八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「神の愛と永遠の命」 2023年11月5日の礼拝

2023年11月27日 | 2023年度
創世記3章1~15節(日本聖書協会「新共同訳」)

  主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。
  「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
  女は蛇に答えた。
  「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
  蛇は女に言った。
  「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
  女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
  その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。
  「どこにいるのか。」
  彼は答えた。
  「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
  神は言われた。
  「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
  アダムは答えた。
  「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
  主なる神は女に向かって言われた。
  「何ということをしたのか。」
  女は答えた。
  「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
  主なる神は、蛇に向かって言われた。
  「このようなことをしたお前は
 あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で
 呪われるものとなった。
 お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
 わたしは敵意を置く。
 彼はお前の頭を砕き
 お前は彼のかかとを砕く。」


ヨハネによる福音書3章16~21節(日本聖書協会「新共同訳」)

  神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」


  旧約聖書の始まりである創世記は、神が天地のすべてのものを創造したことから始めています。その記述にはいくつか特徴があります。第一に、すべては神の御心通りに造られたことで、神の意志に反して勝手にできたり、神の意志にもかかわらずできなかったというものは何一つないということです。第二に、造られた全ての物は良いものであったということです。その中には人間も含まれており、神と共に永遠に生きる存在とされていました。
  この天地創造の記述に続いて記されているのが今日の3章で、そこには人間の罪について記され、その罪によって人間は死ぬ存在になり、その生涯は苦しみと悲しみが満ちたものになってしまったとされています。聖書はこの人間の罪と悲惨さを語ると同時に、それに対する神の働きかけを語っています。
  神は完全に正しい方ですから、人間の罪をそのままにしておくことはしません。聖書はまず、罪を犯す人間を罰する方としての神を示します。しかし、それだけではなく、人間を罪から救うために働く神の姿をも示しています。
  罪を犯す人間を罰することには、その罪の重さと罪に対する神の怒りとが示されています。また、その罪から人間を救おうとする神の愛の姿が示されています。罪を犯す人間への神の怒りと愛は、相反するように思えますが、何としてでも人間を救おうとする神の固い決意を見るべきでしょう。罪に対する神の怒りは、人間を憎んでいるからではなく、むしろ、罪に捕われている人間を救いたいという神の愛の現れなのです。旧約聖書は、神の愛が語られてはいますが、それはベールをとおしてかろうじて見ることができるような状態でした。
  しかし、かねてより完全に人間を罪から救おうとしていた計画を、神はついに実行に移したのです。それがヨハネ福音書3章16~17節に記されています。
  16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とあります。「世」というのは神が造られた天地の全ての物を指していますが、特にその中に生きる人間、罪人である私たちを指しています。ですから、16節は「神は罪人である私たちを愛された」と言い換えても良いでしょう。その神の愛について「その独り子をお与えになったほどに」と言われています。イエス・キリストが私たち与えられたということです。第一に考えられることは、キリストが私たちの住む世界に来られたということで、クリスマスの出来事を指しています。第二に、そのキリストが十字架にかけられたということです。それを、福音書は「人の子(キリスト)は罪人たちの手に引き渡される」(マタイ26:45他)と記しています。
  イエス・キリストが十字架にかかられたのは、そのキリストによって、私たちが罪から贖われるためで、これが罪から私たちを救うために神がご計画してこられたことだったのです。十字架は神の怒りをあらわしています。それと同時に、私たちに対する愛が示されてもいるのです。ですから、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」というのです。しかも「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(16~17節)というのです。キリストに神の愛があらわされ、私たちに与えられる永遠の命が保証されているのです。


「信仰の創始者また完成者」 2023年10月22日の礼拝

2023年11月21日 | 2023年度
士師記7章1~8節(日本聖書協会「新共同訳」)

  エルバアル、つまりギデオンと彼の率いるすべての民は朝早く起き、エン・ハロドのほとりに陣を敷いた。ミディアンの陣営はその北側、平野にあるモレの丘のふもとにあった。主はギデオンに言われた。「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と。」こうして民の中から二万二千人が帰り、一万人が残った。主はギデオンに言われた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。あなたと共に行くべきだとわたしが告げる者はあなたと共に行き、あなたと共に行くべきではないと告げる者は行かせてはならない。」彼は民を連れて水辺に下った。主はギデオンに言われた。「犬のように舌で水をなめる者、すなわち膝をついてかがんで水を飲む者はすべて別にしなさい。」水を手にすくってすすった者の数は三百人であった。他の民は皆膝をついてかがんで水を飲んだ。主はギデオンに言われた。「手から水をすすった三百人をもって、わたしはあなたたちを救い、ミディアン人をあなたの手に渡そう。他の民はそれぞれ自分の所に帰しなさい。」
  その民の糧食と角笛は三百人が受け取った。彼はすべてのイスラエル人をそれぞれ自分の天幕に帰らせたが、その三百人だけは引き留めておいた。ミディアン人の陣営は下に広がる平野にあった。


ヘブライ人への手紙12章1~2節(日本聖書協会「新共同訳」)

  こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。


  ヘブライ人への手紙11章に旧約聖書に登場する人々が紹介されています。その人々についてヘブライ人への手紙は「(彼らは)この信仰のゆえに神に認められました」(11:2)、「この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした」(11:39)と言います。しかし、ヘブライ人への手紙が最も言いたかったのは次のことです。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表した。・・・彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。・・・神は彼らのために都を準備されていたのです」(11:13~16)。
  旧約聖書に登場する信仰者を取り上げるのは、今信仰生活をしている私たちが目先のことに目を奪われてはならず、やがて私たちが迎えられる神の都を目指し、一歩一歩歩んでいることをしっかり心に刻むようにと教えているのです。
  12章1~2節は、そのような歩みを競争にたとえています。信仰生活を競争にたとえることはⅠコリント書やフィリピ書にも見ることができますが、Ⅰコリント書の場合は競争そのものよりは走りぬくための訓練に焦点が合わせられています。ヘブライ人への手紙の場合は、「競走」という言葉を用いていますが、共に走る他の人々と競っているということではなく、ゴールを目指して走る姿を思い浮かべさせようとしています。
  このヘブライ人への手紙では、走りぬくことが最重要だと言っています。そして、走りぬくことを「すべての重荷やからみつく罪をかなぐり捨ててる」(12:1)ことが大切で、そのために忍耐強くなければならないと告げます。重荷や罪をかなぐり捨てることについては別の個所で語られますが、今、ヘブライ人への手紙はゴールを目指して走っているというたとえを用い、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」と表現しています。主イエスがゴールで待っておられるということです。そのゴールをしっかり見据え、目をそらしてはならないという警告を心に刻んでおくことが大切です。
  ソドムの町が滅ぼされる時、町を脱出するロトとその家族に天使たちが「後ろを振り返ってはならない」と警告をし、後ろを振り返って塩の柱になったロトの妻(創世記19章)や主イエスによって湖の上を歩いていたペトロが、強い風を見て目を主イエスからそらして沈みかけたことを思い起こすべきでしょう。
  ヘブライ人への手紙は、主イエスを信仰の創始者と言っています。私たちの信仰は主イエスによって始まるという意味もありますが、もともとの言葉には「導き手」という意味もあり、使徒言行録3:15や5:31では実際にそのように翻訳されています。つまり、主イエスはゴールで待っておられるだけではなく、伴走者として私たちを導いてもおられるということです。この伴走者に守られ、力を与えられて神の都というゴールに向かっているのです。私たちは、だれかと競い合うためではなく、共に神の都にゴールするために走りぬくのです。


「キリストの日に備える」 2023年10月15日の礼拝

2023年11月16日 | 2023年度
創世記6章5~8節(日本聖書協会「新共同訳」)

  主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。
  「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」しかし、ノアは主の好意を得た。


フィリピの信徒への手紙1章3~11節(日本聖書協会「新共同訳」)

  わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。


  旧約聖書には「主の日」という言葉があり、その時神の裁きが降り、罪深い人は滅びるとされていました。この「主の日」は、「突然その時が来る」と言われ、また他方、「神はその日が来る前にエリヤを使いとして遣わす」と言われていました。
  この「主の日」は、新約聖書では、「キリストの日」と言われるようになりました。旧約で言われていた人間の罪を罰するための「主の日」はイエス・キリストが罪人を罪から救うために現れる日となったのです。罪のゆえに、人を罰し、滅ぼすのではなく、罪に対する怒りを神の独り子に向け、それにより、キリストを信じるすべての人に怒りを向けることをせず、むしろその罪を赦し、永遠の命を与える新しい記念の時となったのです。
  新約聖書において、「キリストの日」はさらに新しい意味を持つようになりました。キリストの再臨の時です。キリストの再臨については今年の8月13日の礼拝で「神の独り子を待ち望む」という題で説教しました。内容的にはその時の話とよく似ています。
  今日の説教では、キリストの再臨を待ち望むという点では同じですが、今回は特にキリストの再臨に備えるという点を強調しています。
  キリストの再臨に備えるということでは、マタイ福音書に記されている主イエスがなさった「十人のおとめ」が有名です。
  このたとえでは、キリストの再臨が十人のおとめが花婿を迎える様子にたとえられています。やって来るはずの花婿を十人のおとめがともしびを用意して待っているという話です。そのうちの五人は予備の油を用意していなかったので、花婿が到着したときには火が消えそうになり、油を買いに出ている間に花婿が到着し、そのおとめたちは中に入れてもらえませんでした。この話の終わりで、主イエスは「目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と言いました。厳密に言いますと、十人のおとめは全員寝てしまっていました。ただ、その中で予備の油を用意していたかいなかったかの違いなのです。このたとえで、主イエスが一番言いたかったのは、「何時その時が来ても良いように、備えておきなさい」ということです。
  予期しない時に、突然その日はやって来る。ルカ福音書にも「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった」(17:26~27)という主イエスの警告が記されています。
  話をフィリピの教会に移します。フィリピの教会はパウロに協力的で、パウロは援助を受けるなど、いろいろ助けられました。ですから、パウロはこの教会の人々に感謝しているのですが、問題がなかったわけではありません。割礼を強要する人々が教会を惑わしていたようです。パウロはそのような人々の教えを退けるように勧告し、キリストの日に備えて固く信仰を保つようにと諭しています。
  キリストの日に備えるというのは、いつその日が来るのかと心配するのではなく、いつ来ても良いように、いつも備えておくことです。その意味では特別なことは必要なく、礼拝と祈りの生活がキリストの日を迎える備えなのです。


「パウロの執り成し」 2023年10月8日の礼拝

2023年11月13日 | 2023年度
レビ記25章39~46節(日本聖書協会「新共同訳」)

  もし同胞が貧しく、あなたに身売りしたならば、その人をあなたの奴隷として働かせてはならない。雇い人か滞在者として共に住まわせ、ヨベルの年まであなたのもとで働かせよ。その時が来れば、その人もその子供も、あなたのもとを離れて、家族のもとに帰り、先祖伝来の所有地の返却を受けることができる。エジプトの国からわたしが導き出した者は皆、わたしの奴隷である。彼らは奴隷として売られてはならない。あなたは彼らを過酷に踏みにじってはならない。あなたの神を畏れなさい。しかし、あなたの男女の奴隷が、周辺の国々から得た者である場合は、それを奴隷として買うことができる。あなたたちのもとに宿る滞在者の子供や、この国で彼らに生まれた家族を奴隷として買い、それを財産とすることもできる。彼らをあなたの息子の代まで財産として受け継がせ、永久に奴隷として働かせることもできる。しかし、あなたたちの同胞であるイスラエルの人々を、互いに過酷に踏みにじってはならない。

フィレモンへの手紙1~25節(日本聖書協会「新共同訳」)

  キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
  わたしは、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつもわたしの神に感謝しています。というのは、主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです。わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。
  それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。
  だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう。そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください。
  あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いています。わたしが言う以上のことさえもしてくれるでしょう。ついでに、わたしのため宿泊の用意を頼みます。あなたがたの祈りによって、そちらに行かせていただけるように希望しているからです。
  キリスト・イエスのゆえにわたしと共に捕らわれている、エパフラスがよろしくと言っています。わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。


  かつてフィレモンへの手紙は、エフェソ書、フィリピ書、コロサイ書と共に獄中書簡と呼ばれていました。パウロが牢に捕らえられている中でこれらの手紙を書いたと考えられていたからです。またフィレモンへの手紙が他のパウロの手紙と違うのは他の手紙が教会に宛てられたのに対し、フィレモンという個人に宛てられているということです。個人に宛てられたという意味ではテモテへの手紙やテトスへの手紙も同じと言えますが、テモテとテトスの場合は彼らがすでに教会の指導者になっているという設定になっているので、個人的な内容というより教会の指導者として教会をどう指導するべきかについてのアドバイスになっており、その意味ではこれらの手紙は教会に宛てられた手紙の場合と同じと言えます。
  フィレモンへの手紙は、直接教会に関わることが書かれているわけではありません。それにもかかわらず、今日まで新約聖書の一文書として位置付けられているのは、極めて珍しいと言えます。
  さて、そのようなフィレモンへの手紙ですが、内容はフィレモンの奴隷であるオネシモという人物についてです。フィレモンのところから何らかの理由で飛び出したオネシモをそちらに帰すので受け入れてほしいというものです。オネシモが飛び出した理由は分かりませんが、金銭のトラブルがあった可能性も見えます。もしそういうことがあったなら、パウロはその責任を自分が負うとまで言っています。パウロは、この手紙の中でオネシモのためにそこまで執り成しをする理由をはっきり示してはいません。ただオネシモのために執り成しをし、フィレモンに彼を受け入れてほしいと懇願するのです。
  パウロの気持ちとしては、奴隷であるオネシモを解放し自由にしてやりたいという思いがあったのかもしれませんが、フィレモンの承諾なしには何もしたくないと言います。当時の奴隷制の社会では当然のことかもしれません。オネシモはあくまでフィレモンの奴隷であり、彼の所有物とみなされています。当時のその常識に従ってパウロもオネシモの所有者であるフィレモンにその処遇を委ねているのです。そのうえで、パウロはフィレモンにオネシモのために執り成しをし、オネシモをキリストに結ばれて愛する兄弟となっている者として扱ってほしいと願っているのです。
  フィレモンへの手紙を、パウロの個人的な手紙だと言いましたが、それでも新約聖書の一文書として重んじられてきたのは、パウロの執り成しがキリストの執り成しを思い起こさせるからだと思います。
  すなわち、すべての人は罪の奴隷になっていましたが、キリストが十字架にかかり、そこで流されたキリストの血という代価によって罪から自由にされました。私たちの救いのためのキリストの贖罪であり、執り成しです。パウロをキリストと並ぶものとするのではありませんが、キリストの執り成しの象徴的な行為としてパウロの執り成しを見てきたのではないでしょうか。
  キリストは復活の後、天に昇り、父なる神の右に座しています。こうして、父なる神の権威を受けているのです。それと同時に、神の右に座してキリストは今も私たちのために執り成してくださっているのです。この執り成しがあるからこそ、私たちはキリストによる救いを確信することができるのです。



「人を分け隔てしてはならない」 2023年10月1日の礼拝

2023年11月11日 | 2023年度
申命記1章16~17節(日本聖書協会「新共同訳」)

  わたしはそのとき、あなたたちの裁判人に命じた。「同胞の間に立って言い分をよく聞き、同胞間の問題であれ、寄留者との間の問題であれ、正しく裁きなさい。裁判に当たって、偏り見ることがあってはならない。身分の上下を問わず、等しく事情を聞くべきである。人の顔色をうかがってはならない。裁判は神に属することだからである。事件があなたたちの手に負えない場合は、わたしのところに持って来なさい。わたしが聞くであろう。」

ヤコブの手紙2章1~9節(日本聖書協会「新共同訳」)

  わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。
  わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。



  「人を分け隔てする」と訳されたギリシア語は、もともとは「顔を見る」という意味で、申命記1章17節の「偏り見る」も、ヘブライ語という違いはありますが、同じ「顔を見る」から来ています。相手の顔を見て対応を変えるので、「人を分け隔てする」とか「偏り見る」の意味になったのでしょう。
  ヤコブの手紙2章1節以下は、教会の中で分け隔てしてはならないという戒めです。キリストに救われ、信仰による神の民とされた教会ですが、そのようなことが現実に起こっていたことを示しています。
  ここでは経済的に豊かな人々を責めているような言葉がありますが、一つの例として取り上げられているのであって、具体的に誰かを指して非難しているのではありません。そのことは2節の「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします」という言葉で明らかです。経済的に豊かな人と貧しい人を例に取り上げるのは、「人を分け隔てをしてはならない」ということを教えるのに分かりやすいからでしょう。そうすると、問題は経済的に豊かか貧しいかということだけではなく、権力の有る無し、社会的地位の高さなどあらゆることにおいて人を分け隔てしてはならないと言おうとしていることがわかります。
  ヤコブの手紙がこのように戒めるのは、お互い仲良く生活するためということもありますが、それ以上に、神が喜ぶように生きるためということです。8節に「隣人を自分のように愛しなさい」という旧約聖書の言葉が引用されています。この言葉は、「復讐してはならない。恨みを抱いてはならない」という言葉に続いて語られている言葉です。ですから、漠然とした状況の中で相手を愛しなさいと言われているのではなく、最も愛することのできない相手を愛しなさいという言葉なのです。目の前に恨みを抱き復讐したいと思う相手がいるわけです。「隣人を愛する」ことが、目の前にいる人がふだん仲良くしている相手か、それとも恨みや憎んでいる相手かで変わるというのではなく、どんな相手でも愛することが神の御心であるということなのです。
  それでは、神は私たちを公平に見ておられるのでしょうか。理屈を言えば、神はすべての人を公平に、平等に扱っているということはできるでしょう。しかし、現実はどうでしょうか。貧富の差があり、権力を持っている人と持っていない人があります。いろいろと不平等を感じることがあるのではないでしょうか。
  ある人が「すべての人は神に対して罪人という意味で、人は平等と言える。そして、神がそのすべての人を救うという意味ですべての人を平等に扱っておられる」と言ったそうです。それは、それ以外のことでは人は平等ではないということにならないでしょうか。それは不公平なのではないのでしょうか。富める人や貧しい人があり、他にも私たちには様々な立場の違いがあります。
  申命記15章に「この国に貧しい者がいなくなることはない」とあり、神がある人を富ませるのはその人を通して貧しい人を助けるためだとも言っています。神は富める人も貧しい人も神の恵みによって生きるようにされるというのです。立場の違いは確かにあります。しかし、神は機械的にすべての人を平等に扱うのではなく、すべての人にそれぞれ必要に応じて恵みを与えるというのです。神はこのようにして、すべての人を均一化するのではなく、一人一人に神が愛を注ぎ、人それぞれに恵みを与えてくださるのです。神が一人一人に愛を注いでくださっているのですから、神に救われ愛されているあなたは、目の前にいる一人一人を神と共に愛しなさいと教えているのです。人の顔を見て分け隔てするのではなく、神を仰ぎ、神の御心を行いなさいと教えているのです。