出エジプト記34章6~7節(日本聖書協会「新共同訳」)
主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」
マタイによる福音書21章33~46節(日本聖書協会「新共同訳」)
「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
『家を建てる者の捨てた石、
これが隅の親石となった。
これは、主がなさったことで、
わたしたちの目には不思議に見える。』
だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。
主イエスが譬えを語られました。ぶどう園の主人が、そのぶどう園を農夫たちに貸したという話です。
収穫の時が来て、ぶどう園の主人は収穫を受け取るために僕たちを遣わします。ところが、農夫たちは、収穫物を差し出すどころか、受け取りに来た僕たちを痛めつけ、また他の僕を殺してしまうという非道な行為を繰り返したのです。この農夫たちの非道な行為も、私たちには考えられないようなことですが、僕たちがそのような目にあわされたにもかかわらず、その後も主人が僕たちを何度も送り続けた事も常識的には考えられないことです。
このようなあり得ない話ですが、旧約聖書の知識があると、主イエスの譬えは、イスラエルの人々と彼らに預言者を遣わされた神との関係を表したものであることに気がつきます。
旧約聖書の列王記上・下には、罪を犯し続けるイスラエルに対して神が何度も預言者を遣わされたことが記されており、多くの預言者が迫害され、殺された出来事が記されています。
しかし、主イエスの譬えには、主人の僕たち以外に主人の息子が登場し、彼もまた農夫たちに殺されています。これは旧約聖書の記述には合いません。新約聖書に親しむ私たちは、ここに登場する主人の息子が主イエスご自身を指していることにすぐ気がつきます。しかし、この譬えを聞いていた祭司長たちやファリサイ派の人々は、そのことを理解していません。
主イエスは、その祭司長たちやファリサイ派の人々に尋ねます。「ぶどう園の人は、この農夫たちをどうするだろうか」と。彼らは答えます。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納める他の農夫たちに貸すに違いない」と。彼らの答えは、ごく常識的であり、誰でも同じように答えるのではないでしょうか。当然、神も同じように罪人たちを厳しく罰するはず。これが主イエスの譬えから導き出される答えです。
しかし、主イエスは祭司長たちや長老たちの言葉に対して、その通りだとは答えていません。旧約の時代、多くの預言者たちが迫害されました。その罪を厳しく咎めましたが、その後も預言者を送り出し続けられたのです。神は、忍耐し続け、イスラエルが悔い改めることをまっておられましたが、ついに神はイスラエルの人々を罰し、人々をパレスチナから追い出されました。それがバビロン捕囚です。
神は、イスラエルが滅ぶことを望まず、彼らを再びパレスチナへ帰らせました。何世紀も経ち、神の独り子が使われました。主イエスが譬えで語られたように、イスラエルは主イエスを十字架にかけて殺します。主イエスが引用された「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える。」は、詩編の言葉で、主イエスが宗教の専門家から捨てられるが、それが建物の土台のような重要な存在になると告げ、ご自身を指しておられるのです。
ローマ書3章26節にあるように、「神は人間の罪を忍耐してこられたが、今この時に義を示され、イエスを信じる者を義となさるのである」ためであったのです。神の忍耐と救い主を送ってくださったを感謝しましょう。
主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」
マタイによる福音書21章33~46節(日本聖書協会「新共同訳」)
「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
『家を建てる者の捨てた石、
これが隅の親石となった。
これは、主がなさったことで、
わたしたちの目には不思議に見える。』
だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。
主イエスが譬えを語られました。ぶどう園の主人が、そのぶどう園を農夫たちに貸したという話です。
収穫の時が来て、ぶどう園の主人は収穫を受け取るために僕たちを遣わします。ところが、農夫たちは、収穫物を差し出すどころか、受け取りに来た僕たちを痛めつけ、また他の僕を殺してしまうという非道な行為を繰り返したのです。この農夫たちの非道な行為も、私たちには考えられないようなことですが、僕たちがそのような目にあわされたにもかかわらず、その後も主人が僕たちを何度も送り続けた事も常識的には考えられないことです。
このようなあり得ない話ですが、旧約聖書の知識があると、主イエスの譬えは、イスラエルの人々と彼らに預言者を遣わされた神との関係を表したものであることに気がつきます。
旧約聖書の列王記上・下には、罪を犯し続けるイスラエルに対して神が何度も預言者を遣わされたことが記されており、多くの預言者が迫害され、殺された出来事が記されています。
しかし、主イエスの譬えには、主人の僕たち以外に主人の息子が登場し、彼もまた農夫たちに殺されています。これは旧約聖書の記述には合いません。新約聖書に親しむ私たちは、ここに登場する主人の息子が主イエスご自身を指していることにすぐ気がつきます。しかし、この譬えを聞いていた祭司長たちやファリサイ派の人々は、そのことを理解していません。
主イエスは、その祭司長たちやファリサイ派の人々に尋ねます。「ぶどう園の人は、この農夫たちをどうするだろうか」と。彼らは答えます。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納める他の農夫たちに貸すに違いない」と。彼らの答えは、ごく常識的であり、誰でも同じように答えるのではないでしょうか。当然、神も同じように罪人たちを厳しく罰するはず。これが主イエスの譬えから導き出される答えです。
しかし、主イエスは祭司長たちや長老たちの言葉に対して、その通りだとは答えていません。旧約の時代、多くの預言者たちが迫害されました。その罪を厳しく咎めましたが、その後も預言者を送り出し続けられたのです。神は、忍耐し続け、イスラエルが悔い改めることをまっておられましたが、ついに神はイスラエルの人々を罰し、人々をパレスチナから追い出されました。それがバビロン捕囚です。
神は、イスラエルが滅ぶことを望まず、彼らを再びパレスチナへ帰らせました。何世紀も経ち、神の独り子が使われました。主イエスが譬えで語られたように、イスラエルは主イエスを十字架にかけて殺します。主イエスが引用された「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える。」は、詩編の言葉で、主イエスが宗教の専門家から捨てられるが、それが建物の土台のような重要な存在になると告げ、ご自身を指しておられるのです。
ローマ書3章26節にあるように、「神は人間の罪を忍耐してこられたが、今この時に義を示され、イエスを信じる者を義となさるのである」ためであったのです。神の忍耐と救い主を送ってくださったを感謝しましょう。