受け入れなかったという事実があるだけです。
  ガダラの人々は、悪霊に憑かれてはいませんでしたが、主イエスに対する行為は、悪霊に取り憑かれていた人々と全く同じでした。すなわち、「我々に、かまわないでくれ。」と言って、主イエスを追い出したのです。
  彼らにとって、主イエスは救い主ではなかったのです。奇跡を起こしたが、ただそれだけのことです。自分たちとは無関係だと考えたか、あるいは墓場の凶暴な二人に変わって現れた、新たな厄介者と考えたのかも知れません。とにかく、彼らは主イエスを退けたのです。

  聖書は、主イエスこそ神の独り子であるということを証言しています。しかし、神の独り子であることが、いつも伝道の成功につながるとは限らないという事実を告げています。
  8~9章には、主イエスがなさった奇跡が集められていると申し上げましたが、その奇跡を人々がいつも喜んで受け入れているとは限らないということも記されています。主イエスがなさった奇跡に対して喜ばない人々がいることを告げる最初の記述が、今日のガダラでの出来事です。この後も、主イエスが奇跡を起こした時、それを喜ぶ人々もいましたが、その奇跡を認めない人々やその奇跡は悪霊の頭の力によると非難する人々も現れます。
  このことによって、聖書は私たちに問いかけているのです。主イエスはあなたの前に立っておられる。あなたは主イエスを神の子と信じ、受け入れるのか。それとも、「私に、かまわないでくれ」と退けるのかと。
  「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とは、復活された主イエスが、弟子のトマスに告げられた言葉ですが、私たちにも同じように告げておられます。「私を信じる者となりなさい」、「私につながっていなさい」と。この主イエスの御言葉に喜びと感謝をもって、「わたしの主、わたしの神よ」と告白し、主に従いましょう。




「風と湖を叱る」 2016年4月3日の礼拝

2017年03月21日 | 2016年度
イザヤ書54章7~12節(日本聖書協会「新共同訳」)

 わずかの間、わたしはあなたを捨てたが
 深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。
 ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが
 とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと
   あなたを贖う主は言われる。
 これは、わたしにとってノアの洪水に等しい。
 再び地上にノアの洪水を起こすことはないと
   あのとき誓い
 今またわたしは誓う
 再びあなたを怒り、責めることはない、と。
 山が移り、丘が揺らぐこともあろう。
 しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず
 わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと
   あなたを憐れむ主は言われる。

 苦しめられ、嵐にもてあそばれ
 慰める者もない都よ
 見よ、わたしはアンチモンを使って
   あなたの石を積む。
 サファイアであなたの基を固め
 赤めのうであなたの塔を
 エメラルドであなたの門を飾り
 地境に沿って美しい石を連ねる。

マタイによる福音書8章23~27節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。


  マタイ福音書8章24~26節は、8~9章に記されている主イエスの四番目の奇跡になります。
  ここには、ガリラヤ湖で遭遇した嵐の出来事が記されています。主イエスの弟子たちには漁師もいましたので、ガリラヤ湖での舟の扱いには慣れていたはずです。しかし、その時の嵐に対しては、ベテランの漁師たちでも全く歯が立ちませんでした。湖での嵐は、そのような人間の力の限界をはるかに超える脅威として、小舟の前に立ちはだかったのです。
  この嵐に直面した弟子たちは、ただ慌てふためき、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と叫びました。主イエスは、そのような弟子たちに対して「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」とおっしゃいましたが、叱りつけたわけではありません。このような危険に対して自分の力の及ばないことを知ったとき、主に助けを求めることは私たちに赦されているのです。
  主イエスは、激しい波風を叱りつけ、嵐を静めました。これは、神としての力を行使されたことを示しています。旧約聖書には、詩編65編8節の「大海のどよめき、波のどよめき、諸国の民の騒ぎを鎮める方」というように、嵐を静める神の力が記されています。そして、主イエスが、この神の力によって嵐を静められたと告げられているのです。
  「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」という主イエスの言葉は、主イエスが共にいてくださるので、どのような状況にあろうとも、決して真の危険ではないと指摘しておられるのです。本当の危険は、このような嵐などではありません。神の御子が無力ではないかとおびえることなのです。

  ここに記されている湖上で嵐を静める出来事には、旧約聖書のヨナ書の出来事と似ているところがあります。
  物語の主人公が舟(船)に乗り、海で暴風に遭い、船乗りたちが恐怖に襲われるところです。さらに、船乗りたちが、奇跡により嵐が静まるように、眠っている物語の主人公を起こします。最後に、嵐が静まり、船乗りたちの驚きの反応が示される、というところです。
  マタイ福音書の著者は、主イエスが起こされた奇跡とヨナの物語の出来事が似ていると気づいていたと思われます。しかし、だからと言って、主イエスをヨナと同等の存在であると主張しているわけではありません。似ているのは、表面的なところだけです。マタイ福音書は、12章41節において、主イエスの「ここにヨナにまさるものがある。」という言葉を記しています。主イエスは、預言者よりも偉大な方である。これが、マタイ福音書が、この聖書を読む私たちに、力を込めて伝えようとしていることなのです。
  嵐を静めることにより、主イエスが、それまで隠されていた未知の力を明らかにされたため、弟子たちは非常に驚きました。それまで、主イエスは病人を癒したり、悪霊を追い出したりしただけでしたが、8章23~27節において、新しい能力が明らかにされたからです。
  「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」。
  マタイ福音書は、この弟子たちの言葉をもって、湖上の嵐の出来事の締めくくりとしています。福音書を読んでいる読者には、この問いの答えが既に明らかだからです。それは、この福音書が初めから語ってきたこと、すなわち、この方こそ、神の独り子であり、私たちの救い主であり、私たちと共にいてくださる方ということです。ここに、真の平安があり、心からの喜びと感謝をもって、詩編23編の言葉を、私たち自身の言葉として、証することが出来るのです。
  「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。・・・命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」(詩編23編4、6節)




「何故泣いているのか」 2016年3月27日の礼拝

2017年03月13日 | 2015年度
イザヤ書25章6~10節(日本聖書協会「新共同訳」)

 万軍の主はこの山で祝宴を開き
 すべての民に良い肉と古い酒を供される。
 それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
 主はこの山で
 すべての民の顔を包んでいた布と
 すべての国を覆っていた布を滅ぼし
 死を永久に滅ぼしてくださる。
 主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい
 御自分の民の恥を
   地上からぬぐい去ってくださる。
 これは主が語られたことである。
 その日には、人は言う。
 見よ、この方こそわたしたちの神。
 わたしたちは待ち望んでいた。
 この方がわたしたちを救ってくださる。
 この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。
 その救いを祝って喜び躍ろう。
 主の御手はこの山の上にとどまる。


ヨハネによる福音書20章11~16節

  マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。


  新約聖書にある4つの福音書は、いずれもマグダラのマリアが日曜日の朝早く主イエスが葬られた墓を訪ねたと記しています。ただし、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書は、墓を訪ねた女性は複数であったと記すのに対し、ヨハネ福音書は、マグダラのマリアひとりが、墓を訪ねたことになっています。
  墓が空であったことをシモン・ペトロと「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」に伝えた後の出来事が、今日の聖書の箇所に記されています。
  二人の弟子たちが帰った後、マリアはまだ墓の傍らにたたずんでいました。
  マリアは、墓の中にいた二人の天使たちに、続いて復活された主イエスに出会います。マリアには相手が天使や主イエスであることに気づかなかったようです。そのマリアに、天使たちと主イエスは、「何故、泣いているのか」と同じ質問をしています。
  天使たちと主イエスの問いに対して、マグダラのマリアは、「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」と答えています。マリアは、誰かが主イエスの遺体を墓から移し去ったと考えたのです。この後、マリアは、声をかけた相手が復活された主イエスであることに気づくのです。

  ここでいったん立ち止まって、マリアの言葉に注目しましょう。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
  マリアは、墓が空であったことに驚いています。そして、主イエスの遺体がどこかへ移されたのではないか、心配しています。
  4つの福音書は、主イエスの復活の事実を語りますが、主イエスが復活された時、どんな様子であったか、墓からどんな様子で出てこられたのかは記していません。ただ、墓が空であったということだけです。
  それでは、何故、キリスト教会がキリストの復活を信じ、伝えるかというと、墓が空であったことが墓を訪ねた女性たちに確認された後、復活された主イエスが弟子たちに現れになったからです。
  主イエスの遺体を収めた墓が空であったことを認めているのは、キリスト教会だけではありません。主イエスを十字架に追いやったユダヤの指導者もこのことを認めていました。そのことは、マタイ福音書28章11~15節に記されています。
  「婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。『「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。』兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。」
  「弟子たちがナザレのイエスの遺体を盗み出した」。これがユダヤ人たちの主張でした。ここで重要なことは、彼らは、主イエスの遺体がどこにあるかを示すことが出来なかったことです。すなわち、墓が空であるという事実を否定することは出来なかったということです。
  主イエスの復活を否定する最も有効な手段は、主イエスの遺体を人々に示すことです。しかし、そうすることは誰にも出来なかったということです。主イエスの復活を認めるにしても否定するにしても、墓が空であったという事実以外に証拠はないと言うことです。と言うことは、主イエスの復活を人々に証明することは、不可能だということです。
  主イエス・キリストが復活したことを信じることは、私たちにとって、とても難しいことですが、またそれを人々に説明することはさらに困難です。
  キリストの復活は、証明することによって認識するものではなく、信仰によって、ただ信じることによって示されているだけなのです。
  昔から、「鰯の頭も信心から」と言いますが、それは宗教の頼りなさを表し、また宗教の恐ろしさを表してもいます。すべてを信仰という言葉で説明するのであれば、証明や証拠は必要でなくなり、それは迷信に人々を導いていくことになります。
  かつて、オーム真理教という宗教団体があり、その中には一流の科学者や弁護士もいました。その彼らが宗教にのめり込み、殺人など、反社会的行動をしたことは、日本全体を震撼させました。宗教が持つ恐ろしさに、日本中の人々が震え上がりました。
  キリスト教も非論理的なことを信じるという面があります。キリスト教も破壊的な活動をすることにはなりはしないでしょうか。
  欧米諸国では、合理的、論理的なものに真実があると信じるようになった近代から、聖書から奇跡などの非科学的な内容は受け入れることをせず、人道的な話、教訓的な話だけを読むべきだとする考え方がなされるようになりました。しかし、そのような読み方が、神の恵みを聞き取る読み方になるのでしょうか。そもそも聖書は何のために書かれ、何のために伝えられてきたのでしょうか。それは、神の恵みを語るためであり、私たちのために記されたのです。
  読み方によっては、家族分裂させるような言葉が出てきますし、旧約聖書の中には「老若男女を殺せ」という言葉もあります。これらの言葉を見ますと、やはり宗教は恐ろしい、キリスト教もまた怖い宗教だと考えてしまうでしょう。
  しかし、その言葉の背景、その背後などを考えてみますと、殺すことが目的ではなく、神の恵みをしっかり受けとめさせようとしていることに気づかされます。
  「隣人を愛しなさい」という言葉がありますが、そのすぐ前に「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。」(レビ記19章18節)という言葉があるのです。
  神が私たちに望んでおられるのは、復讐や破壊ではなく、神は全ての人々に対する救いと恵みを伝えることなのです。神の民は、その恵みを伝える器として選ばれたのです。その神の民がその使命を遂行することを忘れてはならないという警告として、厳しい言葉が記されているのです。

  聖書に記されている処女降誕やキリストの復活、またその他の奇跡の数々は、神の恵みの目に見える印、神の恵みの御業なのです。
  神の救いを信じることは、神の救いが証明されたから信じるというのではありません。信じることが出来ない事柄によって神の恵みが示されたのです。誰もそのまま受け入れることが出来ない復活。それは、証明することも証拠を示すことも出来ません。論理的に説明することも出来ません。しかし、そういう証拠も証明も論理的説明も出来ない事柄によって、神は全ての人々を救うこととされたのです。
  神の恵みは、人間の理性で理解できるとか、人間の努力や働きによって獲得できるものではありません。神ご自身の働きによるのです。
  科学的な証拠や証明によって、神の救いを獲得できるならば、それははたして、本当に神が与えてくださる救いなのでしょうか。神の御業と言えるのでしょうか。もちろん、自然のすべての法則や力も神の恵みに違いありませんが、人間の理性によって誰もが「これこそ救いだ」と確信できるとするならば、そういう理性を持った人だけが救われるということになります。そして、人間のわざによって救いを獲得したことになります。
  しかし、神は、それとは全く違う救いを用意されました。すなわち、どのような人であっても、どのような理性や知恵、能力を持っていても、絶対に獲得できない救いです。ただ、神の力によってのみ与えられる救いです。このように、神の恵みによってのみ与えられる救いを、御計画なさったのです。人が自分で救いを獲得したと言えないようにするために、このように御計画なさったのです。
  使徒パウロは、次のように記しています。
  「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(Ⅰコリント1章22~25節)
  「しるし」。ユダヤ人たちは、奇跡は神から遣わされた確かな印であり、証拠だと考えていました。論理的な説明がなされるなら、受け入れようというのがギリシア人でした。
使徒言行録17章に、使徒パウロがアテネで伝道したときの様子が記されています。
  最初、人々は物珍しそうに話を聞いていましたが、パウロが主イエスの復活の話をし始めると、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言って去って行き、残ったのは数人にすぎなかったというのです。
  アテネの人々はキリストの復活は、理性的でないとして、使徒パウロの前から去っていきました。アテネの人々は、まさに理性的なものを求めていたのです。ですから、復活などという理性的でない話は、「ごめんこうむる」と言って去っていったのです。現代人と同じです。
  使徒パウロは、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(Ⅰコリント1章18節)と、告げています。その神の力はどこに現れたのでしょうか。それは、神がお選びになった人々に現れました。その中には、無学な人々、無力な人々、見下げられている人々もいます。誰一人、自分の知恵や力で自分自身を救ったと言えなくするためでした。そのようにして、信じるすべての人を救うという神の固い決意が表れが、神の独り子イエス・キリストの十字架であり、復活なのです。
  先にも言いましたように、キリストが復活されたという証拠は何一つありません。しかし、それでも私たちは、神の恵みとしてイエス・キリストの復活を宣べ伝え、その復活のキリストの命に、私たち一人ひとりがあずかっていると証ししていくのです。人々に証明することは出来ません。しかし、キリストを証する言葉は、私たち自身を通して証しとなっていきます。私たちは罪人であるにもかかわらず、救われました。そこに、私たちに対する神の愛が示されたのです。この神の愛の中で、私たちは生きていきます。その生活の中で、神から救われていることを人々に証ししていくのです。この証は、決して論理的な説明ではありません。神から救われた喜びを、生活の中で表していきます。どのような状況にあっても、神に救われた喜びを、伝えていくのです。
  主イエス・キリストは、無法な裁判によって十字架刑に処せられました。しかし、主イエスはその十字架の上で、人々のための執り成しの祈りをされました。キリストに救われた私たちも、どのような状況に立たされても、執り成しの祈りをささげるようにしていくべきです。主イエスがそうであったように、私たちもこの地上の生活の中で、正当な扱いを受けるとはかぎません。むしろ、不当な扱いを受けることがあるでしょう。しかし、主イエスがそうであったように、私たちを不当に扱った人々のために、神の救いにあずかるようにと執り成しの祈りをしていくべきです。
  主イエスが復活は、私たちのための出来事であったことを心に留めておくべきです。そして、私たちの周囲の人々のための復活でもあったことを心に留めておくべきです。