八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「神の義のために受ける迫害」 2014年9月14日の礼拝

2014年09月29日 | 2014年度
詩編34編19~21節 (日本聖書協会「新共同訳」)

 主は打ち砕かれた心に近くいまし
 悔いる霊を救ってくださる。
 主に従う人には災いが重なるが
 主はそのすべてから救い出し
 骨の一本も損なわれることのないように
 彼を守ってくださる。


マタイによる福音書5章3~10節 (日本聖書協会「新共同訳」)

 「心の貧しい人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。
 悲しむ人々は、幸いである、
   その人たちは慰められる。
 柔和な人々は、幸いである、
   その人たちは地を受け継ぐ。
 義に飢え渇く人々は、幸いである、
   その人たちは満たされる。
 憐れみ深い人々は、幸いである、
   その人たちは憐れみを受ける。
 心の清い人々は、幸いである、
   その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は、幸いである、
   その人たちは神の子と呼ばれる。
 義のために迫害される人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。


  マタイ福音書5章10節は、「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」です。
  まず注目すべきことは、ただ「迫害される人々」というのではなく、「義のために迫害される人々」となっていることです。
  「義」とは本来社会的秩序の理念としての正しさを意味していましたが、その義が犯されがちな弱い者、貧しい者への保護に向かう傾向を強く持つようになり、恵み、助け、救いという意味を含むようになっていきました。
  弱い者、貧しい者への保護は、単に人道的な意味で理解されるのではなく、神がそれらの人々の保護者として働いておられると理解されました。
  今日の御言葉も社会的秩序としての義というだけではなく、神の恵み、助け、救いを意味しています。ですから、ここでいう義とは神の義であり、全ての人々を救おうとする神の恵みなのです。そして、「義のために迫害される人々」とは、この神の恵みの御業のために迫害される人々という意味です。そこで、今日は読みませんでしたが、今日の御言葉の後に「私のためにののしられ、迫害され」と続いていることの意味がはっきりしてきます。すなわち、キリストこそ、すべての人を救おうとされる神の恵みであり、「義のために迫害される」とは、このキリストを信じ、その福音を宣べ伝える人々が迫害されることだとわかります。
  さて、「義のために迫害される人々は、幸いである」と言われています。しかし、迫害されるから幸いだと言われているのではありません。迫害される人は、神の支配、神の保護の下にあるので幸いだといわれているのです。天の国とは神の国という意味です。聖書の言葉で国とは単に領土を指すのではなく、支配を表す言葉です。ですから、神の支配という意味であり、神の保護の下にあるということです。
  さらに、今日の御言葉は次のように言っていることが分かります。「あなたがたは神の保護の下にあるので、神の恵みを伝える時、人々から迫害されることを恐れてはならない」ということです。もちろん、これは進んで迫害を受け入れよ、ということではありません。
  神の独り子である主イエス・キリストが、私たちのために十字架にかかり、私たちを救ってくださいました。私たちは、神の恵みを受けているのです。そして、どのような時も、神は私たちを見捨てることはありません。
  神の敵であった時ですら、神が私たちを愛してくださったのです。神を信じている今、神から愛されていることは確かなことであり、決して見捨てられることはないのです。その私たちが為すべきことは、私たちを迫害する者があれば、その人のために祝福を祈り、その人々も神の救いを受け入れるようにと、とりなしをすることです。
  私たちは主の祈りの中で「御心の天になる如く、地にも為させたまえ」と祈ります。神の御心は、すべての人が救われることです。そのために神は御子をお遣わしくださいました。地にも為させたまえと祈るのは、私たちと無関係なところで成りますようにということではありません。その御心がこの私にも行われますようにと祈ることです。神が敵である私を愛してくださったように、私たちも迫害する人々のためにとりなしの祈りをすることこそ、神がお喜びになることなのです。

「神からの和解」 2014年9月7日の礼拝

2014年09月25日 | 2014年度
詩編85編9~14節 (日本聖書協会「新共同訳」)

 わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
 主は平和を宣言されます
 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
 主を畏れる人に救いは近く
 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 慈しみとまことは出会い
 正義と平和は口づけし
 まことは地から萌えいで
 正義は天から注がれます。
 主は必ず良いものをお与えになり
 わたしたちの地は実りをもたらします。
 正義は御前を行き
 主の進まれる道を備えます。


マタイによる福音書5章3~10節 (日本聖書協会「新共同訳」)

 「心の貧しい人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。
 悲しむ人々は、幸いである、
   その人たちは慰められる。
 柔和な人々は、幸いである、
   その人たちは地を受け継ぐ。
 義に飢え渇く人々は、幸いである、
   その人たちは満たされる。
 憐れみ深い人々は、幸いである、
   その人たちは憐れみを受ける。
 心の清い人々は、幸いである、
   その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は、幸いである、
   その人たちは神の子と呼ばれる。
 義のために迫害される人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。


  「平和を実現する人々」は、聖書のもともとの言葉ギリシア語では一つの単語で、新約聖書にはここにしか出てきません。この言葉の動詞の形では、一回だけコロサイの信徒への手紙1章20節に出てきます。
  「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」。
  「平和を打ち立て」という言葉は、「平和を実現する人々」という言葉の動詞です。このコロサイ書では、神が平和を打ち立てたこと、主イエスが十字架の上で血を流されたこと、それにより神が万物と和解されたと告げています。「平和を実現する」とか「平和を打ち立てる」と言っても、それは私たち人間には不可能なことであり、神のみが為しうる業なのです。
  マタイ5章9節の「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」とあるのは、平和を実現しなければ、神の子と呼ばれないという意味ではありません。
  そもそも誰が「神の子」と呼ぶというのでしょうか? それは神以外にありません。
  使徒パウロは「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(ガラテヤ3:26)と断言しています。他にもエフェソ1:5を参照。
  他の誰が何を言おうとも、神が私たちを「神の子」と呼んでくださらないならば、何の意味もありません。そして、神は御子イエス・キリストによって私たちに神の子としての身分を与えてくださり、「神の子」と呼んでくださるのです。
  平和を実現するとは、神の子となることの条件ではありません。むしろ、既に神の子とされているので、平和を実現する使命があると言うことです。
  先ほど、「平和を実現する」とか「平和を打ち立てる」ということは、私たち人間には不可能なことであり、神のみが為しうる業だと申し上げました。私たちに与えられている「平和を実現する」使命とは、私たちが神に成り代わって何かをするということではなく、神が打ちたててくださった平和を人々に伝えることなのです。
  使徒パウロは、コリントの教会に宛てた手紙で次のように語っています。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」(Ⅱコリント5:18-19)
  主イエスがおっしゃっておられる「平和を実現する人々」とは、人間がつくり出す平和という意味ではなく、神が私たちとの間に打ち立てて下さった平和ということです。平和を打ち立ててくださった神は、その平和、すなわち「神からの和解」という福音を世の人々に伝えるという任務を、私たちに授けてくださったのです。
  繰り返して言いますが、私たちが神の子と呼ばれるために、神からの和解を宣べ伝えるのではありません。既に、私たちは神の子とされているのです。神からの和解を受けたことを感謝し、喜びつつ、この福音を私たちの周りのひとりひとりに伝えて行くのです。


「キリストにより清くされる」 2014年8月31日の礼拝

2014年09月23日 | 2014年度
イザヤ書6章1~7節(日本聖書協会「新共同訳」)

ウジヤ王が死んだ年のことである。
わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。
「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。
主の栄光は、地をすべて覆う。」
この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。わたしは言った。
「災いだ。わたしは滅ぼされる。
わたしは汚れた唇の者。
汚れた唇の民の中に住む者。
しかも、わたしの目は
王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。
「見よ、これがあなたの唇に触れたので
あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」


マタイによる福音書5章3~10節(日本聖書協会「新共同訳」)

「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。


 今日の聖句の「心の清い人々」というのは、道徳的な意味で「心の清さ」と理解できますが、ここでは信仰の事柄として理解すべきでしょう。「心が清い」ことと「神を見る」こととが関係づけられているからです。
 「心」は、人間の意志や思考を指すだけではありません。心の思いは、行動となって表面に現れます。そのため、主イエスは山上の説教の中で、罪を犯した行為だけではなく、その心の状態をも問題にされています。
 「清い」という言葉も「清い、純潔な、混じりけがない、水増ししていない」という意味で、ある人は「心が分かれていないこと」と説明しています。そこで「心が清い」というのは「二心がない」と理解できます。主イエスは「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」とおっしゃったことを思い出すと良いでしょう。
  今日の聖句で、心の清い人々が幸いであるのは、神を見るからだと言われています。
  しかし、先ほど司式者に読んでいただいたイザヤ書では、「私は神を見たので死ぬ」とありました。旧約聖書の中で、時々このことが出てきます。偉大な指導者であったモーセでさえも、神の顔を見ることが許されませんでした。これらの例を見ますと、神を見ることは幸いだとは言えないように思えます。
何故、聖書は神を見ると死ぬと記しているかと言いますと、神の完全な清さの前に、罪に汚れた存在である人間は滅びると考えられていたからです。それ故、預言者イザヤも「罪に汚れている私が神を見たので、滅びるばかりだ」と叫んでいるのです。すなわち、人間の罪が原因なのです。
 また、先ほどのイザヤ書は、罪を赦されたなら、神を見て死ぬことはないことも示されています。
 神を見るとは、どういうことなのでしょうか? 表面的な神の姿形を見るということでは、あまり意味はないでしょう。
 重要なことは、私たちにとって神がどのようなお方で、何を考えておられ、何をなさろうとしておられるかということではないでしょうか。それこそ、私たちが知りたいことです。
 もし、今日の聖書の言葉が、私たちの心が清くなければ神を見ることができないということであれば、果たして、私たちは自らの力や努力で心を清くし、神を見ることができるようになるのでしょうか? 旧約聖書の偉大な信仰者や預言者であっても神を見ることができなかった事実を考えると、私たちにとってもそれは不可能と考えざるを得ないのではないでしょうか?
 新約聖書のヨハネ福音書は「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と告げています。主イエス・キリストのことです。キリストだけが神を示すことがおできになるのです。そして、神の御子キリストは、私たちを愛してくださる方として示してくださったのです。聖書に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ4:10)とあるとおりです。
 キリストをとおして、神は私たちを罪から救い、私たちを愛しておられることを知らされています。これこそ、まことに幸いなことです。
 それでは、私たちは清くされたのでしょうか。ヨハネ福音書15章1-5節において、キリストによって既に清くされていると告げられています。
 この世に於いて、私たちは完全になったという意味ではありません。しかし、完全へと歩み始めているのです。そして、それは確実なこととして、主イエスは「既に清くなっている」と宣言しておられるのです。



「神の憐れみ」 2014年8月24日の礼拝

2014年09月11日 | 2014年度
詩編42編2~7a節(日本聖書協会「新共同訳」)

 涸れた谷に鹿が水を求めるように
 神よ、わたしの魂はあなたを求める。
 神に、命の神に、わたしの魂は渇く。
 いつ御前に出て
   神の御顔を仰ぐことができるのか。
 昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。
 人は絶え間なく言う
 「お前の神はどこにいる」と。

 わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす
 喜び歌い感謝をささげる声の中を
   祭りに集う人の群れと共に進み
 神の家に入り、ひれ伏したことを。

   なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
   なぜ呻くのか。
   神を待ち望め。
   わたしはなお、告白しよう
   「御顔こそ、わたしの救い」と。
   わたしの神よ。


マタイによる福音書5章3~10節(日本聖書協会「新共同訳」)

 「心の貧しい人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。
 悲しむ人々は、幸いである、
   その人たちは慰められる。
 柔和な人々は、幸いである、
   その人たちは地を受け継ぐ。
 義に飢え渇く人々は、幸いである、
   その人たちは満たされる。
 憐れみ深い人々は、幸いである、
   その人たちは憐れみを受ける。

 心の清い人々は、幸いである、
   その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は、幸いである、
   その人たちは神の子と呼ばれる。
 義のために迫害される人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。


  今日の聖句は「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」です。
  「憐れみ深い」と訳されている語は、今日の聖句の他に、ヘブライ人への手紙2章17節にあるだけで、主イエスについて、しかも罪の赦しについて語られています。
  「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」
  このヘブライ人への手紙では、主イエスは、「大祭司となって」と言われています。
  主イエスは、地上の生涯で大祭司になったことはありません。何故、ヘブライ人への手紙は、主イエスが大祭司になったと言うのでしょうか。
  ヘブライ人への手紙は、主イエスは大祭司の「務め」を完全に果たされたと言っているのです。
  大祭司は、毎年イスラエル全体の罪の償いの儀式を行っていました。そして、その罪の償いのために傷のない動物がささげられていました。しかし、それを毎年行わなければならないこと自体、その償いは不完全であることを示しています。また大祭司も、その儀式に先立って、自分の罪の償いをしなければなりませんでした。大祭司もまた、完全ではなかったということです。
  ヘブライ人への手紙は、主イエス・キリストこそ罪の贖いを完全に行った真の大祭司だと告げているのです。主イエスは、真の神の独り子ですが、真の人となられました。ただ一つを除けば、私たち人間と全く同じ人間になられたのです。そのただ一つ違いとは、罪がないということでした。神の独り子が人間とならねばならない理由は、そこにありました。それは、ご自身が傷のない完全な罪の償いのための供え物として十字架にかかるためでした。
  先ほどのヘブライ人への手紙2章17節は、その事を言っているのです。その中で、主イエスは「憐れみ深い」と言われていたのです。主イエス・キリストをとおして、神は、全ての人間に対する憐れみを表しておられるのです。
  余談ですが、英語で「同情、好意」を意味するシンパシーは、もともと「共に苦しむ」という意味を持っていたといわれます。単なる感情を言い表すのではなく、具体的な行動を伴っていると理解することが出来ます。
  神が私たちを深く憐れんでくださるというのは、罪に悩み苦しんでいる私たちに対して、神が優しい気持ちを持ってくださっているというだけでなく、それから救うために、具体的、かつ効果的に行動してくださっているということなのです。
  このように見てきますと、今日の聖句がもし「憐れみ深くあれ、そうすれば神もあなたを憐れんでくださる」という意味ならば、いったい誰が神から憐れみを受けることが出来るでしょう? 誰も憐れみを受けることは出来ません。そして、そういう意味で語られてはいないのです。むしろ、「神はあなたに対して憐れみ深い。それ故、あなたも神と共に憐れみ深くありなさい」という意味なのです。
  マタイ福音書18章23~35節に、主イエスのなさった譬えがあります。
  一万タラントンという巨額を借金している家来に返済を求めた主人は、ひたすら謝る様子を見て憐れに思い、その借金を帳消しにしました。ところが、その家来は仲間に借金を返せと厳しく迫り、牢に入れてしまったのです。それを知った主人は「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」と言って、その家来を牢役人に引き渡したというのです。
  この譬えで明らかなのは、主人が家来に対してかけた憐れみが先だと言うことであり、それ故に、この主人は家来も仲間に対して憐れみ深くあることを願っていると言うことです。
  今日の「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」という御言葉は、まさにこの意味で理解すべきでしょう。
  私たち人間は、常に憐れみ深くあることはできず、またたとえ憐れみ深くあるときもそれは完全ではありません。その意味では、私たちは神から憐れみを受ける資格はありません。しかし、神は我々を憐れんでくださっているのです。その事を神に感謝し、憐れみ深くあるようにと教えられているのです。私たちの憐れみの動機は、神から憐れみを受けていることなのです。いつも神を仰ぎ、神から憐れみを受けていることをしっかり心に留めましょう。

「神の義」 2014年8月17日の礼拝

2014年09月08日 | 2014年度
詩編42編2~7a節(日本聖書協会「新共同訳」)

 涸れた谷に鹿が水を求めるように
 神よ、わたしの魂はあなたを求める。
 神に、命の神に、わたしの魂は渇く。
 いつ御前に出て
   神の御顔を仰ぐことができるのか。
 昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。
 人は絶え間なく言う
 「お前の神はどこにいる」と。

 わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす
 喜び歌い感謝をささげる声の中を
   祭りに集う人の群れと共に進み
 神の家に入り、ひれ伏したことを。
 
   なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
   なぜ呻くのか。
   神を待ち望め。
   わたしはなお、告白しよう
   「御顔こそ、わたしの救い」と。
   わたしの神よ。


マタイによる福音書5章3~10節(日本聖書協会「新共同訳」)

 「心の貧しい人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。
 悲しむ人々は、幸いである、
   その人たちは慰められる。
 柔和な人々は、幸いである、
   その人たちは地を受け継ぐ。
 義に飢え渇く人々は、幸いである、
   その人たちは満たされる。
 憐れみ深い人々は、幸いである、
   その人たちは憐れみを受ける。
 心の清い人々は、幸いである、
   その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は、幸いである、
   その人たちは神の子と呼ばれる。
 義のために迫害される人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。



  ずいぶん前のことですが、「義」という漢字は「茨の冠をかぶった王の下に、我(自分)を置く形」と言った人がいました。確かに王という字の上に二つの点々があり、茨のトゲのように見えます。漢字の成り立ちからは正しくはありませんが、聖書が教える神の義をよく説明していると思います。
  さて、今日の聖句は「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」です。
  ルカによる福音書には「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。」という言葉があり、今日のマタイ福音書の言葉によく似ています。多くの学者たちは、ルカ福音書の方が元の形に近いと説明しています。もしそうだとすると、マタイ福音書は何故「義」という言葉を加えたのでしょうか。おそらく、主イエスがおっしゃった「飢えている」ということを、単に空腹とは捉えなかったからだと思います。
  この山上の説教は、信仰を持たない人々にではなく、信仰を持っている人々に語られたものです。特に、マタイはキリスト者に語られた言葉として、ここに記しているのです。
  マタイ福音書がキリスト者に伝えたいのは、いわゆる処世訓ではなく、キリスト者としての信仰と生活のあり方なのです。ですから、今日の聖句も単に空腹とか満腹とかということではなく、キリスト者が飢え渇くように求めるのは、神の義であると強調したかったのでしょう。
  「義」と訳されている言葉は、マタイ福音書では3章15節にすでに出てきました。洗礼者ヨハネから洗礼を受けようとした主イエスを思いとどまらせようとしましたが、主イエスは「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」とおっしゃって、強いてヨハネに洗礼を授けさせたという出来事です。ここでは「正しいこと」と訳されていますが、これは、規則に当てはめての正しさということではなく、「神の御心」ということです。それは、また、「神の御言葉」と言い換えることができますし、さらには、神ご自身ということもできます。
  今日の詩編42編2~3節に「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。」とあります。またアモス書8章11節には「主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」ともあります。
  「義に飢え渇く」というのは、文学的問題でも哲学的問題でもありません。ただひたすら神を求めることです。神との良い関係の中に生きることを求めることです。マタイ6章33節の「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」という主イエスの言葉も、その事を指し示しています。
  それでは、私たちは義を求めていないのでしょうか? いいえ。聖書に教えられるまでもなく、私たちは正義を求めてきたはずです。しかし、それはしばしば、自分にとって都合の良い正義ということになりがちなのです。また反対に、機械的に正義が執行されることを求め、悪人を裁き、断罪することに終始しているのではないでしょうか。
  エゼキエル書18章に次のような二つの教えがあります。
  第一の教えは、正しい人間の息子が罪を犯し、その罪から離れないならば、その息子は自分の罪の故に死ぬ。父親の善行は省みられない。また、悪を行ったその息子に孫が出来、その孫が寿美から離れて神に対して正しく生きるなら、その孫は必ず生きる。すなわち、子どもは父の善行や罪によって生き死にするのではなく、その人自身の善悪によって裁かれると言うことです。
  第二の教えは、正しい人がその正しさから離れ、悪を行うなら、彼はその悪の故に死ぬ。反対に、悪人がその悪から離れ、神に対して正しく生きるなら、彼はその悔い改めの故に、必ず生きるということです。
  最後に次のように言われています。「それなのにイスラエルの家は、『主の道は正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ。」(エゼキエル18:29-32)
  自分にとって都合の良い正義は、神に対してさえも「間違っている」と主張することを示していますが、また反対に、神の正しさが私たちの理解をはるかに超えていることも示しています。このような神の正しさを、私たちはなかなか素直に受けとめることが出来ないのではないでしょうか。私たちの心の中には、悪人が悔い改めるよりは、悪人が滅ぶことを望むことの方が強いように思えます。
  このエゼキエル書18章で重要なことは、悔い改める悪人とは、私たちの知らない誰か他の人のことではなく、私たち自身のことだということです。神に対して罪を犯し続けている私たちに向かって、悔い改めて神に立ち帰れ、そして生きよ、と告げているのです。
  神の正しさを、哲学の問題として考えるのではなく、神との関係の中で考えることが大切なのです。言い換えるならば、「正義」という概念を定義することにではなく、いかにして私たち罪人が神との良い関係の中で生きることができるかということについて、神は強い関心を持っておられるのです。そこで、強調されているのが、悪人が悔い改めるということなのです。
  さて、義ということについて、使徒パウロは「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(ローマ3:20)と語っています。
  罪人が悔い改めることを、神は求めておられると先ほど申し上げました。どうすることが悔い改めになるのか、それを指し示すものが、神から与えられた律法でした。しかし、パウロはその律法では、罪の自覚が生じるばかりで、罪人を義にいたらせないと言うのです。
  パウロは、さらに言葉を続けて「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。・・・ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:21~24)と告げています。
  私たちに不可能であった神の義は、キリストによって無償で提供されているというのです。このキリストによって、私たちは神から正しいとみなされているというのです。
  その事について、パウロは次のように説明しています。
  「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです」(ローマ3:25~26)。
  「罪を償う供え物」とは、キリストが十字架にかかられたことを指しています。十字架のキリストこそ、私たちを義とすることのできる唯一のお方なのです。
  パウロは、ここで、キリストがこの世に遣わされる時まで、神は「人が犯した罪を見逃して」おられ、「忍耐してこられた」と言っています。ここにいたって、義に飢え渇いていたのは、私たちだけではなく、神もまた飢え渇いておられたことを、私たちは知りました。否、私たち以上に神は神の義を求めておられ、神の義によって信じる全ての人々を救う時を待ち望んでおられたのです。
  神の義は、もはや正しさという概念にとどまらず、すべての人を救おうとする神の御意志であることが明らかにされました。神の義は私たちに対する恵みであり、私たちを救うための御計画であり、またそのために、神の独り子が十字架におかかりになった出来事です。
  主イエスが告げておられることは、神の義に満たされるため、頑張ろうということではありません。神がすでに満たしてくださっている。その神の義が満ち足りている幸いの中に、今生かされていると宣言しておられるのです。