八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「初めに言葉があった」 2015年11月29日の礼拝

2016年03月25日 | 2015年度
イザヤ書9章1節(日本聖書協会「新共同訳」)

 闇の中を歩む民は、大いなる光を見
 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。


ヨハネによる福音書1章1~5節(日本聖書協会「新共同訳」)

  初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

  教会の暦では、今日から「待降節」に入ります。クリスマスまでの約4週間をこのように呼び、クリスマスを迎える準備をする期間です。この期間は、単にクリスマスらしい飾り付けをするだけでなく、特に礼拝と祈りによって生活を整えるのです。また、千数百年前の古代教会の時代から洗礼を受けるための準備期間ともされてきました。
  待降節は英語でアドヴェントといいますが、ラテン語の「到来」を意味する言葉が語源です。英語のアドベンチャー(冒険)という言葉も、実はこの「到来」という意味のラテン語を語源としています。
  ある人が、「神が到来は、神のアドベンチャーだ」と言いました。しかし、それは無謀な冒険という意味で言っているのではありません。ある事件が起こっている。しかも、思いがけないことが我々の前に現れたという意味で言っているのです。こうして見てきますと、クリスマスの出来事そのものが「神のアドヴェント(到来)」と言って良いでしょう。

  ところで、クリスマスの出来事、すなわち主イエス・キリストの御降誕は、マタイ福音書とルカ福音書に記されており、その情景が目に浮かぶように描かれています。マルコ福音書はと言うと、御降誕の出来事については記されておらず、主イエスが伝道を開始される所から記述が始まっています。
  ヨハネ福音書はどうかと言いますと、この福音書も御降誕の様子を記していません。しかし、主イエス・キリストの到来の意味を伝えています。

  「初めに言があった。」という言葉で、この福音書は始まっています。主イエス・キリストを、「言」という象徴的な表現で言い表しているのです。同じような象徴的な表現として「光」という言葉が後で出てきますが、これも主イエス・キリストを指しています。
  「言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」
  この言葉で、主イエス・キリストが神の独り子であることを言い表しています。
  「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」
  ここで、神の独り子である主イエス・キリストは天地創造に関わっておられたことを示しています。
  ヨハネ福音書は、主イエス・キリストの神性を強調し、クリスマスの出来事は天地創造の時からの神の御計画であることを告げているのです。
  マタイ福音書とルカ福音書は、主イエス・キリストが人間の赤ちゃんとしてお生まれになったことを記すことから、物語を始めました。そして、マルコ福音書を加えた三つの福音書は、成長して大人になった主イエスが伝道をされていた時、しばしば奇跡を行われたが、人々は優れた特別の人間としてしか理解していない様子を描いています。神の独り子としての栄光が隠されているのです。奇跡を起こされる主イエスを、人々は「この方こそメシアではないか」と考える時、主イエスは誰にも言ってはいけないと、口止めをなさいました。このようにして、主イエスご自身も、ご自分の神の子としての栄光を隠しておられたのです。主イエスの神の栄光は、ついに十字架と復活において示されたと告げるのです。
  このようにして、三つの福音書(以下「共観福音書」と呼びます)は「人間イエスは、実は神の独り子であった」という仕方で物語を進めていきますが、ヨハネ福音書は、初めから主イエス・キリストが神の独り子であることを示し、その神の独り子が人間となられたという仕方で、物語を進めていくのです。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書が、私たちの目を地上から神の方へと向けさせていくのに対し、ヨハネは神の方から地上へと目を向けさせているのです。
  ヨハネ福音書でも主イエス・キリストがなさった奇跡を記していますが、それを神の独り子としての栄光があらわされた出来事として記しています。とは言え、主イエスが奇跡を見せびらかしていたというのではありません。共観福音書と同様、人々に対する憐れみの行為として行われていたことで、その奇跡を見た人々も、それで主イエスが神の独り子であると信じたわけではありませんでした。ただ、ヨハネ福音書は、主イエスが行われた数々の奇跡の中から七つの奇跡だけを記し、福音書を読む私たちに、ここに主イエスの神の独り子としての栄光があらわされたと告げているのです。ヨハネ福音書は、主イエスの地上での様子を伝えると言うよりも、主イエスの地上での活動の意味を伝えようとしているのです。それを一言で言うならば、神の独り子が十字架にかかって人々の罪を贖い、三日目によみがえられて永遠の命を約束してくださったということです。
  さて、ヨハネ福音書1章5節に「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」とあります。また、1章10節には「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」とも記されています。
  ここで、人間の罪について語られています。それを「暗闇」という言葉で象徴的に表現しています。
  マタイ福音書でもルカ福音書でも、クリスマスの出来事は夜に起きたと記しています。このように、クリスマスは夜のイメージがありますが、ヨハネ福音書の「暗闇」という表現は、単に夜というのではなく、神を受け入れようとしない「人間の罪」と「罪の現実」を表しているのです。つまり、神の独り子は罪が満ちている世界にやってこられたこと、そして罪人である人間を救うため、すなわち光へと導くために来られたと、この福音書は告げているのです。
  先にも言いましたが、ヨハネ福音書はクリスマスの様子を語ってはいません。しかし、クリスマスがいったい何であったのか、神の独り子がお出でになった意味、その目的を語っているのです。そして、それは神の壮大な御計画であり、天地創造の時からそれは始まっていたと告げているのです。
  冒頭で、「神の到来は、神のアドベンチャーだ」と言った人がいると紹介しました。それは無謀な冒険という意味ではなく、思いがけない出来事が我々の前に現れたという意味だと申し上げました。確かにクリスマスの出来事は、神の天地創造以来の大きな出来事なのです。旧約聖書には、ノアの洪水やソドムの町の滅亡の物語が記され、預言者を遣わされたと記していますが、クリスマスはそれよりもはるかに重大な出来事なのです。クリスマスほどの大きな神の介入はありませんでした。その重大性を、ヨハネ福音書は強調しているのです。そして、これほどの大きな神の介入は、私たちのために起こされたのです。私たちを罪から救うために、暗闇で彷徨っている私たちを光へと導くために、神は力強く働きかけてくださったのです。そして、今も、ここで礼拝をしている私たちのために神は働いてくださっていることを悟るべきです。クリスマスは約二千年前に起きた出来事ですが、神の介入は今も私たちのために続いているのです。


「子どものように神の国を受け入れよ」 2015年11月22日の礼拝

2016年03月22日 | 2015年度
創世記21章14~20節(日本聖書協会「新共同訳」)

  アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった。革袋の水が無くなると、彼女は子供を一本の灌木の下に寝かせ、「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない」と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた。神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。
  「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」
  神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。彼がパランの荒れ野に住んでいたとき、母は彼のために妻をエジプトの国から迎えた。


マルコによる福音書10章13~16節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。


  教会の暦では、今日は「収穫感謝日」です。私たちの教会では、この礼拝の中で「子ども祝福式」を行っております。そこで、いつものマタイによる福音書を離れて、子どもに関わる聖書の箇所から説教のテキストを選びました。マルコ福音書10章13~16節は、主イエスが子どもたちを祝福したことが記されていますので、今日の礼拝にふさわしいと考えました。
  主イエスが子どもたちを祝福されたのは、弟子たちと共にエルサレムに向かっておられた時のことでした。それは、また、過越の祭が近づいており、エルサレムで過越の祭を迎えようとされたのです。今でも、ユダヤ人たちはエルサレムで過越の祭りを祝いたいと願う人が多くおりますが、当時も、エルサレムで過越を祝うために外国から多くのユダヤ人たちが集まり、ふだんの何倍もの人口になったといわれます。
  しかし、主イエスがエルサレムで過越の祭りを祝うのは、けっしてお祭り騒ぎに浮かれていたわけではありません。むしろ、それとは正反対に、その過越の祭の期間中に、十字架にかけられることを覚悟してエルサレムに向かっておられたのです。
  弟子たちにはご自身がお受けになる迫害と死とを予告していましたが、彼らにはよく理解できていませんでした。
  マルコ福音書10章32~34節に次のように記されています。
  「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。』」

  さて、今日の聖書の箇所に戻りますが、主イエスが子ども祝福する出来事のすぐ後に、「金持ちの男」と呼ばれる出来事が続いております。この二つは別々の出来事ですが、「神の国に入る」ということについては同じ主題が扱われており、その意味で関連していると言えます。先に、この「金持ちの男」の話に触れておきます。
  この男の人は、主イエスのところにやって来て「永遠の命を受け継ぐにはどうしたらよいか」と尋ねました。主イエスは、十戒の後半部分の「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という言葉を伝えましたが、それらは子どもの時から守っていると、その人は答えました。そこで主イエスは、「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それから、わたしに従いなさい」と、おっしゃいました。すると、その人は主イエスの前から立ち去ってしまいました。
  そこで、主イエスは弟子たちに、「『神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』」(マルコ10章24~25節)とおっしゃいました。
  金持ちの男は、「永遠の命を受け継ぐにはどうしたらよいか」と尋ねておりますが、それは「神の国に入るにはどうしたらよいのか」という意味です。
  この金持ちの男の話にしても、今日の子どもを祝福するという話にしても、「誰が神の国に入るのにふさわしいか」ということが扱われているのです。

  今日の御言葉に「子どものように神の国を受け入れる」という言葉があります。「子どものように」とはどういう意味なのでしょうか。子どもは神の国に入ることが出来るが、大人は入ることが出来ないということでしょうか。日本では、子どもには邪気がないとか罪がないなどと言われることがあります。だから、子どもは神に国に入ることが出来るということなのでしょうか。しかし、聖書は、子どもに罪がないなどとは言いません。すべての人は、生まれながらに罪人であると、教えています。
  「子どものように神の国を受け入れる」というのは、主イエスのもとに来た子どもたちの様子を表しているのです。主イエスのもとに来た子どもたちは、自分の意志や判断で来たのではなく、大人たちに連れられてきたのでしょう。子どもたちが祝福を受けることを親や大人たちが願ったにすぎません。子どもたちは連れてこられるまま、主イエスのもとに来ただけです。しかし、主イエスはそのような子どもたちを受け入れられるのです。
  その様子について、マルコ福音書は次のように記しています。
  「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。』」(マルコ10章13~14節)
  子どもたちを主イエスのもとに連れてきた人々を、弟子たちは叱りました。弟子たちには悪気はなかったでしょう。おそらく、主イエスから疲れや煩わしさを取り除きたいとの配慮から行ったのかも知れません。しかし、逆に、そのような弟子たちを、主イエスは厳しく叱りました。マルコ福音書は「イエスが憤った」と記しています。激しい怒りを表す言葉です。しかし、この言葉は、同じ出来事を記しているマタイやルカにはありません。どちらも「イエスは言われた」と記しているだけです。
  「憤る」と訳された言葉は、「腹を立てる、憤慨する」とも訳され、新約聖書に7回しか出てきません。そして、この語によって、主イエスが憤られたと記されているのは、このマルコ10章14節だけです。
  この言葉が使われている他の例を見ますと、主イエスが安息日に病人を癒したので、会堂長が「腹を立てた」(ルカ13章14節)、ヤコブとヨハネの兄弟が主イエスに厚かましい願いをしたことで、他の弟子たちが「腹を立てた」(マタイ20章24節、マルコ10章41節)、子どもたちが主イエスを讃美したことで、祭司長や律法学者たちが「腹を立てた」(マタイ21章15節)、高価な香油を主イエスの頭に注いだ女性に対して、人々や弟子たちが「憤慨した」(マタイ26章8節、マルコ14章4節)などとなっています。
  マタイとルカが、子どもたちを祝福する話の中に「憤る」の言葉を入れなかったのは、主イエスが憤るというのは、イメージが悪いと考えたからかも知れません。
  しかし、マルコ福音書が「憤った」と記していることは、主イエスの激しい感情を表しているだけではありません。たとえ、主イエスに対する善意からであったとしても、ご自分に近づこうとする人々を妨げてはならないという主イエスの強い決意が示されているのです。
  子どもたちは、小さな存在にすぎませんが、主イエスは、そして父なる神は、決して見捨てることをしません。
  先ほど司式者に読んでいただいた創世記21章14~20節は、母親のハガルと息子のイシュマエルの話です。荒れ野で水が尽きたとき、母親のハガルは息子の死を覚悟しました。しかし、その時、神の御使いが呼びかけ、「神が子供の泣き声を聞かれた」と告げました。母親が諦めても、神は決して見捨てることはないというのです。また、子どもがかわいいとか可哀想だからというのではなく、神がアブラハムに約束したからだというのです。
  主イエスのもとに来る子どもたち、それがどのような理由によるのであれ、主イエスはその子どもたちを喜んで迎えてくださるのです。主イエスがお怒りになったのは、主イエスのもとに来ようとする人々を妨げたからでした。それほどに、主イエスはご自分のもとに来る人々を待ち望んでおられるのです。

  子どもを祝福するという出来事は、その後に記されている「金持ちの男」と対称的です。永遠の命を求めて主イエスのもとに来た金持ちは、主イエスに従っていくことを拒み、去っていきました。この金持ちの男は、神の戒めを子どもの時から守ってきたという善人です。しかし、結局、主イエスに従うことを拒み、去っていきました。
  それに対し、今日の御言葉に登場する子どもたちは、まだ神の戒めを守るような年齢でもなかったのでしょう。ただ、大人に連れてこられただけでした。主イエスの所に連れてこられた理由も全く分からなかったかも知れません。しかし、主イエスは彼らを喜んで受け入れたばかりか、腕に抱き、祝福されたのです。
  「子どものように神の国を受け入れる」とは、神の国に入る条件ではありません。むしろ、神が彼らを受け入れてくださっているのです。この幼い子供たちのためにも、主イエスは十字架にかかってくださるのです。全ての人の罪が贖われ、神の国に入るようにと、主イエスは十字架への道を歩んでおられるのです。「人にはできないが、神にはできる」と主イエスはおっしゃいました。
  自分の価値観に縛られ、それを捨てることも主イエスに従うこともできなかった金持ちの男は、主イエスの前から去っていきました。ただ主イエスに従うという簡単なことが、この男にはらくだが針の穴を通るほどに難しかったのです。



「家は岩の上に建てなさい」 2015年11月15日の礼拝

2016年03月14日 | 2015年度
詩編118編22~23節(日本聖書協会「新共同訳」)

 家を建てる者の退けた石が
 隅の親石となった。
 これは主の御業
 わたしたちの目には驚くべきこと。


マタイによる福音書7章24~27節(日本聖書協会「新共同訳」)

  「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

  約1年4ヶ月にわたって読んできた「山上の説教」の最後の部分になりました。
  「岩の上に家を建てる賢い人と、砂の上に家を建てる愚かな人」の譬えと言われ、よく知られている主イエスの教えの一つです。
  この譬えは、パレスチナの気候風土を背景にして語られています。「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲う」というのは、パレスチナによく見られる水のない川、涸れ川とも呼ばれ、現地ではワジと呼ばれます。
  ワジは、ふだんに水が流れていませんが、雨が降ると、川に水が集まり、急流となります。
  ずいぶん前にイスラエルを旅行した時、現地のガイドが「しばらく前、ワジを走っていたバスが急流に巻き込まれ、転覆した」と、話してくれたことがありました。
  主イエスが語られた譬えは、このような自然環境を前提にしているのです。ですから、この譬えにおいて、土台が岩か砂かという地盤の強度は重要な要素ですが、家を襲う雨、洪水、強風も重要な要素となっています。
  このような災害で大きな被害を受けないために、岩の上に家を建てることが重要なのです。この「岩」は、岩山と考えた方がよいでしょう。実際、パレスチナでは、古い町の多くは、岩山に建設されました。エルサレムやベツレヘムなどもそうです。これは敵に襲われた時の防御のためと言うこともありますが、自然災害によって被害を最小限に留める意味もあったのです。

  「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」とあります。これらの言葉というのは、いわゆる山上の説教のことで、これまで主イエスが人々に語ってこられた教えと言って良いでしょう。
  これまで、山上の説教が、信仰者の生活の指針として読まれることが多く、そのため、律法であるかのように受けとめられることも多くあったようです。しかし、主イエスが語られたのは、救われるための条件としての律法ではなく、救いの中に入れられている人々のための生活の指針です。それは一言で言いますと、神を信頼して生活するようにということです。ですから、主イエスの言葉を聞いて行うというのは、神を信頼して生活をするということです。
  神を信頼して生活することにより、どのような困難や苦境にあっても、その人は倒れることはないというのです。
  主イエスの譬えは、この世での生活にはさまざまな困難や苦境があることが前提になっていると言って良いでしょう。それは、山上の説教の最初から言われていたことです。
  たとえば、「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5章10~12節)という言葉です。

  フィリポ・カイサリアという町の近くでの出来事です。
  「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』 シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。』」(マタイ16章15~18節)
  主イエスがおっしゃった「この岩の上にわたしの教会を建てる」という言葉には、二つの解釈があります。一つはローマ・カトリック教会の解釈で、もう一つはプロテスタント教会の解釈です。
  ローマ・カトリックでは、この「岩」というのは、シモン・ペトロのことだと解釈しています。ペトロというのは主イエスが付けたあだ名で、「岩」という意味です。彼の本名はシモンですが、これは旧約時代からの良くある名前です。聖書の中にもこの名の人が多く登場します。主イエスの弟子にも「熱心党のシモン」と呼ばれた人がいます。ですから、他のシモンと区別するため、一人ひとりひとりにあだ名を付けられたのです。そして、主イエスは、最初に弟子となったシモンにペトロ(岩)という名前をつけられました。
  そこで、「岩の上に教会を建てる」というのは、ペトロという使徒の上に教会を建てるという意味だと、ローマ・カトリック教会では考えられているのです。ペトロは、ローマの教会の初代の監督であり、代々のローマ教皇は使徒ペトロの使徒権を継承しているというのが、彼らの信仰です。
  それに対し、プロテスタントの諸教会は、主イエスがおっしゃった「岩」とは、ペトロという人間ではなく、彼が言った「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白のことだと考えています。
  とは言いましても、信仰を告白するという人間の行為の上に教会が建つということではありません。その告白の内容である「生ける神の子キリスト(メシア)」こそ、教会が建っている岩なのです。
  使徒パウロがコリントの教会に宛てた手紙の中で、次のように語っています。
  「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。」(Ⅰコリント3章10~11節)
  キリスト以外を土台として教会を建てることはできません。私たちが「教会とは何か」ということを考える時、これらの言葉はいつも重要です。
  詩編118編22~23節に、次のような言葉があります。
  「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。」
  隅の親石というのは、建物を建てる時の重要な石で、これの善し悪しはその建物に大きな影響を与えると言われます。「家を建てる者」とは、建築の専門家です。その専門家が「これは役に立たない」と言って捨てた石が、隅の親石という重要な石となったというのです。そして、それは神の働きに他ならないと言うのです。
  新約聖書の中でもこの言葉が良く引用されますが、これは主イエス・キリストを指していると説明されます。
  律法学者や祭司たちという専門家たちが、神を冒涜しているとして、主イエスを裁判にかけ、異邦人に引き渡し、殺させました。まさに、彼らは主イエスを捨てたのです。しかし、神は、主イエスを三日目によみがえらせ、救い主としてお遣わしになったメシア(キリスト)であることを、明らかにされたのです。このキリストこそ、神が教会を建てる土台、岩、隅の親石だったのです。
  主イエスは、岩の上に家を建てよとおっしゃいました。キリストという岩の上に家を建てることにより、どのような困窮や苦況にあろうとも、立ち続けることのできるとおっしゃっておられるのです。
  今年度の私たちの教会の年間標語は「キリストの勝利に生きる」。聖句はヨハネ福音書16章33節「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」です。
  「岩の上に家を建てよ」との教えは、山上の説教の最後の言葉ですが、それは、私たちが喜んで主イエスを「私の神、私の救い主」と信じるようにということを、私たちに伝え、またこれこそが山上の説教が人々に語られた目的であることを示しているのです。



「誰が天の国に入れるのか」 2015年11月8日の礼拝

2016年03月12日 | 2015年度
詩編6編2~5節(日本聖書協会「新共同訳」)

 主よ、怒ってわたしを責めないでください
 憤って懲らしめないでください。
 主よ、憐れんでください
   わたしは嘆き悲しんでいます。
 主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ
 わたしの魂は恐れおののいています。
 主よ、いつまでなのでしょう。

 主よ、立ち帰り
   わたしの魂を助け出してください。
 あなたの慈しみにふさわしく
   わたしを救ってください。


マタイによる福音書7章21~23節(日本聖書協会「新共同訳」)

  「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

  山上の説教が終わりに近づき、警告の言葉が続いております。その中でも今日の御言葉は、特に厳しい言葉と言えます。
  「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。」
  主イエス・キリストに向かって「主よ」と呼びかけることは、信仰を告白しているとも言えるでしょうし、救いを求めているとも言えるでしょう。
  コリントの信徒への手紙一12章3節には、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」とあります。主イエスを「主」と告白することは、人間の知恵や常識からなされるのではなく、聖霊の働きだというのです。しかし、主イエスは「わたしに向かって、『主よ』と呼びかけたとしても、天の国に入るとは限らない」と言われるのです。なんと厳しいことでしょうか。いったい、誰が天の国に入ることができるというのでしょうか。
  主イエスは、さらに言葉を続け、つぎのようにおっしゃっておられます。
  「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」。
  主イエスの御名を使って、預言や悪霊払い、奇跡を行ったということは、神の御業を行ったと言ってもよいでしょう。預言や悪霊払い、奇跡は主イエスの力によって行われたことなのですから。さらには、それらの預言や悪霊払い、奇跡には、神が関与していると言ってもよいでしょう。それにもかかわらず、「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。」と言われるというのです。いったい、何故なのでしょうか。

  主イエスの名前を使って預言や悪霊払い、奇跡を行うこと自体は悪いことではありません。マルコ福音書9章38~40節に、つぎのような出来事が記されています。
  「ヨハネがイエスに言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。』イエスは言われた。『やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。』」。
  ここでは、主イエスに従ってこず、無断で主イエスの名前を使って奇跡を行っている人々に対して、主イエスはとても寛容な態度をとっておられます。主イエスの名前を使っての預言や悪霊払い、奇跡は、それ自体悪ではないということです。むしろ、困っている人を助けるのですから、良いことでしょう。それでは、どんな理由で、主イエスは「不法を働く者ども」とおっしゃるのでしょうか。
  今日の御言葉は、その前に記されている「偽預言者を警戒しなさい」という警告と関連しているのです。
  申命記13章2~4節に、つぎのようなことが記されています。
  「預言者や夢占いをする者があなたたちの中に現れ、しるしや奇跡を示して、そのしるしや奇跡が言ったとおり実現したとき、『あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか』と誘われても、その預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。」
  しるしや奇跡は神の力と考えられていましたが、それらを行ったとしても間違った神々への誘いをするなら、その人々は偽預言者であり、彼らに従ってはならないと警告されているのです。
  使徒言行録8章9~24節に、魔術師シモンの話があります。使徒たちが人々に手を置くと、聖霊を降ったのを見て、魔術師シモンは、その力を自分にも与えてほしいとお金を持ってきたと記されています。また、使徒言行録19章には、ユダヤ人の祈祷師たちが「パウロが宣べ伝えているイエス」の名によって悪霊を追い出そうと試みたとあります。これらはいずれも失敗に終わりましたが、魔術師シモンにしてもユダヤ人の祈祷師たちにしても、自分たちの成功のために神の力を利用しようとしていたことは明らかです。
  彼らの動機が、いつも不純であったとは限りませんが、純粋に人々を癒したい、助けたいと思う気持ちから預言や悪霊払い、奇跡を行っていたとしても、また、そのような特別な力だけではなく、良い行い、人を助ける行為も同じですが、いつしか相手を思いやる気持ちよりも、自分自身を高く評価してほしいという気持ちにすり替わってしまうことがあります。今日の主イエスの御言葉はその事を警告しているのです。
  「わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」と訴える言葉の中に、「私はこれだけ良いことをしてきたではありませんか」という自分の良い業を誇る気持ちが強く表れているのです。
  たとえ私たちが預言や悪霊払い、奇跡を行ったとしても、それは私たちの力ではありません。神が私たちをとおして働いてくださっているのです。それ故に、神を差し置いて自分を誇るようなことはあってはならないことです。
  ルカ福音書18章10~14節に、主イエスの譬えが記されています。
  「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
  この譬えに登場するファリサイ派の人は、悪人ではありません。それどころか、善人であり、信仰的にも立派な人と言えます。しかし、彼は義とされなかった、と主イエスはおっしゃるのです。
  それに対し、徴税人は悪人ではありませんが、人々から立派な人間と評価される人ではなかったようです。徴税人という職業に対する、その当時の人々の悪感情からかも知れません。しかし、この徴税人は神から義とされて家に帰ったというのです。
  この譬えの主旨は、最後の部分の「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」に示されています。
  徴税人が義とされたのは、へりくだりという善行によるというのではありません。この徴税人は、神の御前に罪を悔い改めているのです。これこそ、神が求めておられることなのです。
  主イエスも「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5章32節、マタイ9章13節)と、告げておられます。また、見失った羊の譬えや無くした銀貨の譬えを語られた時、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカ15章7、10節)とも語っておられます。
  先ほどのファリサイ派の人と徴税人の譬えを振り返りますと、ファリサイ派の人は、そばにいる徴税人を見下して「この徴税人のような者でもないことを感謝します」と祈っているのです。自分の善行を誇り、罪を悔い改めることもしないのです。その結果、他人を見下すようになり、しかもいかにも信仰深く装って、神の御前に高ぶっている姿をさらけ出しているのです。

  今日の御言葉に戻りましょう。
  「大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」。
  最初に申し上げたように、この御言葉は警告なのです。決して、天の国に入るための条件が語られているのではありません。すでに天の国に入ることを約束されている私たちが陥りやすい罠についての警告なのです。
  自分の善行、信仰深さを誇り、悔い改めることを忘れ、隣人を見下すようにならないようにとの警告なのです。主イエスが語られた譬えに登場するファリサイ派の人々のようにならないよう、注意しなさいということです。私たちに、いつでもあのファリサイ派の人のようになってしまうという危険が忍び寄ってくるという警告です。
  ある牧師が、いつも言っていたことがあります。「ただ神を信じることによって救われることを信じるのは難しい。特に『信仰義認』を信じ受け入れることは難しい」ということです。まじめな信仰者ほど、これは難しいというのです。もちろん、不真面目であって良いということではありません。しかし、まじめに信仰生活をしていくと、まじめに信仰生活をしていることを誇るようになりやすいのです。礼拝を欠かさず守っている。献金を良くしている。奉仕を良くしている。そういったことを誇るようになってしまいやすいのです。いつしか、神の憐れみと恵みによるということよりも、まじめに信仰生活をしていることが、救いの保証であるかのように考えてしまうことがあります。
  さらに、危険な罠が待ち受けています。「私は礼拝を欠かさず守っている。献金を良くしている。奉仕を良くしている」という思いが強くなり、周囲の人々と比べるようになります。そして、「私が、こんなにまじめに信仰生活をしているのに、あの人は何故もっと礼拝に出てこないのか、奉仕をしないのか」と非難するようになってしまうのです。口に出さなくとも、心の中で非難するのです。
  ルカ福音書10章38~42節に、次のような出来事が記されています。
  「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。『主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。』主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。』」。
  マルタは、家に来た主イエスや客たちを良くもてなすような、とてもすばらしい女性です。しかし、あまりの忙しさに、手伝いをしないマリアを恨めしく思ったのでしょう。つい主イエスに、マリアを注意してほしいと言ってしまったのです。マルタの言い分はもっともなことです。何もしないマリアは、非難されるのは当然のことでしょう。しかし、主イエスは、マリアを叱るどころか、「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」とおっしゃったのです。主イエスが話しておられる時、全てのことを中断して、ただ聞くということの大切さを語っておられるのです。マルタとマリアのどちらが正しいかということではありません。主イエスもマルタが悪いとおっしゃっておられるのではありません。私たちも二人のうちどちらが正しいかを判断する必要はないことです。
  このマルタとマリアの話は、私たちに一つの警告を与えています。それは、まじめに信仰生活をする中で、いつしか周囲の人の信仰生活を非難する危険があるということです。それは、先ほどの主イエスの譬えにでてきたファリサイ派の人と同じです。「私は、こんなにも頑張っている。それなのにあの人は・・・」という心です。
  先ほど触れた牧師の話ですが、信仰義認を心から受け入れることの難しさというのも、ここにあると言えるのです。自分が救われたことを神の恵みであると信じる一方で、他人が神の恵みで信じることが難しいということがあるのです。特に、自分にとって都合の悪い人、敵対関係にある人が救われることに納得できないという思いが起こって来やすいのです。「あの人は救われる価値があるのだろうか。」とか「人に迷惑ばかりかけているあの人が、救われるなんてことがあって良いのだろうか」と思ったりしやすいのです。それは、罪人や徴税人と一緒に食事をしている主イエスを見て、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」(ルカ15:1~2)と非難したファリサイ派の人々と同じです。自分の働きを誇ることは、ファリサイ派の人々やマルタのように周囲の人々を非難するようになりやすいのです。
  主イエスが山上の説教の終わりで警告をしておられるのは、あなた自身が神の恵みによって救われたことを、くり返し思い起こし、神に感謝しなさいということです。そして、神はあなたと同じように、恵みを持ってあなたの目の前の一人ひとりを救おうとされるのだと宣言しておられるのです。



「偽預言者を警戒せよ」 2015年11月1日の礼拝

2016年03月10日 | 2015年度
申命記13章2~6節(日本聖書協会「新共同訳」)

  預言者や夢占いをする者があなたたちの中に現れ、しるしや奇跡を示して、そのしるしや奇跡が言ったとおり実現したとき、「あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」と誘われても、その預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。あなたたちは、あなたたちの神、主に従い、これを畏れ、その戒めを守り、御声を聞き、これに仕え、これにつき従わねばならない。その預言者や夢占いをする者は処刑されねばならない。彼らは、あなたたちをエジプトの国から導き出し、奴隷の家から救い出してくださったあなたたちの神、主に背くように勧め、あなたの神、主が歩むようにと命じられる道から迷わせようとするからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。

マタイによる福音書7章15~20節(日本聖書協会「新共同訳」)

  「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」

  マタイ福音書5~7章は、山上の説教と呼ばれています。7章13~27節は、その最後に位置しており、その内容は私たち信仰者に対する警告となっています。私たちが使っております新共同訳聖書は、この部分を4つの段落に分けております。それに従っていうならば、今日の御言葉は、第二の警告の部分と言えます。
  13~14節の「狭い門から入りなさい」という警告が、私たちがなすべきことを警告しているのに対し、「偽預言者を警戒しなさい」は、外から近づいてくる危険を警告しています。そして、それは、私たち一人ひとりに向けられた警告であると共に、教会に向けられた警告でもあるのです。
  偽預言者と言われても、ピンと来ないかも知れません。預言者の偽者という意味であることは分かるのですが、そもそも預言者という存在が身近にいません。預言者そのものが良く分からないかも知れません。
  預言者といいますと、未来のことを言い当てたり、奇跡を行うというイメージがあるかも知れませんが、聖書における預言者は、神の御心を人々に伝える人々です。日本語の「預言」という言葉は、「言葉を預かる」という意味ですが、それは神から言葉を預かって人々に伝えるという意味です。
  新約聖書にも預言者が登場しますが、旧約聖書の方に、より多くの預言者が登場します。書名にもなっているイザヤ、エレミヤ、エゼキエル。また、エリヤやエリシャなども比較的よく知られているのではないでしょうか。
  エリヤやエリシャは、数多くの奇跡を起こしたことが印象的ですが、奇跡を起こすことが本来の仕事ではありません。彼らは、当時の異教徒たちや間違った信仰を持っていた人々と対決をしたのです。しかし、彼らは自分勝手にそのような対決をしたのではありません。神の命令によって、預言者として立てられ、王や一般の人々に遣わされたのです。その目的は、エジプトから脱出させてくださった神から離れようとしている人々や間違った信仰を持っている人々に警告することでした。それはイザヤ、エレミヤ、エゼキエルなども同じでした。
  エレミヤ書には、「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。」(7章2節)、「盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。」(7章9~11節)という言葉があります。
  真の神から離れていながら、エルサレムには神殿があるから、敵から攻撃されても心配ないと主張する人々がいたのです。しかも彼らの中には、宮廷で預言者の務めを担っていた人々もいたのです。
  宮廷の預言者は、王に仕える正式な預言者でした。一般の人々は、宮廷の預言者の言葉が正しいと考えていたのです。イザヤとエレミヤは祭司の務めをしていた預言者でしたが、彼らは、神がこの国を罰し、国は滅びると預言したのです。イザヤとエレミヤは不吉な言葉を広め、偽りの預言をしていると非難されました。
  しかし、後に本当に国が滅んだ時、イザヤやエレミヤこそが真の預言者であったと、人々は知ったのです。宮廷の預言者たちは、国の制度の中で正式に預言者となっていましたが、その言葉は神からのものではなく、人の耳に聞こえのよい人間の言葉を語っていたのです。
  さて、新約時代にも預言者がいたと申し上げましたが、彼らはどんな預言をしたのでしょうか。新約時代の預言者も神からの言葉を預かり、神の御心を伝えることが職務でした。その神の御心とは、全ての人々を救うために、神の独り子が遣わされたということです。そこで、新約時代の預言者は主イエス・キリストを宣べ伝えるようになり、キリスト教の伝道者となっていったのです。キリストを宣べ伝える事は、キリスト教会全体の使命であり、キリスト教会が預言者の働きをしていると言っても良いでしょう。

  主イエスが「偽預言者を警戒しなさい。」と警告され、それがどれほど危険であるか、またどのように偽預言者を見分けるかを語られました。
  偽預言者については、ヨハネの手紙一でも警告されていますので、それを見てみましょう。
  「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。」(Ⅰヨハネ4章1~6節)
  この中で、「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。」と言われていることは、特に重要です。
  「イエス・キリストが肉となって来られた」というのは、神の独り子である主イエスが真の人間になられたということです。これは、いつの時代でも、多くの人々のつまずきとなりました。
  当時、神を信じる人は多くいましたが、神が人間になるということを受け入れることができませんでした。人間は不完全な存在です。完全である神が、不完全な存在になることなどあり得ないことでした。神が姿を変え、人間のように見せかけるということなら受け入れることはできたでしょう。しかし、完全に人間になることなど、考えられないことでした。また、そうしなければならない理由がありません。
  ところが、キリスト教会は、真の神の独り子である主イエス・キリストが、完全に人となったと信じ、宣べ伝えているのですから、当時の人々は、キリスト教会を全くの非常識であり、無知無学の輩と考えたのです。
  ヨハネの手紙は、神が人間になるということは、人間の知恵によっては理解できないし、非常識にしか見えないが、しかし、これこそ神から遣わされた聖霊による真理であると宣言しているのです。
  主イエス・キリストが十字架にかけられ、三日目に復活されたことも同じです。このことは、人間の常識では理解できません。十字架にかけられて死んだということだけであれば、当たり前のことであり、当時そのような死刑はしばしば行われていましたので、特別のこととは思わないでしょう。
  しかし、その十字架にかけられて死んだ男が、神であるとか救い主だと言うのは、ばかばかしいかぎりでした。まして、その死んだ男が生き返ったという主張は、愚か者の戯言としか見えなかったでしょう。
  使徒パウロは、人々のそのような反応について、つぎのように語っています。
  「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。・・・世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。・・・神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」(Ⅰコリント1章18~30節)
  使徒パウロは、人間の救いは、人間の知恵や力によるのではなく、ただ神の力によるのだと言っているのです。しかも、それこそが神の御計画だというのです。自分で悟ったとか、自分の努力の結果だと人間に言わせないようにと、人間には理解することができず、受け入れることもできない方法によって、人間を救おうと神が御計画なさったというのです。
  そして、神の独り子が真の人間となられたこと、十字架にかかられ、復活されたことを信じ受け入れることは、神から遣わされた聖霊なる神による外にないようにされたのです。これこそ、現代の預言者であるキリスト教会と私たちキリスト者にゆだねられている神の御言葉であり、救いの言葉です。この救いの言葉を、人々に伝えていかねばなりません。それが、現代の預言者であるキリスト教会の使命なのです。

  最初に、「偽預言者を警戒しなさい」は、外から近づいてくる危険を警告していると申し上げました。このような警戒は必要なことですが、また、私たち自身が偽預言者となってはならないという警告でもあることを心に留めておくべきでしょう。
  主イエス・キリストとその出来事を私たち人間の知恵や経験の中で理解し判断しようとする時、私たちはいとも簡単に偽兄弟、偽預言者になってしまうのです。聖霊が与えてくださった信仰に立ち続け、聖霊によってキリストを告白し、宣べ伝えていくことが大切です。聖書を通して、礼拝を通して、聖霊は私たちにキリストの福音を語り続けています。その御言葉に心を向けていきましょう。
  世の人々は必ずしも、私たちが語ることに耳を傾けないかも知れません。かつて、イザヤやエレミヤの言葉を、当時の人々が斥けたように、私たちの語る御言葉を斥けるかも知れません。しかし、それでも、私たちは人々が求める言葉、耳に聞こえのよい言葉ではなく、神が語るようにと命じられた言葉を語っていくべきです。それが現代の預言者である私たちに与えられている使命であり、責任なのです。