イザヤ書9章1~6節(日本聖書協会「新共同訳」)
闇の中を歩む民は、大いなる光を見
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
あなたは深い喜びと
大きな楽しみをお与えになり
人々は御前に喜び祝った。
刈り入れの時を祝うように
戦利品を分け合って楽しむように。
彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を
あなたはミディアンの日のように
折ってくださった。
地を踏み鳴らした兵士の靴
血にまみれた軍服はことごとく
火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は、「驚くべき指導者、力ある神
永遠の父、平和の君」と唱えられる。
ダビデの王座とその王国に権威は増し
平和は絶えることがない。
王国は正義と恵みの業によって
今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。
万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
ヨハネによる福音書1章1~5節(日本聖書協会「新共同訳」)
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
イザヤ書9章1節の「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」は、マタイ福音書が、主イエスがガリラヤで伝道を開始されたことを記した場面で引用した聖句です。
預言者イザヤが言う「闇の中を歩む民」とか「死の陰の地に住む者」は、もともと当時のユダ王国の人々を指していますが、マタイは、この言葉を特定の人々ではなく、地上に住む人々すべてを指して使っています。そして、「光」という言葉を、救い主イエス・キリストを指して使っています。すなわち、主イエスこそ、神から使わされた闇に射し込む真の光であると告げているのです。
同じような象徴的な表現を使っているのが、ヨハネ福音書で、「光は暗闇の中で輝いている」(1:5)と告げています。ヨハネ福音書では、光が闇の中で輝き続けているイメージを描いているのに対し、イザヤ書には、闇の中に光が射し込んできたイメージがあります。その意味では、救い主が世に来られたことを告げる言葉として、よりふさわしいと言えるでしょう。と言ってもヨハネ福音書は、イザヤ以上に、救い主の到来を大胆な表現で伝えています。1章14節の「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」です。ここでは主イエスは光ではなく、「言(ことば)」という別の言葉を象徴として使っています。ここでは、主イエスが父なる神のみもとから人間の世界に来られたことを告げています。ヨハネ福音書は、イザヤ以上に救い主の到来を力強く語っています。そして、ヨハネ1章5節は「暗闇は光を理解しなかった。」と告げ、主イエス・キリストの十字架の死を暗示しています。
そのことにつき、ヨハネはさらに3章19~21節で「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」と告げています。
闇に住む私たちが光を受け入れるどころか光を排除すると告げられています。しかし、それにもかかわらず、神は私たちを救う御計画を中止することなく、御子イエス・キリストによって私たちを救う御計画を推し進めていくと告げています。私たちの救いが神の力によることを強調しているのです。
このように救われた私たちは、キリストによって光とされているとも告げられています。自分の力で光るのではなく、真の光であるキリストに照らされ、その光を周囲の人々に伝えるのです。
闇の中を歩む民は、大いなる光を見
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
あなたは深い喜びと
大きな楽しみをお与えになり
人々は御前に喜び祝った。
刈り入れの時を祝うように
戦利品を分け合って楽しむように。
彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を
あなたはミディアンの日のように
折ってくださった。
地を踏み鳴らした兵士の靴
血にまみれた軍服はことごとく
火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は、「驚くべき指導者、力ある神
永遠の父、平和の君」と唱えられる。
ダビデの王座とその王国に権威は増し
平和は絶えることがない。
王国は正義と恵みの業によって
今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。
万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
ヨハネによる福音書1章1~5節(日本聖書協会「新共同訳」)
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
イザヤ書9章1節の「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」は、マタイ福音書が、主イエスがガリラヤで伝道を開始されたことを記した場面で引用した聖句です。
預言者イザヤが言う「闇の中を歩む民」とか「死の陰の地に住む者」は、もともと当時のユダ王国の人々を指していますが、マタイは、この言葉を特定の人々ではなく、地上に住む人々すべてを指して使っています。そして、「光」という言葉を、救い主イエス・キリストを指して使っています。すなわち、主イエスこそ、神から使わされた闇に射し込む真の光であると告げているのです。
同じような象徴的な表現を使っているのが、ヨハネ福音書で、「光は暗闇の中で輝いている」(1:5)と告げています。ヨハネ福音書では、光が闇の中で輝き続けているイメージを描いているのに対し、イザヤ書には、闇の中に光が射し込んできたイメージがあります。その意味では、救い主が世に来られたことを告げる言葉として、よりふさわしいと言えるでしょう。と言ってもヨハネ福音書は、イザヤ以上に、救い主の到来を大胆な表現で伝えています。1章14節の「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」です。ここでは主イエスは光ではなく、「言(ことば)」という別の言葉を象徴として使っています。ここでは、主イエスが父なる神のみもとから人間の世界に来られたことを告げています。ヨハネ福音書は、イザヤ以上に救い主の到来を力強く語っています。そして、ヨハネ1章5節は「暗闇は光を理解しなかった。」と告げ、主イエス・キリストの十字架の死を暗示しています。
そのことにつき、ヨハネはさらに3章19~21節で「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」と告げています。
闇に住む私たちが光を受け入れるどころか光を排除すると告げられています。しかし、それにもかかわらず、神は私たちを救う御計画を中止することなく、御子イエス・キリストによって私たちを救う御計画を推し進めていくと告げています。私たちの救いが神の力によることを強調しているのです。
このように救われた私たちは、キリストによって光とされているとも告げられています。自分の力で光るのではなく、真の光であるキリストに照らされ、その光を周囲の人々に伝えるのです。