コヘレトの言葉3章1節(日本聖書協会「新共同訳」)
何事にも時があり
天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
マタイによる福音書26章36~56節(日本聖書協会「新共同訳」)
それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
主イエスは、弟子たちと過越の食事をされた後、ゲッセマネに出かけられ、祈られます。弟子たちも一緒でしたが、彼らから少し離れたところでペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を伴い、少し離れたところへ行かれました。その三人からも少し離れたところで、主イエスは一人祈られました。この時、主イエスは「わたしと共に目を覚ましていなさい」とおっしゃいましたが、しばらくして、三人のところへ戻ってみると、彼らは眠ってしまっていました。彼らは、主イエスと一緒に祈ることが出来なかったのです。弟子たちが主イエスのそばにいたにもかかわらず、一緒に祈ることが出来なかったことは、これまでの主イエスと弟子たちの関係をよく示していると言えます。
主イエスと弟子たちは、3年近く一緒に生活しておられたと考えられますが、福音書は、しばしば主イエスの思いから遠くはなれた弟子たちの様子を伝えています。たとえば、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したペトロでしたが、主エスが受難と復活の予告をされると、「そんなことがあってはなりません」といさめ始めました。
また、エルサレムへ行く途中、弟子たちは先頭を歩まれる主イエスの後ろで、だれがいちばん偉いかと議論していました。主イエスが十字架への道を歩んでおられるその時に、彼らの関心は、全く別のところにあったのです。体は近くにあったのに、心は遠くはなれていたのです。これは彼らの信仰の弱さと言えるでしょうが、彼らだけでなく、全ての人々は父なる神と御子キリストから遠くはなれていたことを象徴しています。
ゲッセマネでの祈りを終えられたとき、イスカリオテのユダに手引きされた群衆がやって来ました。一時は主イエスを護ろうとした弟子たちでしたが、なんの抵抗もせず、あっさりと捕らえられた主イエスを見捨て、逃げ去ってしまいました。こうして、敵意を持つ群衆の中に、一人残されてしまったのです。
福音書は、主イエスが孤独であったことを告げています。しかし、それは弟子たちの不人情を言うことが目的ではありません。むしろ、主イエスが歩まれる十字架への道は、誰も一緒に歩むことが出来ないということを伝えているのです。全ての人を罪から救うために、主イエスは十字架におかかりになりました。他の誰が十字架にかかろうとも、その目的を果たすことは出来ません。それ故、主イエスはただ一人、十字架への道を歩まれたのです。
それでは、3年近くも主イエスと生活を共にしてきた弟子たちは全く無意味な存在だったのでしょうか。そうではありません。マルコ福音書3章に、12人の弟子たちを主イエスが集めたことが記され、「彼らを自分のそばに置くため」とあります。この言葉に、彼らに与えられた最も重要な意味が示されているのです。すなわち、いつも主イエスのそばにいて、主イエスの目撃者となることです。それは、やがて彼らが主イエスの証人として、証をしていく使命を与えられているということです。キリストの証人。これは、12人の弟子たちに与えられた使命ですが、後のキリスト教会にも与えられている使命です。十字架の道を歩むキリストは孤独でしたが、キリストを証する私たちには、キリストがいつも伴い、導いてくださるのです。(マタイ28章19~20節)
何事にも時があり
天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
マタイによる福音書26章36~56節(日本聖書協会「新共同訳」)
それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
主イエスは、弟子たちと過越の食事をされた後、ゲッセマネに出かけられ、祈られます。弟子たちも一緒でしたが、彼らから少し離れたところでペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を伴い、少し離れたところへ行かれました。その三人からも少し離れたところで、主イエスは一人祈られました。この時、主イエスは「わたしと共に目を覚ましていなさい」とおっしゃいましたが、しばらくして、三人のところへ戻ってみると、彼らは眠ってしまっていました。彼らは、主イエスと一緒に祈ることが出来なかったのです。弟子たちが主イエスのそばにいたにもかかわらず、一緒に祈ることが出来なかったことは、これまでの主イエスと弟子たちの関係をよく示していると言えます。
主イエスと弟子たちは、3年近く一緒に生活しておられたと考えられますが、福音書は、しばしば主イエスの思いから遠くはなれた弟子たちの様子を伝えています。たとえば、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したペトロでしたが、主エスが受難と復活の予告をされると、「そんなことがあってはなりません」といさめ始めました。
また、エルサレムへ行く途中、弟子たちは先頭を歩まれる主イエスの後ろで、だれがいちばん偉いかと議論していました。主イエスが十字架への道を歩んでおられるその時に、彼らの関心は、全く別のところにあったのです。体は近くにあったのに、心は遠くはなれていたのです。これは彼らの信仰の弱さと言えるでしょうが、彼らだけでなく、全ての人々は父なる神と御子キリストから遠くはなれていたことを象徴しています。
ゲッセマネでの祈りを終えられたとき、イスカリオテのユダに手引きされた群衆がやって来ました。一時は主イエスを護ろうとした弟子たちでしたが、なんの抵抗もせず、あっさりと捕らえられた主イエスを見捨て、逃げ去ってしまいました。こうして、敵意を持つ群衆の中に、一人残されてしまったのです。
福音書は、主イエスが孤独であったことを告げています。しかし、それは弟子たちの不人情を言うことが目的ではありません。むしろ、主イエスが歩まれる十字架への道は、誰も一緒に歩むことが出来ないということを伝えているのです。全ての人を罪から救うために、主イエスは十字架におかかりになりました。他の誰が十字架にかかろうとも、その目的を果たすことは出来ません。それ故、主イエスはただ一人、十字架への道を歩まれたのです。
それでは、3年近くも主イエスと生活を共にしてきた弟子たちは全く無意味な存在だったのでしょうか。そうではありません。マルコ福音書3章に、12人の弟子たちを主イエスが集めたことが記され、「彼らを自分のそばに置くため」とあります。この言葉に、彼らに与えられた最も重要な意味が示されているのです。すなわち、いつも主イエスのそばにいて、主イエスの目撃者となることです。それは、やがて彼らが主イエスの証人として、証をしていく使命を与えられているということです。キリストの証人。これは、12人の弟子たちに与えられた使命ですが、後のキリスト教会にも与えられている使命です。十字架の道を歩むキリストは孤独でしたが、キリストを証する私たちには、キリストがいつも伴い、導いてくださるのです。(マタイ28章19~20節)