八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「全ての人に福音を伝える」 2020年10月11日の礼拝

2020年11月30日 | 2020年度
イザヤ書62章10~12節(日本聖書協会「新共同訳」)

 城門を通れ、通れ、民の道を開け。
 盛り上げよ、土を盛り上げて広い道を備え
 石を取り除け。
 諸国の民に向かって旗を掲げよ。
 見よ、主は地の果てにまで布告される。
 娘シオンに言え。
 見よ、あなたの救いが進んで来る。
 見よ、主のかち得られたものは御もとに従い
 主の働きの実りは御前を進む。
 彼らは聖なる民、主に贖われた者、と呼ばれ
 あなたは尋ね求められる女
 捨てられることのない都と呼ばれる。


ローマの信徒への手紙1章8~15節(日本聖書協会「新共同訳」)

  まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。


  使徒パウロがローマの信徒への手紙を書いたのは、いわゆる第三宣教旅行と呼ばれる旅の途中で、ギリシアにあるコリントという町での二度目の滞在の時でした。一度目のコリント滞在は第二宣教旅行の時で、そこで約一年半滞在し、その時にローマから来ていたアキラとプリスキラの夫婦に出会っています。その後、パウロは彼らと一緒にエフェソに行き、そこで別れました。彼らと一緒にいる間に、パウロはローマについての情報を得ていたと思われます。ローマの信徒への手紙の最後のあいさつで、パウロが「プリスカとアキラによろしく」と言っているのもこういう出会いがあったからでした。第一回目のコリント滞在期間中に異邦人伝道の決意を固め、ユダヤ人にだけでなく異邦人にも積極的に伝道していくようになりました。こうして、第三宣教旅行の時、ローマに行くビジョンを胸に抱き、さらには西地中海世界にまで伝道しようという思いを強くしていったのです。それは、決してパウロの個人的な関心からというのではなく、世界中の人々に福音を宣べ伝えることは神の御計画であり、そのために、自分が使徒に立てられていると確信していたからです。
  8~15節において、パウロがこの手紙の目的を記していますが、15章22節以下でもローマ訪問の目的を記しています。ローマの信徒たちとの信仰の交わりを持ち、さらにはイスパニア(現在のスペイン地方)にまで伝道に行きたいのです。もちろん、神のお許しがあればということです。1章13節に「何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられている」とあり、15章22節でも同じように記しています。また、使徒言行録を見てみますと、パウロが宣教旅行の時に何度も聖霊に妨げられたことが記されています。具体的な事情は分かりませんが、パウロの伝道が神の御計画と導きによるものであることを示しています。パウロのローマ訪問も、すぐに実現したわけではありませんでしたし、しかも囚人として護送されてローマに到着したのです。このことも神の御計画であると使徒言行録は記し、パウロもそのように考えていたことは間違いありません。すべての人を救うことが神の御心です。それを思うと、神が伝道を妨げるとは考えにくいことです。しかし、そこに神の知恵の深さがあるとパウロは考えているのです。主イエス・キリストが十字架にかかられ、それを神の救いと信じることは私たちには愚かとしか見えません。しかし、神はそれによって、信じるすべての人を救おうとお考えになったのです。(Ⅰコリント1:18~25) 救いが人間の知恵や力によらず、神の力によるものとなるためでした。それゆえパウロは言います。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。『いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。』」(ローマ11:33~34)
  神が伝道を妨げることは一見矛盾しているようでも、すべての人を救うという神の御計画は変わることはなく、確かなことなのです。それゆえ、パウロも目を神に向け、神の御計画と導きを信じつつ、伝道に励んでいるのです。私たちも神に目を向け、救いを確信し、全ての人々に福音を宣べ伝えましょう。

「神の救いを語る手紙」 2020年10月4日の礼拝

2020年11月24日 | 2020年度
イザヤ書40章6~9節(日本聖書協会「新共同訳」)

 呼びかけよ、と声は言う。
 わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。
 肉なる者は皆、草に等しい。
 永らえても、すべては野の花のようなもの。
 草は枯れ、花はしぼむ。
 主の風が吹きつけたのだ。
 この民は草に等しい。
 草は枯れ、花はしぼむが
 わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

 高い山に登れ
 良い知らせをシオンに伝える者よ。
 力を振るって声をあげよ
 良い知らせをエルサレムに伝える者よ。
 声をあげよ、恐れるな
 ユダの町々に告げよ。


ローマの信徒への手紙1章1~7節(日本聖書協会「新共同訳」)

  キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、―― この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。―― 神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。


  新約聖書には、パウロの手紙が多くあります。その中でもローマの信徒への手紙にはいくつかの特徴があります。たとえば、他の手紙の送り先が、パウロがかつて伝道した教会であったのに対し、ローマの教会は、パウロがまだ行ったことがなく、これから訪ねようとしている教会です。ですから、他の手紙の多くは、それぞれの教会で起きた諸問題を解決しようとして書かれたのに対して、ローマの信徒への手紙は、ローマの教会で生じている具体的な問題を扱っているというわけではありません。パウロがなぜローマの信徒への手紙を書いたのかははっきりとは分かりませんが、いずれ、ローマの教会を訪ね、お互いの信仰を確かめ合い力づけあいたいということがあったようです。それと同時に、地中海世界の西側に伝道するための足掛かりにしたいということがありました。
  見知らぬローマの教会でしたが、それでも何人かは知っている人がいたようです。そこからわずかながらでしょうが、ある程度の情報を得ていたのかもしれません。パウロにとってローマの信徒たちが見知らぬ人々であったように、ローマの信徒たちにとってもパウロは見知らぬ存在であったでしょう。パウロに対する良いうわさもあったでしょうが、かつてキリスト者を迫害していたなど、悪いうわさも広まっていたかもしれません。そのため、ローマの信徒への手紙は、自己紹介の意味もありました。パウロの他の手紙と比べると、自己紹介の部分が非常に長いのもそれが理由です。
  彼はまず自分がキリストの僕であること、次に使徒に召されたこと、そして神の福音のために選ばれたことを記します。こうして、彼は自分が神から与えられている使命を明らかにしました。すなわち、福音とは、真の神であり、真の人であるイエス・キリストであり、このキリストを宣べ伝えていくことがパウロに与えられた使命であるというのです。
  ローマの信徒への手紙は、キリストという福音を伝えることを目的にしているといって過言ではありません。すべての異邦人をこの福音を伝え、救いにあずからせたいのです。ローマの教会はユダヤ人の集まりから始まったと思われますが、異邦人もいたようです。すでにキリストへの信仰を持っている人々もいましたが、まだ信仰に入っていない人々もいたに違いありません。それらのすべての人々と、お互いの信仰を確かめ合い、力づけあいたいのです。
  このローマの信徒への手紙は、宛先がローマですが、ローマ以外の教会にも回覧されました。特に、「ローマの教会へ」ではなく、「ローマに住む人々」とあるのは、教会が組織されていない所でも読まれることを期待しているのでしょう。
  私たちは、パウロの時代から二千年の後に生き、ローマから遠く離れた地で信仰を守っています。しかし、その私たちにも読まれるようにとこの手紙は書き写され、伝えられてきました。ローマの信徒への手紙は、八幡鉄町教会で信仰を守っている私たちにも読まれるようにと記された福音の手紙なのです。この手紙によって、私たちもキリストの福音を聞き、信仰を確かめ合いましょう。


「弟子たちへの宣教命令」 2020年9月27日の礼拝

2020年11月16日 | 2020年度
イザヤ書56章1~8節(日本聖書協会「新共同訳」)

 主はこう言われる。
 正義を守り、恵みの業を行え。
 わたしの救いが実現し
 わたしの恵みの業が現れるのは間近い。
 いかに幸いなことか、このように行う人
 それを固く守る人の子は。
 安息日を守り、それを汚すことのない人
 悪事に手をつけないように自戒する人は。
 主のもとに集って来た異邦人は言うな
 主は御自分の民とわたしを区別される、と。
 宦官も、言うな
 見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。
 なぜなら、主はこう言われる
 宦官が、わたしの安息日を常に守り
 わたしの望むことを選び
 わたしの契約を固く守るなら
 わたしは彼らのために、とこしえの名を与え
 息子、娘を持つにまさる記念の名を
   わたしの家、わたしの城壁に刻む。
 その名は決して消し去られることがない。
 また、主のもとに集って来た異邦人が
 主に仕え、主の名を愛し、その僕となり
 安息日を守り、それを汚すことなく
 わたしの契約を固く守るなら
 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き
 わたしの祈りの家の喜びの祝いに
   連なることを許す。
 彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら
 わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。
 わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。
 追い散らされたイスラエルを集める方
   主なる神は言われる
 既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。


マタイによる福音書28章16~20節(日本聖書協会「新共同訳」)

  さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」


  マタイ福音書は、他の福音書と比べて形式的に整っているという特徴があります。たとえば、1~4章と26~28章は福音書の最初と最後というだけでなく、内容が「誕生」と「死と復活」であること、また重要となる言葉が双方に出てきます。これらは、マタイが意識的にしていることです。そこで、私たちもこのことを意識しながら今日の御言葉を見ていきたいと思います。
  主イエスの復活後、初めて弟子たちが登場します。彼らは墓を訪ねた女性たちから主イエスの葬られた墓が空となったことと、彼女たちに現れた天使のメッセージを聞きました。そのメッセージに従って、ガリラヤに行ったのです。彼らは指示されていた山で主イエスに会い、ひれ伏しました。そして、すべての民を主イエスの弟子にするようにとの命令を受けたのです。
  「ひれ伏す」と訳されている言葉は、他の個所では「拝む」とも訳され、礼拝したことを意味しています。ほかの例を見てみましょう。東からやってきた占星術の学者たちが幼子を見つけた時、彼らは幼子に対しひれ伏し、拝みました。また、主イエスが湖の上を歩き、ペトロにも湖の上を歩かせるのを見た弟子たちが、主イエスに対し「本当に、あなたは神の子です」と言って拝んだとあります。このように、マタイ福音書では、この言葉を主イエスに対する人々の礼拝行為として用いており、この福音書の特徴となっています。
  マタイ福音書は、山を神の権威が現れる場所として象徴的に用いています。主イエスが、弟子たちに神の独り子としての栄光を現された場所が山でした。また、マタイ5~7章は「山上の説教」と呼ばれていますが、人びとに教える時、主イエスが山に登り、教え終えられると山を下りられたとあることからそのように呼ばれています。神の権威の現れる場所として、山が位置付けられているのです。弟子たちが山に登り宣教命令を受けたと記しているのも、主イエスに神の権威があることを表しているのです。実際、主イエスは「私は天と地の一切の権威を授かっている」と告げられました。
  しかし、何故ガリラヤなのでしょう。主イエスは、わざわざガリラヤに弟子たちを集結させたのです。ガリラヤは特別の場所ではありません。それどころか、「ガリラヤからは預言者は出ない」(ヨハネ7:52)とまで言われていたのです。そのようなガリラヤをマタイは特別な場所と考えたようです。それは聖なる地という意味ではなく、福音を全世界に宣べ伝えるための出発の地ということです。
  かつて主イエスが伝道を開始されたのは、このガリラヤでした。新共同訳聖書は「イエスがガリラヤに退かれた」としていますが、もともとの言葉は行くという言葉であり、退くことを強調してはいません。主イエスはガリラヤを伝道開始の場所として、ガリラヤを選んだということです。マタイ福音書はイザヤ書を引用し、「異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰に住む者に、光が差し込んだ」と記しています。ユダヤ人ばかりでなく、異邦人をも救おうとする神の御計画が示されています。ガリラヤは救いを必要としている人々を象徴しているのです。救いを必要としている人々というのは、救いを求める人々ということではありません。たとえ、彼らが救いを求めていなかったとしても、彼らには救いが必要だと神が見ておられるということです。それゆえ、神はすべての人を救う御計画を立て、実行なさったのでした。こうして、主イエスは、ガリラヤから伝道を開始されたのであり、弟子たちもこのガリラヤから伝道に出発せよと、送り出されたのです。
  弟子たちを送り出す時、主イエスは、「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」と宣言なさいました。この言葉は、主イエスの誕生についてもマタイ福音書が記していました。救いを受ける人にも救いを宣べ伝える人にも神が共にいてくださるのです。救いは神の御業だからです。



「復活を報告する番兵」 2020年9月20日の礼拝

2020年11月09日 | 2020年度
エレミヤ書9章3~5節(日本聖書協会「新共同訳」)

 人はその隣人を警戒せよ。
 兄弟ですら信用してはならない。
 兄弟といっても
   「押しのける者(ヤコブ)」であり
 隣人はことごとく中傷して歩く。
 人はその隣人を惑わし、まことを語らない。
 舌に偽りを語ることを教え
 疲れるまで悪事を働く。
 欺きに欺きを重ね
 わたしを知ることを拒む、と主は言われる。


マタイによる福音書28章11~15節(日本聖書協会「新共同訳」)

  婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。


  墓が空になったことを目撃した番兵たちは、エルサレムに戻り、祭司長たちに事の次第を報告しました。報告を受けた祭司長たちは長老たちと相談をし、弟子たちが墓から遺体を盗み出したと言えと、番兵たちに金を与えました。
  注目すべきは、祭司長たちは番兵たちの報告を疑っていないということで、それは主イエスの復活を事実と受け止めたということを意味しています。しかし、彼らも、報告した番兵たちもその事実を認めようとせず、偽りで塗り固めようとしました。主イエスの裁判の時、偽りの証言によって死罪を宣言した彼らは主イエスの復活に際しても偽りによって主イエスを退けようとするのです。
  かつて、主イエスは預言者イザヤの言葉を引用し、「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。」とおっしゃいました。まさに、偽りで事実を覆い隠そうとする祭司長たちと番兵たちの姿を現しています。
  彼らは知らなかったのではなく、事実を認めようとせず、自分自身を偽り、人々に対しても偽っているのです。この事はユダヤ人たちが主イエスの復活を信じない理由を説明しているわけですが、それだけでなく、主イエスの復活を信じようとしないすべての人間のかたくなさを象徴しています。
  マタイ福音書は、そのような人間のかたくなさを語ると同時に、それにもかかわらず、神はすべての人間を救いに至らせるために、主イエスの復活を宣べ伝えさせるために、弟子たちを派遣する出来事を記し、福音書を閉じています。それがマタイ福音書の最後である28章16節以下です。真実を偽りで覆い隠す罪人(つみびと)の姿は、この福音書の中心テーマではありません。むしろ、罪人の抵抗にもかかわらず、神の御計画は力強く推し進められていくということこそ、この福音書が最も伝えようとしていることなのです。
  この罪人の抵抗と、それにも関わらずすべての人を救うという神の御計画が力強く推し進められていくテーマは、主イエス・キリストの御降誕の出来事についても同様に語られていました。救い主の誕生を知らされ、それを阻止しようとするヘロデ大王の神に抵抗する姿と、天使の導きによって赤子のイエスとヨセフとマリアがその危機をかいくぐり、ガリラヤへと脱出する出来事です。
  エルサレムは、生まれたばかりの主イエス・キリストの命を狙う町であり、約30年の後、十字架にかけ殺害した町となりました。それに対し、異邦人の町とさげすまれた町は、主イエスの伝道の場所となり、そして、復活の後には、すべての人々に福音を宣べ伝えていく出発の地となりました。
  人びとの妨害と偽りにもかかわらず、神は救いを実行なさり、その福音を宣べ伝えさせるために、弟子たちをガリラヤに集結させたのです。


「イエスの復活」 2020年9月13日の礼拝

2020年11月02日 | 2020年度
イザヤ書8章23節~9章1節(日本聖書協会「新共同訳」)

 先に
 ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが
 後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた
 異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。
 闇の中を歩む民は、大いなる光を見
 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。


マタイによる福音書28章1~10節(日本聖書協会「新共同訳」)

  さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」


  主イエスが復活されたのは、「安息日が終わって、週の初めの日の明け方」でした。すなわち、日曜日の朝ということです。当時のユダヤの一日の始まりが日の沈む夕方であり、「安息日が終わって、週の初めの日」というだけでは今の土曜日の夕方と思い違いされますので、このようなくどい言い方になっているのです。「明け方」という言葉があることにより、日曜日の朝であることがはっきりします。マタイ福音書がこのような言い方をしているのは、主イエスが復活されたのが日曜日の朝であることを強調しているのです。それは、マタイ福音書が書かれた時には、主イエスが復活された日曜日に礼拝するようになっていたからでしょう。
  主イエスが葬られた墓へ二人の女性が訪ねた時、地震が起こり、墓をふさいでいた大きな石の円盤がわきに転がされ、天使が現れたとあります。この時、主イエスは登場せず、どのように復活なさったのかも記されていません。私たちは復活という現象がどのように起こったのかに関心を持ちやすいのですが、聖書はそのことを語ろうとはしません。主イエスの復活は神の力によるということだけが記されています。私たちにとって大切なことは、復活がどのようにして起こったかではなく、主イエスの復活は私たちにとってどんな意味があるかということです。そのことをマタイ福音書は伝えようとしているのです。
  マタイは、主イエスの誕生を語るとき、自分の民を罪から救うのでイエスと名付けられたと記しました。その罪からの救いは、主イエスの十字架による死と復活によって成就しました。ここに、復活の重要な意味があると告げているのです。そして、主イエスの復活の出来事は、人びとに伝えられる必要がありました。救いの出来事を、そしてその喜びを人々伝えることが、これから重要となるのです。
  天使は、主イエスの復活を弟子たちに伝えるようにと、女性たちを送り出しました。その途中、彼女たちは先を行かれる主イエスに出会います。主イエスは「おはよう」と声をかけ、女性たちはひれ伏しました。
  「おはよう」と訳されている言葉は、元々は「喜びなさい」という意味で、挨拶の言葉としても使われていました。たとえば、イスカリオテのユダは主イエスを裏切ろうと近づいたとき「先生、こんばんは」と言いましたが、この言葉も同じ「喜びなさい」でした。ユダはこの言葉を裏切りに用いたわけですが、主イエスが女性たちに「喜びなさい」と声をかけたことは、まことの喜びがきたことを象徴しています。
  主イエスは「私の兄弟たちにガリラヤに行くように、そこで私に会える」と女性たちに告げました。弟子たちを「私の兄弟」と呼んでいます。兄弟という言葉で同胞とか仲間という意味で使うことはよくあることです。しかし、主イエスが弟子たちを兄弟と呼ぶのは、主イエスの救いにあずかる人は神の子ととしての身分が与えられ、キリストの命に生きる者とされていることを象徴しています。
  主イエスの復活とその喜びを語ることの意味がここにあります。主イエスが復活されたこの日曜日に私たちが教会に集められ、礼拝をささげることは、主イエスの復活の出来事とその意味、そしてその喜びを聞くためなのです。そして、教会が礼拝を日曜日に行うようになった理由が、ここにあるのです。