マラキ書3章23~24節
見よ、わたしは
大いなる恐るべき主の日が来る前に
預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
彼は父の心を子に
子の心を父に向けさせる。
わたしが来て、破滅をもって
この地を撃つことがないように。
マタイによる福音書3章1~6節
そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。』」
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
マタイ福音書は、洗礼者ヨハネがらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締めていたと記しています。人々は、この様子から預言者エリヤを連想したに違いないと思われます。旧約聖書に次のように記されています。王の家来がある人の言葉を、王に伝えました。「どんな男がそのようなことを告げたのか」と尋ねると、家来は「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」と答えました。そして、王は、それだけでその男が預言者エリヤだと悟ったというのです。
マタイ福音書は、エリヤという名前を出していませんが、洗礼者ヨハネこそ、人々が長い間求めていた預言者エリヤの使命を担っていると、暗に示そうとしているのです。
当時、ユダヤ人たちは、マラキ書に約束されているエリヤの到来を待ち望んでいました。優れた能力を持つ人が現れると、「この人こそエリヤではないか」と期待したようです。メシア、すなわちキリストについても同じような期待がありました。人々は、神がエリヤやメシアを遣わしてくれるのを待ち望んでいたのです。しかし、彼らが待ち望んでいたのは、自分にとって都合の良いエリヤであり、メシアであったのです。特に、民族としての期待という意味では、ローマ帝国の支配から解放してくれる政治的、軍事的なメシアであり、エリヤだったのです。そして、そのような期待を主イエスの弟子も持っていました。ある時のこと、弟子の二人が主イエスに王座につくときには自分たちを両側に立つ者にしてほしいと願ったほどです。
主イエスは、自分でメシアだと言ったことはありませんでした。人々の誤った期待を恐れたからです。同じように洗礼者ヨハネも自分をエリヤだとハッキリ言ったのではないようです。ヨハネ福音書には、洗礼者ヨハネが人々から、「あなたはメシアか、それともエリヤか」と問われた時、「どちらでもない。わたしは荒れ野で叫ぶ声だ」と答えたとあります。洗礼者ヨハネも人々の自分勝手な期待を恐れたのでしょう。
主イエスやヨハネに対して自分勝手な期待をしたと人々の姿は、私たち自身の姿であると警告されているのです。私たちも、主イエスや父なる神にして自分勝手な期待をしばしば行っているからです。
ところで、主イエスは、洗礼者ヨハネについて「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである」(マタイ11:14)とおっしゃっておられます。主イエスは、洗礼者ヨハネをエリヤの使命を担う者と告げておられるのです。さらに、マタイ福音書17章10~13節に次のように記されています。
「彼らはイエスに、『なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか』と尋ねた。イエスはお答えになった。『確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。』そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。」
ここでも主イエスは、洗礼者ヨハネがエリヤの使命を担っていると告げていますが、それに加えて「人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる」とおっしゃっておられます。洗礼者ヨハネは神に逆らう人々の手によって、処刑されました。そして、主イエスは、ご自身も人々から苦しめられ、処刑されると告げられたのです。
洗礼者ヨハネは、神の御心をあらかじめ告げる先駆者であるばかりでなく、主イエスが多くの人々を救うために苦しみを受けられることについても、先駆者であるとおっしゃったのです。洗礼者ヨハネは自分の受けた苦しみを通して、主イエスを指し示し続けたのです。
見よ、わたしは
大いなる恐るべき主の日が来る前に
預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
彼は父の心を子に
子の心を父に向けさせる。
わたしが来て、破滅をもって
この地を撃つことがないように。
マタイによる福音書3章1~6節
そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。』」
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
マタイ福音書は、洗礼者ヨハネがらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締めていたと記しています。人々は、この様子から預言者エリヤを連想したに違いないと思われます。旧約聖書に次のように記されています。王の家来がある人の言葉を、王に伝えました。「どんな男がそのようなことを告げたのか」と尋ねると、家来は「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」と答えました。そして、王は、それだけでその男が預言者エリヤだと悟ったというのです。
マタイ福音書は、エリヤという名前を出していませんが、洗礼者ヨハネこそ、人々が長い間求めていた預言者エリヤの使命を担っていると、暗に示そうとしているのです。
当時、ユダヤ人たちは、マラキ書に約束されているエリヤの到来を待ち望んでいました。優れた能力を持つ人が現れると、「この人こそエリヤではないか」と期待したようです。メシア、すなわちキリストについても同じような期待がありました。人々は、神がエリヤやメシアを遣わしてくれるのを待ち望んでいたのです。しかし、彼らが待ち望んでいたのは、自分にとって都合の良いエリヤであり、メシアであったのです。特に、民族としての期待という意味では、ローマ帝国の支配から解放してくれる政治的、軍事的なメシアであり、エリヤだったのです。そして、そのような期待を主イエスの弟子も持っていました。ある時のこと、弟子の二人が主イエスに王座につくときには自分たちを両側に立つ者にしてほしいと願ったほどです。
主イエスは、自分でメシアだと言ったことはありませんでした。人々の誤った期待を恐れたからです。同じように洗礼者ヨハネも自分をエリヤだとハッキリ言ったのではないようです。ヨハネ福音書には、洗礼者ヨハネが人々から、「あなたはメシアか、それともエリヤか」と問われた時、「どちらでもない。わたしは荒れ野で叫ぶ声だ」と答えたとあります。洗礼者ヨハネも人々の自分勝手な期待を恐れたのでしょう。
主イエスやヨハネに対して自分勝手な期待をしたと人々の姿は、私たち自身の姿であると警告されているのです。私たちも、主イエスや父なる神にして自分勝手な期待をしばしば行っているからです。
ところで、主イエスは、洗礼者ヨハネについて「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである」(マタイ11:14)とおっしゃっておられます。主イエスは、洗礼者ヨハネをエリヤの使命を担う者と告げておられるのです。さらに、マタイ福音書17章10~13節に次のように記されています。
「彼らはイエスに、『なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか』と尋ねた。イエスはお答えになった。『確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。』そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。」
ここでも主イエスは、洗礼者ヨハネがエリヤの使命を担っていると告げていますが、それに加えて「人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる」とおっしゃっておられます。洗礼者ヨハネは神に逆らう人々の手によって、処刑されました。そして、主イエスは、ご自身も人々から苦しめられ、処刑されると告げられたのです。
洗礼者ヨハネは、神の御心をあらかじめ告げる先駆者であるばかりでなく、主イエスが多くの人々を救うために苦しみを受けられることについても、先駆者であるとおっしゃったのです。洗礼者ヨハネは自分の受けた苦しみを通して、主イエスを指し示し続けたのです。