イザヤ書49章1~6節
島々よ、わたしに聞け
遠い国々よ、耳を傾けよ。
主は母の胎にあるわたしを呼び
母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。
わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き
わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
わたしに言われた
あなたはわたしの僕、イスラエル
あなたによってわたしの輝きは現れる、と。
わたしは思った
わたしはいたずらに骨折り
うつろに、空しく、力を使い果たした、と。
しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり
働きに報いてくださるのもわたしの神である。
主の御目にわたしは重んじられている。
わたしの神こそ、わたしの力。
今や、主は言われる。
ヤコブを御もとに立ち帰らせ
イスラエルを集めるために
母の胎にあったわたしを
御自分の僕として形づくられた主は
こう言われる。
わたしはあなたを僕として
ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。
だがそれにもまして
わたしはあなたを国々の光とし
わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。
エフェソの信徒への手紙5章8節
あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。
5月5日は八幡鉄町教会の創立記念日で、今年は99周年になります。毎年、これを記念する主日礼拝では、教会総会で承認を得ることになっている新年度の年間聖句を取り上げています。
エフェソの信徒への手紙5章8節の「光の子として歩みなさい」は、よく知られている聖句の一つです。
この5章8節は「以前は暗闇でした」と「今は主に結ばれて光となっています」の二つの言葉によって、私たちの過去の姿と今の姿とが対照的に描かれています。しかし、単純に過去と現在という時間の違いではありません。キリストに結ばれる「以前」とキリストに結ばれている「今」の違いです。
私たちが光となっているのはキリストに結ばれていることによります。すなわち、神の力によるのであり、十字架にかかられたキリストの贖いによるということです。このキリストに結ばれて永遠の命を生きる者となり(ローマ6:23)、さらには、キリストの栄光の姿と同じ形に変えられていくのです。(Ⅱコリント3:18、フィリピ3:21、他)
そうしますと、「光の子として歩みなさい」という御言葉は、「これから光の子となりなさい」という意味ではなく、「既に光の子とされているので、それにふさわしく歩みなさい」という意味であることが分かります。ですから、私たちは救われるために何かをしなければならないと考える必要はありません。むしろ、既に神に救われている私たちはどのように生きるべきかを考えるべきであり、それが「光の子として歩む」ということです。
「光の子として歩む」事について、具体的に教えられているのが、イザヤ書49章6節の「わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」です。
神が全ての人々を救うというご計画は、神がアブラハムをお選びになった時から明らかにされていました。創世記12章2~3節で「あなたは祝福の源となる。・・・地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」とあります。これはアブラハムだけに与えられたものではなく、アブラハムの子孫全体に与えられており、神の民全体に与えられた使命です。預言者イザヤも告げています。「わたしの証人はあなたたち、わたしが選んだわたしの僕だ。・・・わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。わたしはあらかじめ告げ、そして救いを与え、あなたたちに、ほかに神はないことを知らせた。あなたたちがわたしの証人である、と主は言われる。」(イザヤ43:10~12) そして、「わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。」(イザヤ43:21)と、神の民の使命をはっきりと宣言しています。
新約の神の民であるキリスト教会も同じような使命を与えられています。
復活なさったキリストは弟子たちに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:19~20)と命じ、また「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1:8)とおっしゃいました。それゆえ、使徒たちも繰り返し、自らを「キリストの復活も証人」(使徒言行録1:22、2:32)と言い表しました。私たちは神に救われたことを喜び、感謝しており、その救いを宣べ伝えることを使命としているのです。
島々よ、わたしに聞け
遠い国々よ、耳を傾けよ。
主は母の胎にあるわたしを呼び
母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。
わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き
わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
わたしに言われた
あなたはわたしの僕、イスラエル
あなたによってわたしの輝きは現れる、と。
わたしは思った
わたしはいたずらに骨折り
うつろに、空しく、力を使い果たした、と。
しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり
働きに報いてくださるのもわたしの神である。
主の御目にわたしは重んじられている。
わたしの神こそ、わたしの力。
今や、主は言われる。
ヤコブを御もとに立ち帰らせ
イスラエルを集めるために
母の胎にあったわたしを
御自分の僕として形づくられた主は
こう言われる。
わたしはあなたを僕として
ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。
だがそれにもまして
わたしはあなたを国々の光とし
わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。
エフェソの信徒への手紙5章8節
あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。
5月5日は八幡鉄町教会の創立記念日で、今年は99周年になります。毎年、これを記念する主日礼拝では、教会総会で承認を得ることになっている新年度の年間聖句を取り上げています。
エフェソの信徒への手紙5章8節の「光の子として歩みなさい」は、よく知られている聖句の一つです。
この5章8節は「以前は暗闇でした」と「今は主に結ばれて光となっています」の二つの言葉によって、私たちの過去の姿と今の姿とが対照的に描かれています。しかし、単純に過去と現在という時間の違いではありません。キリストに結ばれる「以前」とキリストに結ばれている「今」の違いです。
私たちが光となっているのはキリストに結ばれていることによります。すなわち、神の力によるのであり、十字架にかかられたキリストの贖いによるということです。このキリストに結ばれて永遠の命を生きる者となり(ローマ6:23)、さらには、キリストの栄光の姿と同じ形に変えられていくのです。(Ⅱコリント3:18、フィリピ3:21、他)
そうしますと、「光の子として歩みなさい」という御言葉は、「これから光の子となりなさい」という意味ではなく、「既に光の子とされているので、それにふさわしく歩みなさい」という意味であることが分かります。ですから、私たちは救われるために何かをしなければならないと考える必要はありません。むしろ、既に神に救われている私たちはどのように生きるべきかを考えるべきであり、それが「光の子として歩む」ということです。
「光の子として歩む」事について、具体的に教えられているのが、イザヤ書49章6節の「わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」です。
神が全ての人々を救うというご計画は、神がアブラハムをお選びになった時から明らかにされていました。創世記12章2~3節で「あなたは祝福の源となる。・・・地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」とあります。これはアブラハムだけに与えられたものではなく、アブラハムの子孫全体に与えられており、神の民全体に与えられた使命です。預言者イザヤも告げています。「わたしの証人はあなたたち、わたしが選んだわたしの僕だ。・・・わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。わたしはあらかじめ告げ、そして救いを与え、あなたたちに、ほかに神はないことを知らせた。あなたたちがわたしの証人である、と主は言われる。」(イザヤ43:10~12) そして、「わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。」(イザヤ43:21)と、神の民の使命をはっきりと宣言しています。
新約の神の民であるキリスト教会も同じような使命を与えられています。
復活なさったキリストは弟子たちに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:19~20)と命じ、また「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1:8)とおっしゃいました。それゆえ、使徒たちも繰り返し、自らを「キリストの復活も証人」(使徒言行録1:22、2:32)と言い表しました。私たちは神に救われたことを喜び、感謝しており、その救いを宣べ伝えることを使命としているのです。