八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「祈りについての教え」 2015年5月17日の礼拝

2015年05月25日 | 2015年度
イザヤ書26章16~21節(日本聖書協会「新共同訳」)

 主よ、苦難に襲われると
 人々はあなたを求めます。
 あなたの懲らしめが彼らに臨むと
 彼らはまじないを唱えます。
 妊婦に出産のときが近づくと
 もだえ苦しみ、叫びます。
 主よ、わたしたちもあなたの御前で
   このようでした。
 わたしたちははらみ、産みの苦しみをしました。
 しかしそれは風を産むようなものでした。
 救いを国にもたらすこともできず
 地上に住む者を
   産み出すこともできませんでした。
 あなたの死者が命を得
 わたしのしかばねが立ち上がりますように。
 塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。
 あなたの送られる露は光の露。
 あなたは死霊の地にそれを降らせられます。
 さあ、わが民よ、部屋に入れ。
 戸を堅く閉ざせ。
 しばらくの間、隠れよ
 激しい憤りが過ぎ去るまで。
 見よ、主はその御座を出て
 地に住む者に、それぞれの罪を問われる。
 大地はそこに流された血をあらわに示し
 殺された者をもはや隠そうとはしない。


マタイによる福音書6章5~6節(日本聖書協会「新共同訳」)

  「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

  今日のマタイ福音書6章5~6節は、先週の施しに続く三つの善行の二つ目になります。マタイ福音書では、三つの善行についての教えが同じ形式で語られています。今日のところもその形式に従って教えられています。ただ、三つの善行の内、前後にある施しと断食の教えが同じ形式で語られるだけなのに対し、祈りについての教えは、この後その形式とは異なる形で祈りについて語られ、さらに主の祈りへと続いていきます。祈りに対する関心の高さが示されていると言えます。
  三つの善行が、同じ形式で語られていることには意味があります。人の目を意識してではなく、神の目を意識して行動せよ、ということです。

  祈りは、宗教の歴史の中で最も古い行為であると言われます。人にはさまざまな願いがあり、神々や神秘的存在に祈願してきました。それ故、祈りは身近な事柄であったとも言えます。
  主イエスの教えを聞いていた人々は、幼い時から祈ってきた人々でした。彼らユダヤ人は、両親やユダヤ人の会堂で祈りについて教えられてきた人々です。ですから、何をどう祈ったらよいか分からない人たちに祈り方を教えるというよりも、祈る時に陥りやすい落とし穴に対する警告がなされているのです。
  5節「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。」
  偽善者とはとても厳しい言い方ですが、祈る時に陥りやすい落とし穴という現実を示しているのです。
  どういう祈りが偽善者のようであるかというと、「人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」、人に見てもらうことを好むというのです。
  私たちは、ここで言われていることとは反対に、人前で祈ることが苦手だということの方が多いかも知れません。集会などで、突然祈ってくださいと言われると、その場にふさわしく祈れるだろうか、祈りの言葉はおかしくないだろうかなどの方が気になって、祈りたくないと思うことがあるのではないかと思います。そのような私たちにとって、聖書が警告するようなことはあまり関係がないかのように思われるかも知れません。今日の聖書の話は、人前で祈れない人についてではなく、むしろ、人前で堂々と祈る人についてです。言葉がすらすらと出てくる、そういう人への警告です。
  人々の前で祈れないという人も、多くの人の前で祈りたがる人も、実は神の目を意識して祈ることよりも人の目を意識しているのです。祈りは神に向かって祈るのであって、人に向かって祈るのではありません。ですから、祈る全ての人々に向けての警告として、聞く必要があるのです。
  「会堂や大通りの角」は、大勢の人が集まったり、行き交う場所です。わざわざ、そのような場所を選んで祈るというのは、自分の信仰深い姿を人々に見せたいという思いがあるということです。人に見られる事によって、その人は祈っている自分自身を見ているのです。祈りながら、神を見ずに自分を見ている姿、それが偽善者の姿であると指摘されているのです。

  「はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」(マタイ六・5)。
  この場合の「報い」は悪い意味ではありません。しかし、「人々から賞賛されたことが、あなたが受ける報いのすべてである」と言われているのです。「神は、あなたにそれ以上の報いを与えることはない」ということです。

  「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(マタイ六・6)。
  「隠れたところ」とありますが、閉ざされた空間と限定する必要はありません。人々の目ではなく、神の目を意識して祈りなさいということです。
  祈りはどこででもできます。閉ざされた空間を探し出したりつくり出さなければならないと言うのではありません。たとえ、周りに多くの人々がいても構わないのです。ただ静かに、神に心を向けるのです。その静かな祈りを、神は聞いてくださっているのです。それゆえ、ここで教えられている祈りは孤独の祈りではなく、真の相手を持っている祈りです。そして、私たちが祈っている相手である神は、主イエス・キリストによって私たちの父となって下さった方であります。

「施しについての教え」 2015年5月10日の礼拝

2015年05月18日 | 2015年度
申命記15章7~11節(日本聖書協会「新共同訳」)

  あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。「七年目の負債免除の年が近づいた」と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。

マタイによる福音書6章2~4節(日本聖書協会「新共同訳」)

  だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」


  マタイ福音書の6章1~18節には、施し、祈り、断食について教えられています。これらは信仰者が行うべき善行と考えられていました。その最初に取り上げられている善行が「施し」です。
  何故、施しが最初に出てくるのでしょうか。
  それについては、いろいろの考え方があります。三つの善行の中でも施しが最も大切だと考える人もあるようです。確かに、このような順番について無視することはできません。しばしば大切な物が最初に置かれることがあるからです。例えば、新約聖書の中でマタイ福音書が最初にあるのも、決して偶然ではなく、この福音書が四つの中でも特に大切であると考えられたからです。同じように、三つの善行が並べられている時、最初に教えられている施しは特に大切に考えられていたと考えることができるのです。
  しかしその一方で、宗教的なことからいいますと、祈りの方が重要だとも言えます。祈りを中心に施しと断食の教えが配置されたと考えることができるのです。山上の説教の構図を考えてみますと、主の祈りを中心に、前後に関連する形式や内容であたかも年輪のように配置されていることが分かります。そこから、祈りが最も重要であるという考え方も出てくるわけです。
  このように考えてきますと、施しと祈り、いったいどちらが重要なのかという議論は尽きることがありません。そこで、今、私たちは、どちらが大切かというよりも、これら三つの善行は切り離す事はできないと考えておくに留めておきたいと思います。

  さて、私たちは、施しということを考える時、人道的な意味を考えることはあっても、宗教的な意味をあまり考えないのではないかと思います。
  先ほど、司式者に申命記15章7~11節を読んでいただきました。そこでは、貧しい同胞に物を与えるということだけではなく、神の恵みを分け与えることだと教えられています。すなわち、施しをする人を通して、神が貧しい人々に恵みを与えるということなのです。神から預けられた恵みを、相手に渡すことなのです。
  そこで、私たちが心に留めておかねばならないことは、私たちが持っている全ての物は神からの恵みであるということ、そして周りのひとりひとりが神の恵みにあずかるようにと、まず私たちに豊かに与えられているということです。

  2節。「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている」。
  ここで「偽善者」という言葉が出て参りますけれども、もともとは「役者」という意味です。古代ギリシア・ローマで演劇をする時、仮面をかぶってすることがありました。日本の能を思い起こすと良いかもしれません。役者は劇中の人物を演じているのであって、自分自身を観客に見せているわけではありません。そこから、悪い意味で「偽善」という意味で使われるようになったのです。本心と見せかけの姿が違うということを言い表すのに都合が良かったからなのでしょう。
  2節。「偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」。
実際にラッパを吹き鳴らす人がいたとは思えませんが、自分が施しをしていることを人々に見せびらかす人はいたと思います。
  「会堂や街角」は、多くの人々がいるところです。わざわざ多くの人がいるところで施しをすることは、その行為を人々に見てもらいたいという動機があるということです。相手を憐れむよりも、施している自分がほめられたいのです。神の恵みを自分の誉れの手段にしてしまっているのです。
  先ほど申しましたように、私たちが持っている全ての物は、神からの恵みです。私たち自身が神から恵みを受けているのです。受けている恵みを自分だけのものにするのではなく、周りのひとりひとりに分け与えていくことを、神が求めておられるのです。私たちを通して周りの人たちを助ける。そのようにして、神の恵みをあらわすことを、神は求めておられるのです。
  施しをとおして神の恵みを明らかにしなければならないのに、神をないがしろにするかのように、施しをする自分自身を人々に見せびらかし、自分がほめられる事を喜ぶ。それを主イエスは偽善と呼ぶのです。
  2節。「はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている」。
  「はっきりあなたがたに言っておく」は、主イエスがよく用いられた言葉でした。「はっきり」と訳されている言葉は、「アーメーン」という言葉で、もともとは旧約聖書の言葉ヒブル語で「本当に」、「まことに」という意味です。私たちも祈りの時に用いる言葉です。新約聖書は、ギリシア語で書かれています。しかし、「アーメーン」という言葉をギリシア語に翻訳せず、ヒブル語のままにしてあるのです。主イエスがこの言葉を用いる時、特に重要なことを告げておられた。それを福音書記者たちは大切にし、「アーメーン」という言葉のまま主イエスの教えを伝えてのだと思います。
  2節。「彼らは既に報いを受けている」。
  「忘れてはならない。自分の栄誉を求めて善行を行う者は、それ自体がその人が受けるべき報いのすべてである。しかし、それ以上は与えられることはない」。それがここで言われている意味です。
  自分の栄誉を求める者は、自分の行為で得た物以外、神から与えられることはありません。神からの栄誉を受けることよりも、人々からの賞賛を欲したのです。それは神からの栄誉を拒否したことを意味します。

  3~4節。「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」。
  最も身近な者にも知らせてはならないということです。神は、私たちのすべてを見ておられるのです。神は見ておられないかもしれないと心配する必要はありません。
  私たちは、いったい誰の目を意識して行動すべきなのでしょうか。人の目を意識して行動すべきなのでしょうか、それとも神の目を意識して行動すべきなのでしょうか。
  本来は、すべての人間が神の目を意識して行動すべきでしょう。しかし、罪に陥った人間は神の目を意識することに耐えられないのです。そのため、神を忘れ、神の目を意識しないで生活しようとするのです。
  山上の説教は、すべての人間に当てはまることとして教えておられるのではありません。これは神の民に向けられて語られているのです。キリスト者に向けられていると言い換えても良いでしょう。
  神の民は、神の目を意識して生活すべきです。しかも、私たちは、主イエス・キリストによって、神の子としての身分を与えられているのです。
  「あなたがたは神の子なのである」と、主イエスが繰り返し語っておられます。例えば「あなたがたの天の父の子となるためである」(マタイ5章45節)や、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5章48節)という言葉があります。
  今日の4節にも「隠れたことを見ておられる父」とあります。これは主イエス・キリストの父であるに違いありませんが、私たちの父ともなってくださった神が、私たちを見ていてくださっているということなのです。私たちは、神の子とされているのです。私たちの父となってくださった神が、私たちの心の中まで見ておられるのです。
  それは、私たちが神の目を意識して生活をしているのか、それとも人の目を意識して生活をしているのかをも見ておられるということであります。いつも私たちを見ている神は、必ず私たちに報いてくださるのです。私たちは、神から既に恵みを与えられていましたが、その恵みを、これからますます豊かに受けることができるようにされているのです。
  「報い」という言葉は、報酬を表す言葉です。働きに見合った報酬ということです。しかし、神からの報いという時、私たちはどれだけのことを、神にしたのでしょうか。私たちは、ほとんど何もしていないのです。それにもかかわらず、神は報いとして、私たちに与えてくださるのです。すなわち、ここで言われている報いというのは、本当は報いではなく、恵みなのです。
  主イエスがなさった譬えに農園で働く労働者の話があります。
  農園の主人が、労働者たちを雇います。朝早くから雇われた労働者は一日に1デナリオンを約束されました。これは、当時としては当たり前の金額だったようです。ローマの兵士の一日の賃金も1デナリオンでした。
  農園の主人は、昼にも新たに労働者を雇い、夕方になってさらに労働者を雇いました。
  農園の主人は、すべての労働者に1デナリオンを支払ったところ、朝早く雇われた労働者が不平を言いました。不公平だというのです。わずかしか働いていない者に、自分と同じお金を払ったというねたみからでした。
  1デナリオンは、一日分の賃金でした。しかし、夕方から働き始めた労働者も、ほんのわずかしか働いていないにもかかわらず、一日分の給金をもらったというのです。
  これはたとえ話ですから、実際には起こりえないことでしょう。この譬えを通して、主イエスは神の恵みについて語っているのです。
  夕方から働き始めた労働者に対する賃金は、報酬と言えば、確かに報酬です。しかし、働きに見合う以上に多く与えられているのです。これは恵みと言って良いでしょう。
  私たちも、最後に雇われた労働者と同じだと、主イエスはおっしゃっているのです。
  神から、報い、報酬を与えられたと言っても、私たちはそれに見合うだけの働きをしたのでしょうか。働きをしていないどころか、むしろ、損なっていることの方が多いのではないのでしょうか。それにもかかわらず、神は報酬だと言って、私たちに過分な、そして豊かな恵みをくださっているのです。 私たちが働く以上に、神は私たちに与えてくださっていることを忘れてはならないでしょう。

  私たちは、神から豊かな恵みを受けています。その豊かに与えられているものの中から、あなたの周りのひとりひとりに神からの恵みであることを証して分け与えなさいと、主イエスはおっしゃっておられるのです。

  使徒パウロは、次のように教えています。
  「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。『彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く』と書いてあるとおりです。種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます」(Ⅱコリント9章6~13節)。
  使徒パウロは、神の恵みを人々に与えることを強調しています。そして、分け与えることによって、神からますます豊かに恵みを受けると告げています。そして、この施しの心というのは、私たちを通じて、多くの人々が神に対する感謝の念を引き出すことだと訴えています。
  自分の功績として、施すのではなく、「神が私に恵みを与えてくださった。私は、その恵みをただ携えていく使者なのだ」ということを弁えておくことが大切なのです。
  施しをする時、私たちの目が神に向けられるのであれば、それは私たちの祈りに結びついていくのです。マタイ福音書が施しに続いて祈りについての教えを記しているのは、自然の流れと言えます。



「キリストの勝利に生きるキリスト者」 2015年5月3日の礼拝

2015年05月15日 | 2015年度
エゼキエル書13章20~23節(日本聖書協会「新共同訳」)

  それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしは、お前たちが、人々の魂を鳥を捕らえるように捕らえるために、使っている呪術のひもに立ち向かい、それをお前たちの腕から引きちぎり、お前たちが鳥を捕らえるように捕らえた魂を解き放つ。また、わたしはお前たちの頭巾を引き裂き、わが民をお前たちの手から救い出す。二度と、彼らがお前たちの手に捕らえられることはない。そのときお前たちは、わたしが主であることを知るようになる。お前たちは、わたしが苦しめようとはしていないのに、神に従う者の心を偽りをもって苦しめ、神に逆らう者の手を強め、彼らが悪の道から立ち帰って、命を得ることができないようにしている。それゆえ、もはやお前たちがむなしい幻を見ることも占いをすることもなくなる。わたしは、お前たちの手からわが民を救い出す。そのときお前たちは、わたしが主であることを知るようになる。」

ヨハネによる福音書16章33節(日本聖書協会「新共同訳」)

  これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」


  ヨハネによる福音書16章33節の最後に、「わたしは既に世に勝っている。」という主イエスの言葉があります。
  「世」という言葉は、ヨハネ福音書の中で「世界」、「人々」という意味で使っており、時には「罪に満ちた世界」、「神に敵対する世界」という意味で使うこともあります。主イエスが世に勝っているとおっしゃっているのは、神に敵対する世界あるいはそれに属する人々に勝っているという意味です。
  確かに、この世には苦しみや悲しみがあります。しかし、それらは初めからあったのではなく、人間の罪によって生じたと聖書は告げています。
  創世記には、神が全てのものをお造りになった時、それらは良いものであったと記されています。人間も神のかたちに創造されたと記されています。神のかたちとは、神と人との関係が響き合う良い関係であったことを意味しています。
  ところが、神の御言葉に従うことよりも自分の欲望に従ったことにより、神が造られたすべてのものが台無しにされ、人も神との響き合う関係を失ってしまったのです。ここから苦しみや悲しみそして、死が始まったのです。
  この世で、私たちは苦難を経験します。しかし、それは、決して初めから神が計画しておられたことではなく、私たちの罪から始まったということを理解しておくべきでしょう。そして、また、神はこのような状況を放っておかれません。
  神は人間が犯し続ける罪をずっと忍耐してこられました。しかし、神があらかじめ定めておられた時に、御子イエス・キリストをお遣わしくださり、私たちの罪の償いとして十字架におかけになりました。この罪の償いによって、私たちを罪とその悲惨とからお救い下さったのです。(ローマ3章25~26節)
  主イエス・キリストの救いは、私たち人間の罪によって呪われたすべてのものが、再び良いものへ回復されることです。また、私たち人間も再び神のかたちに回復されることです。その事を一番ハッキリスト告げているのが、ヨハネの黙示録です。
  「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録21章1~4節)
  神が良いものとしてお造りになった全ての物は、私たちの罪のために呪われてしまいましたが、世の終わりの時、神は全ての物を再び良い物へと造りかえてくださるのです。私たちも永遠の命を受けて、そこに住まわせられると約束されています。そこでは「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」と言われています。
  約束されている永遠の命は、単に長く生きるということではありません。どれほど長く生きようとも、苦しみや悲しみが永遠に続くようなら、決して幸せとは言えません。苦しむことも悲しむこともなく、喜びに満ちた人生を生きてこそ、本当の幸せというものです。
  フィリピの信徒への手紙3章21節やコリントの信徒への手紙二3章18節に、私たちがキリストの栄光の姿に変えられると記されています。神の独り子と同じ姿にと言われているのですから、それは神のかたちに変えられるということであり、天地創造の時の神のかたちを回復するということです。これは表面的な姿形ではなく、神との響き合う関係ということです。
  先ほど、「世」という言葉は、ヨハネ福音書の中で「世界」、「人々」という意味で使っており、時には「罪に満ちた世界」、「神に敵対する世界」という意味で使うこともある。そして、私たちが経験する苦しみや悲しみが、私たちの罪から始まったと申し上げました。
  キリストが世に対して勝利しておられるというのは、私たちの罪に対して勝利しておられるということです。そして、私たちが経験する苦しみや悲しみに対しても勝利しておられるということです。いつまでも苦しみや悲しみに捕らわれることはないということです。キリストと共に喜ぶ生活が約束されているのです。今すぐそれが完成するということではありませんが、完成へと既に歩み始めているのです。
  主イエスは、「あなたがたには苦難がある。」と語り、「わたしは既に世に勝っている。」宣言されました。苦難という「今」と、既に世に勝っているという「今」が告げられているのです。
  主イエスは、苦難がないとはおっしゃいません。苦難はあると、はっきりと認めているのです。聖書は「苦難はない」などと現実から目をそらすようなことを言いません。きわめて現実的です。しかし、苦難だけでなく、勝利のビジョンをも告げているのです。神の御業の完成の時、すなわち神と共に永遠に喜ぶ生活に向かって、既に歩み始めていると宣言されているのです。

  さて、誰もが経験する苦難がありますが、キリスト者である故に経験する苦難もあります。主イエスは次のように弟子たちに語られています。
  「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」(マタイ5章10~11節)
  ここでも、迫害されると警告されていますが、同時に「幸いである」とも言われています。この幸いは、今日の御言葉の「わたしは既に世に勝っている」に関連しているのです。キリストが勝利されているからこそ、迫害を受けても幸いなのです。
  苦難を受けている時にキリストの勝利を信じることは、神の摂理を信じることです。
  神の摂理とは、神の今働く力と説明されます。摂理については、天地創造と一緒に教えられることが多いようです。神が天地の全てのものをお造りになり、それを保つ働きと説明されるのです。また、地上の生活で悩み苦しみにある時、神は私たちを放っておかれるのではなく、幸いへと変えてくださいます。神は、そのために今も働いてくださっているのです。それを説明するのが「神の摂理」ということです。
  しかし、何故、神はすぐ悩み苦しみから救ってくださらないのだろうかと思うことがあるのではないでしょうか。
  その事で思い起こしていただきたいのは、旧約聖書に記されているエジプト脱出の出来事です。エジプトで奴隷になっていたユダヤ人たちは、エジプトを脱出し、約束の地に入ろうとした時、その地に住む人々を恐れて「エジプトで奴隷であった方が良かった。エジプトへ帰ろう。」と言い出しました。それまで、食べ物がなくても水がなくても、神がそれを備えてくださいました。敵が襲ってきた時も、神が守ってくださいました。そのような経験を繰り返してきたにもかかわらず、約束の地を目の前にしながら、神を信頼できませんでした。そこで、40年間荒れ野で生活することを、神がお命じになったのです。これは、彼らを罰するということよりも、神を信頼するようになるための訓練でした。自分たちの力では生きていけなかった、神の守りと導きによって生き抜くことが出来たという経験をさせたのです。豊かな土地での40年ならば、自分の知恵と力で生きたと考えるに違いありません。しかし、食べ物も水もない、しかもいつ敵に襲われるか分からない荒れ野で生活し、神に守られ導かれたことをくり返し経験したのです。そして、ついに約束の地に入るという経験をしたのです。彼らは、こうして、自分の無力を経験し、神に守られたことを経験しました。この経験により神を信頼することを学び、身につけたのです。
  私たちの人生も同じです。この世では苦難があります。しかし、神の知らないところで苦難があるのではありません。神の御手の中にあるのです。私たちが神を信頼するようになるための訓練として、神はこの世での苦難を用いておられるのです。
  荒れ野で40年を過ごしたイスラエルの人々は、自分たちの真ん中にある会見の幕屋をいつも見ていました。昼は雲の柱、夜は火の柱が幕屋に立ち、それによって神が共におられることを確認し、生活していたのです。
  私たちにとって日曜毎の礼拝こそ、神が共にいて下さることを確認する時です。この礼拝をくり返し行っていくことによってこそ、人生の苦難の中で、キリストの勝利を確信し、約束の神の国へと向かっていけるのです。

「神に喜ばれる者となりなさい」 2015年4月26日の礼拝

2015年05月05日 | 2015年度
詩編41編2~4節(日本聖書協会「新共同訳」)

 いかに幸いなことでしょう
   弱いものに思いやりのある人は。
 災いのふりかかるとき
   主はその人を逃れさせてくださいます。
 主よ、その人を守って命を得させ
 この地で幸せにしてください。
 貪欲な敵に引き渡さないでください。
 主よ、その人が病の床にあるとき、支え
 力を失って伏すとき、立ち直らせてください。


マタイによる福音書6章1節(日本聖書協会「新共同訳」)

  「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。

  マタイ福音書6章1~18節は、一つの大きな流れになっており、施し、祈り、断食という三つのことが扱われています。これらは、当時、信仰生活における大切な行為でした。施し、祈り、断食についての教えは、ほぼ同じ形式で記されています。その形式を繰り返すことで、人の目を意識して行うのではなく、神の目を意識して行うようにと教えているのです。
  この三つの教えの中で、主の祈りが出てきます。今、私たちが唱えている主の祈りとは少し違いますが、マタイ福音書にある主の祈りが元の形と考えられています。
  ルカ福音書にも主の祈りがありますが、比べてみますと、少し違いがあります。
  また、主の祈りが弟子たち教えられることになった経緯を、ルカ福音書は伝えています。すなわち、弟子たちが主イエスに祈ることを教えてくださいと願い出、その時教えられたのが主の祈りであったと言うのです。
  マタイ福音書は、主の祈りがどういう経緯で弟子たちに教えられるようになったかを明確に記していません。確かに山上の説教の中にありますので、この時に教えられたということになりますが、しかし、これほど多くの教えが一気に語られたとは考えにくいということがあります。おそらく、いろいろの場面で語られたものが、山上の説教という形にまとめられたと思われます。マタイ福音書全体の構成から、そういうふうに考えることが出来るのです。
  ですから、主の祈りも、これほど多くの教えの中で語られたというよりも、山上の説教という数多くの主イエスの教えの中で特別の位置を与えられ、ここに配置されたと考える方が、山上の説教の構造上、納得しやすいのです。ある人は、山上の説教は主の祈りを中核としているとさえ言います。
  さて、1節前半で「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」とあります。
  「善行」と訳されている言葉は、他のところでは「義」と訳されています。この「義」は、聖書の中で重要な意味を持っています。特に私たちの救いに関わる言葉として使われています。例をあげますと、ローマの信徒への手紙3章20~26節があります。
  「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。・・・ ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。・・・イエスを信じる者を義となさるためです。」
  ここで、義は道徳的な正しいという意味だけでなく、信仰と救いに深く関わっていることが分かります。
  マタイ6章1節の「善行」も、道徳的な正しさや人道的な善行というだけでなく、信仰の事柄としての義について語られているのです。
  また、「人々に見られないようにしなさい」とは、「人々ではなく、神に見ていただきなさい」ということです。神の目を意識して生活することが大切なのです。ある人は、「人々に見られないようにしなさい」という言葉について、施し・祈り・断食は自分と神だけのことにしておきなさいとの教えだと説明しています。
  ここで注意すべきなのは、善行をすること、義なる行いをすることは、救われるために行うのではないということです。6章2節以下で、施し・祈り・断食なども救われるために行うというのではありません。むしろ、神に救われた感謝の生活として、善行をするのであり、施し・祈り・断食をするのです。信仰生活は、救われるための生活ではなく、既に救われていることを感謝する生活なのです。神に見ていただくというのは、神に感謝する私たち自身を見ていただくのです。それは神の御心に応える生活です。
  ルカ福音書18章11~14節に、次のような主イエスが語られた譬えが記されています。
  「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

  ファリサイ派の人々がいつもこのように祈っていたということではないと思いますが、信仰者が陥りやすい過ちが警告されていると言えます。神に祈っていながら、その実、自分自身の信仰とその生活を誇っているのです。
  この譬えは、ファリサイ派の人の祈りと徴税人の祈りは、どちらが優れいているかということが教えているのではありません。
  私たちは、正しい信仰生活をしようとします。それは良いことです。しかし、正しくあろうとして、落とし穴に落ち込むことがあるのです。ファリサイ派の人々は決して不信仰でもなければ、不真面目ということではありません。彼らはいつも信仰深くあろうと心がけ、熱心に信仰生活をするまじめな人々です。しかし、その熱心さ故に、陥りやすい罠があるのです。主イエスの譬えはそれを警告しているのです。
  自分の目から見ても、周囲の人々の目から見ても正しい生活をしようとします。それがいつしか、神からどう見られているかを忘れてしまうことがあるのです。否、自分の目から見た正しさは、神の目から見ても正しいと思いこんでしまうのです。それはまた、自分の目から見た正しさを基準にして自分自身を高く評価することになりますし、反対に周囲の人々の行いに対して厳しい評価をしやすくなるのです。主イエスが「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」(マタイ7章3節)と警告している言葉に、耳を傾けるべきでしょう。
  今日の聖書の言葉は、周囲の人への厳しい評価についての警告ということではありませんが、自分自身の評価や他人の評価を気にする時、神の目より人の目を意識して生活してしまいやすいことを警告しているのです。
  神の目を意識するということは、神からどのように見られているかということになるわけですが、はたして、私たちはどのように見られているのでしょうか。使徒パウロは次のように語っています。
  「わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。』」(ローマ3章9~10節)
 「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、・・・。」(ローマ9章22節)
  神の目から見た私たちは罪人であり、怒りの器として滅びることになっていた存在にすぎないと言われています。しかし、聖書は同時に、そのような私たちを神は救ってくださったと告げているのです。

  神に見てもらうという言葉ではありませんが、よく似た言葉に、「神に知られる」という言葉があります。
  「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」(ガラテヤ4章8~9節)
  使徒パウロは、「今は神を知っている」といったすぐ後で、「いや、むしろ神から知られている」と言い換えています。私たちにとって、神を知ることはとても大切だと思いますけれども、使徒パウロは、それ以上に大切なこととして「神から知られている」と語っているのです。
  聖書の中で「知る」という言葉は、認識するという意味の他にその人を愛するという意味で使われることもあるのです。男女の愛を言う時もこの言葉が使われ、人格的な関係の深さを表す時にも使われるようになりました。
  アモス3章2節に「地上の全部族の中からわたしが選んだのはお前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちをすべての罪のゆえに罰する。」とあります。ここで「選んだ」となっている言葉は、口語訳では「知った」となっていました。この所では、単に選別したと言うだけではなく、愛したという意味があるのです。そして、それは神とイスラエルの民との間には、人格的な特別の関係があることを示しているのです。
  使徒パウロは、このことをふまえて、「神に知られている」と言うのです。私たちは神に認識されているだけではなく、神との間に特別の関係があるというのです。すなわち、神から愛されているという関係です。
  Ⅰコリント8章3節にも「神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。」とあります。神から愛されている人は神を愛しているという意味です。

  人に見てもらおうとするのは、人から高く評価されたいとか自分を誇りたいという気持ちが私たちの心の中にあるからではないかと思います。しかし、もっとも大切なことは、神から愛されることであり、否、既に愛されているのですから、私たちを愛してくださっている神に喜ばれるように生活することです。
  現代では、施しや断食は、信仰生活をする上で必ずしなければならないと考えられてはいないかも知れません。しかし、どのような生活のあり方であっても、神に愛されているものとして、神に喜ばれたいと願い、そのように心がけていく生活をすべきでしょう。