詩編34編19~21節 (日本聖書協会「新共同訳」)
主は打ち砕かれた心に近くいまし
悔いる霊を救ってくださる。
主に従う人には災いが重なるが
主はそのすべてから救い出し
骨の一本も損なわれることのないように
彼を守ってくださる。
マタイによる福音書5章3~10節 (日本聖書協会「新共同訳」)
「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
マタイ福音書5章10節は、「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」です。
まず注目すべきことは、ただ「迫害される人々」というのではなく、「義のために迫害される人々」となっていることです。
「義」とは本来社会的秩序の理念としての正しさを意味していましたが、その義が犯されがちな弱い者、貧しい者への保護に向かう傾向を強く持つようになり、恵み、助け、救いという意味を含むようになっていきました。
弱い者、貧しい者への保護は、単に人道的な意味で理解されるのではなく、神がそれらの人々の保護者として働いておられると理解されました。
今日の御言葉も社会的秩序としての義というだけではなく、神の恵み、助け、救いを意味しています。ですから、ここでいう義とは神の義であり、全ての人々を救おうとする神の恵みなのです。そして、「義のために迫害される人々」とは、この神の恵みの御業のために迫害される人々という意味です。そこで、今日は読みませんでしたが、今日の御言葉の後に「私のためにののしられ、迫害され」と続いていることの意味がはっきりしてきます。すなわち、キリストこそ、すべての人を救おうとされる神の恵みであり、「義のために迫害される」とは、このキリストを信じ、その福音を宣べ伝える人々が迫害されることだとわかります。
さて、「義のために迫害される人々は、幸いである」と言われています。しかし、迫害されるから幸いだと言われているのではありません。迫害される人は、神の支配、神の保護の下にあるので幸いだといわれているのです。天の国とは神の国という意味です。聖書の言葉で国とは単に領土を指すのではなく、支配を表す言葉です。ですから、神の支配という意味であり、神の保護の下にあるということです。
さらに、今日の御言葉は次のように言っていることが分かります。「あなたがたは神の保護の下にあるので、神の恵みを伝える時、人々から迫害されることを恐れてはならない」ということです。もちろん、これは進んで迫害を受け入れよ、ということではありません。
神の独り子である主イエス・キリストが、私たちのために十字架にかかり、私たちを救ってくださいました。私たちは、神の恵みを受けているのです。そして、どのような時も、神は私たちを見捨てることはありません。
神の敵であった時ですら、神が私たちを愛してくださったのです。神を信じている今、神から愛されていることは確かなことであり、決して見捨てられることはないのです。その私たちが為すべきことは、私たちを迫害する者があれば、その人のために祝福を祈り、その人々も神の救いを受け入れるようにと、とりなしをすることです。
私たちは主の祈りの中で「御心の天になる如く、地にも為させたまえ」と祈ります。神の御心は、すべての人が救われることです。そのために神は御子をお遣わしくださいました。地にも為させたまえと祈るのは、私たちと無関係なところで成りますようにということではありません。その御心がこの私にも行われますようにと祈ることです。神が敵である私を愛してくださったように、私たちも迫害する人々のためにとりなしの祈りをすることこそ、神がお喜びになることなのです。
主は打ち砕かれた心に近くいまし
悔いる霊を救ってくださる。
主に従う人には災いが重なるが
主はそのすべてから救い出し
骨の一本も損なわれることのないように
彼を守ってくださる。
マタイによる福音書5章3~10節 (日本聖書協会「新共同訳」)
「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
マタイ福音書5章10節は、「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」です。
まず注目すべきことは、ただ「迫害される人々」というのではなく、「義のために迫害される人々」となっていることです。
「義」とは本来社会的秩序の理念としての正しさを意味していましたが、その義が犯されがちな弱い者、貧しい者への保護に向かう傾向を強く持つようになり、恵み、助け、救いという意味を含むようになっていきました。
弱い者、貧しい者への保護は、単に人道的な意味で理解されるのではなく、神がそれらの人々の保護者として働いておられると理解されました。
今日の御言葉も社会的秩序としての義というだけではなく、神の恵み、助け、救いを意味しています。ですから、ここでいう義とは神の義であり、全ての人々を救おうとする神の恵みなのです。そして、「義のために迫害される人々」とは、この神の恵みの御業のために迫害される人々という意味です。そこで、今日は読みませんでしたが、今日の御言葉の後に「私のためにののしられ、迫害され」と続いていることの意味がはっきりしてきます。すなわち、キリストこそ、すべての人を救おうとされる神の恵みであり、「義のために迫害される」とは、このキリストを信じ、その福音を宣べ伝える人々が迫害されることだとわかります。
さて、「義のために迫害される人々は、幸いである」と言われています。しかし、迫害されるから幸いだと言われているのではありません。迫害される人は、神の支配、神の保護の下にあるので幸いだといわれているのです。天の国とは神の国という意味です。聖書の言葉で国とは単に領土を指すのではなく、支配を表す言葉です。ですから、神の支配という意味であり、神の保護の下にあるということです。
さらに、今日の御言葉は次のように言っていることが分かります。「あなたがたは神の保護の下にあるので、神の恵みを伝える時、人々から迫害されることを恐れてはならない」ということです。もちろん、これは進んで迫害を受け入れよ、ということではありません。
神の独り子である主イエス・キリストが、私たちのために十字架にかかり、私たちを救ってくださいました。私たちは、神の恵みを受けているのです。そして、どのような時も、神は私たちを見捨てることはありません。
神の敵であった時ですら、神が私たちを愛してくださったのです。神を信じている今、神から愛されていることは確かなことであり、決して見捨てられることはないのです。その私たちが為すべきことは、私たちを迫害する者があれば、その人のために祝福を祈り、その人々も神の救いを受け入れるようにと、とりなしをすることです。
私たちは主の祈りの中で「御心の天になる如く、地にも為させたまえ」と祈ります。神の御心は、すべての人が救われることです。そのために神は御子をお遣わしくださいました。地にも為させたまえと祈るのは、私たちと無関係なところで成りますようにということではありません。その御心がこの私にも行われますようにと祈ることです。神が敵である私を愛してくださったように、私たちも迫害する人々のためにとりなしの祈りをすることこそ、神がお喜びになることなのです。