レビ記16章15~16節(日本聖書協会「新共同訳」)
次に、民の贖罪の献げ物のための雄山羊を屠り、その血を垂れ幕の奥に携え、さきの雄牛の血の場合と同じように、贖いの座の上と、前方に振りまく。こうして彼は、イスラエルの人々のすべての罪による汚れと背きのゆえに、至聖所のために贖いの儀式を行う。彼は、人々のただ中にとどまり、さまざまの汚れにさらされている臨在の幕屋のためにも同じようにする。
マルコによる福音書15章33~41節 (日本聖書協会「新共同訳」)
昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。
主イエスが十字架にかかられた出来事には、私たちを罪から救う贖罪という意味があります。
贖罪とは、罪の償いという意味で、旧約聖書のレビ記に贖罪の儀式が詳しく記されています。その儀式には動物が犠牲として神にささげられるのですが、犠牲としてささげられる動物には傷がない事が絶対条件です。そして、その動物の血が、贖罪の重要な要素となっています。
主イエスの十字架は、動物よりもはるかに優る贖罪でした。このことを強調するのは、新約聖書のヘブライ人への手紙9章です。動物による贖罪は何度も繰り返さなければなりませんでしたが、主イエスによる贖罪は1回限りで、全人類のための永遠の贖罪であると告げられています。
十字架は、当時、ローマ帝国がローマ市民権を持っていない重犯罪人に対して行っていた死刑方法であり、見せしめでもありました。十字架にかけられたのは主イエス・キリストだけではなく、多くの人々がこの刑に処せられていたのです。ですから、十字架そのものは、決して珍しいものではありませんし、特別の宗教的意味があるわけではありません。しかし、主イエスが十字架にかかられたこの出来事は特別であり、無数の十字架の一つというのではありません。なぜなら、全人類を救う贖罪として神がご計画されたからです。それゆえ、主イエスの十字架は、ローマ帝国の死刑とは別に、宗教的な特別の意味を持つことになったのです。
旧約聖書に、罪を犯した者は、罪の償いとして動物を犠牲として献げなければならないと定められています。その時の動物は傷のない完全なものでなければなりませんでした。その動物の血を祭壇に注いだのです。血の中に、その動物の命があると考えられていましたので、血を祭壇に注ぐことは、動物の命を神に献げることであり、またその動物を献げる人自身の命を献げたとみなされたのです。
一般に行われる贖罪の儀式とは別に、神の民全体の罪の償いの日として「贖罪の日」が定められていました。この日には、大祭司が年に一度、神殿の至聖所に入り、民全体の罪の償いとして、契約の箱の上にある「贖いの座」に血を振りかけていました。この贖罪の日の犠牲は毎年行われていましたし、通常の罪の償いの犠牲もくり返し行われていました。これらの犠牲がくり返し行われていたということは、その償いは完全ではないことを示しています。
レビ記に定められている贖罪には、傷のない動物の血が祭壇や神殿の至聖所にある贖いの座に注がれました。この贖罪の動物より優った完全な犠牲として、神の独り子が罪のない人間としてお生まれになりました。それが主イエス・キリストです。主イエスが十字架にかかり、そこで流された血は、祭壇や贖いの座に注がれた動物の血よりもはるかに優った贖罪の献げ物となったのです。ですから、もはや動物の血という犠牲をささげる必要はないのです。
神の独り子である主イエスが真の人間となられた意味がここにあります。私たちは神に罪を犯した罪人ですから、私たち人間の誰が十字架にかかっても、罪の償いとしての意味はありません。そこで、神は、独り子であるキリストを真の人間、すなわち罪のない人間として生まれさせ、十字架へ向かわせられたのです。
十字架にかかられたキリストは、罪がない故に「傷のない完全ないけにえ」となって、私たちの罪の贖いとなられたのです。こうして、私たちが受けるべき神の怒りを、代わって受けてくださったのです。ガラテヤ書3:13に「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてある」とあるとおりです。
ですから、十字架上のキリストの叫びは、本当は私たちが叫ぶはずであった叫びであり、神の怒りを受けた者の絶望の叫びなのです。
主イエスが十字架の上で息を引き取られた時、神殿の垂れ幕が上から下まで真二つに裂けたとあります。この垂れ幕は、神殿の中の聖所と至聖所を隔てている幕です。この至聖所には、一年に一回だけ、大祭司だけが入ることが許され、イスラエルのすべての人々のための贖罪の儀式をします。たとえ大祭司といえども、民全体の罪の贖いをするため、年に一度しか奥の至聖所に入る事は許されていませんでした。大祭司も罪人であるため、神に近づくことが許されなかったのです。
聖所と至聖所を隔てる垂れ幕が真二つに裂けたことは、主イエスの死によって、私たちの罪の故に閉ざされていた神への道が開かれたことを象徴的に示しています。それは、神が私たちの罪を赦してくださったということです。
キリストは神にいたる門であり(ヨハネ10・9)、神にいたる道(ヨハネ14・6)です。この門は狭く、その道は細く、見出すことは困難ですが、命にいたる唯一の道です。(マタイ7・13~14) 私たちは、自らの力で見出すことも通ることもできませんでしたが、キリストを信じる私たちは、既にその門を通り、神にいたる道を歩み始めているのです。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」(マタイ19・26)とある通りです。私たちが救われたのは、神の恵みの御業によるのです。
次に、民の贖罪の献げ物のための雄山羊を屠り、その血を垂れ幕の奥に携え、さきの雄牛の血の場合と同じように、贖いの座の上と、前方に振りまく。こうして彼は、イスラエルの人々のすべての罪による汚れと背きのゆえに、至聖所のために贖いの儀式を行う。彼は、人々のただ中にとどまり、さまざまの汚れにさらされている臨在の幕屋のためにも同じようにする。
マルコによる福音書15章33~41節 (日本聖書協会「新共同訳」)
昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。
主イエスが十字架にかかられた出来事には、私たちを罪から救う贖罪という意味があります。
贖罪とは、罪の償いという意味で、旧約聖書のレビ記に贖罪の儀式が詳しく記されています。その儀式には動物が犠牲として神にささげられるのですが、犠牲としてささげられる動物には傷がない事が絶対条件です。そして、その動物の血が、贖罪の重要な要素となっています。
主イエスの十字架は、動物よりもはるかに優る贖罪でした。このことを強調するのは、新約聖書のヘブライ人への手紙9章です。動物による贖罪は何度も繰り返さなければなりませんでしたが、主イエスによる贖罪は1回限りで、全人類のための永遠の贖罪であると告げられています。
十字架は、当時、ローマ帝国がローマ市民権を持っていない重犯罪人に対して行っていた死刑方法であり、見せしめでもありました。十字架にかけられたのは主イエス・キリストだけではなく、多くの人々がこの刑に処せられていたのです。ですから、十字架そのものは、決して珍しいものではありませんし、特別の宗教的意味があるわけではありません。しかし、主イエスが十字架にかかられたこの出来事は特別であり、無数の十字架の一つというのではありません。なぜなら、全人類を救う贖罪として神がご計画されたからです。それゆえ、主イエスの十字架は、ローマ帝国の死刑とは別に、宗教的な特別の意味を持つことになったのです。
旧約聖書に、罪を犯した者は、罪の償いとして動物を犠牲として献げなければならないと定められています。その時の動物は傷のない完全なものでなければなりませんでした。その動物の血を祭壇に注いだのです。血の中に、その動物の命があると考えられていましたので、血を祭壇に注ぐことは、動物の命を神に献げることであり、またその動物を献げる人自身の命を献げたとみなされたのです。
一般に行われる贖罪の儀式とは別に、神の民全体の罪の償いの日として「贖罪の日」が定められていました。この日には、大祭司が年に一度、神殿の至聖所に入り、民全体の罪の償いとして、契約の箱の上にある「贖いの座」に血を振りかけていました。この贖罪の日の犠牲は毎年行われていましたし、通常の罪の償いの犠牲もくり返し行われていました。これらの犠牲がくり返し行われていたということは、その償いは完全ではないことを示しています。
レビ記に定められている贖罪には、傷のない動物の血が祭壇や神殿の至聖所にある贖いの座に注がれました。この贖罪の動物より優った完全な犠牲として、神の独り子が罪のない人間としてお生まれになりました。それが主イエス・キリストです。主イエスが十字架にかかり、そこで流された血は、祭壇や贖いの座に注がれた動物の血よりもはるかに優った贖罪の献げ物となったのです。ですから、もはや動物の血という犠牲をささげる必要はないのです。
神の独り子である主イエスが真の人間となられた意味がここにあります。私たちは神に罪を犯した罪人ですから、私たち人間の誰が十字架にかかっても、罪の償いとしての意味はありません。そこで、神は、独り子であるキリストを真の人間、すなわち罪のない人間として生まれさせ、十字架へ向かわせられたのです。
十字架にかかられたキリストは、罪がない故に「傷のない完全ないけにえ」となって、私たちの罪の贖いとなられたのです。こうして、私たちが受けるべき神の怒りを、代わって受けてくださったのです。ガラテヤ書3:13に「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてある」とあるとおりです。
ですから、十字架上のキリストの叫びは、本当は私たちが叫ぶはずであった叫びであり、神の怒りを受けた者の絶望の叫びなのです。
主イエスが十字架の上で息を引き取られた時、神殿の垂れ幕が上から下まで真二つに裂けたとあります。この垂れ幕は、神殿の中の聖所と至聖所を隔てている幕です。この至聖所には、一年に一回だけ、大祭司だけが入ることが許され、イスラエルのすべての人々のための贖罪の儀式をします。たとえ大祭司といえども、民全体の罪の贖いをするため、年に一度しか奥の至聖所に入る事は許されていませんでした。大祭司も罪人であるため、神に近づくことが許されなかったのです。
聖所と至聖所を隔てる垂れ幕が真二つに裂けたことは、主イエスの死によって、私たちの罪の故に閉ざされていた神への道が開かれたことを象徴的に示しています。それは、神が私たちの罪を赦してくださったということです。
キリストは神にいたる門であり(ヨハネ10・9)、神にいたる道(ヨハネ14・6)です。この門は狭く、その道は細く、見出すことは困難ですが、命にいたる唯一の道です。(マタイ7・13~14) 私たちは、自らの力で見出すことも通ることもできませんでしたが、キリストを信じる私たちは、既にその門を通り、神にいたる道を歩み始めているのです。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」(マタイ19・26)とある通りです。私たちが救われたのは、神の恵みの御業によるのです。