八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「神に感謝するために帰ってきた人」 2018年11月25日の礼拝

2018年12月18日 | 2018年度
詩編100編1~5節(日本聖書協会「新共同訳」)

 全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
 喜び祝い、主に仕え
 喜び歌って御前に進み出よ。
 知れ、主こそ神であると。
 主はわたしたちを造られた。
 わたしたちは主のもの、その民
 主に養われる羊の群れ。

 感謝の歌をうたって主の門に進み
 賛美の歌をうたって主の庭に入れ。
 感謝をささげ、御名をたたえよ。
 主は恵み深く、慈しみはとこしえに
 主の真実は代々に及ぶ。

ルカによる福音書17章11節~19節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」


  今日の聖書の箇所には、10人の重い皮膚病患者が主イエスに癒してもらい、その内の一人が帰ってきて、感謝をしたという出来事が記されています。
  ある人が、残りの9人は何故主イエスのもとに帰ってきて感謝をしなかったのかを考えてみました。9人のうちひとりは「本当に直ったか確認しよう」と思い、感謝しませんでした。別の人は「再発するかも知れないから様子を見よう」。さらに「体を洗い、身なりを整えてからお礼に行こう」、「病気ではなかったのかも知れない」、「祭司たちから直ったと認めてもらってから」、「とくに薬を塗ってくれたわけではないから」、「イエス様にとって特別のことではないから」、「ちょうど直る時期だったに違いない」など、いろいろ理屈をつけて感謝しなかったというのです。これは、もちろん、聖書に基づいた説明ではありません。この話をした人が言いたかったことは、多くの人は感謝をしない言い訳をするということなのです。ここにあげられたのは、ほんの一例でしょう。私たちはもっと多くの言い訳をしながら、感謝をしないですまそうとしているのではないでしょうか。この話を紹介した人が言いたかったことは、感謝の気持ちは自然にわき起こってくるのではなく、努力しなければならないということなのです。
  レイモンド・アバという人が「礼拝」という本の中で次のような話を紹介しています。
  ある青年が尋ねてきて質問をしました。「礼拝に行きたくないと思う時、教会に行くことは偽善者的ではないでしょうか」。アバが答えます。「君は食料品店の支払いや家賃を、君の好きな時だけ支払うのかね」。彼はその言葉の意味を理解しました。そして、アバは次のように説明しています。「礼拝は我々の感情の如何にも関わらず果たさなければならない負債である」。
  厳しい言い方かも知れませんが、心にとめておくべき、大切な言葉です。神に救われ、それを感謝する礼拝をその時の気分でしたりしなかったりするものなのだろうか、ということです。感謝をするということも同じではないでしょうか。その時の気分でしてもしなくても善いのか、帰ってこなかった9人の話をした人の言いたかったことも、それなのです。
  私たちは自分の心、と言うより、その時の気分に忠実過ぎるのではないでしょうか。すなわち、礼拝や感謝をしたくないという気分に忠実なため、その口実をいろいろ考えたりしているのではないでしょうか。私たちは神に救われている、恵みを多くいただいている、それなのに、私たちは神に感謝をしないための言い訳をいろいろ考え出しているのではないでしょうか。それは、救われていること、恵みを受けていることから目を背け、見なかったことにしようと自分に言い聞かせていることではないでしょうか。
  神の救い、恵みに対して目を閉ざし、感謝の気持ちを持とうとしないことは、次第に救いと恵みに対して心が鈍くなり、自らを不幸にしてしまいます。
  教会の暦では、今日は収穫感謝日で、収穫感謝礼拝を行っています。収穫を感謝するだけではなく、あらゆる事に感謝しましょう。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」とは、聖書にある言葉です。毎週の礼拝が神への感謝の時です。神の恵みを見ることができる目と感謝の心が与えられますように。



「神の気前よさと人のねたみ」 2018年11月18日の礼拝

2018年12月11日 | 2018年度
ヨナ書4章1~11節(日本聖書協会「新共同訳」)

  ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。彼は、主に訴えた。
  「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」
  主は言われた。
  「お前は怒るが、それは正しいことか。」
  そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。
  すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。
  「生きているよりも、死ぬ方がましです。」
  神はヨナに言われた。
  「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」
  彼は言った。
  「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」
  すると、主はこう言われた。
  「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」


マタイによる福音書19章27節~20章16節(日本聖書協会「新共同訳」)

  すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
  「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」


  マタイ福音書19章27節で、ペトロが「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」と、主イエスに問いかけています。ここでは「私たちは捨ててきた」という言葉が強調されており、永遠の命を求めておきながら主イエスのもとから悲しみながら去っていった青年と、自分自身とを比べているのです。その心の内には「何もかも捨ててあなたに従って来た私たちは、永遠の命を受けることができるのでしょうか。また、それを受けることができると保証してください」という思いがあったのでしょう。あるいは「他に何がいただけるのでしょうか」という言葉には、地上における権力を期待していたのかも知れません。
  20章20節以下には、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの母親が「王座にお着きになる時、二人の息子をあなたの右と左に座れるとおっしゃってください」と願い出る場面が記されています。これは母親としての強い願いでしたが、二人の兄弟の願いでもあったことでしょう。しかし、彼らだけではなく、ペトロや他の弟子たちも持っていた密かな期待だったに違いありません。その証拠に、この二人のことで、他の弟子たちが腹を立てています。その怒りは、この二人に対するねたみから生じたものです。
  弟子たちにねたみがあったことは、彼らが互いに自分たちのうちで誰が偉いかという議論を繰り返していたことが、それぞれの福音書に記されている事から分かりますし、特にルカによる福音書では、最後の晩餐の時もそのような議論があったことを伝えているほどです。主イエスが「この食卓を囲んでいる者の中に私を裏切る者がいる」と告げると、弟子たちは「いったい誰のことだろう」と議論を始めました。しかし、それはいつしか「自分たちのうちで誰がいちばん偉いか」という議論に変わっていったというのです。弟子たちの心の底には、自分と他の弟子たちと比較をし、誰が偉いか、誰が高く評価されているだろうかという思いがあったのです。
  ペトロの「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」というこの時の言葉には、ねたみはなかったでしょうが、去って行った金持ちの青年と自分たちを比較し、主イエスから高く評価されたいという気持ちが表れています。
  自分と他人を比べることは、知らない内に、自分を誇り、他人を見下すことになりやすいということがあります。あからさまに他人を見下すことはないかも知れませんが、他人を評価することによって、自分がその人より高く評価されているかどうかを知りたくなるのです。主イエスの弟子たちも同じでした。自分と他人を比べることは、いつしかねたみに変わってしまう危険があるのです。

  そのような弟子たちに、主イエスがまず語られたことは、弟子たちに対する高い評価でした。
  「新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」(28節)
  主イエスのこの言葉は、単に権力者になるということではありません。イスラエルの十二部族を治めるという使命が与えられるということです。主イエスによって立てられる「新しい神の民」を治める使命を与えられるということです。後に、主イエスは弟子たちに次のように語っておられます。
  「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(マタイ20:25~27)
  「イスラエルの十二部族を治める」という言葉には、権力をふるうことを許すということではなく、「人々に仕える者となりなさい」という意味を込めているのです。

  主イエスは、続いて一つのたとえを語られました。ぶどう園の主人と労働者のたとえです。
  ぶどう園の主人が朝早く出かけて行き、労働者たちを一日一デナリオンの約束で雇い、ぶどう園へ送りました。その後、何度も主人は出かけていき、次々と労働者を雇います。とうとう夕方になり、雇い入れた労働者たちに賃金を渡すことになりました。主人は最後に雇った労働者たちから支払いを始めましたが、一人一人一デナリオンずつ支払っています。最初に雇われた人々はそれを見て、わずか一時間しか働かなかった者に一デナリオンを渡しているのを見て、自分には多くの賃金が支払われるだろうと期待し、順番をまっていました。ところが、順番が来て手渡された賃金は一デナリオンでした。そこで、最初に雇われた人は主人に不満を言います。長い時間働いた自分たちとわずかしか働かなかった人々とに一緒の金額が払われた。長く働いた自分たちに対する評価が低すぎるというのです。
  この労働者の言い分は、もっともなような気がします。私たちも同じ立場に立たされたなら、同じように文句を言うだろうと思います。同じ金額が支払われているということでは、一見平等のように思えますが、しかし、多く働いた事への評価がされていないというのは、果たして公平と言えるだろうかということです。働きに見合う賃金が支払われるべきというのがこのたとえの労働者の主張であり、また、それは私たちも同意するところでしょう。
  しかし、ぶどう園の主人は言います。「私は、あなたに不当なことはしていない。一デナリオンという約束をしたではないか。」賃金を値切っていないと言うのです。そして、主人は言葉を続けます。「私は、この最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。」
  この主人が最後の者に支払った一デナリオンは、もはや働きに見合った報酬ではなく、わずかしか働かなかった者への善意であり、恵みなのです。
  主人は言います。「私の気前のよさをねたむのか」と。
  「気前がよい」というのは、ギリシア語でアガソスという言葉で、「善、善意、善人、良いこと」などと訳される言葉です。ですから、ただ気前がよいとか、太っ腹というのとは違うのです。
  このアガソスは19章16節の「どんな良いことをすれば」、17節の「良いことについて」、「善い方はおひとりである」というところで使われています。この時、主イエスは、「善なる方は、神おひとりだけだ」とおっしゃられ、その神は、わずかしか働きがなかった者に対する過分な賃金が支払われる「気前が善い主人」として描かれているのです。
  私たちは、神から受ける恵みはまさしく恵みであり、神の善意によるもの、神の気前よさによって与えられているものなのであって、決して、働きに見合った報酬などではないのです。
  このたとえでは、ぶどう園の主人の気前よさが重要なポイントですが、もう一つ注目すべきところは、主人の言葉の中にある「ねたむ」という言葉です。これはギリシア語では、「あなたの目が悪い」となっています。ねたむという意味はありませんが、この言葉がこのたとえにふさわしいように思えます。
  視力の問題ではありません。神の御業が神の恵みであることに気づく目があるかと問いかけられているのです。何故、わずかしか働かなかった者がそれに見合う以上を賃金を受けたことを喜ばないのか。恵みを受けた者ののために喜びなさいと教えておられるのです。ここに主イエスのたとえの目的があります。同じように神の善意によって救われているのです。自分と他人とを比較すると、そこにねたみが生じます。共に神の恵みを受けていることを喜び合うのが、救われた者の生活なのです。