八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「バベルの塔」 2013年8月25日の礼拝

2013年09月30日 | 2013年度~
創世記11章1~9節

  世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
  彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
  主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。
  「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
  主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。


  バベルの塔の物語の舞台であるバベルとは、おそらくバビロンのことだろうと考えられています。バビロンは、今のイラクのチグリス川、ユーフラテス川の川沿いにあった都市で、「神の門」という意味です。ユダヤ人はかつてバビロンによって国を滅ぼされ、多くの人々が捕えられて、バビロンへ強制移住させられました。バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。
  聖書が、言葉が乱されたから「バベル」と呼ぶのは、バビロンが神に至る門ではなく、多くの捕らわれた人々が入り混じってただ混乱した都市だという皮肉と考えることができます。
  バビロンがなぜバビロン(神の門)という名前になったのかはわかりませんが、都市にあった高い塔と関係があったのかもしれません。
  古代の都市には、ジグラットと呼ばれる高い塔がありました。おそらく、神殿として建てられたと思われます。高い塔を建て、神に近づき、神を礼拝したのです。神に近づく場所という意味で、バビロン(神の門)と呼んだのかもしれません。
  聖書のバベルの塔が、ジグラットという高い塔の神殿であったとすると、この物語は、単なる高い塔を造るというだけではなく、神に近づく手段を獲得しようとしたということでもあります。そして、神は、人間に勝手に近づくことを禁じられたということです。
  人々の言葉を乱し、世界中に散って行ってしまったといいうことは、必ずしも、刑罰と考える必要はありません。旧約聖書には、神を見た者は死ぬと記されています。罪ある人間は、聖なる神に近づくことはできないのです。神が高い塔を建てることを阻んだのは、人間を守る意味もあったと考えるべきでしょう。
  神と人間との間には、超えることのできない断絶があります。天に届かせようと建てた塔でも届くことなく、超えようとしても超えることのできない断絶です。しかし、その断絶を超えて、神が私たちのところに来てくださいました。神の独り子であるキリストです。キリストは、私たち罪人が滅ぶことがないようにと、人間の姿になって来てくださいました。そればかりか、十字架におかかりになり、罪の償いをしてくださったのです。このキリストによって、私たちの罪は拭い去られ、神と共に生きるようにしてくださったのです。

「契約と契約のしるし」 2013年8月18日の礼拝

2013年09月28日 | 2013年度~
創世記9章1~17節

  神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。
  「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。
  また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。
  人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。
  あなたたちは産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ。」
  神はノアと彼の息子たちに言われた。
  「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」


  長い洪水の期間が終わり、ようやく乾いた大地の上に立ったノアとその家族に、神が語りかけておられます。
  1~7節の神の言葉は、次の四つに区分することができます。第一は「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という祝福。第二は「すべての生き物を管理せよ」との使命。第三は、肉食を許可。ただし、血を含んだまま食してはならないとの命令もあります。第四は、殺人の禁止です。第一と第二は、天地創造の時と同じ内容となっており、第三と第四は新しく与えられた内容です。
  9~11節で、神はノアや息子たちと契約を結び、12~17節で、契約のしるしをお示しになりました。
ここで「契約」という言葉が使われていますが、むしろ、約束というべきでしょう。ここには人間が守るべき戒めが告げられていません。ただ一方的に、神が「~しない」と約束されているだけだからです。
  「洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」は、神の決意であり、約束です。それをノアと息子たちに語られたのです。
  何故、神はこのような約束をなさったのでしょうか。それは、ここで告げられた神の約束の言葉を、私たち人間が忘れてはならないからです。
  神はノアと息子たちにだけではなく、「後に続く子孫と、契約を立てる」とおっしゃいました。と言うことは、ノアとその家族だけではなく、すべての人間が、この神の約束を忘れてはならないということです。
  12~17節で、神は契約のしるしとして「雲の中にわたしの虹を置く」とおっしゃいました。このことからノアの契約(9~11節)を虹の契約と呼ぶこともあります。
  余談ですが、虹は旧約聖書の言葉ヒブル語で「弓」を意味する言葉です。空に架かる虹の形が弓に似ているからでしょう。英語でも虹はレインボーと言いますが、レイン(雨)とボー(弓)とから成っています。
  虹は、契約のしるしであって、契約そのものではありません。では、何故、このようなしるしが必要なのでしょうか。それは、神が、私たち人間に、「この約束を忘れてはならない」、「この約束を思い出せ」と配慮してくださっているからなのです。
  15~16節で、神が「契約に心を留める」、「永遠の契約に心を留める」とおっしゃっておられます。これは、神が「約束を忘れない」、また「思い出す」とおっしゃっておられるのです。そして、私たち人間も、「神はこの約束をお忘れになることはない」と、虹を見るたびに思い出すことが大切なのです。
  このように、契約のしるしは、神の約束を保証し、また、その約束を思い起こさせるのです。
  このことは、教会における洗礼や主の晩餐(聖餐式)にも当てはまります。
  洗礼の水は、神が私たちを救ってくださるしるしであって、救いそのものではありません。しかし、神の救いが確かなものであることを、しるしである洗礼を受けることによって、私たち自身が確信するのです。
  聖餐のパンとぶどう酒は、十字架のキリストを指し示し、「十字架のキリストによる罪の贖いを受けている」ことのしるしとなっています。パンとぶどう酒は、罪の贖いそのものではありませんが、パンとぶどう酒を受けることにより、私たちが十字架のキリストによって贖われ、救われていることを思い出し、確信するのです。
  神の恵みを指し示すしるしを受け、信仰を確かなものとしましょう。

「神の恵みの忍耐」 2013年8月11日の礼拝

2013年09月16日 | 2013年度~
創世記8章1~22節

  神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた。また、深淵の源と天の窓が閉じられたので、天からの雨は降りやみ、 水は地上からひいて行った。百五十日の後には水が減って、第七の月の十七日に箱舟はアララト山の上に止まった。水はますます減って第十の月になり、第十の月の一日には山々の頂が現れた。
  四十日たって、ノアは自分が造った箱舟の窓を開き、烏を放した。烏は飛び立ったが、地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりした。ノアは鳩を彼のもとから放して、地の面から水がひいたかどうかを確かめようとした。しかし、鳩は止まる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰って来た。水がまだ全地の面を覆っていたからである。ノアは手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のもとに戻した。
  更に七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した。鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。ノアは水が地上からひいたことを知った。彼は更に七日待って、鳩を放した。鳩はもはやノアのもとに帰って来なかった。
  ノアが六百一歳のとき、最初の月の一日に、地上の水は乾いた。ノアは箱舟の覆いを取り外して眺めた。見よ、地の面は乾いていた。第二の月の二十七日になると、地はすっかり乾いた。
  神はノアに仰せになった。
  「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。すべて肉なるもののうちからあなたのもとに来たすべての動物、鳥も家畜も地を這うものも一緒に連れ出し、地に群がり、地上で子を産み、増えるようにしなさい。」
  そこで、ノアは息子や妻や嫁と共に外へ出た。獣、這うもの、鳥、地に群がるもの、それぞれすべて箱舟から出た。
  ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。
  「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。
  地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも
  寒さも暑さも、夏も冬も
  昼も夜も、やむことはない。」


  創世記8章1節に「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた。」とあります。
  ヒブル語の「心に留める」には、「思い出す」という意味があり、同じ言葉が創世記19章29節にもあります。「ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された」。神が「心に留める」ことは、単にその人を思い出すだけではなく、その人のために、その人自身あるいは関係ある人を救うために行動されることです。
  水がひいてきたので、ノアは、箱舟から烏と鳩を放ちました。この時、オリーブの葉をくわえて帰ってきた鳩は、今では平和の象徴とされています。
  洪水が終わった後、神は「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」(創世記8:21)とおっしゃいました。
  洪水によっても、人間は正しい人間に生まれ変わりませんでした。それなのに、神は人間の罪を理由に被造物全体を呪うことをしないとおっしゃったのです。人間は、全被造物を管理するようにという責任を与えられていましたので、人間の罪の責任は全被造物に及びました。しかし、神は、もはや人間の罪の責任を他の被造物に向けることはしない、と宣言されたのです。
  神は、人間の罪の問題を諦めたのでしょうか。そうではありません。むしろ、神は人間の罪の解決のために忍耐することを、あらためて決意しておられるのです。
  神の忍耐について、使徒パウロは次のように語っています。[神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」(ローマ3:25-26)
  神は、忍耐の末、罪の故に人間を滅ぼすのではなく、救うためにキリストを遣わされ、罪の贖いとされたというのです。神が忍耐されるのは、人間を滅ぼすためではなく、救うためだったのです。私たちは、このような神の忍耐によって救われ、そして今も導かれているのです。

「神に従うノア」 2013年8月4日の礼拝

2013年09月08日 | 2013年度~
創世記 7章1~24節

  主はノアに言われた。
  「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている。あなたは清い動物をすべて七つがいずつ取り、また、清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい。空の鳥も七つがい取りなさい。全地の面に子孫が生き続けるように。七日の後、わたしは四十日四十夜地上に雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面からぬぐい去ることにした。」ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。
  ノアが六百歳のとき、洪水が地上に起こり、水が地の上にみなぎった。ノアは妻子や嫁たちと共に洪水を免れようと箱舟に入った。清い動物も清くない動物も、鳥も地を這うものもすべて、二つずつ箱舟のノアのもとに来た。それは神がノアに命じられたとおりに、雄と雌であった。
  七日が過ぎて、洪水が地上に起こった。ノアの生涯の第六百年、第二の月の十七日、この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた。雨が四十日四十夜地上に降り続いたが、まさにこの日、ノアも、息子のセム、ハム、ヤフェト、ノアの妻、この三人の息子の嫁たちも、箱舟に入った。彼らと共にそれぞれの獣、それぞれの家畜、それぞれの地を這うもの、それぞれの鳥、小鳥や翼のあるものすべて、命の霊をもつ肉なるものは、二つずつノアのもとに来て箱舟に入った。神が命じられたとおりに、すべて肉なるものの雄と雌とが来た。主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた。
  洪水は四十日間地上を覆った。水は次第に増して箱舟を押し上げ、箱舟は大地を離れて浮かんだ。水は勢力を増し、地の上に大いにみなぎり、箱舟は水の面を漂った。水はますます勢いを加えて地上にみなぎり、およそ天の下にある高い山はすべて覆われた。水は勢いを増して更にその上十五アンマに達し、山々を覆った。
  地上で動いていた肉なるものはすべて、鳥も家畜も獣も地に群がり這うものも人も、ことごとく息絶えた。乾いた地のすべてのもののうち、その鼻に命の息と霊のあるものはことごとく死んだ。地の面にいた生き物はすべて、人をはじめ、家畜、這うもの、空の鳥に至るまでぬぐい去られた。彼らは大地からぬぐい去られ、ノアと、彼と共に箱舟にいたものだけが残った。水は百五十日の間、地上で勢いを失わなかった。



  創世記6~9章は、一般に「ノアの洪水」とか「ノアの箱舟」と呼ばれています。この物語ではノアが主人公のように見えますが、実は、神を中心に話が展開しています。神がすべてを行い、すべてを導いておられるのです。ノアはそれに従っているにすぎません。
  神は、人間の罪に対して洪水を起こし、彼らを罰します。それと同時に、ノアとその家族を救いました。それらの出来事の中でも、神が指示を与え、ノアはそれに従ったのです。
  箱舟を造ること、その大きさがどれほどであるか、どんな動物をどれだけいれるのか、それらを指示したのは神でした。ノアと家族が船に乗った後、神が扉を閉じました。そして、神は洪水を終わらせ、水を引かせました。地がすっかり乾いた後、神がノアとその家族に命じられたので、彼らは外へ出たのです。
  洪水が始まる前から洪水が終わった時まで、神がノアに命令する言葉はありますが、ノアの言葉が出てきません。これは、ノアが神の言葉に従ったのは、神を信頼していたことを示しています。これは、とても重要なことです。
  ノアのように、神の刑罰がくだされ、神の恵みにより、危うく滅びから救出される話が、同じ創世記に出てきます。ソドムの町に住んでいたロトの話です。
  ソドムは、その罪があまりにも大きく、神の裁きにより滅ぼされようとしています。ロトとその家族を、天使が救出しようとしますが、ロトたちはぐずぐずとして、なかなか行動に移しません。また、遠くの山へ逃げるようにと言われても、近くの小さな町へ行かせてほしいと駄々をこねます。神の裁きにより、自分のいる町が滅ぼされようとしているのを知りながら、なお躊躇するのです。「ロトはためらっていた。」(創世記19章16節)、「ロトは言った。『主よ、できません。』」(創世記19章18節)、「ロトの妻は後ろを振り向いた」(創世記19章26節)は、ロトが神に従順だったとは言えないことを示しています。
  聖書は、ロトが救われた理由を次のように告げています。「ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された」(創世記19章29節)。アブラハムの執り成しにより、ロトは救出されたのです。
私たちは、神に従順でしょうか。ノアのような従順な人間とはとても言えないのではないでしょうか。ロトは、ノアと比べると、とても従順とは言えないでしょう。私たちも、ロトと同じように、従順とは言えないように思えます。
  ロトのため、アブラハムは神に執り成しをしました。ロトが救われたのは、そのためだったといっても良いでしょう。
  私たちににも、アブラハム以上に執り成しをしてくださる方がいます。私たちのため、十字架に掛かり、また復活してくださった主イエス・キリストです。主イエスは、父なる神の右に座し、私たちのために執り成しをしてくださっているのです。このキリストの故に、私たちは神の恵みを受け、救いを与えられているのです。

「神は後悔し、心を痛められた」 2013年7月28日の礼拝

2013年09月05日 | 2013年度~
創世記6章1~22節

  さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。
  当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。
  主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。
  「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」しかし、ノアは主の好意を得た。

  これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。ノアには三人の息子、セム、ハム、ヤフェトが生まれた。
  この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。神はノアに言われた。
  「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。
  あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい。
  次のようにしてそれを造りなさい。箱舟の長さを三百アンマ、幅を五十アンマ、高さを三十アンマにし、箱舟に明かり取りを造り、上から一アンマにして、それを仕上げなさい。箱舟の側面には戸口を造りなさい。また、一階と二階と三階を造りなさい。
  見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。
  わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。また、すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。それぞれの鳥、それぞれの家畜、それぞれの地を這うものが、二つずつあなたのところへ来て、生き延びるようにしなさい。更に、食べられる物はすべてあなたのところに集め、あなたと彼らの食糧としなさい。」
  ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。



  ノアの洪水と箱舟の物語は、聖書の中でも最も有名な物語のひとつです。しかし、洪水伝説は、聖書以外にも、古代世界でいろいろのところで伝わっていたことが、考古学の発掘調査で発見された粘土板などでわかっています。
  たとえば、イスラエルのメギドという古代都市の遺跡からも、メソポタミア地方(今のイラク)の洪水伝説の粘土板が発見されています。
  それらの洪水物語と聖書の洪水物語には類似点があり、なんらかの関連性があったと推測できます。しかし、聖書の洪水物語と古代の洪水伝説は、ただ似ているのではありません。聖書の洪水物語は、唯一神信仰に基づいていること、洪水の原因は人間の罪によること、難を逃れた人々は、自分の知恵や力によるのではなく、神の恵みによることなどが強調されていることが、大きな特徴です。
  今日の聖書の箇所に「神が後悔し、心を痛められた」とあります。神は全知全能であり、すべてをあらかじめご存じのはずです。その神が、後悔することなど考えられません。どういう事なのでしょうか。
  「後悔する」と訳されている言葉は、他のところで、「慰める」と訳されています。ですから、「神は慰める」と訳してもよいのですが、それでは意味が繋がらないので、「後悔する」となっているのです。
  創世記5章29節に「レメクは、『主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう』と言って、その子をノア(慰め)と名付けた。」とあります。ここでの「慰め」と同じ言葉です。また、「苦労」という言葉も出てきますが、6章6節の「神は心を痛めた」と同じ言葉で、「苦しめる」という意味です。
  神は人間の罪に対し、厳しい罰をくだします。しかし、機械的に、また、無感情にそれを行っておられるのではありません。神が人間を罰するとき、ご自分をも苦しめておられると、聖書は告げているのです。
  神は、預言者アモスを通して、次のようにおっしゃいました。「地上の全部族の中からわたしが選んだのは、お前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちを、すべての罪のゆえに罰する」(アモス3:2)。
  神は、ご自分がお選びになった者を愛されます。それ故に、罪を犯すその人の責任は、とても重いのです。神は愛するが故に、その罪を見過ごしにすることができず、愛する者を罰せられるのです。そして、愛する者を罰する神は、ご自身苦しんでおられるのです。「神は後悔し、心を痛められた」という言葉には、罪に対する神の怒りと、それでも私たち人間を愛する神の愛という、相反するように思える神の御心が示されているのです。同様のことは、人間の罪に対する神の審きと、私たち罪人を赦す神の愛の両方を、神の独り子である主イエス・キリストが十字架につけられた出来事に見ることができます。
  さて、8節に「ノアは神の恵みを得た」とあります。ノアが洪水による滅びを免れたのは、神の恵みによるのです。この所で、聖書は、ノアが義しい人であったので滅びを免れたとは言っていません。ノアは周囲の人々と比べると義しい人間であったでしょうが、聖書は、それを救われた理由にしてはいないのです。神の恵みによる救い。これが聖書全体を貫いて、私たちに告げられている救いなのです。