ヨエル書2章12~13節(日本聖書協会「新共同訳」)
主は言われる。
「今こそ、心からわたしに立ち帰れ
断食し、泣き悲しんで。
衣を裂くのではなく
お前たちの心を引き裂け。」
あなたたちの神、主に立ち帰れ。
主は恵みに満ち、憐れみ深く
忍耐強く、慈しみに富み
くだした災いを悔いられるからだ。
ペトロの手紙 一 2章1~10節(日本聖書協会「新共同訳」)
だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。聖書にこう書いてあるからです。
「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、
シオンに置く。
これを信じる者は、決して失望することはない。」
従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、
「家を建てる者の捨てた石、
これが隅の親石となった」
のであり、また、
「つまずきの石、
妨げの岩」
なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、
「かつては神の民ではなかったが、
今は神の民であり、
憐れみを受けなかったが、
今は憐れみを受けている」
のです。
善い行いをすることは、すべての人にとって大切なことです。これを否定する宗教はほとんどないでしょう。ただ善い行いとは何かということになりますと、様々な考え方があります。真っ先に考えられるのは、神の御心にかなう行動、生き方ということです。
キリスト教は、当然善い行いをすることを勧め、逆に悪い行いをすることを禁じています。悪い行いをする人は神に罰せられ、善い行いをする人は救われるのです。そこで、救われるために善い行いをしなければならないということになるのです。しかし、すべての人は罪の下にあり、神の御心にかなう善い行いをすることがとても難しく、誰ひとり救われることはありません。しかし、神はイエス・キリストを遣わしてくださり、私たちの罪の贖いとして十字架におかけになりました。完全に神の御心にかなう善い行いができないにもかかわらず、このキリストの犠牲によって私たちは救われたのです。
それでは、救われた私たちはもはや善い行いをしなくてもよくなったのでしょうか。そうではありません。やはり善い行いをしなければなりません。何故なのでしょうか。ここで、カトリックとプロテスタントの違いが生じます。
カトリックでは、キリストの救いは洗礼を受けるまでの罪が赦され、洗礼後に犯した罪は赦されないと考えました。そのため、古代ローマの時代、死ぬ直前まで洗礼を受けない人もありました。中世になると、洗礼後に犯した罪の赦しを受けるため、告解(懺悔)によって赦しを受けたり、諸聖人が積み重ねた徳を分けてもらうため、贖宥状を買うことなどが行われました。そして、神からの救いを受けるために善い行いをしなければならないと主張したのです。
贖宥状というカトリックの主張は聖書にはありません。そして、一番の問題は、キリストの救いを不完全としていることです。
しかし、聖書は、キリストの救いが完全であり、それだけで充分だと教えています。すなわち、洗礼以後犯した罪に対しても、キリストの救いは有効だということです。
プロテスタントはこの聖書の教えに基づいてキリストを信じる信仰によってのみ救われると主張します。しかし、カトリックはこれに反対します。なぜなら、信じるだけで救われるという教えは善い行いをする意欲をなくさせ、自堕落な生活をさせてしまうからだというのです。
プロテスタントも、善い行いをすることを強調します。しかし、それは救われるためではなく、救われたことへの感謝として善い行いをするのです。
たとえば、尊敬する人から何かをプレゼントされたとします。そうしたら、受け取ったそのプレゼントを、毎日眺め、手に取り、また誰かに見せて自慢したりして大切にするのではないでしょうか。そうすることによって、感謝の気持ちを持ち続けるようになります。キリストによる救いは、まさに神からのプレゼントで、かけがえのない宝です。キリストによるこの救いを感謝するならば、この救いを与えてくださった神の御心に応えるように感謝の生活をするのではないでしょうか。それが善い行いです。ここで大切なことは、感謝の心を忘れないことです。そのために、プレゼントされた救いをいつもしっかり意識することです。
私たちの善い行いは完全ではないでしょう。それでも神は善い行いをしようとする私たちを見て喜んでくださっています。聖書は「混じりけのない霊の乳を慕い求めよ」と教えています。神の御言葉による養いを受けよ、ということです。これによって、自分の救いについての確信がいよいよ進み、信仰生活が豊かになり、神の約束を絶えることなく受けるのです。
主は言われる。
「今こそ、心からわたしに立ち帰れ
断食し、泣き悲しんで。
衣を裂くのではなく
お前たちの心を引き裂け。」
あなたたちの神、主に立ち帰れ。
主は恵みに満ち、憐れみ深く
忍耐強く、慈しみに富み
くだした災いを悔いられるからだ。
ペトロの手紙 一 2章1~10節(日本聖書協会「新共同訳」)
だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。聖書にこう書いてあるからです。
「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、
シオンに置く。
これを信じる者は、決して失望することはない。」
従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、
「家を建てる者の捨てた石、
これが隅の親石となった」
のであり、また、
「つまずきの石、
妨げの岩」
なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、
「かつては神の民ではなかったが、
今は神の民であり、
憐れみを受けなかったが、
今は憐れみを受けている」
のです。
善い行いをすることは、すべての人にとって大切なことです。これを否定する宗教はほとんどないでしょう。ただ善い行いとは何かということになりますと、様々な考え方があります。真っ先に考えられるのは、神の御心にかなう行動、生き方ということです。
キリスト教は、当然善い行いをすることを勧め、逆に悪い行いをすることを禁じています。悪い行いをする人は神に罰せられ、善い行いをする人は救われるのです。そこで、救われるために善い行いをしなければならないということになるのです。しかし、すべての人は罪の下にあり、神の御心にかなう善い行いをすることがとても難しく、誰ひとり救われることはありません。しかし、神はイエス・キリストを遣わしてくださり、私たちの罪の贖いとして十字架におかけになりました。完全に神の御心にかなう善い行いができないにもかかわらず、このキリストの犠牲によって私たちは救われたのです。
それでは、救われた私たちはもはや善い行いをしなくてもよくなったのでしょうか。そうではありません。やはり善い行いをしなければなりません。何故なのでしょうか。ここで、カトリックとプロテスタントの違いが生じます。
カトリックでは、キリストの救いは洗礼を受けるまでの罪が赦され、洗礼後に犯した罪は赦されないと考えました。そのため、古代ローマの時代、死ぬ直前まで洗礼を受けない人もありました。中世になると、洗礼後に犯した罪の赦しを受けるため、告解(懺悔)によって赦しを受けたり、諸聖人が積み重ねた徳を分けてもらうため、贖宥状を買うことなどが行われました。そして、神からの救いを受けるために善い行いをしなければならないと主張したのです。
贖宥状というカトリックの主張は聖書にはありません。そして、一番の問題は、キリストの救いを不完全としていることです。
しかし、聖書は、キリストの救いが完全であり、それだけで充分だと教えています。すなわち、洗礼以後犯した罪に対しても、キリストの救いは有効だということです。
プロテスタントはこの聖書の教えに基づいてキリストを信じる信仰によってのみ救われると主張します。しかし、カトリックはこれに反対します。なぜなら、信じるだけで救われるという教えは善い行いをする意欲をなくさせ、自堕落な生活をさせてしまうからだというのです。
プロテスタントも、善い行いをすることを強調します。しかし、それは救われるためではなく、救われたことへの感謝として善い行いをするのです。
たとえば、尊敬する人から何かをプレゼントされたとします。そうしたら、受け取ったそのプレゼントを、毎日眺め、手に取り、また誰かに見せて自慢したりして大切にするのではないでしょうか。そうすることによって、感謝の気持ちを持ち続けるようになります。キリストによる救いは、まさに神からのプレゼントで、かけがえのない宝です。キリストによるこの救いを感謝するならば、この救いを与えてくださった神の御心に応えるように感謝の生活をするのではないでしょうか。それが善い行いです。ここで大切なことは、感謝の心を忘れないことです。そのために、プレゼントされた救いをいつもしっかり意識することです。
私たちの善い行いは完全ではないでしょう。それでも神は善い行いをしようとする私たちを見て喜んでくださっています。聖書は「混じりけのない霊の乳を慕い求めよ」と教えています。神の御言葉による養いを受けよ、ということです。これによって、自分の救いについての確信がいよいよ進み、信仰生活が豊かになり、神の約束を絶えることなく受けるのです。