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八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「孤独のキリスト」 2017年3月26日の礼拝

2017年10月16日 | 2016年度
コヘレトの言葉3章1節(日本聖書協会「新共同訳」)

 何事にも時があり
 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

マタイによる福音書26章36~56節(日本聖書協会「新共同訳」)

  それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
  イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

  主イエスは、弟子たちと過越の食事をされた後、ゲッセマネに出かけられ、祈られます。弟子たちも一緒でしたが、彼らから少し離れたところでペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を伴い、少し離れたところへ行かれました。その三人からも少し離れたところで、主イエスは一人祈られました。この時、主イエスは「わたしと共に目を覚ましていなさい」とおっしゃいましたが、しばらくして、三人のところへ戻ってみると、彼らは眠ってしまっていました。彼らは、主イエスと一緒に祈ることが出来なかったのです。弟子たちが主イエスのそばにいたにもかかわらず、一緒に祈ることが出来なかったことは、これまでの主イエスと弟子たちの関係をよく示していると言えます。
  主イエスと弟子たちは、3年近く一緒に生活しておられたと考えられますが、福音書は、しばしば主イエスの思いから遠くはなれた弟子たちの様子を伝えています。たとえば、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したペトロでしたが、主エスが受難と復活の予告をされると、「そんなことがあってはなりません」といさめ始めました。
  また、エルサレムへ行く途中、弟子たちは先頭を歩まれる主イエスの後ろで、だれがいちばん偉いかと議論していました。主イエスが十字架への道を歩んでおられるその時に、彼らの関心は、全く別のところにあったのです。体は近くにあったのに、心は遠くはなれていたのです。これは彼らの信仰の弱さと言えるでしょうが、彼らだけでなく、全ての人々は父なる神と御子キリストから遠くはなれていたことを象徴しています。
  ゲッセマネでの祈りを終えられたとき、イスカリオテのユダに手引きされた群衆がやって来ました。一時は主イエスを護ろうとした弟子たちでしたが、なんの抵抗もせず、あっさりと捕らえられた主イエスを見捨て、逃げ去ってしまいました。こうして、敵意を持つ群衆の中に、一人残されてしまったのです。
  福音書は、主イエスが孤独であったことを告げています。しかし、それは弟子たちの不人情を言うことが目的ではありません。むしろ、主イエスが歩まれる十字架への道は、誰も一緒に歩むことが出来ないということを伝えているのです。全ての人を罪から救うために、主イエスは十字架におかかりになりました。他の誰が十字架にかかろうとも、その目的を果たすことは出来ません。それ故、主イエスはただ一人、十字架への道を歩まれたのです。
  それでは、3年近くも主イエスと生活を共にしてきた弟子たちは全く無意味な存在だったのでしょうか。そうではありません。マルコ福音書3章に、12人の弟子たちを主イエスが集めたことが記され、「彼らを自分のそばに置くため」とあります。この言葉に、彼らに与えられた最も重要な意味が示されているのです。すなわち、いつも主イエスのそばにいて、主イエスの目撃者となることです。それは、やがて彼らが主イエスの証人として、証をしていく使命を与えられているということです。キリストの証人。これは、12人の弟子たちに与えられた使命ですが、後のキリスト教会にも与えられている使命です。十字架の道を歩むキリストは孤独でしたが、キリストを証する私たちには、キリストがいつも伴い、導いてくださるのです。(マタイ28章19~20節)


「神の人類救済計画」 2017年3月19日の礼拝

2017年10月14日 | 2016年度
出エジプト記12章21~28節(日本聖書協会「新共同訳」)

  モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。
  「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。
  あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」
  民はひれ伏して礼拝した。それから、イスラエルの人々は帰って行き、主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。

マタイによる福音書26章17~30節(日本聖書協会「新共同訳」)

  除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」
  一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

  聖書は、神が人類を救うため、歴史を通して働いておられることを告げています。
  創世記3~11章では、人間が犯した罪の本質が語られ、続いて、それによって引き起こされた人類の悲惨さと、人類と共に罪が世界中に広がっていく様が記されています。創世記12章で、アブラハムが神に召し出されます。聖書はこれを、罪と悲惨から人類を救う計画の始まりとしています。アブラハムの孫ヤコブとヤコブの息子たちはエジプトに移り住むことになります。
  出エジプト記は、ヤコブの時代から長い年月がたった後、彼らが奴隷状態になっていたということから始めています。創世記の最後では約70人ほどの家族であったアブラハムの子孫は、出エジプト記の時代には数万人もの民族に成長していました。この数の多さにエジプトのファラオは怖れを抱き、彼らを過酷に扱うようになりました。もはや、アブラハムの子孫たちがエジプトに留まる理由はありません。彼ら自身がそう考えたと言うより、彼らをエジプトへ導いた神が、そのように判断し、エジプトから脱出させようとモーセを派遣したのです。出エジプト記12章は、そのエジプト脱出の原因となった「過越」という奇跡とそれを記念する祭の起源を記しています。
  当時最強の国であったエジプトからの脱出は、大事件です。モーセの偉業と言うことも可能ですが、聖書はモーセを英雄として描いてはいません。もちろん、イスラエルの人々に対しても同様です。エジプト脱出は、人々の英雄的な働きによるとは一言も語らず、神の働きであったことを強調します。
  それから、千年以上の時を隔て、アブラハムから始められた神の人類救済の計画が実行されます。すなわち、神の独り子が十字架におかかりになり、完全な罪の贖いの業を完成されたのです。
  マタイ26章19~29節は、最後の晩餐とも呼ばれていますが、過越の祭の食事での出来事です。現代の曜日では、木曜日となりますが、当時のユダヤの曜日では、既に金曜日になっています。この食事の後、ゲッセマネでの祈りと逮捕、大祭司の屋敷での裁判、夜が明け、ピラトによる裁判と死刑の確定、そして十字架の出来事と続きます。これらは、たった一日の出来事、すなわち、過越の祭の期間中に行われたのです。神が、この祭の時をお選びになったのです。かつての過越の出来事を思い起こさせるためです。かつては、エジプトから神の民を脱出させましたが、この度は、人類を捕らえ、悲惨な状態に閉じこめている罪から、人類を救済するのです。
  こうして、神は長い年月をかけて、人類救済の計画を進めてこられ、ついに実行されたのです。もっと具体的に言えば、この御言葉を聞いている皆さんひとりひとりのために、神は長い年月をかけ、入念な準備をされ、時が来れば理解されるように、あらかじめ伝え、ついに、十字架にかかられた御子によって、皆さんをお救い下さったのです。



「人間のイエス殺害計画」 2017年3月5日の礼拝

2017年10月12日 | 2016年度
詩編2編1~2節(日本聖書協会「新共同訳」)

 なにゆえ、国々は騒ぎ立ち
 人々はむなしく声をあげるのか。
 なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して
 主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか

マタイによる福音書26章1~5節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。しかし彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。

  過越祭が後二日にせまった時、主イエスは「人の子は、十字架につけられるために引き渡される」とご自身の受難を予告されました。しかし、単にこれから起きる出来事を、あらかじめ伝えたというのではありません。主イエスの十字架の出来事は、神の御計画であることを告げているのです。
  主イエスが、このことを告げておられたその時に、祭司長たちや民の長老たちが、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、主イエスを殺す相談をしていました。時を同じくして、主イエスとユダヤの指導者たちは、同じ事を話していたというのです。ただ、ユダヤの指導者たちが考えた計画は、騒動が起こらないように、祭りが終わるのを待って、主イエスを捕らえるということでした。
  当時、ユダヤはローマ帝国から自治を許されていましたが、暴動が起きるとその自治権を奪われる危険がありました。祭には外国で生活していたユダヤ人も大勢やって来ており、ちょっとしたことで暴動が起きやすかったのです。ローマ側もそれを心配し、ふだんは地中海沿岸にあるカイザリアの町に常駐しているユダヤ総督ポンテオ・ピラトが兵士たちを引き連れて、エルサレムに来ていました。ですから、ユダヤの指導者たちは祭りが終わるのを待つことにしたのです。これが、主イエスの殺害とその時についての人間の思惑です。
  しかし、主イエスの弟子の一人、イスカリオテのユダが、主イエスを密かに引き渡そうと、ユダヤの指導者たちに近づいてきました。(マタイ26:14~16)
  こうして、主イエスの殺害は、祭りが終わるまで待とうとした人間の思惑ではなく、祭の期間中にという神の御計画が遂行されていくことになったのです。
  過越祭は、出エジプト記に記されているエジプト脱出を記念する祭です。しかし、それは先祖たちの英雄的な働きというのではなく、神が脱出させてくださったことを記念しているのです。そして、それは約束の地に向かう出発の時でもありました。神は、その記念の時を主イエスの十字架の時と定められたのです。それは、主イエスの十字架が、キリストに結ばれた私たちを罪の奴隷状態から解放し、神の都へ出発させる出来事であることを示すためだったのです。
  ローマ兵がいたからこそ、主イエスの殺害は十字架刑という形になりました。また、イスカリオテのユダの裏切りにより、その時は過越祭の期間中になりました。ユダヤの指導者たちの主イエスを殺害計画がありました。一見、彼らは神の御計画に協力しているかのように見えます。しかし、彼らの行動は悪意によるのであって、全ての人を救う神の思いから遠くはなれています。ですから、決して彼らの行動は正当化できるものではありません。
  聖書は、神の御心について、次のように私たちに告げています。
  「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」(箴言19:21)
  「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」(創世記50:20)
  これらの御言葉で示されているように、人間は、神の御子の殺害を計画しましたが、それを、神は、全人類を罪から救う出来事に変えてくださったのです。




「安息日に許されていること」 2017年2月26日の礼拝

2017年10月08日 | 2016年度
アモス8章4~7節(日本聖書協会「新共同訳」)

 このことを聞け。
 貧しい者を踏みつけ
 苦しむ農民を押さえつける者たちよ。
   お前たちは言う。「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう。」
 主はヤコブの誇りにかけて誓われる。
 「わたしは、彼らが行ったすべてのことを
 いつまでも忘れない。」

マタイによる福音書12章9~14節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。

  マタイ福音書12章は、旧約聖書の中の中にある安息日の戒めをめぐる出来事から始まっています。今日の9~14節は、その安息日をめぐっての2番目の出来事になります。

  9節「イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。」
  主イエスは、ファリサイ派の人々から離れて、ユダヤ人が礼拝する会堂に入られました。この日は安息日ですから、当然、神を礼拝するために会堂に入られたのです。
  10節「すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、『安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか』と尋ねた。」
  おそらく、礼拝が終わってからの出来事と思われます。ルカ福音書6章6節に、そのことを示す言葉があります。
  主イエスを訴えようとした「人々」とはいったい誰なのかははっきりしませんが、14節に出てくるファリサイ派の人々であったかも知れません。しかし、マタイ福音書が、はっきりと「ファリサイ派の人々」とは言わず、単に「人々」と記しているのは、主イエスに敵対する人々は、ユダヤ人の中の特定の人々ということではなく、全ての人々が主イエスに敵対しているということを暗に示しているのかも知れません。
  「安息日に病気を治すのは、律法で許されているか」。
  旧約聖書には、安息日に病気を治すことが良いか悪いかということについては、何も記されてはいません。
  この質問は、当時のユダヤ人たちが安息日の戒めに関する数多くの禁止事項を作っており、それに関わっているのです。当時、命に関わるような大ケガや重病の時は、安息日でも治療行為が赦されていましたが、そうでない場合は、安息日が終わるまで治療してはならないとされていました。ルカ福音書13章14節はそのような事情を良く表しています。「ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。『働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。』」。主イエスを訴える口実を得ようとして質問した人々も同じ事を考えていたのです。
  彼らは、安息日の戒めの主旨を見誤っているのです。安息日は、何もしないことを目的に定められたのではありません。神を礼拝することを目的としているのです。神を礼拝するために、日常の仕事を中断する。このために、仕事をしてはならないと言われているのです。(申命記5章15節)
  マタイ12章5節で主イエスは、「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。」とおっしゃいました。神に仕える祭司は、安息日に仕事をしないどころか、最も大切な仕事の時として、働いているという事実を示されました。
  安息日の戒めが記されている出エジプト記20章11節には、「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」とあります。七日目が安息日である根拠として重要な聖句です。しかし、主イエスは次のように教えられました。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」(ヨハネ5章17節)。安息日に、人をお癒しになったことを非難された主イエスの言葉です。

  主イエスは、安息日に穴に落ちた羊を助ける羊飼いの話をされ、「人は羊よりもはるかに大切だ」とおっしゃって、片手の萎えた人を癒されました。安息日に穴に落ちた羊を助けることは、当時の人々も認めていたことだったのでしょう。そして、安息日に人を癒すことは神の御心に適うと、主イエスは断言なさったのです。

  14節「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。」
  ファリサイ派の人々は主イエスの言葉に納得しませんでした。もともと、彼らは主イエスを訴える口実を得ようとして仕掛けた議論だったのですから、主イエスに言い負かされたという気持ちが強く働いていたのかも知れません。あるいは、安息日に手の萎えた人を癒したという事実を目撃したことで、充分目的を果たしたと考えたのかも知れません。とにかく、彼らの心の中にあったのは、主イエスを訴えることであり、手を癒された人のことではありませんでした。彼らは、信仰的にも人間の情愛という面においても、ゆがんでいるとしか言いようがありません。
  「安息日に何が許されているのか」。ファリサイ派の人々は、許されるはずのない殺害を計画しだしたのです。彼ら自身の問いに対する答えがこれだったというのは、何とも皮肉なことです。
  マルコ福音書は、ファリサイ派だけではなく、「ヘロデ派の人々と一緒になって」と記しています。ファリサイ派とヘロデ派は立場が全く逆で、一緒に行動することはほとんどありません。その彼らが主イエスを殺す相談を一緒にし始めたというのです。ふだんは仲たがいをしている彼らが、主イエスを殺すことに一致団結したのです。ここに、人間の醜く罪深い姿があります。
  それぞれの福音書は、主イエスへの敵対は、この時から具体的に始まり、そして、ついに十字架の時へと向かっていると告げています。十字架は、人間の罪の醜い姿を示すものと言えるでしょう。しかし、神は、その十字架を全ての人々を救う神の恵みとして用いられたのです。創世記50章20節に「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」という言葉がありますが、正に、人間が示した悪意を、全ての人々を救う善へと変えてくださったのです。



「イエスは安息日の主」 2017年2月5日の礼拝

2017年10月07日 | 2016年度
レビ記24章8~9節(日本聖書協会「新共同訳」)

  アロンはイスラエルの人々による供え物として、安息日ごとに主の御前に絶えることなく供える。これは永遠の契約である。このパンはアロンとその子らのものであり、彼らはそれを聖域で食べねばならない。それは神聖なものだからである。燃やして主にささげる物のうちで、これは彼のものである。これは不変の定めである。

マタイによる福音書12章1~8節(日本聖書協会「新共同訳」)

  そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」

  律法遵守に厳格なファリサイ派の人々が、安息日に主イエスの弟子たちが麦畑に入り、麦の穂を摘んで食べたことを非難しました。それに応えて、主イエスは、まずダビデと共の者たちが祭司以外に食べることを許されていない「神殿に供えられているパン」を食べたことを指摘します。旧約聖書は、その出来事が安息日に起こったことを暗に示しています。
  この出来事は、マルコ福音書やルカ福音書にも記されています。しかし、マタイ福音書は、さらに主イエスの言葉を記しています。それが、5~7節です。
  5節は、祭司が、職務上、安息日に仕事をしなければならないので、安息日律法で非難されることはないことを告げています。特に重要なのは、6節の「神殿よりも偉大なものがここにある」という言葉です。「神殿よりも偉大なもの」とは、主イエスご自身のことです。マタイ福音書は、最初から主イエスが神の独り子であることを指し示してきました。6節の言葉も、主イエスは神の独り子である故に、神殿よりも偉大であると記しているのです。
  マタイ福音書は、もはや安息日律法違反で咎められた弟子たちの弁護に留まっていません。安息日律法の本来の目的を思い起こさせようとしているのです。すなわち、安息日は何もしないことが目的ではなく、神を礼拝することが目的であり、日常の仕事を休むことは、神を礼拝する目的を遂行するために定められたにすぎないということです。弟子たちは祭司ではありませんが、神の独り子に仕えており、神の御子が共におられる以上、ことさら「何もしない」という形式的な戒めに束縛されることはないのです。7節も、形式的に「いけにえをささげる」ことではなく、「憐れみ」こそ、神の御心であると告げているのです。この「憐れみ」というのは人間の同情心ということではありません。律法の本質をわきまえるなら、形式的な律法遵守によって人を裁くことはあり得ないと教え、そこで「罪のない人たちを咎めなかったであろう」と言われるのです。
  マタイ福音書9章14~15節で、ある人々から「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのか」尋ねられた主イエスが「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことが出来るだろうか」と答えられたと記されています。主イエス・キリストが共にいてくださる時は、喜びの時、祝いの時なのです。それと同じように、主イエスが共にいてくださる時は、神が共にいてくださる時であり、それだけで安息日律法の目的が果たされているのです。
  マタイ福音書は、マルコ福音書の「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」の言葉を省略しています。人間の都合によっては安息日を守る必要はない、という誤解を避けるためだったのかも知れません。その様な誤解を退けて、神の独り子である主イエスと安息日の関係、すなわち、神と共にあることこそ、安息日律法の本来の目的であることを明らかにしようとしているのです。9節の「人の子は安息日の主なのである」という宣言は、そのことを際だたせ、輝きを放っています。