エゼキエル書13章20~23節(日本聖書協会「新共同訳」)
それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしは、お前たちが、人々の魂を鳥を捕らえるように捕らえるために、使っている呪術のひもに立ち向かい、それをお前たちの腕から引きちぎり、お前たちが鳥を捕らえるように捕らえた魂を解き放つ。また、わたしはお前たちの頭巾を引き裂き、わが民をお前たちの手から救い出す。二度と、彼らがお前たちの手に捕らえられることはない。そのときお前たちは、わたしが主であることを知るようになる。お前たちは、わたしが苦しめようとはしていないのに、神に従う者の心を偽りをもって苦しめ、神に逆らう者の手を強め、彼らが悪の道から立ち帰って、命を得ることができないようにしている。それゆえ、もはやお前たちがむなしい幻を見ることも占いをすることもなくなる。わたしは、お前たちの手からわが民を救い出す。そのときお前たちは、わたしが主であることを知るようになる。」
ヨハネによる福音書16章33節(日本聖書協会「新共同訳」)
これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
ヨハネによる福音書16章33節の最後に、「わたしは既に世に勝っている。」という主イエスの言葉があります。
「世」という言葉は、ヨハネ福音書の中で「世界」、「人々」という意味で使っており、時には「罪に満ちた世界」、「神に敵対する世界」という意味で使うこともあります。主イエスが世に勝っているとおっしゃっているのは、神に敵対する世界あるいはそれに属する人々に勝っているという意味です。
確かに、この世には苦しみや悲しみがあります。しかし、それらは初めからあったのではなく、人間の罪によって生じたと聖書は告げています。
創世記には、神が全てのものをお造りになった時、それらは良いものであったと記されています。人間も神のかたちに創造されたと記されています。神のかたちとは、神と人との関係が響き合う良い関係であったことを意味しています。
ところが、神の御言葉に従うことよりも自分の欲望に従ったことにより、神が造られたすべてのものが台無しにされ、人も神との響き合う関係を失ってしまったのです。ここから苦しみや悲しみそして、死が始まったのです。
この世で、私たちは苦難を経験します。しかし、それは、決して初めから神が計画しておられたことではなく、私たちの罪から始まったということを理解しておくべきでしょう。そして、また、神はこのような状況を放っておかれません。
神は人間が犯し続ける罪をずっと忍耐してこられました。しかし、神があらかじめ定めておられた時に、御子イエス・キリストをお遣わしくださり、私たちの罪の償いとして十字架におかけになりました。この罪の償いによって、私たちを罪とその悲惨とからお救い下さったのです。(ローマ3章25~26節)
主イエス・キリストの救いは、私たち人間の罪によって呪われたすべてのものが、再び良いものへ回復されることです。また、私たち人間も再び神のかたちに回復されることです。その事を一番ハッキリスト告げているのが、ヨハネの黙示録です。
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録21章1~4節)
神が良いものとしてお造りになった全ての物は、私たちの罪のために呪われてしまいましたが、世の終わりの時、神は全ての物を再び良い物へと造りかえてくださるのです。私たちも永遠の命を受けて、そこに住まわせられると約束されています。そこでは「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」と言われています。
約束されている永遠の命は、単に長く生きるということではありません。どれほど長く生きようとも、苦しみや悲しみが永遠に続くようなら、決して幸せとは言えません。苦しむことも悲しむこともなく、喜びに満ちた人生を生きてこそ、本当の幸せというものです。
フィリピの信徒への手紙3章21節やコリントの信徒への手紙二3章18節に、私たちがキリストの栄光の姿に変えられると記されています。神の独り子と同じ姿にと言われているのですから、それは神のかたちに変えられるということであり、天地創造の時の神のかたちを回復するということです。これは表面的な姿形ではなく、神との響き合う関係ということです。
先ほど、「世」という言葉は、ヨハネ福音書の中で「世界」、「人々」という意味で使っており、時には「罪に満ちた世界」、「神に敵対する世界」という意味で使うこともある。そして、私たちが経験する苦しみや悲しみが、私たちの罪から始まったと申し上げました。
キリストが世に対して勝利しておられるというのは、私たちの罪に対して勝利しておられるということです。そして、私たちが経験する苦しみや悲しみに対しても勝利しておられるということです。いつまでも苦しみや悲しみに捕らわれることはないということです。キリストと共に喜ぶ生活が約束されているのです。今すぐそれが完成するということではありませんが、完成へと既に歩み始めているのです。
主イエスは、「あなたがたには苦難がある。」と語り、「わたしは既に世に勝っている。」宣言されました。苦難という「今」と、既に世に勝っているという「今」が告げられているのです。
主イエスは、苦難がないとはおっしゃいません。苦難はあると、はっきりと認めているのです。聖書は「苦難はない」などと現実から目をそらすようなことを言いません。きわめて現実的です。しかし、苦難だけでなく、勝利のビジョンをも告げているのです。神の御業の完成の時、すなわち神と共に永遠に喜ぶ生活に向かって、既に歩み始めていると宣言されているのです。
さて、誰もが経験する苦難がありますが、キリスト者である故に経験する苦難もあります。主イエスは次のように弟子たちに語られています。
「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」(マタイ5章10~11節)
ここでも、迫害されると警告されていますが、同時に「幸いである」とも言われています。この幸いは、今日の御言葉の「わたしは既に世に勝っている」に関連しているのです。キリストが勝利されているからこそ、迫害を受けても幸いなのです。
苦難を受けている時にキリストの勝利を信じることは、神の摂理を信じることです。
神の摂理とは、神の今働く力と説明されます。摂理については、天地創造と一緒に教えられることが多いようです。神が天地の全てのものをお造りになり、それを保つ働きと説明されるのです。また、地上の生活で悩み苦しみにある時、神は私たちを放っておかれるのではなく、幸いへと変えてくださいます。神は、そのために今も働いてくださっているのです。それを説明するのが「神の摂理」ということです。
しかし、何故、神はすぐ悩み苦しみから救ってくださらないのだろうかと思うことがあるのではないでしょうか。
その事で思い起こしていただきたいのは、旧約聖書に記されているエジプト脱出の出来事です。エジプトで奴隷になっていたユダヤ人たちは、エジプトを脱出し、約束の地に入ろうとした時、その地に住む人々を恐れて「エジプトで奴隷であった方が良かった。エジプトへ帰ろう。」と言い出しました。それまで、食べ物がなくても水がなくても、神がそれを備えてくださいました。敵が襲ってきた時も、神が守ってくださいました。そのような経験を繰り返してきたにもかかわらず、約束の地を目の前にしながら、神を信頼できませんでした。そこで、40年間荒れ野で生活することを、神がお命じになったのです。これは、彼らを罰するということよりも、神を信頼するようになるための訓練でした。自分たちの力では生きていけなかった、神の守りと導きによって生き抜くことが出来たという経験をさせたのです。豊かな土地での40年ならば、自分の知恵と力で生きたと考えるに違いありません。しかし、食べ物も水もない、しかもいつ敵に襲われるか分からない荒れ野で生活し、神に守られ導かれたことをくり返し経験したのです。そして、ついに約束の地に入るという経験をしたのです。彼らは、こうして、自分の無力を経験し、神に守られたことを経験しました。この経験により神を信頼することを学び、身につけたのです。
私たちの人生も同じです。この世では苦難があります。しかし、神の知らないところで苦難があるのではありません。神の御手の中にあるのです。私たちが神を信頼するようになるための訓練として、神はこの世での苦難を用いておられるのです。
荒れ野で40年を過ごしたイスラエルの人々は、自分たちの真ん中にある会見の幕屋をいつも見ていました。昼は雲の柱、夜は火の柱が幕屋に立ち、それによって神が共におられることを確認し、生活していたのです。
私たちにとって日曜毎の礼拝こそ、神が共にいて下さることを確認する時です。この礼拝をくり返し行っていくことによってこそ、人生の苦難の中で、キリストの勝利を確信し、約束の神の国へと向かっていけるのです。
それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしは、お前たちが、人々の魂を鳥を捕らえるように捕らえるために、使っている呪術のひもに立ち向かい、それをお前たちの腕から引きちぎり、お前たちが鳥を捕らえるように捕らえた魂を解き放つ。また、わたしはお前たちの頭巾を引き裂き、わが民をお前たちの手から救い出す。二度と、彼らがお前たちの手に捕らえられることはない。そのときお前たちは、わたしが主であることを知るようになる。お前たちは、わたしが苦しめようとはしていないのに、神に従う者の心を偽りをもって苦しめ、神に逆らう者の手を強め、彼らが悪の道から立ち帰って、命を得ることができないようにしている。それゆえ、もはやお前たちがむなしい幻を見ることも占いをすることもなくなる。わたしは、お前たちの手からわが民を救い出す。そのときお前たちは、わたしが主であることを知るようになる。」
ヨハネによる福音書16章33節(日本聖書協会「新共同訳」)
これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
ヨハネによる福音書16章33節の最後に、「わたしは既に世に勝っている。」という主イエスの言葉があります。
「世」という言葉は、ヨハネ福音書の中で「世界」、「人々」という意味で使っており、時には「罪に満ちた世界」、「神に敵対する世界」という意味で使うこともあります。主イエスが世に勝っているとおっしゃっているのは、神に敵対する世界あるいはそれに属する人々に勝っているという意味です。
確かに、この世には苦しみや悲しみがあります。しかし、それらは初めからあったのではなく、人間の罪によって生じたと聖書は告げています。
創世記には、神が全てのものをお造りになった時、それらは良いものであったと記されています。人間も神のかたちに創造されたと記されています。神のかたちとは、神と人との関係が響き合う良い関係であったことを意味しています。
ところが、神の御言葉に従うことよりも自分の欲望に従ったことにより、神が造られたすべてのものが台無しにされ、人も神との響き合う関係を失ってしまったのです。ここから苦しみや悲しみそして、死が始まったのです。
この世で、私たちは苦難を経験します。しかし、それは、決して初めから神が計画しておられたことではなく、私たちの罪から始まったということを理解しておくべきでしょう。そして、また、神はこのような状況を放っておかれません。
神は人間が犯し続ける罪をずっと忍耐してこられました。しかし、神があらかじめ定めておられた時に、御子イエス・キリストをお遣わしくださり、私たちの罪の償いとして十字架におかけになりました。この罪の償いによって、私たちを罪とその悲惨とからお救い下さったのです。(ローマ3章25~26節)
主イエス・キリストの救いは、私たち人間の罪によって呪われたすべてのものが、再び良いものへ回復されることです。また、私たち人間も再び神のかたちに回復されることです。その事を一番ハッキリスト告げているのが、ヨハネの黙示録です。
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録21章1~4節)
神が良いものとしてお造りになった全ての物は、私たちの罪のために呪われてしまいましたが、世の終わりの時、神は全ての物を再び良い物へと造りかえてくださるのです。私たちも永遠の命を受けて、そこに住まわせられると約束されています。そこでは「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」と言われています。
約束されている永遠の命は、単に長く生きるということではありません。どれほど長く生きようとも、苦しみや悲しみが永遠に続くようなら、決して幸せとは言えません。苦しむことも悲しむこともなく、喜びに満ちた人生を生きてこそ、本当の幸せというものです。
フィリピの信徒への手紙3章21節やコリントの信徒への手紙二3章18節に、私たちがキリストの栄光の姿に変えられると記されています。神の独り子と同じ姿にと言われているのですから、それは神のかたちに変えられるということであり、天地創造の時の神のかたちを回復するということです。これは表面的な姿形ではなく、神との響き合う関係ということです。
先ほど、「世」という言葉は、ヨハネ福音書の中で「世界」、「人々」という意味で使っており、時には「罪に満ちた世界」、「神に敵対する世界」という意味で使うこともある。そして、私たちが経験する苦しみや悲しみが、私たちの罪から始まったと申し上げました。
キリストが世に対して勝利しておられるというのは、私たちの罪に対して勝利しておられるということです。そして、私たちが経験する苦しみや悲しみに対しても勝利しておられるということです。いつまでも苦しみや悲しみに捕らわれることはないということです。キリストと共に喜ぶ生活が約束されているのです。今すぐそれが完成するということではありませんが、完成へと既に歩み始めているのです。
主イエスは、「あなたがたには苦難がある。」と語り、「わたしは既に世に勝っている。」宣言されました。苦難という「今」と、既に世に勝っているという「今」が告げられているのです。
主イエスは、苦難がないとはおっしゃいません。苦難はあると、はっきりと認めているのです。聖書は「苦難はない」などと現実から目をそらすようなことを言いません。きわめて現実的です。しかし、苦難だけでなく、勝利のビジョンをも告げているのです。神の御業の完成の時、すなわち神と共に永遠に喜ぶ生活に向かって、既に歩み始めていると宣言されているのです。
さて、誰もが経験する苦難がありますが、キリスト者である故に経験する苦難もあります。主イエスは次のように弟子たちに語られています。
「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」(マタイ5章10~11節)
ここでも、迫害されると警告されていますが、同時に「幸いである」とも言われています。この幸いは、今日の御言葉の「わたしは既に世に勝っている」に関連しているのです。キリストが勝利されているからこそ、迫害を受けても幸いなのです。
苦難を受けている時にキリストの勝利を信じることは、神の摂理を信じることです。
神の摂理とは、神の今働く力と説明されます。摂理については、天地創造と一緒に教えられることが多いようです。神が天地の全てのものをお造りになり、それを保つ働きと説明されるのです。また、地上の生活で悩み苦しみにある時、神は私たちを放っておかれるのではなく、幸いへと変えてくださいます。神は、そのために今も働いてくださっているのです。それを説明するのが「神の摂理」ということです。
しかし、何故、神はすぐ悩み苦しみから救ってくださらないのだろうかと思うことがあるのではないでしょうか。
その事で思い起こしていただきたいのは、旧約聖書に記されているエジプト脱出の出来事です。エジプトで奴隷になっていたユダヤ人たちは、エジプトを脱出し、約束の地に入ろうとした時、その地に住む人々を恐れて「エジプトで奴隷であった方が良かった。エジプトへ帰ろう。」と言い出しました。それまで、食べ物がなくても水がなくても、神がそれを備えてくださいました。敵が襲ってきた時も、神が守ってくださいました。そのような経験を繰り返してきたにもかかわらず、約束の地を目の前にしながら、神を信頼できませんでした。そこで、40年間荒れ野で生活することを、神がお命じになったのです。これは、彼らを罰するということよりも、神を信頼するようになるための訓練でした。自分たちの力では生きていけなかった、神の守りと導きによって生き抜くことが出来たという経験をさせたのです。豊かな土地での40年ならば、自分の知恵と力で生きたと考えるに違いありません。しかし、食べ物も水もない、しかもいつ敵に襲われるか分からない荒れ野で生活し、神に守られ導かれたことをくり返し経験したのです。そして、ついに約束の地に入るという経験をしたのです。彼らは、こうして、自分の無力を経験し、神に守られたことを経験しました。この経験により神を信頼することを学び、身につけたのです。
私たちの人生も同じです。この世では苦難があります。しかし、神の知らないところで苦難があるのではありません。神の御手の中にあるのです。私たちが神を信頼するようになるための訓練として、神はこの世での苦難を用いておられるのです。
荒れ野で40年を過ごしたイスラエルの人々は、自分たちの真ん中にある会見の幕屋をいつも見ていました。昼は雲の柱、夜は火の柱が幕屋に立ち、それによって神が共におられることを確認し、生活していたのです。
私たちにとって日曜毎の礼拝こそ、神が共にいて下さることを確認する時です。この礼拝をくり返し行っていくことによってこそ、人生の苦難の中で、キリストの勝利を確信し、約束の神の国へと向かっていけるのです。