八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「アダムからノアに至る系図」 2013年7月21日の礼拝

2013年08月30日 | 2013年度~
創世記5章1~32節

  これはアダムの系図の書である。
  神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。
  アダムは百三十歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた。アダムはその子をセトと名付けた。アダムは、セトが生まれた後八百年生きて、息子や娘をもうけた。アダムは九百三十年生き、そして死んだ。
  セトは百五歳になったとき、エノシュをもうけた。セトは、エノシュが生まれた後八百七年生きて、息子や娘をもうけた。セトは九百十二年生き、そして死んだ。
  エノシュは九十歳になったとき、ケナンをもうけた。エノシュは、ケナンが生まれた後八百十五年生きて、息子や娘をもうけた。エノシュは九百五年生き、そして死んだ。
  ケナンは七十歳になったとき、マハラルエルをもうけた。ケナンは、マハラルエルが生まれた後八百四十年生きて、息子や娘をもうけた。ケナンは九百十年生き、そして死んだ。
  マハラルエルは六十五歳になったとき、イエレドをもうけた。マハラルエルは、イエレドが生まれた後八百三十年生きて、息子や娘をもうけた。マハラルエルは八百九十五年生き、そして死んだ。
  イエレドは百六十二歳になったとき、エノクをもうけた。イエレドは、エノクが生まれた後八百年生きて、息子や娘をもうけた。イエレドは九百六十二年生き、そして死んだ。
  エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。
  メトシェラは百八十七歳になったとき、レメクをもうけた。メトシェラは、レメクが生まれた後七百八十二年生きて、息子や娘をもうけた。メトシェラは九百六十九年生き、そして死んだ。
  レメクは百八十二歳になったとき、男の子をもうけた。彼は、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」と言って、その子をノア(慰め)と名付けた。レメクは、ノアが生まれた後五百九十五年生きて、息子や娘をもうけた。レメクは七百七十七年生き、そして死んだ。
  ノアは五百歳になったとき、セム、ハム、ヤフェトをもうけた。



  創世記5章1~2節に「神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された」と記されています。これは、創世記1章26~27節に記されていたことを、繰り返しています。この5章では、はっきりと記されてはいませんが、アダムが罪をおかしたことにより、その神のかたちを失いました。少なくとも、それはゆがめられてしまったのです。
  その事を示しているのが、アダムからノアに至る系図です。この系図には10人の名前が出てきます。この中で、イエレド、エノク、メトシェラの3人は例外ですが、他の人々の寿命が短くなっています。実際に900年以上生きたかどうかはともかく、長く生きるということは、神の祝福を受けたことのしるしと考えられましたので、寿命が短くなっていったということは、神の祝福から遠ざかっていることを示しているのです。同じ事は、創世記11章10節以下のノアの息子、セムからアブラハムまでの系図でも示されています。
  また、創世記5章29節には、ノアの父親レメク(4章のレメクとは別人)が、「『主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう』と言って、その子をノア(慰め)と名付けた」と、あります。この言葉に、系図に記されている人々の人生における、苦しみや悲しみが凝縮されています。ノアについては、6章以下で扱います。
  「○○年生きた」という言葉は、単に生物学的に長い年数を生きたと告げているのではありません。苦しみや悲しみの中で、数百年生きることが、本当に幸いでしょうか。「生きた」という言葉は、神の恵みの中で生きたということを言い表しているのです。
  人間の罪は、私たちの人生に苦しみと悲しみをもたらしました。しかし、神はその人生の中に恵みを与えてくださっているのです。その恵みを見出していくとき、私たちの人生は幸いへと変えられていくのです。
  この系図には、もう一つ別の重要な言葉が記されています。それは創世記5章24節に記されている「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」という言葉です。新約のヘブライ人への手紙11章5~6節に、次のような言葉があります。「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」。
  「エノクは神と共に歩んだ」。これこそ、神の祝福を受けて生きるただひとつの道だということです。聖書の中で、「神と共に歩んだ」と言われている人物は他にはありません。と言うことは、神と共に歩むということは、私たち人間には、きわめて難しいことだということを意味しています。私たちには不可能なのです。しかし、そのような私たちに、神の方から近づいてきてくださるのです。モーセやヨシュアに対して、神は「私はあなたと共にいる」と告げ、多くの困難を乗り越えさせました。

  主イエス・キリストがお生まれになるとき、これは「神、われらと共にいます」という言葉の実現であると、聖書(マタイ1:21~23)は告げています。事実、主イエスは、復活なさった後、「私は世の終わりまで、あなたがたと共にいる」とおっしゃって、弟子たちを世界各地へ送り出されました。

  私たちは、自分の力や努力では、神と共に歩むことはできませんが、神が私たちと共にいてくださいます。ここに、私たちの希望があります。また、これは旧約聖書から新約聖書を貫く信仰の言葉なのです。神は、私たちひとりひとりの名を呼び、「私はあなたと共にいる」とおっしゃってくださっているのです。

「呪われた復讐の論理」 2013年7月14日の礼拝

2013年08月23日 | 2013年度~
創世記4章17~26節

  カインは妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ。カインは町を建てていたが、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付けた。エノクにはイラドが生まれた。イラドはメフヤエルの父となり、メフヤエルはメトシャエルの父となり、メトシャエルはレメクの父となった。
  レメクは二人の妻をめとった。一人はアダ、もう一人はツィラといった。アダはヤバルを産んだ。ヤバルは、家畜を飼い天幕に住む者の先祖となった。その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった。ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅や鉄でさまざまの道具を作る者となった。トバル・カインの妹はナアマといった。
  さて、レメクは妻に言った。
  「アダとツィラよ、わが声を聞け。
  レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。
  わたしは傷の報いに男を殺し
  打ち傷の報いに若者を殺す。
  カインのための復讐が七倍なら
  レメクのためには七十七倍。」
  再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。
  セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。



  創世記4章17-18節には、カインからレメクまでの6世代の系図が記されています。これをアダムから数えると7世代になります。系図は、世代の連鎖を表しています。しかもそれは、罪と悲惨の連鎖であったことを示しています。23~24節のレメクの歌に、それが表れています。
  「わたしは傷の報いに男を殺し、
  打ち傷の報いに若者を殺す。
  カインのための復讐が七倍なら、
  レメクのためには七十七倍。」

  創世記4章15節に、神が「カインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受ける」と確かにおっしゃっています。しかし、これは復讐することが目的ではありません。カインを保護することが目的なのであり、カインに害を加えようとする人々への警告であると共に、カインを安心させるための、保証を表した言葉でもあるのです。
  レメクの歌は、誰かを保護するというのではありません。復讐そのものが目的となり、自分の力を誇示しています。ここに、人間の復讐心の激しさがあらわれています。それと共に、神の御言葉をゆがめる人間の姿が、ここにあります。
  旧約聖書には「目には目を。歯には歯を」という戒めがあります。同害報復法と言います。復讐が当然のように行われていた時代ですから、被害を受けたときに、「復讐するな」と言っても現実的ではなく、だれもそれに従うことはなかったでしょう。そこで、目を傷つけられたなら、相手の目を傷つける以上の害を与えてはならないというのが、この法律の目的です。注意しておきたいことは、これは復讐することを勧めているのではないということです。それから、これは私的な復讐ではなく、裁判によって行われなければならないということです。
  今日の聖書の言葉は、アダムからカイン、さらにレメクへと、人間の罪と悲惨、また憎悪がどんどん激しくなっている様子が表されています。

  この罪と悲惨と憎悪の連鎖を断ち切るために、神はその独り子である主イエスをお遣わしになりました。
  主イエスは、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:43~44)とお命じになりました。
  主イエスは、無責任にこのようなことをおっしゃっているのではありません。主イエスご自身が、神の敵となっていた私たちに、和解の手を差し伸べ、神が私たちを愛してくださっていることを明らかにしてくださいました。主イエス・キリストの十字架は、私たちに示された神の愛の出来事なのです。
  神に愛されていることを確信することが、何よりも大切なことです。そして、神の愛に応えて、神を愛しましょう。
  神を愛する人は、神が他の人々をも愛しておられることに気づかされます。そして、神と共にそれらの人々を愛することが大切です。
  その中には、「私」の敵もいることでしょう。神が愛するその人を憎むならば、私たちは、神を愛しているとは言えません。
  いったい、私たちは、神から愛される資格があるのでしょうか。私たちは神の敵だったのです。その私たちを愛してくださったというのは、当たり前のことではありません。もし、私たちが、敵対している人を、神から愛される資格はないと主張するなら、私たち自身も、神から愛される資格はなかったということを思い起こすべきです。
  私たちの心から憎しみが取り除かれるよう、祈りましょう。そして、神からの愛で満たされるように、神を仰ぎ見るのです。
  使徒パウロも「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。・・・悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ12:14、21)と勧めています。神の愛に応え、神を愛することが、悪に勝つ唯一の道なのです。

「止まらない罪と悲惨の連鎖」  2013年7月7日の礼拝

2013年08月03日 | 2013年度~
創世記4章1~16節

  さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。
  「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
  カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
  主はカインに言われた。
  「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」
  カインは答えた。
  「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」
  主は言われた。
  「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」
  カインは主に言った。
  「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」
  主はカインに言われた。
  「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」
  主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。


  アダムとエバが犯した罪と悲惨は、とどまることなく、むしろ、その深刻の度を増していきました。すなわち、世界最初の殺人事件が起こったのです。それは兄弟の間で起こりました。また互いに争った結果ではなく、一方的に、また突然、兄が弟を殺すというかたちで生じたのです。
  創世記3章では、蛇と土が「呪われる」と言われていますが、人は呪われてはいませんでした。蛇と女の間に敵意が置くと言われましたが、女に敵意を置くと言われたのではありませんでした。しかし、4章では、弟を殺したカインが、神から「今、お前は呪われる者となった」と告げられたのです。このことから、その罪の大きさが分かります。
  その事件は、カインとアベルが、それぞれ神に献げ物を献げた事から始まりました。礼拝は、私たちを聖人君子にする魔術ではないのです。
  何故、アベルの献げ物はかえりみられ、カインの献げ物はかえりみられなかったか、その理由は、はっきりとは記されていません。ただ「アベルは、羊の群の中から肥えた初子を持ってきた」とあるのに対し、カインの献げ物については何も記されていません。ですから、カインは心からの献げ物をしなかったとも考えられます。神はカインに対して、献げ物のことで叱ってはいませんので、確かなことは分かりません。
  神は、怒っているカインに、罪を犯さないようにと、警告されました。
  何故カインの献げ物に、神が目を留められなかったかが重要なのではなく、むしろ、その後が重要なのです。すなわち、神が警告されたにもかかわらず、カインが罪を犯したことです。神とその御言葉を無視し、神との関係を壊したのです。カインの敵意は、神にではなく、弟のアベルに向けられました。そして、殺害におよんだのです。人と人との関係の破れは最悪のかたちで現れました。
  神は、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われました。分からないからではなく、カインに、罪の告白と悔い改めの機会をお与えになっているのです。しかし、「私が弟の番人でしょうか?」と言い放ち、神の招きを振り払います。この後の神の裁きに対しても、彼は悔い改めるどころか、不平を言うばかりです。そのようなカインに対して、神は「私はあなたの番人だろうか」などとは言いません。カインを保護し、子孫まで与えられました。
  私たちに対しても、神は「私はあなたの番人だろうか」などとはおっしゃいません。私たちを愛し、保護者として見守ってくれているのです。

「罪の衝撃波」 2013年6月30日の礼拝

2013年08月02日 | 2013年度~
創世記3章8~19節

  その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。
  「どこにいるのか。」
  彼は答えた。
  「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
  神は言われた。
  「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
  アダムは答えた。
  「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
  主なる神は女に向かって言われた。
  「何ということをしたのか。」
  女は答えた。
  「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
  主なる神は、蛇に向かって言われた。
  「このようなことをしたお前は
  あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で
  呪われるものとなった。
  お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
  お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
  わたしは敵意を置く。
  彼はお前の頭を砕き
  お前は彼のかかとを砕く。」
  神は女に向かって言われた。
  「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。
  お前は、苦しんで子を産む。
  お前は男を求め
  彼はお前を支配する。」
  神はアダムに向かって言われた。
  「お前は女の声に従い
  取って食べるなと命じた木から食べた。
  お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
  お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
  お前に対して
  土は茨とあざみを生えいでさせる
  野の草を食べようとするお前に。
  お前は顔に汗を流してパンを得る
  土に返るときまで。
  お前がそこから取られた土に。
  塵にすぎないお前は塵に返る。」


  数ヶ月ほど前、ロシアに隕石が落ち、その衝撃波のすさまじさが、テレビで放映されていました。衝撃波そのものは目に見えませんが、その破壊力の大きさに驚かされました。
  始まりは小さくても、それが引き起こす影響は大きく、破壊的であるということがあります。最初の人間アダムが犯した罪とは、まさにそのようなものでした。しかも、一見無関係に思えるところにまで、強烈に影響を与えてしまったのです。神が宣言される「地は呪われてしまった」は、その事を示しています。神が造られた被造物すべてを、人間は管理するようにと責任を与えられていました。それ故に、人間の罪は、様々な関係を破壊することになったのです。
  人間の罪は、まず神との関係を破壊しました。神との関係が破壊されると、それは人間同士の関係の破壊へと連鎖しました。その破壊の連鎖は人間と自然との関係にまで及びました。そして、ついには、自分自身を受け入れることが出来ないという、自分自身との関係までもが破壊されてしまったのです。
  罪の衝撃波が全被造物を襲ったのです。
  その時、アダムは、女のせいだと言って、女に責任転嫁をしました。壊れた人間関係の有様がここにあります。罪の重荷を逃れようと、誰もがもがきます。責任転嫁以外にも、人は、罪責感をなくすためのさまざまな方法を試みます。「みんながやっている。なぜ、自分だけが責められる?」。「私を責める資格のある者はいない」。「他の人の方がもっと悪いことをしている。それに比べると、私の方が良い人間だ」。「悪いこともしたが、良いこともたくさんしている」。また、忙しく活動することにより、罪とその悲惨さとを忘れようとします。しかし、これらは、罪そのものを無くす事はできません。罪をなくす手段を、人間は持たないのです。
  それでは、いったい誰が救われるのでしょうか。主イエスは「人には出来ないが、神には出来る」と断言なさいました。そうです。神だけが、この不可能を可能にするのです。
  罪を犯した人間は、刑罰を言い渡されました。神が突き放したように見えますが、実はそうではありません。神の審判を通して、初めて、私たちは、神を正しく知ることができるのです。神は罪の故に人を罰しますが、それと共に私たちを赦してくださっているのです。この神の赦しの他に、救われる道はありません。ごまかしではなく、罪に対する本当の解決が、ここにあります。
  この本当の解決のために、神の独り子、主イエス・キリストがお出でになられました。キリストは人間の罪をひとりで背負い、私たちに代わって、神の怒りを受けてくださいました。そして、反対に、罰を受けるべき私たちに恵みを与えてくださったのです。それだけでなく、この恵みの衝撃波は、呪いを祝福に変え、被造物全体を覆うのです。(ローマ8:19~23)。

ローマの信徒への手紙8章19~23節
  「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」。