八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「救い主はどこに」  2017年12月17日の礼拝

2018年01月29日 | 2017年度
エレミヤ書23章5~6節(日本聖書協会「新共同訳」)

 見よ、このような日が来る、と主は言われる。
 わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。
 王は治め、栄え
 この国に正義と恵みの業を行う。
 彼の代にユダは救われ
 イスラエルは安らかに住む。
 彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。

マタイによる福音書2章1~2節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

  東から来た占星術の学者が「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と訪ねてきました。ヘロデ王は、幼子殺害を心に秘め、彼らにベツレヘムへ送り出します。ベツレヘムは偉大な王ダビデが生まれ育った町です。旧約聖書のミカ書5章1節にベツレヘムの名前が出ていることから、そこにメシアが現れると言い伝えられてきたのです。そして、主イエスは確かにベツレヘムでお生まれになりました。しかし、主イエスがお生まれになった後、ベツレヘムは聖書の舞台から退場し、二度とこの福音書に名前が出てきません。
  「占星術の学者」となっていますが、元の言語では「マゴイ(単数形はマゴス)」という言葉で、ラテン語や英語ではマギと訳されています。これはマジックの語源となりました。正体ははっきりとは分かりませんが、もともと特殊な能力を持っていた人々を指していたとされます。聖書では星を見てやってきたということから占星術の学者と翻訳されているわけです。後にはこの占星術の学者についていろいろな伝説が生じました。3人という数は聖書にありませんが、彼らが黄金、乳香、没薬の三種の贈り物を持ってきたことから三人であったとされてきました。また、学者というだけでなく、賢者であるとか魔術師であるとかさらに後は王であるとされました。またそれぞれ名前が付けられ、三つの人種を代表するとか青年、壮年、老年の三つの世代を代表する等といった伝説が生まれました。しかし、伝説についてはこれくらいにしておきましょう。
  マタイ福音書が主イエスの降誕の出来事と十字架と復活の出来事とを関連づけていることに注目しておきましょう。
  1章の「神は我々と共におられる」という言葉と28章の「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」の言葉が関連しています。これは、マタイ福音書が意図的にこのような配置にしたと考えて良いでしょう。そして、「ユダヤ人の王」という言葉は2章と27章に出てきます。「ユダヤ人の王はどこに」という言葉に対して、「ユダヤ人の王は十字架の上に」と、聖書を読む私たちを導いているのです。そしてさらに、主イエスが葬られた墓に行った女性たちに、「主イエスはガリラヤに」と天使が告げ、その言葉通り、弟子たちはガリラヤで復活された主イエスに会いました。その弟子たちを福音宣教のために全世界へ派遣し、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と宣言されたのです。この宣言の通り、主イエスは今も私たちと共にいてくださり、祝福してくださっています。そして、全ての人々を救いは実現しているとのメッセージを私たちに委ねてくださっているのです。


「神は我々と共にいる」  2017年12月3日の礼拝

2018年01月22日 | 2017年度
ヨシュア記1章5~9節(日本聖書協会「新共同訳」)

  一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」

マタイによる福音書1章18~23節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
 その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。


  マタイ福音書とルカ福音書は、天使がヨセフとマリアに現れて、主イエスの誕生を告げたと記されています。しかし、この二つの福音書は全く同じことを記しているのではありません。マリアに天使が現れたと記しているのはルカ福音書ですが、マタイ福音書はヨセフに天使が現れたと記しています。マリアに天使が現れたという物語はとても有名であり、中世のヨーロッパでは、これを題材にした「受胎告知」と呼ばれる絵が多くあります。
  マタイ福音書はルカ福音書と比べるとそれほど有名ではありませんし、これを題材とした絵も多くはないようです。しかし、天使がヨセフに現れてマリアの妊娠は、神の力によるものであり、全ての人々を救うためのご計画であると告げています。これもヨセフへの「受胎告知」と言えるでしょう。
  天使がヨセフに伝えたメッセージは、今申し上げたように、マリアの妊娠は神の力によるということと、それは全ての人々を救うためのご計画であるので生まれてくる子供にイエスという名前を付けなさいということでした。
  イエスという名前は「ヤハウェは救い」という意味があり、旧約のヨシュアと同じ名前です。70人訳ギリシア語旧約聖書でもヨシュアはイエースウス、すなわちイエスとなっています。このイエスという名前に神のご計画、全ての人々を救うという決意が示されているというのです。
  マタイ福音書にはそれ以上の説明はありませんが、ユダヤ人にとってイエス(ヨシュア)という名前を聞くと真っ先に思い起こすのはヨシュア記のヨシュアであり、彼の働きでしょう。彼はモーセの後継者であり、イスラエルの民を約束の地へ導き入れた人物です。おそらくマタイ福音書の著者も同じことを思い描いていたであろうと思います。
  マタイ福音書1章22~23節に、インマヌエルの預言が実現したと記しています。インマヌエルはイザヤ書からの引用ですが、その言葉が意味するのは、神が我々と共にいるということです。ヨシュア記1章にも神がヨシュアに対する「私はあなたと共にいる」という言葉が繰り返されています。マタイ福音書はこの言葉の重要性を強調しているのです。神は独り子なるイエスと共にいるだけでなく、全ての人々を救おうとしてその人々と共にいるということを伝えようとしているのです。弟子たちを世界各地に送り出す時に、主イエスご自身が「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」とおっしゃいました。マタイ福音書が、預言の成就を強調するのは、全ての人々を救う神の計画の時が、今、到来したと告げるためなのです。


「私たちを恵もうとする神の意志」  2017年11月26日の礼拝

2018年01月15日 | 2017年度
申命記8章11~18節(日本聖書協会「新共同訳」)

  わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい。あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。

エフェソの信徒への手紙2章4~9節(日本聖書協会「新共同訳」)

  しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。

  「神の愛」ということを説明するのに「神の意志」と言った人があるそうです。その人の真意は必ずしも明らかではありませんが、聖書を読んでいる内に、何となく分かってきたように思えます。私たちが思い描いている「愛」は、人情とか情愛というような感情的なイメージがあるのではないでしょうか。その時の気分で、愛したり、愛さなかったりというような気まぐれな愛とか、プラトンが説明する「価値あるものを追い求める愛」であったりします。しかし、聖書を通して示される神の愛はそうではありません。一見、激しい感情に左右されているように見える神の愛ですが、それは、不誠実な人間に対して、どこまでも愛を貫く姿であり、全人類を救うという計画をなんとしてでも成し遂げようとする堅い決意があらわれています。
  出エジプト記から民数記まではエジプト脱出とそれから40年の長きにわたって荒野で生活したことが記されています。その間の出来事を簡単に言います。まず、イスラエルの人々はシナイ山で十戒を受け、神と契約を結んで神の民となりました。しかし、その直後から神に背き続け、約束の地を目前にしながら、そこへ入っていくことを拒みその結果、40年間荒野で生活することになりました。その長い年月の間、たびたび神の民は神に背き続けました。神は彼らを罰しながらも、水や食料を与え、襲いかかってくる敵から守り続けられたのです。
  申命記は、40年の荒野の生活を終え、約束の地に入ろうとしている神の民に、モーセが荒野での生活を思い起こさせながら、最後の警告をしている書物です。その中で、これから入っていくところは豊かな土地であるが、それを自分たちの手柄のように考えてはならないし、そこでの生活で多くを収穫があっても自分たちの努力だと考えてはならないと言います。全ては神の恵みであり、神が神の民の先祖に誓われたことに基づいていることを決して忘れてはならないと警告しているのです。8章は、特にそのことを強調しています。
  背き続ける神の民を、神は忍耐し、彼らに恵みを与え、導いて行かれます。そこに、彼らを何とか救おうとする神の愛と強い意志を見ることが出来ます。聖書は、「神が誓われた故に」、「彼らとの契約の故に」という言葉を繰り返し用いています。冷たく響くかも知れませんが、神の愛は決して気まぐれではないということを示しています。それだけではなく、繰り返し神に背いている人々を見捨てることはありません。エゼキエル書18章で、神は悪人の死を喜ばず、神に立ち帰って生きることを願っていると記されています。「私は誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」とあるとおりです。
  主イエス・キリストの十字架に示された神の愛に、私たちは救われました。罪人である私たちに示された、神の忍耐と寛容がここにあります。そして何よりも、どれほど罪深くあろうとも私たちを救おうとする神の決意と愛があります。


「洗礼者ヨハネの死」  2017年11月19日の礼拝

2018年01月08日 | 2017年度
エレミヤ書26章17~19節(日本聖書協会「新共同訳」)

  この地の長老が数人立ち上がり、民の全会衆に向かって言った。「モレシェトの人ミカはユダの王ヒゼキヤの時代に、ユダのすべての民に預言して言った。
 『万軍の主はこう言われる。
 シオンは耕されて畑となり
 エルサレムは石塚に変わり
 神殿の山は木の生い茂る丘となる』と。
  ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人々は、彼を殺したであろうか。主を畏れ、その恵みを祈り求めたので、主は彼らに告げた災いを思い直されたではないか。我々は自分の上に大きな災いをもたらそうとしている。」

マタイによる福音書14章1~12節(日本聖書協会「新共同訳」)

  そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、家来たちにこう言った。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者と思っていたからである。ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。それで彼は娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した。

  洗礼者ヨハネは、四つの福音書全てに登場しています。彼は主イエスの弟子ではありませんでしたが、どの福音書にとっても重要な人物と考えられていたからです。しかし、強調するところがそれぞれ違っています。たとえば、ヨハネ福音書には最も大きな違いがあります。洗礼者ヨハネが主イエスを見かけた時「見よ、神の小羊だ」と言い、それを聞いたヨハネの弟子たちが主イエスに従っていくようになったと記されています。このヨハネの様子から、中世の画家たちは、ヨハネが人差し指で主イエスを指し示すように描きました。ルカ福音書は、ヨハネの誕生のいきさつを記し、マルコが記すヨハネは主イエスに洗礼を授けたことと、ヨハネの死の様子が記されています。今日のマタイ福音書もヨハネの死の様子を簡潔に記していますが、マルコが最も詳しく記しています。マタイ福音書が描くヨハネは、主イエスの先駆者であり、マラキ書に記されているエリヤの使命を担っているということです。それはどの福音書よりも強調されていると言えます。また、マタイ14章12節に、ヨハネの弟子たちがヨハネの遺体を引き取って葬り、主イエスに報告したとあります。報告のことは、マルコにはありません。マタイは主イエスとヨハネとのつながりを強調しようとしたのでしょう。
  マタイ福音書は、物語の部分と主イエスの教えの部分がはっきり分けられ、交互に配置されています。13章57節~17章27節は、第4の物語の部分になります。この部分の物語の特徴は、主イエスの神の独り子としての栄光が徐々に現され、弟子たちの信仰告白、山上で神の栄光に輝く姿に変わられ、物語のクライマックスとなります。山上の変貌の後、エリヤについての弟子の質問に答える形で、洗礼者ヨハネのことが語られます。「エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」(17章12節)そして、マタイ福音書は「そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。」(13節)と説明します。この部分(12節後半~13節)は他の福音書にありません。マタイが洗礼者ヨハネについて、特にこの福音書を読む読者に訴えたかったことが記されているのです。
  マタイ福音書の第4の物語の部分の前の部分と後ろの部分とで洗礼者ヨハネの出来事とその使命について記されているのです。すなわち、洗礼者ヨハネは主イエスの伝道の時の先駆けであっただけでなく、主イエスの死についても先駆けであったことを伝えようとしているのです。
  14章1~12節は、1~2節が主イエスの評判について、3~12節がその評判を聞いた領主ヘロデが自分が殺した洗礼者ヨハネを思いだしたという構成になっています。主イエスの評判は、16章13節以下のペトロの信仰告白の導入になっていきます。
  マタイ福音書において大きく取り上げられているヨハネですが、しかしマタイの意図は、ヨハネが指し示した主イエスを福音書の読者に語ることにあり、その意味で、この福音書も洗礼者ヨハネと同じ使命を持っているのです。

「故郷の人々の不信仰」  2017年11月5日の礼拝

2018年01月01日 | 2017年度
イザヤ書6章9~10節(日本聖書協会「新共同訳」)

 主は言われた。
 「行け、この民に言うがよい
 よく聞け、しかし理解するな
 よく見よ、しかし悟るな、と。
 この民の心をかたくなにし
 耳を鈍く、目を暗くせよ。
 目で見ることなく、耳で聞くことなく
 その心で理解することなく
 悔い改めていやされることのないために。」


マタイによる福音書13章53~58節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。


  マタイ福音書4章1~11節に、主イエスがサタンから誘惑を受けた事が記されています。「神の子なら石をパンに変えてみろ」、「神の子なら高いところから飛び降りてみろ」などという誘惑です。これは神の子であることを証明できるかどうかということが目的ではなく、伝道するには、人々が満足するように食料を与え、奇跡を行う事が有効だと誘惑しているのです。それが人々の求める救い主だというのです。その誘惑を主イエスは退けられました。奇跡は人々の興味を集めることが出来るかも知れませんが、真実に人々を救うことにはならないからです。人々を救うには、神の独り子がすべての人間の罪の贖いとして十字架にかかる以外にはありません。これが神の御心であり、また神の独り子としての主イエスの決意でした。
  今日の聖書に出てくるナザレの人々の反応は、奇跡は必ずしも人々を救いへと導くとは限らないという実例です。彼らは主イエスが奇跡を行っていたことを知っていました。また、主イエスから直接教えを聞いたのです。しかも、彼らはそのすばらしさを認めているのです。しかし、信仰には至りませんでした。その事実をマタイ福音書が告げているのです。彼らと同じように奇跡を見、教えを聞きながら信仰に至らない人々が多くいることを、この福音書は語っています。もちろん、そういう人々ばかりではありませんが、マタイ福音書は人々の不信仰を繰り返し語っているのです。それほどに人間の罪は深く重いということを告げているのです。この罪の問題が解決されなければ、主イエスの力強い奇跡、教えも、彼らには届かないのです。
  マタイ11章20節以下で、主イエスが不信仰の町々を責められたことが記されています。また、12章22節以下で、主イエスが奇跡を起こしたのを見た人々の中に、奇跡は神の力によるのではなく悪霊の頭の力によると非難した人々がいたことを記しています。ナザレの人々は主イエスを非難したわけではありませんけれども、しかし、不信仰であったことに違いはありません。
  主イエスはサタンの誘いに乗って奇跡を行ったわけではありません。人々の苦しみを見かねて病を癒し、パンを与える奇跡をなさったことがあります。表面的にはサタンの誘惑に乗っているように見えます。しかし、人々の関心を集めたり、神の子であることを証明しようとしたのではありません。マタイ福音書は、サタンの主張が見当はずれで、神の子としての真の働きは、十字架にあることを訴えているのです。
  マタイ福音書では、ナザレの人々の不信仰は、天の国のたとえが記された後に配置されています。13章44~46節に、畑に隠されている宝を見つけた人、高価な真珠を一つ見つけた人が、自分の全財産を売り払ってでもその宝を獲得しようとすると記されています。ナザレの人々は、このたとえに登場する人々と真逆なのです。目の前に掛け替えのない宝があることを認めていながら、それを獲得しようとしない人々の様子、救い主の到来に対して傍観者に留まっている人々の様子を記し、この福音書を読んでいる私たちに、あなたはどうなのか?と、問うているのです。傍観者ではなく、到来した救い主のもとに来なさい。あなたが獲得すべき真の宝、救いがここにあると訴えているのです。