八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「闇に射し込む光」 2020年11月29日の礼拝

2021年01月25日 | 2020年度
イザヤ書9章1~6節(日本聖書協会「新共同訳」)

 闇の中を歩む民は、大いなる光を見
 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
 あなたは深い喜びと
   大きな楽しみをお与えになり
 人々は御前に喜び祝った。
 刈り入れの時を祝うように
 戦利品を分け合って楽しむように。
 彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を
 あなたはミディアンの日のように
   折ってくださった。
 地を踏み鳴らした兵士の靴
 血にまみれた軍服はことごとく
 火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
 権威が彼の肩にある。
 その名は、「驚くべき指導者、力ある神
 永遠の父、平和の君」と唱えられる。
 ダビデの王座とその王国に権威は増し
 平和は絶えることがない。
 王国は正義と恵みの業によって
 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。
 万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。


ヨハネによる福音書1章1~5節(日本聖書協会「新共同訳」)

  初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。


  イザヤ書9章1節の「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」は、マタイ福音書が、主イエスがガリラヤで伝道を開始されたことを記した場面で引用した聖句です。
  預言者イザヤが言う「闇の中を歩む民」とか「死の陰の地に住む者」は、もともと当時のユダ王国の人々を指していますが、マタイは、この言葉を特定の人々ではなく、地上に住む人々すべてを指して使っています。そして、「光」という言葉を、救い主イエス・キリストを指して使っています。すなわち、主イエスこそ、神から使わされた闇に射し込む真の光であると告げているのです。
  同じような象徴的な表現を使っているのが、ヨハネ福音書で、「光は暗闇の中で輝いている」(1:5)と告げています。ヨハネ福音書では、光が闇の中で輝き続けているイメージを描いているのに対し、イザヤ書には、闇の中に光が射し込んできたイメージがあります。その意味では、救い主が世に来られたことを告げる言葉として、よりふさわしいと言えるでしょう。と言ってもヨハネ福音書は、イザヤ以上に、救い主の到来を大胆な表現で伝えています。1章14節の「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」です。ここでは主イエスは光ではなく、「言(ことば)」という別の言葉を象徴として使っています。ここでは、主イエスが父なる神のみもとから人間の世界に来られたことを告げています。ヨハネ福音書は、イザヤ以上に救い主の到来を力強く語っています。そして、ヨハネ1章5節は「暗闇は光を理解しなかった。」と告げ、主イエス・キリストの十字架の死を暗示しています。
  そのことにつき、ヨハネはさらに3章19~21節で「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」と告げています。
  闇に住む私たちが光を受け入れるどころか光を排除すると告げられています。しかし、それにもかかわらず、神は私たちを救う御計画を中止することなく、御子イエス・キリストによって私たちを救う御計画を推し進めていくと告げています。私たちの救いが神の力によることを強調しているのです。
  このように救われた私たちは、キリストによって光とされているとも告げられています。自分の力で光るのではなく、真の光であるキリストに照らされ、その光を周囲の人々に伝えるのです。



「神の慈しみのうちに生きる」 2020年11月22日の礼拝

2021年01月23日 | 2020年度
イザヤ書54章10節(日本聖書協会「新共同訳」)

 山が移り、丘が揺らぐこともあろう。
 しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず
 わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと
   あなたを憐れむ主は言われる。


コロサイの信徒への手紙3章12~13節(日本聖書協会「新共同訳」)

  あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。


  「神が私たちと共にいてくださる」は、聖書の中で繰り返し教えられている大切な信仰の言葉です。クリスマスのころによく読まれる「インマヌエル」という言葉もその一つです。
  その私たちと共にいてくださる神とは、どういう方なのでしょうか。もし、私たちの罪を一つも見逃さず、私たちを裁き罰する方であったなら、私たちと共にいてくださる神は、絶えず囚人を見張る看守のような存在であり、私たちはいつもびくびくし、心の休まる時がないのではないでしょうか。しかし、聖書は、神がいつも苦境にある私たちを守ってくださり、慈しんでくださる方であると教えています。イザヤ書54章10節は、まさにそのことを教えている御言葉です。
  「山が移り、丘が揺らぐこともあろう」の言葉は、山と丘は決して動くことはないものの代名詞ですが、それらがたとえ動くことがあったとしても、神の慈しみは私たちから決して離れることはないと教えています。このように教えられているということは、神に後ろめたい思いをしている時、神が私たちを見捨てたとか、私たちに怒り、嫌っていると思うことが多いためです。そのような私たちに、神は決して私たちを見捨てることはないと預言者は強調しているのです。
  「わたし(神)の結ぶ平和の契約が揺らぐことはない」。「契約」は、堅苦しい言葉ですが、神が約束してくださったことは必ず実現するという確かさ表しています。旧約聖書の時代、契約を結ぶとき、動物を犠牲にすることがありましたが、それにより、命を懸けて契約を守るという意味がありました。そこで、契約を結ぶことにより、神はご自身が約束されたことを決して違えないことを示されたのです。神の約束は「平和」であり、神の慈しみ、憐みは永久に変わることがありません。
  このような約束を受けている私たちに、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着け、互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい」(コロサイ3章12~13節)と戒められています。これは、人間の生き方や社会の理想を教えているようですが、理想というよりは、神の慈しみと憐みに応えて生きることを教えているのです。神の慈しみと憐みに応えて生きるには、まず自分が神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されていることを自覚し、確信することが大切です。私たちに対する神の選びと愛はとこしえに変わることがありません。この神を信頼することが大切なのです。
  憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、寛容、互いに忍び合い、赦し合うことは、神の慈しみと憐みに目を向けることから始まるのです。「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」にあるように、私が神から赦されているという確信を持ち、同じように主にある兄弟姉妹も神から赦され、愛されていることを心に刻むことが大切だということです。神を仰ぐことを忘れ、自分の利害、感情だけで相手を見ることは、神の御心に背いた生き方になりやすいのです。実際そのような生き方になっていないか、自らを振り返る必要があるでしょう。そして、赦す心を与えてくださいと祈ることが大切なのです。



「人を分け隔てしない神」 2020年11月15日の礼拝

2021年01月11日 | 2020年度
サムエル記下12章5~9節(日本聖書協会「新共同訳」)

  ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。

ローマの信徒への手紙2章1~16節(日本聖書協会「新共同訳」)

  だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません。律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。


  1章18~32節において、天地創造の神を神とせず、神がお創りになった被造物を神とする人間は、神との正しい関係を拒否した故に、人間どうしの関係も最悪となっており、悲惨な状態にあると指摘したパウロは、そのような悲惨な状態は、人間に対する神の怒りの現われであると告げました。
  続く2章1~16節では、すべての人間が神の裁きのもとにあると告げています。この部分は、内容的にはユダヤ人を指していると思われますが、それ以上に、すべての人間が神の裁きのもとにあることを強調しています。
  1章16節で「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力である」、すなわち神はすべての人間をお救いになる、それが福音だと、パウロは語りました。全ての人間には神の力による救いが必要なのだと言いたいのです。そのために、救いを必要とする全ての人間がどれほど悲惨であるか、その現実を明らかにしようとしているのです。
  1章18~32節に記されている人間の罪を知り、その人々を裁く人も同罪です。その人々と同じことをしているからです。それは、神から律法を与えられているユダヤ人も同じです。異邦人と同じ罪を犯してはいないかもしれませんが、神に背いているということでは同じなのです。「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされる」(ローマ2章13節)からです。律法を知っており、また持っているだけで、自分が義とされていると錯覚することがあります。サムエル記下12章5~9節に登場しているダビデのようにです。
  ローマ2章14節以下では、「律法を持たない異邦人は律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています」とあります。これは、律法はなくても良いとか、律法なしに救われるというようなことを言っているのではありません。むしろ、ユダヤ人も異邦人もすべての人は、神のみ前では罪人であると宣言しているのです。この意味において、「神は人を分け隔てしない」(11節)と言われるのです。
  罪において人を分け隔てしない神は、人を救うということにおいても分け隔てなさいません。ここで、「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(1:16)という言葉にもどるわけです。それでは、全ての人を救う神の力はどこにどのように現れたのでしょうか。それは主イエス・キリストのおいて現されました。主イエス・キリストは、律法において要求された義なる行いを、私たちに代わって満たしてくださいました。それ故、「キリストは律法の目標(終わり)」とも言われ、信じる者すべてに義をもたらしたのです。キリストにこそ私たちの救いがあるのです。