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八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「光の子として救いを宣べ伝えよう」 2020年5月3日の礼拝

2020年06月12日 | 2020年度
イザヤ書49章1~6節

 島々よ、わたしに聞け
 遠い国々よ、耳を傾けよ。
 主は母の胎にあるわたしを呼び
 母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。
 わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き
 わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
 わたしに言われた
 あなたはわたしの僕、イスラエル
 あなたによってわたしの輝きは現れる、と。
 わたしは思った
 わたしはいたずらに骨折り
 うつろに、空しく、力を使い果たした、と。
 しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり
 働きに報いてくださるのもわたしの神である。
 主の御目にわたしは重んじられている。
 わたしの神こそ、わたしの力。
 今や、主は言われる。
 ヤコブを御もとに立ち帰らせ
 イスラエルを集めるために
 母の胎にあったわたしを
 御自分の僕として形づくられた主は
 こう言われる。
 わたしはあなたを僕として
 ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
 イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。
 だがそれにもまして
 わたしはあなたを国々の光とし
 わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。


エフェソの信徒への手紙5章8節

  あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。


  5月5日は八幡鉄町教会の創立記念日で、今年は99周年になります。毎年、これを記念する主日礼拝では、教会総会で承認を得ることになっている新年度の年間聖句を取り上げています。
  エフェソの信徒への手紙5章8節の「光の子として歩みなさい」は、よく知られている聖句の一つです。
  この5章8節は「以前は暗闇でした」と「今は主に結ばれて光となっています」の二つの言葉によって、私たちの過去の姿と今の姿とが対照的に描かれています。しかし、単純に過去と現在という時間の違いではありません。キリストに結ばれる「以前」とキリストに結ばれている「今」の違いです。
  私たちが光となっているのはキリストに結ばれていることによります。すなわち、神の力によるのであり、十字架にかかられたキリストの贖いによるということです。このキリストに結ばれて永遠の命を生きる者となり(ローマ6:23)、さらには、キリストの栄光の姿と同じ形に変えられていくのです。(Ⅱコリント3:18、フィリピ3:21、他)
  そうしますと、「光の子として歩みなさい」という御言葉は、「これから光の子となりなさい」という意味ではなく、「既に光の子とされているので、それにふさわしく歩みなさい」という意味であることが分かります。ですから、私たちは救われるために何かをしなければならないと考える必要はありません。むしろ、既に神に救われている私たちはどのように生きるべきかを考えるべきであり、それが「光の子として歩む」ということです。
  「光の子として歩む」事について、具体的に教えられているのが、イザヤ書49章6節の「わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」です。
  神が全ての人々を救うというご計画は、神がアブラハムをお選びになった時から明らかにされていました。創世記12章2~3節で「あなたは祝福の源となる。・・・地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」とあります。これはアブラハムだけに与えられたものではなく、アブラハムの子孫全体に与えられており、神の民全体に与えられた使命です。預言者イザヤも告げています。「わたしの証人はあなたたち、わたしが選んだわたしの僕だ。・・・わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。わたしはあらかじめ告げ、そして救いを与え、あなたたちに、ほかに神はないことを知らせた。あなたたちがわたしの証人である、と主は言われる。」(イザヤ43:10~12) そして、「わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。」(イザヤ43:21)と、神の民の使命をはっきりと宣言しています。
  新約の神の民であるキリスト教会も同じような使命を与えられています。
  復活なさったキリストは弟子たちに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:19~20)と命じ、また「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1:8)とおっしゃいました。それゆえ、使徒たちも繰り返し、自らを「キリストの復活も証人」(使徒言行録1:22、2:32)と言い表しました。私たちは神に救われたことを喜び、感謝しており、その救いを宣べ伝えることを使命としているのです。

「主イエスを殺害する陰謀」 2020年4月26日の礼拝

2020年06月11日 | 2020年度
ゼカリヤ書11章10~14節

  わたしは「好意」というわたしの杖を取って折り、諸国の民すべてと結んだわが契約を無効にした。その日に、それは無効にされた。わたしを見守ってきた羊の商人たちは、それが主の言葉であることを知った。わたしは彼らに言った。「もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。そうでなければ、支払わなくてもよい。」彼らは銀三十シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。主はわたしに言われた。「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を。」わたしはその銀三十シェケルを取って、主の神殿で鋳物師に投げ与えた。わたしは「一致」というわたしのもうひとつの杖を折り、ユダとイスラエルの兄弟の契りを無効にした。

マタイによる福音書26章1~16節

  イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。しかし彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。

  さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

  そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。



  マタイ福音書26章1~16節は、主イエスと弟子たちがエルサレムの町に入られてから4日目の出来事です。日曜日にエルサレムへ入られ、月曜日にエルサレム神殿で両替人の台をひっくり返し、動物の売り買いをしていた人々を追い出され、火曜日にユダヤの宗教的指導者たちと議論をしました。26章1~16節は水曜日の出来事で、三つの部分に分かれています。第一の場面1~5節と第三の場面14~16節はエルサレムの町を舞台とし、ユダヤの指導者たちの陰謀の様子が記されています。第二の場面6~13節はエルサレムに近いベタニアの村が舞台で、これは5月10日の礼拝で扱い、今回は第一の場面1~5節と第三の場面14~16節だけを扱います。

  まず主イエスが弟子たちに語り始めるところから始まります。二日後が過越の祭りの日であること、主イエスが役人の手に引き渡され、十字架につけられることが語られます。
  これまで主イエスはご自身の受難と復活について繰り返し語ってこられましたが、これまで以上に、その時が迫っていることを強調しています。そして、過越の祭りという「時」と主イエスの十字架の出来事が結びつけられています。主イエスの十字架の出来事は、あのとき偶然に起こったのではなく、またいつでも良かったというのでもなく、神があらかじめ決めておられた「時」に、そのことは起こったということを示しています。
  そして、「引き渡される」という言葉によって、ユダヤの指導者たちが積極的に動いて主イエスを捕らえるというのではない事を示しています。後で分かることですが、主イエスの弟子イスカリオテのユダによって、役人に引き渡されるのです。
  3~5節において、ユダヤの指導者たちの陰謀が明かされます。
  彼らは主イエスを捕らえ、殺害する計画を立てますが、祭りが終わるまで実行を見合わせようとします。民衆が騒ぎ出すことを恐れたからです。と言っても、民衆の力を恐れたというより、騒ぎが起こってその鎮圧のためにローマ軍が介入してくるのを恐れたのです。当時のユダヤは、自治を許されているもののローマの支配下にありました。暴動が起これば、その自治権を奪われる危険があったのです。祭りの時には多くの人が集まるので、暴動が起こらないようにローマ軍がエルサレムに来ていました。主イエスを捕らえるにはタイミングが悪い。だから祭りが終わるのを待つことにしたのです。
  しかし、そこへイスカリオテのユダが、密かに手引きをすることを申し出、ユダヤの指導者たちは、この話に乗り、お金を支払いました。(14~16節)
  ユダヤの指導者たちやイスカリオテのユダの思惑通りに事が進んでいるかのように見えます。しかし、実は神のご計画が着々と進んでいるのです。
  ユダヤの指導者たちは、主イエスの殺害を企てました。エルサレムの神殿での大祭司や律法学者たちの権威を否定するかのような振る舞いを赦せなかったからです。しかし、神は彼らの思惑とは別に、主イエスを十字架の死へと向かわせられました。全ての人を罪から救うための贖いの犠牲とするためです。人間の悪意によって、主イエスが十字架にかけられたように見えますが、全ての人を救うために神がそれを定められたのです。主イエスの十字架は、過越の祭りの時でなければならない。この神の御心のみが成就するのです。そして、私たちの救いも神の定めた時に成就したのです。使徒パウロが、このような神の時について「『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(Ⅱコリント6:2)と告げている通りです。

「最後の審判」2020年4月19日の礼拝

2020年06月09日 | 2020年度
エゼキエル書34章17~19節

  お前たち、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く。お前たちは良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回すことは、小さいことだろうか。わたしの群れは、お前たちが足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる。

マタイによる福音書25章31~46節

  「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
  それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」


  マタイ福音書25章31~46節は、24章から語られてきた終末、世の終わりについての教えの最後の部分です。
  まず人の子が全ての国の民が集め、一方を右に、もう一方を左により分けるという場面が語られます。そして右側の人々を神の御国に、左側の人々を永遠の滅びに定められます。最後の審判です。
  この最後の審判は、私たちキリスト者を含む全ての人が神に裁かれる事を示しています。そして、救われる人と滅ぼされる人に分けられる規準は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」への良い行いです。
  「わたしの兄弟」とは、キリストに救われている私たちのことです。まだ信仰に入っていない人であっても、キリスト者に良い行いをした人は、救われるということです。マタイ福音書10章40~42節でも「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」とあります。主イエスは私たち保護者であるので、私たちに良くしてくれた人に、神は必ず良い報いを与えるということです。
  さて、この戒めは、私たちにも向けられています。
  マタイ福音書18章は、同じ信仰にある兄弟姉妹に対してどのように信仰の交わりを持つべきかが教えられているところですが、その中で「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」(6節)、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」(10節)、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(14節)と戒められています。同じ信仰にある兄弟姉妹を軽んじてはならないとの警告です。

  これらの戒めや今日の御言葉は、救われるための条件ではありません。むしろ、既に救いにあずかっている私たちが、神への感謝の応答としてどのように兄弟姉妹に向き合っていくべきか、そして、どのように神に喜ばれる生活をすべきか諭しているのです。
  神の御国の扉は、私たちの前に既に開かれています。神を讃美しつつ、信仰の道を歩んでいきましょう。この道は、キリストが勝利を勝ち取ってくださった天の国の凱旋の門に繋がっています。キリストの勝利は、今や私たちの勝利となりました。かつて、主イエスがエルサレムに入られる時、人々は凱旋する王を迎えるように喜び祝い、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(21章9節)と叫んだように、私たちも主イエス・キリストの御名を高らかにほめたたえ、力強く歩んでいきましょう。
 

「神から賜る永遠の命」 2020年4月12日の礼拝

2020年06月08日 | 2020年度
詩編21編2~8節(日本聖書協会「新共同訳」)

 主よ、王はあなたの御力を喜び祝い
 御救いのゆえに喜び躍る。
 あなたは王の心の望みをかなえ
 唇の願い求めるところを拒まず〔セラ
 彼を迎えて豊かな祝福を与え
 黄金の冠をその頭におかれた。
 願いを聞き入れて命を得させ
 生涯の日々を世々限りなく加えられた。
 御救いによって王の栄光は大いなるものになる。
 あなたは彼に栄えと輝きを賜る。
 永遠の祝福を授け、御顔を向けられると
 彼は喜び祝う。
 王は主に依り頼む。
 いと高き神の慈しみに支えられ
 決して揺らぐことがない。


ローマの信徒への手紙6章20~23節(日本聖書協会「新共同訳」)

  あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。


  教会の暦では、今日は主イエス・キリストの復活を記念するイースターです。
  20節に「あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした」とあります。ふつう自由の身であるというのは喜ばしいはずですが、ここでは、「義に対して自由である」と言われ、義から遠く離れ、義とは関係がないという意味で使われています。それはその直前でいわれています「罪の奴隷であった」ということと深く関わっています。
  これは、私たち信仰者の今の状態ではなく、信仰に入る前の状態を説明しています。信仰に入る以前の生活にはどんな実りがあったかと言うと、信仰に入っている今という立場から振り返ってみるととても恥ずかしいと思えるものだったと言い、「その行き着くところは、死にほかならない」とまで言うのです。こうして罪の奴隷となっていることの恐ろしさが語られるのです。ここまで言わないと、罪の状態にあることの恐ろしさを私たちは理解できないのです。
  罪が悪い状態であることは頭では理解しているつもりです。しかし、頭のどこかで、たとえそうであってもたいしたことはないと高をくくっているのではないでしょうか。昔の言葉の「白河の清きに魚のすみかねて、もとの濁りの田沼こひしき」のように、澄み切った清らかさより、少し濁った状態の方が住みやすいと考えたり、少し欠点があった方が人間らしいと考えたりしているのではないでしょうか。反対に、全く欠点がないということであれば、その人は人間らしさを失ってしまっていると感じたり、何となくその人を煙ったく感じたりしないでしょうか。そこに、聖書が語る真の人間ということと、私たちの現実ということの間に大きな隔たりがあると言えます。
  私たちは日々の生活の中で人間というものを考えていきます。そこから、自由とはこういうことだと考えるわけです。しかし、聖書はそのような私たちに、それは実は自由ではなくて、罪の奴隷になっているのだと告げるのです。罪の奴隷になっていながら、しかもそれを喜び、それがどれほど不自由な状態かを全く気づかないでいると言うのです。
  パウロは、ローマの信徒への手紙の中で「罪の奴隷」という言葉を用います。私たちの生活が自由に思えても、実はそれは奴隷状態なのだ。罪の言いなりになっている。罪から離れようとしても離れることが出来ない。罪に捕らわれている。そういう状態を「罪の奴隷」という言葉で言い表しているのです。そして、そのような生き方は、結局は死に向かっていると言うのです。
  しかし、私たちがかつて罪の奴隷状態にあったとパウロが言うのは、それを言うことが本当の目的ではありません。かつては私たちは罪人であった。確かに罪の奴隷であった。しかし、今は違うと、パウロは言いたいのです。すなわち、22節の「今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでおり、その行き着くところは、永遠の命だ」ということこそが一番言いたいことなのです。
  「奴隷」という言葉は、あまり好ましくない言い方かも知れません。パウロは、私たちが神としっかりと結ばれているということを、この言葉で強調しているのです。かつて、罪に縛られ、その生活は恥ずかしいものでした。その行き着くところは死でした。しかし、今は神にしっかりと結びあわされて聖なる生活の実を結んでおり、行き着くところは、永遠の命。ここに私たちの喜びがあると言うのです。
  23節に、「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」とあります。
  「罪が支払う報酬は死である」とは、なんと厳しい言葉でしょうか。「報酬」というのは、私たちの働きに対して支払う賃金ということです。どんなに頑張っても、どんなに努力しても報酬として受け取ることが出来るのは死だけだというのです。私たちの誰もが直面している厳しい現実です。しかし、キリストに救われた今、全く新しい現実が目の前に現れました。永遠の命という現実です。
  パウロは、この事を罪の奴隷状態にある時と対比させて説明します。すなわち、「罪が支払う報酬は死」ということに対して「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命」ということです。
  罪にある時は死に一直線に向かう運命にあり、それから逃れることは出来ませんでした。しかし、神に結ばれている今は、永遠の命を神からプレゼントされているということです。神からのプレゼントということは、神の私たちに対する行為によるということであり、私たちの働きや努力によるのではないということです。ですから、永遠の命は私たちへの報酬ではないということが強調されています。そして、それは「わたしたちの主キリスト・イエスによる」と強調されています。それは、主イエス・キリストが私たちの罪の贖いとして、十字架にかかってくださったこと、そして、三日目によみがえられたことを意味しています。ここに、私たちに与えられる永遠の命が神の賜物、神の恵みであるという根拠があるのです。私たちには何の働きもありませんけれども、神は恵みとして永遠の命を与えてくださいました。働きがないにもかかわらず、私たちを永遠の命に結びあわせてくださいました。
  「キリストによる」というのは、十字架で流されたキリストの血によるということですが、それはキリストの命によるということです。キリストはご自身の血によって、キリストの命によって私たちを贖ってくださったのです。「あなたがたが・・・贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血による」(Ⅰペトロ1:18~19)とある通りです。この結果、私たちは神の所有となり、神と固く結びつけられ、罪との関係が断ち切られたのです。神が私たちを救おうとして恵みを与えてくださった結果ということです。
  私たちがキリストの復活を祝うことは、決して過去の出来事を思い出すということだけではありません。私たちが罪と滅びとの関係を断ち切られたこと、キリストの永遠の命に結ばれていることを思い起こし、確認するのです。それが、主イエス・キリストの復活を記念するということです。
  記念という言葉には、思い起こすという意味があります。主イエス・キリストの復活を記念するということもキリストの復活を思い起こし、また私たちに対する神の恵みを思い起こし、確認するのです。それが、私たちが主イエス・キリストの復活を記念する礼拝の重要な意味です。主イエス・キリストの復活は過去の出来事というだけではなく、今の私たちに深く関わっている出来事なのです。ですから、キリストの復活は私たちにしっかりと結びついているのです。私たちは今、主イエス・キリストの命に生きる者とされている。そのことを思い起こし、喜び、祝うのです。それが主イエス・キリストの復活を祝うイースターです。

「教会が伝える福音」 2020年4月5日の礼拝

2020年05月31日 | 2020年度
イザヤ書40章6~11節(日本聖書協会「新共同訳」)

 呼びかけよ、と声は言う。
 わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。
 肉なる者は皆、草に等しい。
 永らえても、すべては野の花のようなもの。
 草は枯れ、花はしぼむ。
 主の風が吹きつけたのだ。
 この民は草に等しい。
 草は枯れ、花はしぼむが
 わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

 高い山に登れ
 良い知らせをシオンに伝える者よ。
 力を振るって声をあげよ
 良い知らせをエルサレムに伝える者よ。
 声をあげよ、恐れるな
 ユダの町々に告げよ。

 見よ、あなたたちの神
 見よ、主なる神。
 彼は力を帯びて来られ
 御腕をもって統治される。
 見よ、主のかち得られたものは御もとに従い
 主の働きの実りは御前を進む。
 主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め
 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。


コリントの信徒への手紙 一 15章1~11節(日本聖書協会「新共同訳」)

  兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。


  使徒パウロは、かつてコリントに約1年半滞在し、伝道しました。パウロが去った後、コリントの教会に生じていた諸問題解決のために書かれたのが、コリントの信徒への手紙一と二でした。
  コリントの信徒への手紙一15章は復活の信仰について書かれています。パウロは問われた問題解決のために、まず基本的で重要なことから語り始めます。1~11節で主イエスの・キリストの十字架と復活について、その後、私たち信仰者の復活について語ります。
  パウロは、その最初に「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたもの」(3節)と前置きして、主イエスの復活を語ります。この事から分かることは、約1年半のコリント滞在中でいろいろ多くのことを人々に教えていましたが、その中で最も重要なこととして伝えたのは、主イエスの十字架と復活だということです。またそれは、パウロの個人的、独創的な信仰というのではなく、主イエスの十二弟子たちから伝えられてきた信仰で、キリスト教会が最初から大切にし、宣べ伝えてきた信仰だということです。
  パウロは、2節で「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。」と告げていますが、この福音とは主イエスの十字架と復活を指しています。コリントの教会ではこの事が分からなくなった人々いたようで、そのために十字架と復活のキリストを強調する必要があったのです。
  コリントの信徒への手紙 二 11章4節で「だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝え」、「自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受け」ていると警告しています。このような事はコリントだけではなく、ガラテヤの諸教会でも同様のことが起こっていました。「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。」(ガラテヤ1:6~8)とまで言っています。そこでパウロは、「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」(Ⅰコリント2:2)と言い、十字架と復活のキリストを最も重要なこととして宣べ伝えたのです。これこそ福音であり、この信仰から離れてはならないと言うのです。
  「最も大切なこととして伝えた」の「伝える」という言葉は、人々の手に「渡す」という意味であり、イスカリオテのユダが主イエスを役人に「引き渡した」という時の言葉です。ユダの場合は、悪い意味で使われていますが、パウロは同じ言葉を用いて、神の救いを宣べ伝えるという意味で使っています。この事に注目すると、キリストを宣べ伝えるというのは、キリストについて説明することではなく、キリストの事実を伝える事だと分かります。私たちに伝えられてきた十字架と復活のキリストを大胆に力強く伝えていきましょう。