エゼキエル書18章21~32節(日本聖書協会「新共同訳」)
悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。しかし、正しい人でも、その正しさから離れて不正を行い、悪人がするようなすべての忌まわしい事を行うなら、彼は生きることができようか。彼の行ったすべての正義は思い起こされることなく、彼の背信の行為と犯した過ちのゆえに彼は死ぬ。
それなのにお前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。それなのにイスラエルの家は、『主の道は正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。
それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。
マタイによる福音書9章9~13節(日本聖書協会「新共同訳」)
イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
マタイ福音書9章9~13節は、徴税人マタイを弟子にする話です。マタイ福音書4章の4人の漁師を弟子にした記述に、主題もその話の展開も似ています。しかし、徴税人マタイが主イエスの弟子になったことよりも、その後の出来事が話の中心と見るべきでしょう。マタイが弟子になった後、主イエスが多くの徴税人や罪人と一緒に食事をし、それをめぐってファリサイ派の人々との間に起こった言葉のやりとりがあります。マタイが弟子になったという記述は、その後に起こった出来事を語るための導入部分なのです。
9節「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」
場所は、カファルナウムであったと考えられます。9章1節で主イエスが「自分の町に帰ってこられた」とあるからです。カファルナウムでは、輸出入、通行税などの関税を取り立てていました。収税所はそのための場所であり、マタイはそこで徴税人として働いていたのです。彼が徴税人であることは、10章3節に「徴税人のマタイ」とあることからも明らかです。
マルコ福音書とルカ福音書は、この弟子の名前をレビと伝えています。同一人物と見て良いでしょう。マタイ、マルコ、ルカのいずれの福音書も、12人の弟子たちの中で最初に弟子になったと思われるペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネが弟子になった経緯を記しています。ルカ福音書はマタイ、マルコと少し違う経緯を記していますが、とにかく、この4人のことについて記しています。他の8人については、徴税人マタイ(レビ)以外、弟子になった経緯がどの福音書にも記されていません。最初の4人、特にペトロ、ヤコブ、ヨハネは、他のところでも名前が時々出てきますが、他の8人については、イスカリオテのユダが裏切った様子を記す以外、ほとんど記されていないのです。どの福音書も、8人の弟子たちに対する関心が薄かったと言って良いかもしれません。
こうして見てきますと、徴税人マタイの召命物語も、その様子を伝えることよりも、主イエスが徴税人を弟子に選んだということに目的があったと言えそうです。
と言うのも、当時、徴税人は人々から嫌われていたからです。
当時の税金について簡単に説明しておきます。
主イエスの時代より少し前、ヘロデ大王の時代には、彼によって任命された役人によって税金が徴収され、直接ヘロデのもとに納められました。A.D.6年になると、ユダヤはローマの属州に編入され、ローマから派遣された総督が徴税の責任を負い、直接ローマへ納めました。しかし、ガリラヤの領主たち(ヘロデ・アンティパスなど)もそれとは別に税金を取り立てたので、住民は二重の負担を強いられることになりました。
徴税人は、ローマや領主たちなどの異邦人の手先となって、同胞のユダヤ人から税を徴収していたこと、また、税として納めなければならない金額以上に徴収し、私腹を肥やす者が多くいたことなどにより、ユダヤ人から嫌われていたのです。徴税人は、しばしば罪人と一緒と見なされていることは、今日の聖書の箇所でも確認することが出来ます。
徴税人が、主イエスの弟子になったことは、多くの人々を驚かせたに違いありません。マタイ福音書が弟子のリストの中でマタイを徴税人と呼んでいるのは、そういう驚きを表しているのでしょう。そして、徴税人が弟子になるという驚きに加えて、主イエスが徴税人や罪人と見なされている人々と一緒に食事をしたという驚きが続くのです。
11節「ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、『なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。」
ファリサイ派というのは、当時、サドカイ派と並ぶ宗教的、政治的な勢力で、旧約聖書や口伝律法を重んじ、日常生活での実践を強調していました。彼らは宗教的な汚れを避けるために、異邦人とのつきあいや罪人と見なされる人々を避けていたのです。彼らが徴税人や罪人と一緒に食事をする主イエスを見て驚いたのは当然と言えるでしょう。しかし、その驚きは、ファリサイ派だけではなく、全てのユダヤ人にとっての驚きであり、また後のキリスト者にとっても驚きであったに違いありません。
ファリサイ派の人々は、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と、主イエスにではなく、弟子たちに尋ねます。この時の様子は描かれていませんので、想像するしかありませんが、おそらく、家の奥にいる主イエスに直接話が出来なかったのかも知れません。たまたま入り口近くにいた弟子たちに、ファリサイ派の人々が質問したのでしょう。主イエスがそれを聞いたのは、弟子たちを介してであったかも知れません。あるいは、ファリサイ派の人々の声が大きく、主イエスの耳にまで届いたのかも知れません。もしそうだとすると、そのファリサイ派の人々の言葉は、その食事の席に着いていた人々にも聞こえたはずです。一瞬、その場の空気が凍り付いたように、沈黙が支配したかも知れません。食事の席にいた人々は、「自分たちのせいで、先生が非難されている」と、心を痛めたのではないでしょうか。ファリサイ派の人々に対する怒りが生じたでしょうが、それを否定することも言い返すことも出来ず、ただ、歯を食いしばるしかできなかったに違いありません。
12~13節「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」
病を癒す医者は、病を恐れて病人を遠ざけることはしません。むしろ、病から救うために、病人に近づいていきます。それと同じように、主イエスは人々を罪から救うためにこの地上にお出でになったのです。主イエスが罪人たちと食事を共にされるのは、人道的な動機によるのではありません。否、彼らを憐れむ心がありますから、人情からの行動と見ることができなくもないわけですが、しかし、一番の目的は、彼らへの同情ではなく、彼らを罪から救うことにあるのです。罪から救えないのであれば、同情は無力です。
主イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と、お答えになりました。同じ出来事を記しているルカ福音書では、この言葉に続けて「悔い改めさせるため」と記しています。マタイ福音書が言いたいことも同じでしょう。罪人と一緒の食事するためではなく、彼らを救うために主イエスはお出でになり、神の恵みに応える生活へと導こうとされているのです。旧約聖書のエゼキエル書18章には、悪人が滅ぶことよりも、彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ぶと記されています。主イエスは、この神の憐れみを現し、罪人たちのところへ赴き、罪から救い、悔い改めに導こうとされているのです。
罪人とはいったい誰のことでしょうか。ファリサイ派の人々は、どうやら自分たちを正しい人と位置づけていたようです。しかし、聖書は「善を行うものはいない。一人もいない」(詩編53編2~4節、ローマの信徒への手紙3章10~12節)と告げています。神の目からは、全ての人は罪人であり、正しい人間はいないのです。正しいと自認していても、あの人よりはましというだけで、決して、正しい人間だと、神が認めてくださっているわけではありません。そして、言うまでもなく、私たち自身、罪人なのです。罪の自覚があるか否かではなく、神が私たちを罪人であると宣言しておられるのです。そうであれば、罪人である私たちは救われないのか、ただ滅びるしかないのかということを、最優先課題として真剣に考えなければなりません。
罪人を招いておられる主イエスが、私たちの前に立っておられる。これが、今日、私たちに告げられていることなのです。ここで重要になってくるのが、罪人を招いておられる主イエスとはどのようなお方かということです。
今日の9章9~13節の出来事の前に、9章1~8節で、主イエスには罪を赦す権威があることを示す出来事が記されていました。マタイ福音書は、罪を赦す権威をお持ちの主イエスが、自ら罪人たちのところへ出かけて行き、罪の赦しへと招いておられると告げているのです。そして、今、私たちもこの罪の赦しへと招かれています。この招きの機会を失わないよう、直ちにみもとに近づき、「わが主よ。わが救い主よ」と御名を拝しましょう。
悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。しかし、正しい人でも、その正しさから離れて不正を行い、悪人がするようなすべての忌まわしい事を行うなら、彼は生きることができようか。彼の行ったすべての正義は思い起こされることなく、彼の背信の行為と犯した過ちのゆえに彼は死ぬ。
それなのにお前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。それなのにイスラエルの家は、『主の道は正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。
それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。
マタイによる福音書9章9~13節(日本聖書協会「新共同訳」)
イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
マタイ福音書9章9~13節は、徴税人マタイを弟子にする話です。マタイ福音書4章の4人の漁師を弟子にした記述に、主題もその話の展開も似ています。しかし、徴税人マタイが主イエスの弟子になったことよりも、その後の出来事が話の中心と見るべきでしょう。マタイが弟子になった後、主イエスが多くの徴税人や罪人と一緒に食事をし、それをめぐってファリサイ派の人々との間に起こった言葉のやりとりがあります。マタイが弟子になったという記述は、その後に起こった出来事を語るための導入部分なのです。
9節「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」
場所は、カファルナウムであったと考えられます。9章1節で主イエスが「自分の町に帰ってこられた」とあるからです。カファルナウムでは、輸出入、通行税などの関税を取り立てていました。収税所はそのための場所であり、マタイはそこで徴税人として働いていたのです。彼が徴税人であることは、10章3節に「徴税人のマタイ」とあることからも明らかです。
マルコ福音書とルカ福音書は、この弟子の名前をレビと伝えています。同一人物と見て良いでしょう。マタイ、マルコ、ルカのいずれの福音書も、12人の弟子たちの中で最初に弟子になったと思われるペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネが弟子になった経緯を記しています。ルカ福音書はマタイ、マルコと少し違う経緯を記していますが、とにかく、この4人のことについて記しています。他の8人については、徴税人マタイ(レビ)以外、弟子になった経緯がどの福音書にも記されていません。最初の4人、特にペトロ、ヤコブ、ヨハネは、他のところでも名前が時々出てきますが、他の8人については、イスカリオテのユダが裏切った様子を記す以外、ほとんど記されていないのです。どの福音書も、8人の弟子たちに対する関心が薄かったと言って良いかもしれません。
こうして見てきますと、徴税人マタイの召命物語も、その様子を伝えることよりも、主イエスが徴税人を弟子に選んだということに目的があったと言えそうです。
と言うのも、当時、徴税人は人々から嫌われていたからです。
当時の税金について簡単に説明しておきます。
主イエスの時代より少し前、ヘロデ大王の時代には、彼によって任命された役人によって税金が徴収され、直接ヘロデのもとに納められました。A.D.6年になると、ユダヤはローマの属州に編入され、ローマから派遣された総督が徴税の責任を負い、直接ローマへ納めました。しかし、ガリラヤの領主たち(ヘロデ・アンティパスなど)もそれとは別に税金を取り立てたので、住民は二重の負担を強いられることになりました。
徴税人は、ローマや領主たちなどの異邦人の手先となって、同胞のユダヤ人から税を徴収していたこと、また、税として納めなければならない金額以上に徴収し、私腹を肥やす者が多くいたことなどにより、ユダヤ人から嫌われていたのです。徴税人は、しばしば罪人と一緒と見なされていることは、今日の聖書の箇所でも確認することが出来ます。
徴税人が、主イエスの弟子になったことは、多くの人々を驚かせたに違いありません。マタイ福音書が弟子のリストの中でマタイを徴税人と呼んでいるのは、そういう驚きを表しているのでしょう。そして、徴税人が弟子になるという驚きに加えて、主イエスが徴税人や罪人と見なされている人々と一緒に食事をしたという驚きが続くのです。
11節「ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、『なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。」
ファリサイ派というのは、当時、サドカイ派と並ぶ宗教的、政治的な勢力で、旧約聖書や口伝律法を重んじ、日常生活での実践を強調していました。彼らは宗教的な汚れを避けるために、異邦人とのつきあいや罪人と見なされる人々を避けていたのです。彼らが徴税人や罪人と一緒に食事をする主イエスを見て驚いたのは当然と言えるでしょう。しかし、その驚きは、ファリサイ派だけではなく、全てのユダヤ人にとっての驚きであり、また後のキリスト者にとっても驚きであったに違いありません。
ファリサイ派の人々は、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と、主イエスにではなく、弟子たちに尋ねます。この時の様子は描かれていませんので、想像するしかありませんが、おそらく、家の奥にいる主イエスに直接話が出来なかったのかも知れません。たまたま入り口近くにいた弟子たちに、ファリサイ派の人々が質問したのでしょう。主イエスがそれを聞いたのは、弟子たちを介してであったかも知れません。あるいは、ファリサイ派の人々の声が大きく、主イエスの耳にまで届いたのかも知れません。もしそうだとすると、そのファリサイ派の人々の言葉は、その食事の席に着いていた人々にも聞こえたはずです。一瞬、その場の空気が凍り付いたように、沈黙が支配したかも知れません。食事の席にいた人々は、「自分たちのせいで、先生が非難されている」と、心を痛めたのではないでしょうか。ファリサイ派の人々に対する怒りが生じたでしょうが、それを否定することも言い返すことも出来ず、ただ、歯を食いしばるしかできなかったに違いありません。
12~13節「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」
病を癒す医者は、病を恐れて病人を遠ざけることはしません。むしろ、病から救うために、病人に近づいていきます。それと同じように、主イエスは人々を罪から救うためにこの地上にお出でになったのです。主イエスが罪人たちと食事を共にされるのは、人道的な動機によるのではありません。否、彼らを憐れむ心がありますから、人情からの行動と見ることができなくもないわけですが、しかし、一番の目的は、彼らへの同情ではなく、彼らを罪から救うことにあるのです。罪から救えないのであれば、同情は無力です。
主イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と、お答えになりました。同じ出来事を記しているルカ福音書では、この言葉に続けて「悔い改めさせるため」と記しています。マタイ福音書が言いたいことも同じでしょう。罪人と一緒の食事するためではなく、彼らを救うために主イエスはお出でになり、神の恵みに応える生活へと導こうとされているのです。旧約聖書のエゼキエル書18章には、悪人が滅ぶことよりも、彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ぶと記されています。主イエスは、この神の憐れみを現し、罪人たちのところへ赴き、罪から救い、悔い改めに導こうとされているのです。
罪人とはいったい誰のことでしょうか。ファリサイ派の人々は、どうやら自分たちを正しい人と位置づけていたようです。しかし、聖書は「善を行うものはいない。一人もいない」(詩編53編2~4節、ローマの信徒への手紙3章10~12節)と告げています。神の目からは、全ての人は罪人であり、正しい人間はいないのです。正しいと自認していても、あの人よりはましというだけで、決して、正しい人間だと、神が認めてくださっているわけではありません。そして、言うまでもなく、私たち自身、罪人なのです。罪の自覚があるか否かではなく、神が私たちを罪人であると宣言しておられるのです。そうであれば、罪人である私たちは救われないのか、ただ滅びるしかないのかということを、最優先課題として真剣に考えなければなりません。
罪人を招いておられる主イエスが、私たちの前に立っておられる。これが、今日、私たちに告げられていることなのです。ここで重要になってくるのが、罪人を招いておられる主イエスとはどのようなお方かということです。
今日の9章9~13節の出来事の前に、9章1~8節で、主イエスには罪を赦す権威があることを示す出来事が記されていました。マタイ福音書は、罪を赦す権威をお持ちの主イエスが、自ら罪人たちのところへ出かけて行き、罪の赦しへと招いておられると告げているのです。そして、今、私たちもこの罪の赦しへと招かれています。この招きの機会を失わないよう、直ちにみもとに近づき、「わが主よ。わが救い主よ」と御名を拝しましょう。