八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「キリストの最初の弟子たち」 2014年7月6日の礼拝

2014年07月31日 | 2014年度
エレミヤ書16章16~18節(日本聖書協会「新共同訳」)

  見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる。わたしの目は、彼らのすべての道に注がれている。彼らはわたしの前から身を隠すこともできず、その悪をわたしの目から隠すこともできない。まず、わたしは彼らの罪と悪を二倍にして報いる。彼らがわたしの地を、憎むべきものの死体で汚し、わたしの嗣業を忌むべきもので満たしたからだ。

マタイによる福音書4章18~22節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

  「天網恢々(かいかい)疎(そ)にして漏らさず」という言葉があります。夜空の星を天の網に見立て、天の網は粗くて獲物を取りこぼすことが多いように見えるが、実は目が細かく、悪を見落とすことない。悪には必ずその報いがあるという意味です。
  主イエスがペトロとその兄弟アンデレを弟子にした時、主イエスは「人間をとる漁師にする」とおっしゃいました。これは旧約聖書(エレミヤ16:16)の中で、神が人々をその悪の故に罰せられる時、誰一人逃れることはできないということを、魚をとる漁師に例えたことと関係があるかも知れません。また、ペトロやアンデレが実際に漁師であったことも関係するでしょう。
  主イエスがペトロたちに「人間をとる漁師にする」とおっしゃったのは、罪人を罰するための人々と言うことなのでしょうか? そうではありません。そのことは、主イエスご自身が「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ9:32)とおっしゃっておられますし、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」ともおっしゃっておられます。ですから、主イエスが弟子たちに「人間をとる漁師にする」とおっしゃったのは、罪人を罰するためではなく、悔い改めにいたらせるために、彼らをとらえる漁師にするとおっしゃっているのです。
  さて、マタイ4章18~22節には、最初の弟子が選ばれた出来事が記されています。主イエスの弟子たちの中でも中心的な位置にあった人々は12弟子と呼ばれました。ここに登場するペトロとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネは、その12弟子の中でも特に中心的な人々でした。
  しかし、マタイ福音書は、12弟子がどのように集められたかに関心があるのではありません。福音書は12人全てについて記してはおらず、他に徴税人であったマタイが弟子になった様子を伝えるだけです。
  そして、五人の弟子たちの召命物語は、状況の違いはありますが、ほとんど同じ構成で記されています。すなわち、主イエスが弟子にしようとする人々を見て、彼らをお呼びになりました。そして、彼らはすぐに従ったという流れになっています。
  マタイ福音書が告げようとしているのは、弟子たちがどのように召されたかと言うことの報告ではなく、キリストの弟子になることは、こういう事だと言うことを示すことでした。すなわち、キリストがお呼びになり、人はそれに応えて従うということです。人々の方から主イエスのもとに来て弟子にしてほしいと願い出るのではないのです。
  そのように考えますと、私たちが誰かの弟子になるという時、先生となる人が実力を示し、人々から高く評価されている人を選んで弟子入り志願をするのではないでしょうか?
  マタイ福音書は、主イエスの名声が高まる以前に四人に声をかけて弟子にしたというのです。もし、四人が見知らぬ人から声をかけられて弟子にすると言われても、のこのこ付いて行くでしょうか?
  ルカ福音書5章は、マタイとは違う形でペトロが弟子になった出来事を記しています。主イエスが多くの人々に話をするために、ペトロの舟に乗り、岸から少し離れたところから語られました。話し終えると、沖の方にこぎ出させ、ペトロに網をおろすように言いました。ペトロは「私たちは、夜通し苦労しましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と言って、網をおろしたところ、おびただしい魚が捕れました。驚いたペトロは「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と叫び、ひれ伏しました。主イエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」とおっしゃって、ペトロを弟子にしたのです。
  マタイ福音書より、ルカ福音書の方が、現実にありそうなことです。それでは、マタイ福音書は間違っているのでしょうか。ここで大切なことは、どちらが正しくてどちらが間違っているかと言うことではありません。マタイの目的は、弟子になるとは、キリストの呼びかけに従うことだと強調することなのです。
  旧約聖書にも、預言者たちは神に呼びかけられ、彼らはその呼びかけに応え、従ったと記されています。マタイ福音書は、旧約の預言者と同じように、弟子たちもキリストに呼びかけられ、彼らはそれに応えて従ったと告げているのです。
  弟子が先生を選んで弟子入りをするのではなく、キリストの弟子はキリストが弟子を選ぶのです。
  スポーツの世界ですと、スカウトが才能を持っていそうな人を捜し出して、勧誘することがあります。主イエスがペトロやアンデレ、ヤコブ、ヨハネを選んだのは、彼らになんらかの才能があると見抜いたからなのでしょうか? 聖書はその事について何も語りません。彼らは、特に教養があるとか、信仰深いと言うわけではありません。彼らよりもふさわしい人間は他にもいたかも知れません。律法学者のような聖書の専門家が数多くいたはずですし、信仰深い人なら他にもいたことでしょう。しかし、そういう特に優れた人が選ばれたというのではなく、一介の漁師にすぎない者が選ばれたのです。
  彼らだけではありません。旧約の預言者も、何故彼らが選ばれたのかを説明していません。聖書は、神が何故彼らをお選びになったか、何も説明しません。
  私たちも、神から選ばれキリスト者となりました。また、牧師、長老、またその他の奉仕者に立てられています。「何故、わたしが選ばれたのか?」と不思議に思うことがあります。もっとふさわしい人がいたはずだと思うこともあります。しかし、それを神に尋ねても、「このわたしがあなたを選んだ」という答えしか返ってきません。
  モーセのことを思い起こしてみてください。モーセは、エジプトの王女に育てられ、教育と訓練を受けたと考えられています。しかし、彼が神から召されたのは、若い時ではなく、80才になってからでした。神からエジプトへ行き、神の民を導き出せと言われて、彼が恐れたのも当然のことでした。聖書はそのときのモーセの狼狽ぶり、また何とか逃げ出そうとする様子を記していますが、私たちにも、そのときのモーセの気持ちが良く分かるのではないでしょうか?
  そのときも、神がモーセに告げられたことは、「この私があなたを選んだ」、「「語るべき言葉、為すべき事は私があなたに告げる」ということでした。なおもぐずぐずと渋っているモーセに、兄のアロンを助手として側におらせると言って、ついに承知させるのです。
  私たちは神に選ばれてキリスト者となったのです。周囲の人ばかりでなく、自分自身でもふさわしくないと思うこともあるでしょう。しかし、そのとき、私たちがしなければならないのは、周囲の評価を気にしたり、自分の知恵や才能や経験に頼ろうとすることではありません。「私があなたを選んだ」という神の御言葉を思い起こすことなのです。私たちをキリスト者にしているのは、周囲の評価や自分の力や決意によらないからです。神の選びであり、神の力によることなのです。
  私たちは、周囲の評価や自分の力のなさをふり返って、大きな不安に襲われるかも知れません。「しかし、お言葉ですから」を私たちの言葉として、主イエス・キリストに従っていきましょう。


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「闇に射し込む光」 2014年6月29日の礼拝

2014年07月28日 | 2014年度
イザヤ書8章23節b~9章6節(日本聖書協会「新共同訳」)

 先に
 ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが
 後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた
 異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。
 闇の中を歩む民は、大いなる光を見
 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
 あなたは深い喜びと
   大きな楽しみをお与えになり
 人々は御前に喜び祝った。
 刈り入れの時を祝うように
 戦利品を分け合って楽しむように。
 彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を
 あなたはミディアンの日のように
   折ってくださった。
 地を踏み鳴らした兵士の靴
 血にまみれた軍服はことごとく
 火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
 権威が彼の肩にある。
 その名は、「驚くべき指導者、力ある神
 永遠の父、平和の君」と唱えられる。
 ダビデの王座とその王国に権威は増し
 平和は絶えることがない。
 王国は正義と恵みの業によって
 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。
 万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。



マタイによる福音書4章12~17節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
 「ゼブルンの地とナフタリの地、
 湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、
   異邦人のガリラヤ、
 暗闇に住む民は大きな光を見、
 死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
  そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。


  主イエスがガリラヤで伝道を開始されました。マタイ福音書は、それを預言者イザヤの預言が実現したことだと説明しています。
  「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」は、預言者イザヤの言葉です。マタイ福音書は、預言者イザヤが告げた「光」こそ、イエス・キリストであるというのです。
  聖書の中で、主イエスを指し示す比喩として「光」という言葉は何度か出てきますが、特にそれを強調したのはヨハネ福音書です。その福音書の冒頭に、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネ1:9)とあり、主イエスご自身が「わたしは世の光である」(ヨハネ8:12、9:5、12:46)と宣言なさっておられます。
  さて、マタイ福音書は、主イエスがガリラヤで伝道を開始されたのは、闇に光が射し込む出来事だと告げています。
  ガリラヤが「異邦人のガリラヤ」と呼ばれたのは、歴史的、宗教的事情によるでしょうが、「暗闇」、「死の陰の地」と呼ばれるのは、希望のない世界という意味で、それはガリラヤだけではありません。ユダヤ人の宗教的中心地であるエルサレムもまた「預言者たちを殺した町」(マタイ23:37~39)であり、かつて主イエスを殺そうとした町、闇が支配する町であると、マタイは告げています。そして、ガリラヤで伝道を開始された主イエスの最終目的地は、ガリラヤではなくエルサレムであり、しかも十字架におかかりになるためにその地に向かわれるのです。それは、すべての人が十字架にかかられたキリストによって救われるためでした。
  マタイ福音書はイザヤ書を引用し、ガリラヤ伝道の開始がその御言葉を実現したと告げていますが、ガリラヤだけの救いを考えていたわけではありません。むしろ、全世界が「暗闇」、「死の陰の地」であり、私たちもまた「暗闇に住む民」、「死の陰の地に住む者」であるということです。主イエスは、私たち全ての者を救うために、ガリラヤで活動を開始されたのです。
  私たちが「暗闇に住む民」、「死の陰の地に住む者」であることに納得できないと言う人がいるかも知れません。また反対に、聖書に指摘されるまでもなく、人生や社会をふり返るだけで、希望を持てないことは、誰でもわかっているという人もいるでしょう。
  それぞれの言い分は、もっともなことです。しかし、私たちが暗闇に住むとか、闇の力に支配されていることは、部分的に理解しているだけで、本質的なことは理解できません。神から救われた後でなければ、それまでの状態が闇であり、闇に支配されていたことを知ることができないのです。言い換えるならば、信仰によって、闇とその支配を知るのです。
  光のないところに影は出来ません。それに慣れてしまえば、多少の不都合を感じたとしても、「自分だけではない、みんな同じ」と自分に言い聞かせ、半分諦め、半分安心してしまうのです。しかし、太陽が現れると、それ以前は闇であったこと、また私たちには影があると気づかされます。
  私たちの生きている場所の問題だけではありません。人間関係や私たち自身が闇の力に支配されているのです。
  マタイ福音書は、ガリラヤにだけ光が射し込んだと言っているのではありません。全世界と、そこに生きるすべての人に光が射し込んだと告げているのです。そしてさらに、聖書は、「以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっている」(エフェソ5:8)と告げています。キリストという光によって、今、私たちは光となっているのです。ここに、聖書が私たちに語ろうとする最も重要な目的があります。
  私たちが闇にいるから、努力して光になれ、と言うのではありません。キリストを信じて生活している私たちは、すでに光の中を歩み始めていると告げているのです。そして「光の子」(エフェソ5:8)、「神の子」(ガラテヤ3:26、4:5、エフェソ1:5、フィリピ2:15、Ⅰヨハネ3:1、2、他)とされているのです。
  自分自身をふり返る時、自分が光とされているとは思えないでしょう。しかし、信仰によって自分が闇に支配されていたことを知るのと同じように、信仰によって私たちが光とされていることを知るのです。
  月が自分では光ることが出来ず、太陽の光を反射して夜空に輝くように、私たちもキリストの光を受け、その光を人々へもたらすのです。



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「伝道を開始される主イエス」 2014年6月22日の礼拝

2014年07月26日 | 2014年度
レビ記26章11~12節 (日本聖書協会「新共同訳」)

  わたしはあなたたちのただ中にわたしの住まいを置き、あなたたちを退けることはない。わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。

マタイによる福音書4章12~17節 (日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
 「ゼブルンの地とナフタリの地、
 湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、
    異邦人のガリラヤ、
 暗闇に住む民は大きな光を見、
 死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
  そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。


  主イエス・キリストが、いよいよ伝道を開始されます。それについて、マタイ福音書は「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」と記しています。このように記されていると、主イエスが身の危険を感じて、姿を隠したような印象を受けますが、そうではありません。
  身を隠そうとするなら、ガリラヤを避けるはずです。というのも、洗礼者ヨハネを捕らえ、殺害したのは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスだからです。ですから、身を隠すためにガリラヤへ行かれたとは考えられません。
  では、何故、主イエスはガリラヤへ行かれたのでしょうか。それは、ガリラヤで伝道するためであり、かつて天使が父ヨセフに告げたように、「自分の民を罪から救う」ためでした。そのことは、マタイ4:14-16で預言者イザヤの言葉が引用されていることからも明らかです。
  「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」というのは、ガリラヤで伝道を開始する時が来たということです。
  主イエスが伝道を開始されたのがエルサレムではなく、ガリラヤであったことは重要です。と言いましても、それは、ガリラヤがエルサレム以上に重要だということではありません。主イエスは、最終的にエルサレムに向かわれます。しかし、まず伝道されたのはガリラヤでした。
  主イエスがガリラヤで伝道された理由を、人口が多かったとか、経済的に豊かであったとか、新しい考えを受け入れやすい土地柄であったと説明されます。そのような面があったことは確かでしょう。しかし、決して伝道しやすかったということではありません。福音書は、ガリラヤにおいて多くの妨害があったことを記していますし、ルカ福音書によれば、両親や兄弟たちと共に長年生活したナザレでは、受け入れられないだけではなく、命を奪われそうになったとあります。
  マタイ福音書は預言者イザヤの言葉を引用し、ガリラヤ伝道が神の御計画であると指摘しています。
  旧約の時代、預言者イザヤは、北のイスラエル王国が滅んだこと、その住民が捕囚として遠くの地へ移住させられ、他国の住民が住まわせられたことを、神の裁きだと告げました。ガリラヤには異邦人が住むようになり、イスラエルの罪とそれに伴う悲惨と屈辱を象徴するものとなったのです。その絶望の状態が大きな希望に変えられると預言したのが、マタイが引用したイザヤ書の言葉でした。
  しかし、そのイザヤ書にある「異邦人のガリラヤ」の言葉は、ガリラヤを見下す根拠となってしまいました。ヨハネ福音書に「ガリラヤからからは預言者は出ない」というユダヤ人の言葉がくり返し出てくるのは、そのような状況を示しています。古い伝統を守るエルサレムの指導者や住民たちは、ガリラヤを「神から見捨てられた地」、「純粋な信仰を失った人々」とみなしていたのかも知れません。しかし、神は決して見捨てないのです。それが、神の御子がガリラヤで伝道された理由です。
  主イエスは、ガリラヤ中を回られました。(マタイ4:23、9:35) そして、「イスラエルの家の失われた羊のところに遣わされている」(マタイ15:24)と宣言され、弟子たちを各地に派遣される時も「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(マタイ10:5)とお命じになりました。
  ガリラヤ中を回られる主イエスに、レビ記26:12の「わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。」とおっしゃった神の姿を見るべきでしょう。
  また、「カファルナウムに住まわれた」という言葉は、そこを拠点にガリラヤ中を伝道されたことを示していますが、それだけではありません。「わたしはあなたたちのただ中にわたしの住まいを置く」(レビ記26:11)とおっしゃった神の言葉を、神の御子キリストが実践しておられるのです。
  主イエスは、信仰の中心地とされるエルサレムではなく、まずガリラヤへ伝道を始められました。それは、主イエスご自身が語られた、迷いはぐれた一匹の羊を捜して、山や野へ出かけていく羊飼いの姿そのままです。
  「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(マタイ18:14)、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(ルカ15:7)。このようにおっしゃって、主イエスはガリラヤへと向かわれたのです。
  しかし、主イエスの最終目的地は、ガリラヤではありません。エルサレムこそ最終目的地であり、そこですべての人を罪から救うために、十字架におかかりになられたのです。
  その後、ガリラヤは、復活なさった主イエス・キリストが、弟子たちを全世界へ派遣する出発地となりました。そして、弟子たちが伝えた福音は私たちのもとへ届けられました。その福音を受けた私たちが、新たな福音の出発地とされています。神の力と導きにより、この使命を果たしていきましょう。

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「神の子とされている」  2014年6月15日の礼拝

2014年07月17日 | 2014年度
ホセア書2章1~3節

 イスラエルの人々は、その数を増し
 海の砂のようになり
 量ることも、数えることもできなくなる。
 彼らは
 「あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)」と
 言われるかわりに
 「生ける神の子ら」と言われるようになる。
 ユダの人々とイスラエルの人々は
   ひとつに集められ
 一人の頭を立てて、その地から上って来る。
 イズレエルの日は栄光に満たされる。
 あなたたちは兄弟に向かって
 「アンミ(わが民)」と言え。
 あなたたちは姉妹に向かって
 「ルハマ(憐れまれる者)」と言え。


ローマの信徒への手紙8章12~17節

  それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

  教会の暦で「子どもの日・花の日」は先週でしたが、ペンテコステの行事と重なりましたので、一週間ずらして、今日「子どもの日・花の日」の礼拝を行っています。
  残念ながら、今、この礼拝堂に幼い子どものたちはおりませんが、礼拝に来ておられる皆さんのお子さんやお孫さん、さらには教会の近隣の子どもたちが健やかに成長し、神に愛され、神を愛する人間になるよう願い、礼拝しましょう。
  さて、福音書には、主イエスが幼子たちを慈しんだと記されています。
  人々が子どもを連れてきて、祝福してもらおうとしましたが、弟子たちがそれを遮り、叱りつけました。それを見ていた主イエスが憤ったというのです。そして、「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃって、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福されました。(マルコ10:13-16)。
  子どもには邪気がないとか罪がないということなのでしょうか?
  それに対して、聖書は「人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ」(創世記8:21)と教えています。
  主イエスがおっしゃったのは、幼いから救われるということではなく、すべての人を救うことが、神の御心だということなのです。ですから、幼子だけではなく、どのような人々も主イエスのもとに来たいと願う人々を、主は喜んで迎えてくださるのです。事実、話を聞こうとして近づいてきた罪人を、主イエスはあたたかく迎えられました。周囲には、それを非難する人々もいましたが、主イエスはいなくなった羊をさがしに行く羊飼いの話をし、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人々についてよりも大きな喜びが天にある」とおっしゃっておられます。(ルカ15:1-7)
  ここで注意しておくべき事は、主イエスは、罪という問題を放置しているのではないということです。
  主イエスは、私たちに罪を悔い改めるように告げ(マタイ4:17)、「あなたの罪は赦される」(マタイ9:2)と宣言なさいます。しかも、罪の赦しを宣言するだけではなく、そのために、十字架におかかりになったのです。
  使徒パウロはローマの信徒への手紙5:6-11で、キリストが十字架にかかってくださったことによって、罪人であった私たちに、神の愛を示され、義としてくださり、神と和解させてくださったと告げています。この中で、特に注目すべき事は、かつて私たちが神に対して罪人であったことについて、「神の敵であった」と言われていることです。すなわち、神に罪を犯したということは単に失敗したということではなく、故意に神に反逆し、神の御業を次々と台無しにしているということなのです。そのような敵である私たちを、神は愛してくださり、その罪を赦し、和解の手を差し伸べてくださったのです。
  ですから、私たちが神から愛されることは、当然のことではなく、全くありえないことなのです。しかし、そのありえないことを、神はしてくださったのです。しかも、私たちを神の子としてくださったのです。(ローマ8:14、ガラテヤ3:26)
  そうです! 私たちは神の子なのです。この事実を、しっかり心に留めましょう。
  「神の子らしくない」と、人々は言うでしょう。私たちも自分自身をふり返る時、とてもそのようには思えないことが、多くあるでしょう。しかし、私たち自身であろうと、周囲の人々であろうと、私たちが神の子であるという事実をくつがえすことは出来ません。なぜなら、私たちを神の子としてくださっているのは、神ご自身だからです。(ローマ8:33)
  私たちが神に敵対していた時に、神は私たちを愛してくださったのです。その神の愛から私たちを引き離すことの出来るものは何一つないのです。(ローマ8:35-39)
  私たちは日々の生活の中で、私たちが神の子とされ、また愛されていることを疑わせようと、サタンの力が働いています。そのサタンの力を退けるために、日曜日毎の礼拝において、神に愛されていることを確認することが、とても大切です。神の招きに応え、礼拝を献げましょう。それとともに、神の子にふさわしく生活をすることが出来るよう、力と支えと導きを求めましょう。

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「キリストの証人としての教会」  2014年6月8日の礼拝

2014年07月15日 | 2014年度
イザヤ書43章21節

わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。

使徒言行録1章6~9節

  さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。


  教会の暦では、今日はペンテコステです。日本語で聖霊降臨日とも呼ばれます。ペンテコステは、ギリシア語で「50」という意味です。
  旧約聖書の時代、ユダヤ人が大切にしていた祭りに「七週の祭り」がありました。これは同じく重要な祭りである「過越の祭り」から数えて7週間後に行われたため、そのように呼ばれていました。7週間は49日で、ほとんど50日です。そのため、七週の祭りは、新約時代に世界の共通語であったギリシア語で50日、「ペンテコステ」と呼ばれるようになったのです。
  過越の祭りの時、主イエス・キリストが十字架にかかられましたが、三日目によみがえられました。そこで、キリスト教では過越の祭りよりも主イエスの復活を記念する礼拝を行うようになりました。いわゆるイースターです。イースターは毎年3月から4月の中を移動します。そのため、この祝祭日から50日目を祝うペンテコステも5月から6月の間を移動します。そのため、キリスト教以外では、ほとんどこの祝祭日が意識されることはないようです。
  さて、このペンテコステの日に、聖霊が主イエスの弟子たちに降ったことから「聖霊降臨日」と呼ばれるようにもなりました。この時の様子は、使徒言行録2章に記されています。そして、この時キリスト教会が誕生したとみなされるようになりました。
  このことは、「教会とは何であるか」を考えるとき、とても重要です。使徒言行録1章には、欠員が出た使徒を補充するため、ひとりを選出した様子や、使徒たちが他の信徒と共に祈っていた様子を記しています。しかし、それで教会が誕生したとみなされていないのです。聖霊が降った時こそ、教会の誕生の時とみなしているのです。それは、私たちに次のことを教えています。
  第一に、単に信仰者が集まっただけで教会が誕生するのではないということです。すなわち、教会は、同じ思想や趣味を持った者たちが集まってできる「同好会」のようなものではないということです。
  第二に、使徒を立て、信仰的な組織が出来ると、教会になるというのではないということです。
  第三に、信仰者たちが集まり、共に祈ると教会ができるというのでもないということです。
  今挙げた三つは、いずれも教会にとって大切なことですが、最も重要なことは、聖霊が降るということです。さらに言うならば、教会が誕生し、立ち続けることは人間の働きによるのではなく、神の働きによるということです。これは、人間の働きは無意味であるとか、必要でないということではありません。その事は、使徒言行録1章8節の主イエスの言葉に示されています。
  「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
  キリストの証人となる。これが、主イエス・キリストから教会に託された使命です。
  この言葉は、使徒の補充選挙の時(使徒言行録1:22)、ペンテコステの時(使徒言行録2:32)、エルサレム神殿において(使徒言行録3:15)、大祭司から尋問を受けた時(使徒言行録5:32)にも出てきます。
  キリストの証人とは、どういう意味でしょう? 何を証言するのでしょうか?
  イザヤ書43:21に、次のような言葉があります。
  「わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。」
これは、旧約の神の民であるイスラエルに対して告げられた御言葉です。神の栄誉を語る。これこそ、神の民に与えられている使命なのです。
  神の栄誉を語るというのは、神を誉め讃えることです。しかし、ただ意味もなく誉め讃えることは出来ません。神がすばらしいことをしてくださったということを誉め讃えるのです。それは、私たちをキリストによって罪から救ってくださったこと、その神の恵みの御業をほめたたえるのです。それは言い換えると、神を喜び、誇りとすることです。誰に対しても、神を喜び、神を誇りとしていることを伝えるのです。使徒パウロは自分自身を誇ることのない用にと警告し、「誇る者は、主を誇れ」と、預言者エレミヤの言葉を引用し(Ⅰコリント1:29~31)、さらには「わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(ガラテヤ6:14)と、強く勧めています。
  そこで、神を誇り、喜ぶということで大切になってくるのは、神の救いを私たちが心から喜んでいること、感謝していることです。
  教会において神を礼拝することは、神の私たちに対する恵みの御業をくり返し確認することであり、同時に、身に余る恵みを受けたことを感謝することに他なりません。そして、キリストを証する者として、その礼拝から私たちの周囲の人々へと出かけていくのです。

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