八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「預言者エリヤと洗礼者ヨハネ」 2014年2月9日の礼拝

2014年02月24日 | 2013年度~
マラキ書3章23~24節

見よ、わたしは
大いなる恐るべき主の日が来る前に
預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
彼は父の心を子に
子の心を父に向けさせる。
わたしが来て、破滅をもって
この地を撃つことがないように。


マタイによる福音書3章1~6節

  そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
 その道筋をまっすぐにせよ。』」
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。


  マタイ福音書は、洗礼者ヨハネがらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締めていたと記しています。人々は、この様子から預言者エリヤを連想したに違いないと思われます。旧約聖書に次のように記されています。王の家来がある人の言葉を、王に伝えました。「どんな男がそのようなことを告げたのか」と尋ねると、家来は「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」と答えました。そして、王は、それだけでその男が預言者エリヤだと悟ったというのです。
  マタイ福音書は、エリヤという名前を出していませんが、洗礼者ヨハネこそ、人々が長い間求めていた預言者エリヤの使命を担っていると、暗に示そうとしているのです。
  当時、ユダヤ人たちは、マラキ書に約束されているエリヤの到来を待ち望んでいました。優れた能力を持つ人が現れると、「この人こそエリヤではないか」と期待したようです。メシア、すなわちキリストについても同じような期待がありました。人々は、神がエリヤやメシアを遣わしてくれるのを待ち望んでいたのです。しかし、彼らが待ち望んでいたのは、自分にとって都合の良いエリヤであり、メシアであったのです。特に、民族としての期待という意味では、ローマ帝国の支配から解放してくれる政治的、軍事的なメシアであり、エリヤだったのです。そして、そのような期待を主イエスの弟子も持っていました。ある時のこと、弟子の二人が主イエスに王座につくときには自分たちを両側に立つ者にしてほしいと願ったほどです。
  主イエスは、自分でメシアだと言ったことはありませんでした。人々の誤った期待を恐れたからです。同じように洗礼者ヨハネも自分をエリヤだとハッキリ言ったのではないようです。ヨハネ福音書には、洗礼者ヨハネが人々から、「あなたはメシアか、それともエリヤか」と問われた時、「どちらでもない。わたしは荒れ野で叫ぶ声だ」と答えたとあります。洗礼者ヨハネも人々の自分勝手な期待を恐れたのでしょう。
  主イエスやヨハネに対して自分勝手な期待をしたと人々の姿は、私たち自身の姿であると警告されているのです。私たちも、主イエスや父なる神にして自分勝手な期待をしばしば行っているからです。
  ところで、主イエスは、洗礼者ヨハネについて「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである」(マタイ11:14)とおっしゃっておられます。主イエスは、洗礼者ヨハネをエリヤの使命を担う者と告げておられるのです。さらに、マタイ福音書17章10~13節に次のように記されています。
  「彼らはイエスに、『なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか』と尋ねた。イエスはお答えになった。『確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。』そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。」
  ここでも主イエスは、洗礼者ヨハネがエリヤの使命を担っていると告げていますが、それに加えて「人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる」とおっしゃっておられます。洗礼者ヨハネは神に逆らう人々の手によって、処刑されました。そして、主イエスは、ご自身も人々から苦しめられ、処刑されると告げられたのです。
  洗礼者ヨハネは、神の御心をあらかじめ告げる先駆者であるばかりでなく、主イエスが多くの人々を救うために苦しみを受けられることについても、先駆者であるとおっしゃったのです。洗礼者ヨハネは自分の受けた苦しみを通して、主イエスを指し示し続けたのです。

「洗礼者ヨハネの登場」 2014年2月2日の礼拝

2014年02月22日 | 2013年度~
イザヤ書40章1~11節

慰めよ、わたしの民を慰めよと
あなたたちの神は言われる。
エルサレムの心に語りかけ
彼女に呼びかけよ
苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
罪のすべてに倍する報いを
  主の御手から受けた、と。

呼びかける声がある。
主のために、荒れ野に道を備え
わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。
険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
主の栄光がこうして現れるのを
  肉なる者は共に見る。
主の口がこう宣言される。

呼びかけよ、と声は言う。
わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。
肉なる者は皆、草に等しい。
永らえても、すべては野の花のようなもの。
草は枯れ、花はしぼむ。
主の風が吹きつけたのだ。
この民は草に等しい。
草は枯れ、花はしぼむが
わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

高い山に登れ
良い知らせをシオンに伝える者よ。
力を振るって声をあげよ
良い知らせをエルサレムに伝える者よ。
声をあげよ、恐れるな
ユダの町々に告げよ。

見よ、あなたたちの神
見よ、主なる神。
彼は力を帯びて来られ
御腕をもって統治される。
見よ、主のかち得られたものは御もとに従い
主の働きの実りは御前を進む。
主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め
小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。


マタイによる福音書3章1~6節

  そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
  「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
  『主の道を整え、
  その道筋をまっすぐにせよ。』」
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。


  3章に入り、突然洗礼者ヨハネが登場します。彼はキリストの弟子ではありませんが、四つの福音書すべてに登場します。主イエスの誕生の様子について記しているのがマタイとルカだけであることを考えると、これはとても奇妙に思えます。どの福音書も、洗礼者ヨハネを無視することができなかったということです。と言うよりは、どの福音書も、主イエスの地上の生涯を語る上で、洗礼者ヨハネについて記すことをとても重要と考えていた、と言った方がよいでしょう。
  なぜ、洗礼者ヨハネがそれほど重要なのでしょうか? マタイ福音書は、彼が「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えたと記しています。この福音書では、同じ言葉で主イエスが宣べ伝えたとしています。それにより、洗礼者ヨハネが主イエスの先駆者であることを示そうとしているのです。
  そして、預言者イザヤが「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」と告げた人だと記しています。神のために道を整える役割を担う者、すなわち、主イエス・キリストの到来に備え、その道を整えるために洗礼者ヨハネが現れたのです。
  ルカ福音書では、洗礼者ヨハネの両親や彼が生まれる経緯についてかなり詳しく記されています。ところが、マタイ福音書にはそれらのことはいっさい記されていません。マタイ福音書が我々に伝えたいことは、神の歴史における洗礼者ヨハネの役割、言い換えますと、すべての人を救うという神の御計画における彼の役割なのです。それは、マタイ福音書2章で幼子イエスを守ったヨセフがその舞台から退場し、その後の人生や主イエスに与えた影響、またその死については全く語られていないのと同じです。
  そして、洗礼者ヨハネの最も重要な使命は、主イエス・キリストを証することです。 同じ3章に彼の言葉として、「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる」と言って、主イエス・キリストを指し示しています。最初に申し上げた主イエス・キリストの先駆者ということも、神のために道を備えるということも、このキリストを指し示すということに結びついているのです。
  洗礼者ヨハネが絵に描かれる時には、多くの場合、人差し指で何かを指す仕草で描かれます。それは、主イエス・キリストを指し示すという彼の使命を象徴的に表現しているのです。この様な、キリストを証する使命は、私たちキリストにも与えられています。それが、マタイ福音書の最後にある主イエスからの宣教命令です。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。また、使徒言行録には、同じく主イエスの言葉として、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」という言葉があります。キリスト者は、キリストを指し示すことを使命としているのです。それが私たちキリスト者に与えられている神の歴史における役割であり、すべての人を救うという神の御計画における役割なのです。

「ナザレの町への移住」 2014年1月26日の礼拝

2014年02月17日 | 2013年度~
イザヤ書8章23節b~9章1節

先に
ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが
後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた
異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。
闇の中を歩む民は、大いなる光を見
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。


マタイによる福音書2章19~23節

  ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

  幼子の主イエスの命をねらっていたヘロデ王が死ぬと、天使がヨセフに夢で現れ、イスラエルの地に帰るように告げました。天使がヨセフに現れたのは、これで3度目です。最初はヨセフがマリアとの婚約を解消しようと考えていた時で、2度目はヘロデ王が生まれて間もないイエスのねらっていた時です。
  ヨセフは天使が命じたとおりに、イスラエルの地に帰ってきました。しかし、もとのベツレヘムではなく、ずっと北にあるガリラヤのナザレに行きました。ヘロデの息子アルケラオがユダヤを支配していたため、ヨセフがそこへ帰るのを恐れたからでした。その時、ヨセフは夢で、ナザレに行くようにお告げを受けたとあります。
  ここでは天使は出てきませんが、神の御心が示されたと考えて良いでしょう。占星術の学者たちも、夢でお告げを受けたので、ヘロデ王のところには寄らないで自分の国へ帰って行ったと記されています。どちらの場合も、夢で神の御心が示されたのです。
  ナザレに移り住んだことについて、マタイ福音書は「『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」と記しています。マタイ福音書は、旧約聖書からの引用が多く、多くの場合、「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」という言葉を添えています。しかし、今回の「ナザレ人」の言葉が、旧約のどの場所からの引用なのかはハッキリしません。
  ナジル人(特別の誓願をした人=士師記13:5)のことであるとか、ダビデ家の切り株から生えてきたネーツェル(若枝=イザヤ11:1)のことであるとか、いろいろ推測されています。
  マタイ福音書2章全体を振り返ってみますと、ベツレヘムでお生まれになったイエス・キリストが、何故ナザレ人、すなわちナザレ出身と言われるようになったかを説明しています。キリストはダビデの町、すなわちエルサレムかベツレヘムから現れると信じられていましたので、ナザレ出身のイエスはキリストではないという批判に答える意図があったと思われます。
  このように「ナザレ人」という言葉は、主イエスを指す言葉でしたが、後に、主イエスを信じる人々も「ナザレ人」と呼ばれるようになりました。実際、使徒言行録24:5に、「ナザレ人の分派」という言葉が出てきます。今のキリスト者のことです。ナザレ人という言葉には、ナザレのイエスの後に従う者という意味が込められているのです。ユダヤ人は悪意からそのように呼んだのですが、しかし、私たちはキリストの従う者として、この名に誇りを持つべきです。「ナザレ人」と呼ばれたキリストは、私たちの先頭に立って歩んでおられ、私たちはキリストの背を見ながら後に従っていくからです。今では、「ナザレ人」という言葉よりも、「キリスト者」という言葉が一般的になっています。「キリスト者」という言葉には、キリストを信じる者、またキリストに結ばれている者という意味が強いと言って良いでしょう。それに対し、「ナザレ人」という言葉には、先頭に立つキリストと後に従うキリスト者の関係を示す意味が強いと言えます。どちらも大切なことですが、マタイ福音書は、「彼はナザレの人と呼ばれる」という言葉によって、キリストの弟子(マタイ28:19など)ということを強調し、キリストに従う者としての姿勢を、この福音書を読む私たちに意識させようとしているのです。

  ヨセフは、幼子とその母マリアを伴ってナザレに住んだという記述でもって、このマタイ福音書から退場します。マタイ福音書は、ヨセフの人生や人間的な関係を必要以上に語ろうとしません。神の歴史におけるヨセフの役割だけが強調されているのです。ここに、自分の人生を振り返るもう一つの視点が示されています。
  私たちが生きる上で最も重要なことは、自分の人生に意味があるのかということです。それは、生きている意味があるかを問うことでもあるでしょう。生きている意味を見いだせないならば、絶望しかありません。ですから、生きている意味があるという確信を得たいのです。
  どのようにして、その確信を得ることができるのでしょうか。生きている意味があると自分自身に言い聞かせる方法もあるでしょう。しかし、多くの人はそれで満足していないようです。また、家族や友人から生きている意味があると言ってもらうということもあるでしょう。しかし、最も確かなのは、神から「あなたが生きていることには、意味がある」とおっしゃっていただくことでしょう。何故なら、神が私たちの造り主だからです。私たちを作ってくださった神が、私たちを意味ある存在として私たちをお造りくださったのです。そして、神の歴史の中で、生きる者としてくださっているのです。それ故に、地上における人生だけを考えるのではなく、神の歴史において、私たちに与えられている使命を考えることが大切なのです。私たちは、キリストに従う者としての使命を与えられています。それが「すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊のなによって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28:19-20)という主イエスの御言葉なのです。

「ベツレヘムを襲った悲劇」 2014年1月19日の礼拝

2014年02月14日 | 2013年度~
エレミヤ書31章15~20節

主はこう言われる。
ラマで声が聞こえる
苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。
ラケルが息子たちのゆえに泣いている。
彼女は慰めを拒む
息子たちはもういないのだから。
主はこう言われる。
泣きやむがよい。
目から涙をぬぐいなさい。
あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。
息子たちは敵の国から帰って来る。
あなたの未来には希望がある、と主は言われる。
息子たちは自分の国に帰って来る。

わたしはエフライムが嘆くのを確かに聞いた。
「あなたはわたしを懲らしめ
わたしは馴らされていない子牛のように
懲らしめを受けました。
どうかわたしを立ち帰らせてください。
わたしは立ち帰ります。
あなたは主、わたしの神です。
わたしは背きましたが、後悔し
思い知らされ、腿を打って悔いました。
わたしは恥を受け、卑しめられ
若いときのそしりを負って来ました。」
エフライムはわたしのかけがえのない息子
喜びを与えてくれる子ではないか。
彼を退けるたびに
わたしは更に、彼を深く心に留める。
彼のゆえに、胸は高鳴り
わたしは彼を憐れまずにはいられないと
主は言われる。


マタイによる福音書2章16~18節

  さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
 「ラマで声が聞こえた。
 激しく嘆き悲しむ声だ。
 ラケルは子供たちのことで泣き、
 慰めてもらおうともしない、
 子供たちがもういないから。」


  東から来た占星術の学者たちが、幼子イエスを礼拝した後、自分たちの国へ帰っていきました。彼らは夢でお告げを受けたので、ヘロデ王には知らせず、別の道を通って行きました。一方、ヨセフは天使からお告げを受けて、幼子イエスとその母マリアとを連れ、エジプトへ脱出しました。こうして、ヘロデ王の主イエスを殺そうとする企みは失敗に終わりました。ところが、ヘロデ王はそれで諦めることなく、ベツレヘムとその周辺の二歳以下の子供たちを、一人残らず殺させたのです。
  マタイ福音書は、救い主イエス・キリストがお生まれになった喜びの出来事を記すだけでなく、この様な悲惨な出来事を記しています。ある人は、これは、クリスマスの陰の物語であると言いました。大きな悲しみの前に、クリスマスの喜びが消し飛んでしまいます。
  なぜ、マタイ福音書はこの様な出来事を記したのでしょうか。たとえこの出来事が事実であったとしても、隠すことはできたはずです。
  神の独り子の命がねらわれるということは、全ての人々を罪から救うという神の御計画の危機を意味しています。神はその御計画を遂行するために、ヘロデ王の企みをうち砕かれたのです。第二に、ヘロデ王の幼児虐殺は、人間の罪とその悲惨さとがどんなに大きく深刻であるかを表しています。
  ヘロデ王の幼児虐殺は、単に過去の出来事を告げているだけではありません。また、ヘロデは確かに残虐な人間ですが、彼が特別だったと言おうとしているのではありません。むしろ、いつの時代でも彼のような人間は存在しましたし、あのような残虐な殺戮が行われてきました。聖書は、特別の事例を紹介しているのではなく、人類の歴史の中で、悲劇は度々起きており、その原因は人間の罪にあると告げているのです。
  神の独り子は、平安な世界に来られたのではなく、罪深く悲惨に満ちた世界に来られたのです。人類の歴史は、そのような罪と悲惨に満ちているのです。主イエスがお生まれになった時にも、その罪の恐ろしさ、悲惨さが現れたのです。神に敵対する罪であり、それは人々を悲惨のどん底に突き落とすのだと告げているのです。
  また、私たち自身もヘロデ王と同じような状況におかれた時、彼のように残虐になる可能性を指摘してもいるのです。ヘロデ王は、私たち罪人を代表しているのです。私たちは、彼と同じ罪人であり、彼と同じ罪を犯す可能性を持っているのです。言い換えると、それは私たち全ての者は、罪の支配下にあるということです。罪の奴隷になっているということです。ですから、「私は、まだ罪を犯していないから関係がない」などと言っていられないのです。
  罪からの救いとは、私たちが罪を犯すことから救われることをも意味しているのです。
  第三に、真の王はどのような存在かということです。
  自分の地位と命を守るためにイスラエルの子供たちを殺したヘロデ王は、まことの「ユダヤ人の王」ではありません。それは、神の民の王ではないということです。
  マタイ福音書は、2章において、東から来た占星術の学者たちが「ユダヤ人の王」はどこかを尋ねてやって来たと語り始めました。そして、自分のために民を犠牲にするヘロデ王がまことの王なのかと、この福音書を読む私たちに問いかけているのです。そして、全ての人々の救いために十字架にかかられた主イエス・キリストこそ、まことの王ではないのかと。この福音書の終盤において、主イエスが十字架にかかられた時、その罪状書きに書かれていたのは「ユダヤ人の王イエス」という言葉でした。これは偶然ではなく、神の御計画が実現したことのしるしなのです。「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と、天使によって告げられた神の御意志が、実現したのです。
  私たちを取り囲んでいる罪の恐ろしさと悲惨という現実を直視するだけでは、絶望しかありません。この罪の支配から私たちを解放する大きな力が必要です。そのような力を私たちは持っていませんが、神が大いなる力でもって、私たちを罪から引き離してくださいます。そして、神の恵みの支配の下においてくださるのです。それが、主イエス・キリストが十字架にかかられた出来事なのです。ここにこそ、私たちの希望があります。私たちを罪から救うために、十字架にかかられ、命を注ぎ出してくださったこの方こそ、私たちが王と仰ぐべきただおひとりの御方なのです。


「幼子を連れ、難を逃れるヨセフ」 2014年1月12日の礼拝

2014年02月10日 | 2013年度~
ホセア書11章1~4節

まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。
エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。
わたしが彼らを呼び出したのに
彼らはわたしから去って行き
バアルに犠牲をささげ/
偶像に香をたいた。
エフライムの腕を支えて
  歩くことを教えたのは、わたしだ。
しかし、わたしが彼らをいやしたことを
  彼らは知らなかった。
わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き
彼らの顎から軛を取り去り
身をかがめて食べさせた。



マタイによる福音書2章13~15節

  占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

  主の天使が、夢でヨセフに現れました。これは、以前ヨセフが婚約中のマリアをひそかに離縁しようとした時(マタイ1:18~21)に続き、二度目の出来事です。
  天使は「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げよ」と警告します。ヘロデ王が幼子の命をねらっているというのです。
  東から来た占星術の学者たちが、うやうやしく礼拝して帰っていったばかりです。有頂天になっていたとしてもおかしくはないでしょう。しかし、突然天使から大きな危機が迫っているとの警告を受けたのです。一気にどん底に突き落とされたように思えたのではないでしょうか。
  マタイ福音書は、ヨセフがすぐ起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ向かったと記しています。それにより、ヨセフが天使から警告を受け、直ちに行動した事を強調しているのです。
  創世記19章に、同じように危機に直面し、天使から警告を受けながらなかなか行動しようとしなかったアブラハムの甥、ロトの話があります。聖書は、その時のロトの様子を次のように記しています。「ロトはためらっていた」、「できません。山まで逃げることはできません。あの小さな町なら近いので逃げることができます。あれはほんの小さな町です」、夜が明ける頃になってようやく、ロトとその家族が町から脱出しました。
  このロトと比べると、ヨセフの行動がいかに迅速であったかが分かります。マタイ福音書には、ヨセフの言葉は一言も記されていません。ただ、ヨセフが天使の命令に直ちに従ったことを告げているのです。神の御旨に従順に従うこの姿勢こそ、幼子の保護者として最もふさわしいと言えるでしょう。
  天使が示した避難先は、エジプトです。何故、エジプトなのでしょうか。いろいろ理由が考えられます。第一に、エジプトにはアレキサンドリアという町があり、当時多くのユダヤ人が住んでいたといわれています。第二に、旧約の時代から、ユダヤ人はエジプトを避難先にすることが多かったということがあります。
  このことについて、マタイ福音書はホセア書を引用し、「『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と記しています。
  ホセア書の言葉は、出エジプト記にあるエジプト脱出の出来事です。エジプトへ行く説明としては、不自然なことです。マタイ福音書の意図は、我々読者に、幼子がエジプトへ行き、その後イスラエルの地に帰ってくるという出来事から、モーセによる神の民のエジプト脱出を思い起こさせることなのです。幼子イエスがエジプトへ行き、そのエジプトからイスラエルの地へ帰るというのは、単に幼子イエスの命を守るというだけのことではないのです。むしろ、主イエスの救い主としての使命が、象徴的に示されているのです。
  主イエス・キリストによって、神の民の新しいエジプト脱出が起こされます。それは、エジプトからの脱出ではなく、罪からの脱出であり、神の御国へと向かう旅の始まりです。かつて、天使がヨセフに告げた「イエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1:21)という言葉が実現されるのです。
  神は、聖書を通して、すべての人を救うという御計画を、長い年月をかけて準備してこられたことを告げています。それは、この礼拝をささげているひとりひとりが救われるための準備でした。そして、かつて、エジプトから旧約の神の民を救い出したように、今、あなた方を罪より救い出すとおっしゃっておられるのです。
  「『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」に、自分の名前の名前を入れると、より身近に感じるのではないでしょうか。たとえば、「『神は、罪から(自分の名前)を呼び出した』が実現するためであった」というように。
  私たちは、自分の人生を、地上の生涯の年数だけで考えるのではなく、私たちを救うために長年準備された、神の永遠の御計画の中で考えるべきです。