詩編100編1~5節(日本聖書協会「新共同訳」)
全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
喜び祝い、主に仕え
喜び歌って御前に進み出よ。
知れ、主こそ神であると。
主はわたしたちを造られた。
わたしたちは主のもの、その民
主に養われる羊の群れ。
感謝の歌をうたって主の門に進み
賛美の歌をうたって主の庭に入れ。
感謝をささげ、御名をたたえよ。
主は恵み深く、慈しみはとこしえに
主の真実は代々に及ぶ。
ルカによる福音書17章11節~19節(日本聖書協会「新共同訳」)
イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
今日の聖書の箇所には、10人の重い皮膚病患者が主イエスに癒してもらい、その内の一人が帰ってきて、感謝をしたという出来事が記されています。
ある人が、残りの9人は何故主イエスのもとに帰ってきて感謝をしなかったのかを考えてみました。9人のうちひとりは「本当に直ったか確認しよう」と思い、感謝しませんでした。別の人は「再発するかも知れないから様子を見よう」。さらに「体を洗い、身なりを整えてからお礼に行こう」、「病気ではなかったのかも知れない」、「祭司たちから直ったと認めてもらってから」、「とくに薬を塗ってくれたわけではないから」、「イエス様にとって特別のことではないから」、「ちょうど直る時期だったに違いない」など、いろいろ理屈をつけて感謝しなかったというのです。これは、もちろん、聖書に基づいた説明ではありません。この話をした人が言いたかったことは、多くの人は感謝をしない言い訳をするということなのです。ここにあげられたのは、ほんの一例でしょう。私たちはもっと多くの言い訳をしながら、感謝をしないですまそうとしているのではないでしょうか。この話を紹介した人が言いたかったことは、感謝の気持ちは自然にわき起こってくるのではなく、努力しなければならないということなのです。
レイモンド・アバという人が「礼拝」という本の中で次のような話を紹介しています。
ある青年が尋ねてきて質問をしました。「礼拝に行きたくないと思う時、教会に行くことは偽善者的ではないでしょうか」。アバが答えます。「君は食料品店の支払いや家賃を、君の好きな時だけ支払うのかね」。彼はその言葉の意味を理解しました。そして、アバは次のように説明しています。「礼拝は我々の感情の如何にも関わらず果たさなければならない負債である」。
厳しい言い方かも知れませんが、心にとめておくべき、大切な言葉です。神に救われ、それを感謝する礼拝をその時の気分でしたりしなかったりするものなのだろうか、ということです。感謝をするということも同じではないでしょうか。その時の気分でしてもしなくても善いのか、帰ってこなかった9人の話をした人の言いたかったことも、それなのです。
私たちは自分の心、と言うより、その時の気分に忠実過ぎるのではないでしょうか。すなわち、礼拝や感謝をしたくないという気分に忠実なため、その口実をいろいろ考えたりしているのではないでしょうか。私たちは神に救われている、恵みを多くいただいている、それなのに、私たちは神に感謝をしないための言い訳をいろいろ考え出しているのではないでしょうか。それは、救われていること、恵みを受けていることから目を背け、見なかったことにしようと自分に言い聞かせていることではないでしょうか。
神の救い、恵みに対して目を閉ざし、感謝の気持ちを持とうとしないことは、次第に救いと恵みに対して心が鈍くなり、自らを不幸にしてしまいます。
教会の暦では、今日は収穫感謝日で、収穫感謝礼拝を行っています。収穫を感謝するだけではなく、あらゆる事に感謝しましょう。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」とは、聖書にある言葉です。毎週の礼拝が神への感謝の時です。神の恵みを見ることができる目と感謝の心が与えられますように。
全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
喜び祝い、主に仕え
喜び歌って御前に進み出よ。
知れ、主こそ神であると。
主はわたしたちを造られた。
わたしたちは主のもの、その民
主に養われる羊の群れ。
感謝の歌をうたって主の門に進み
賛美の歌をうたって主の庭に入れ。
感謝をささげ、御名をたたえよ。
主は恵み深く、慈しみはとこしえに
主の真実は代々に及ぶ。
ルカによる福音書17章11節~19節(日本聖書協会「新共同訳」)
イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
今日の聖書の箇所には、10人の重い皮膚病患者が主イエスに癒してもらい、その内の一人が帰ってきて、感謝をしたという出来事が記されています。
ある人が、残りの9人は何故主イエスのもとに帰ってきて感謝をしなかったのかを考えてみました。9人のうちひとりは「本当に直ったか確認しよう」と思い、感謝しませんでした。別の人は「再発するかも知れないから様子を見よう」。さらに「体を洗い、身なりを整えてからお礼に行こう」、「病気ではなかったのかも知れない」、「祭司たちから直ったと認めてもらってから」、「とくに薬を塗ってくれたわけではないから」、「イエス様にとって特別のことではないから」、「ちょうど直る時期だったに違いない」など、いろいろ理屈をつけて感謝しなかったというのです。これは、もちろん、聖書に基づいた説明ではありません。この話をした人が言いたかったことは、多くの人は感謝をしない言い訳をするということなのです。ここにあげられたのは、ほんの一例でしょう。私たちはもっと多くの言い訳をしながら、感謝をしないですまそうとしているのではないでしょうか。この話を紹介した人が言いたかったことは、感謝の気持ちは自然にわき起こってくるのではなく、努力しなければならないということなのです。
レイモンド・アバという人が「礼拝」という本の中で次のような話を紹介しています。
ある青年が尋ねてきて質問をしました。「礼拝に行きたくないと思う時、教会に行くことは偽善者的ではないでしょうか」。アバが答えます。「君は食料品店の支払いや家賃を、君の好きな時だけ支払うのかね」。彼はその言葉の意味を理解しました。そして、アバは次のように説明しています。「礼拝は我々の感情の如何にも関わらず果たさなければならない負債である」。
厳しい言い方かも知れませんが、心にとめておくべき、大切な言葉です。神に救われ、それを感謝する礼拝をその時の気分でしたりしなかったりするものなのだろうか、ということです。感謝をするということも同じではないでしょうか。その時の気分でしてもしなくても善いのか、帰ってこなかった9人の話をした人の言いたかったことも、それなのです。
私たちは自分の心、と言うより、その時の気分に忠実過ぎるのではないでしょうか。すなわち、礼拝や感謝をしたくないという気分に忠実なため、その口実をいろいろ考えたりしているのではないでしょうか。私たちは神に救われている、恵みを多くいただいている、それなのに、私たちは神に感謝をしないための言い訳をいろいろ考え出しているのではないでしょうか。それは、救われていること、恵みを受けていることから目を背け、見なかったことにしようと自分に言い聞かせていることではないでしょうか。
神の救い、恵みに対して目を閉ざし、感謝の気持ちを持とうとしないことは、次第に救いと恵みに対して心が鈍くなり、自らを不幸にしてしまいます。
教会の暦では、今日は収穫感謝日で、収穫感謝礼拝を行っています。収穫を感謝するだけではなく、あらゆる事に感謝しましょう。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」とは、聖書にある言葉です。毎週の礼拝が神への感謝の時です。神の恵みを見ることができる目と感謝の心が与えられますように。